「黒澤明・パッラーディオ・須賀敦子」と...全く脈絡もないタイトルを付けてみたが、時空を超え...ヴィッラ・マゼールによって繋がっていた。
2010年1月に放送されたNHK「世界遺産への招待状 Travel29 イタリア 知られざるベネチア」の番組に登場し、ヴィッラの案内役を買って出た男性はこの館の主・ヴィットリオ・ダッレ・オーレ氏である。彼は1980年代前半に来日し、黒澤明・監督の下で「乱」「夢」「8月の狂詩曲」、そして最後の作品「まぁだだよ」まで、助監督を務めている。
2015年の第28回東京国際映画祭に於ける東京国際映画祭 『黒澤明監督・乱[4Kデジタル復元版]』/ トークショーで彼が来日した経緯等についてイタリア在住の塩野七生の紹介があったと語っている。
恐らく1960年のことだあろう、ヴィッラ・マゼールのオーナーである初老の公爵夫人・マリーナ・Vは恐らく年から考えるとヴィットリオ・ダッレ・オーレの祖母ではないだろうか。すると、侯爵夫人の娘・ディアマンテは...叔母か? 何れにしても侯爵家の人々...日本の文化に興味があったようで、揚げ句の果てに「7人の侍」に感動して黒澤明の門下生になる者まで現れるとは。それも、キリスト教左派にエンパシーを抱く須賀敦子とは真逆のマキアヴェッリ研究家の塩野七生を通して...渡りを付けるとは...権謀術数に長けていなければ侯爵家を維持するのは難しいだろう。
確か、公爵夫人からヴィッラ・マゼールに招待されていたが、夫となるペッピーノとの結婚準備の為、招待を断念したという記述があった筈だが、それが何処か見つからない。或いは私の妄想か...
須賀敦子「ミラノ霧の風景」の「舞台のうえのヴェネツィア」を読むと福田晴虔・著「パッラーディオ」(鹿島出版会・1979・装丁・磯崎新)が第一章を「テアトロ・オリムピコ」から始めたことと共通するのが興味深い。パッラーディオを反古典主義(マニエリズム)の諧謔的な建築家と看破したのは磯崎新氏に背中を押されてパッラーディオを研究することになった福田晴虔氏であった。
ヴィッラのポーチを神殿風のオーダーとペディメントで装飾し、都市建築を舞台装置に変換し書き割りとするパッラーディオは建築を言語化し、更にメディアに変換した情報の建築家でもあった。
参照
PALLADIO MUSEUM:ヴィラバルバロ
MADCONNECTIONの過去のエントリー
March 27, 2008:GoogleMapでPalladio tour
February 06, 2007:完璧な家
August 29, 2005:マゼールの館
August 26, 2005:Rotonda
December 30, 2003:家庭画報2月号
November 04, 2003:音楽のゲニウスロキ・建築のゲニウスロキ
September 15, 2003:建築家-その1
昨日は専門学校の出講日で、その帰り府中で途中下車して府中市美術館で開催中のフィンランド独立100周年記念・フィンランド・デザイン展を見て来た。5年前の2012年に宇都宮美術館等で開催された「フィンランドのくらしとデザイン」と比べるとフィンランド・デザインの源流である絵画や風土に関する展示等は割愛され、独立以前の装飾芸術から現在までのフィンランド・デザインを6つのセクションに分け、家具、工芸、テキスタイル、平面表現等が展示されている。今回の展示会の図録とは別に宇都宮美術館・主任学芸員の橋本さんによる「フィンランド・デザインの原点 ―くらしによりそう芸術」もミュージアムショップで販売されいるが、展覧会では説明出来ないフィンランド・デザインの原点を補填・解説する資料として貴重だが、それでも2012年の展覧会の図録に比べると半分の頁数しかないダイジェスト版である。それだけ2012年の「フィンランドのくらしとデザイン」展は総合的に学術的にも纏まっていた訳だが、今回のそれは肩肘張らずに身近にフィンランド・デザインを感じる展覧会として親しみ易さを第一に企画されているようだ。
1階のエントランスホールに置かれているアールトの家具も自由に腰掛けることができる。
右が、今回の展覧会の図録。
Mobitecture: Architecture on the Move
Facebookでフォローしているイタリアの雑誌「domus」でブックレビューされているのを見て、面白そうな本だと思いAmazonでポチってしまった。
"Mobitecture"は"mobile architecture"からの造語と思われるが、法的な建築物の定義は基礎で地面に固定されていることが条件となるので、建築基準法の縛りから開放された"mobile architecture"には土地に縛られることもなく、アナーキーな、或いはノマドな装置として我々の妄想力を掻き立てられるのかも知れない。
本書はコンパクトではあるがハードカバーの表紙で320頁に260余りの事例がカラー写真で紹介されており、30mm程の厚みがあるので、それだけで自立可能である。作者の意図からすると自立不能なペーパーバックでは駄目なのだろう。
因みに、嘗て1960年代にハンス・ホライン等が提案した「最小限環境ユニット」等のプロジェクトは記載されておらず、実現されているものに限られている。
上図は表紙となったMobitectureの紹介ページである。
「章立て」は下記の如く、humanは身に付ける衣服の延長としてのテントや天幕の様なもの、そして車輪無しから、車輪の数による仕分け、そして橇(そり)、水面に浮かぶもので分類されている。
そして、頁の左下、右下の隅には、"Mobitecture"の移動手段をアイコンによって示している。
と云うことで表紙の事例はThreeWheelの移動手段はbicycle、定員は一名。
東京国立近代美術館で開催中の展覧会「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」を見ての後味の悪さは、通奏低音の如く、会場のみならず時代を支配するポスト・トゥルースな空気感ではないだろうか。三年前に別所沼の風信子荘に集合してから、皆で埼玉県立近代美術館で『戦後日本住宅伝説ー挑発する家・内省する家』を見た後、浦和での反省会…は、16の戦後日本住宅伝説について喧々諤々の異論反論objectionと相成ったくらいである。その時もブログで『何れにせよ企画者や監修者の恣意的判断による16の住宅であり、なんたかんたと政治的パワーバランスも作用しているような気もするのである。』と書いていたが、それから三年の間、此の国の建築を取り巻く状況は悪化の一途を辿り、新国立競技場、築地市場に森・加計スキャンダルとまさにポスト・トゥルース真只中である。この展覧会も何らかのバイアスなり忖度が感じられるキュレーションサイトの様でもある。
それでも50年前の記憶を呼び覚ましてもくれたので、その頃、買った原広司の本でも読み返してみようと思う。そういえば、初めてチャールズ・ジェンクスが"The Language of Post-Modern Architecture"でポスト・モダンという言葉を使ったのは50年前でした。
図録内容(新建築住宅特集2017年8月別冊)
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1. Introduction イントロダクション
katsura 桂離宮
方丈記
小屋
2. Japaneseness 日本的なるもの
raymond House & Studio in Azabu レーモンド自邸 1951
The House of Prof.K.Saito 斎藤助教授の家 1952
A House(Tange House) 自邸 1953
A House with Chestnut Trees 栗の木のある家 1956
House in Kureha 呉羽の舎 1965
3. Prototype and Mass-Production プロトタイプと大量生産
Yotsuya kano House 四谷加納邸 1950
PREMONS プレモス 1946-51
Minimum House(Masuzawa House) 最小限住居(自邸) 1952
Residence No.3 住宅No.3 1950
Residence No.76 住宅No.76 1965
Sekisui Heim M1 セキスイハイムM鵯 1970
Nakagin Capsule Tower 中銀カプセルタワービル 1972
Box House Series 「箱の家」シリーズ 1995-
Wood House 木の家 2004-
4. Earthy Concrete 大地のコンクリート
Yoshizaka House 吉阪自邸 1955
Tower House(Azuma House) 塔の家(自邸) 1966
Moutain Lodge at Karuizawa 軽井沢の山荘 1963
A house with Center 中心のある家 1974
5. A House is a Work of Art 住宅は芸術である
House in White 白の家 1966
Tanigawa House 谷川さんの住宅 1974
House in Uehara 上原通りの住宅 1976
House under High-Voltage Lines 高圧線下の住宅 1981
6. Closed to Open 閉鎖から開放へ
House in Minase 水無瀬の町家 1970
Aiminium House アルミの家 1971
House in Sakatayamatsuke 坂田山附の家 1978
House in Koganei 小金井の家 1979
House in Soshigaya 祖師谷の町家 1981
House in Hanakoganei 花小金井の家 1983
Silver Hut シルバーハット 1984
House F
7. Play 遊戯性
Anti-Dwelling Box 反住器 1972
Miyajima House 宮島邸 1973
Face House 顔の家 1974
Toy Block House鵯 積み木の家鵯 1979
House N 2008
s-house 2003
8. Sensorial 感覚的な空間
House at Yaizu 1 焼津の住宅鵯 1972
White U 中野本町の家 1976
House in a Plum Grove 梅林の家 2003
G 2004
T House 2005
O House O邸 2009
Double Helix House 二重螺旋の家 2011
9. Machiya:House Which Makes City 町家:町を形成する家
Row House in Sumiyoshi 住吉の長屋 1976
House in Daita 代田の町家 1976
House in Nipponbashi 日本橋の家 1992
Spilit Machiya スプリットまちや 2010
10. Redefining the Gap すきまの再構築
House in Ota 大田のハウス 1998
Mini House ミニ・ハウス 1998
Moriyama House 森山邸 2005
House NA 2011
11. Lightness さまざまな軽さ
SH-1 1953
House in Kuwabara in Izu 伊豆の風呂小屋 1988
House in Kyodo 経堂の住宅 2011
House in Rokko 六甲の住宅 2011
Garden & House 2013
12. Unmarketable 脱市場経済
Kaitakusya-no-ie(The Farmer's House) 開拓者の家 1986
ZENKAI House 「ゼンカイ」ハウス 1997
Arimasuton Building 蟻鱒鳶ル 2005-
13. Vernaculae:Linking with Nature 新しい土着:自然とつながる
Leek House ニラハウス 1997
Roof House 屋根の家 2001
Rectangle of Light 光の矩形 2007
Pony Garden ポニー・ガーデン 2008
Sunny Loggia House 向陽のロッジハウス 2011
No.00 2011
House M 2015
14. Critique on Family 家族のあり方
My House(Seike House1) 私の家 1954
Sky House スカイハウス 1958
Hoshikawa Cubicles ホシカワ・キュービクルズ 1977
Pao:A Dwelling for Tokyo Nomad Women 東京遊牧少女の包 1985
House in Okayama 岡山の住宅 1992
Light Coffin ドラキュラの家 1995
Setagaya Village(Ishiyama House) 世田谷村(自邸) 1997-
House & Atelier Bow Wow ハウス&アトリエ・ワン 2005
Yokohama Apartment ヨコハマアパートメント 2009
Atelier Tenjinyama 天神山のアトリエ 2011
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今月5日に竹橋の国立近代美術館「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」を見た際、最初の展示コーナー「日本的なるもの」の丹下自邸の庭で遊ぶ近所の子供達の写真を見ていて、50年前の1967年、高校三年生の夏休みに丹下自邸の塀も門扉もない庭先にちょっとだけ進入して外観を見たことを思いだした。Streetviewで丹下自邸のあった現地を確認すると三本の銀杏の木は残されていた。
その日は豪徳寺住む級友と中野区南台に住む級友と小田急線・鶴川で待合せ、三人で高台の新興住宅地に造られた原広司設計の慶松幼稚園を見学、小田急線で成城学園前に行き、丹下健三設計のゆかり文化幼稚園を見学し、そして最後に丹下自邸を見たのだった。
丹下自邸が取り壊されたのを知ったのは、1975年の7月、高木滋生建築設計事務所で設計を担当していた山中湖のK氏山荘の竣工祝いの席に於いて、その別荘地を開発した業者からであった。詳しいことは憶えていないが、更地にして建売り住宅を三棟造る予定だとか...聞いた。
その別荘地には吉村順三・設計による「山中湖の山荘A」(作品集の表記による)があり、その山荘の下に丹下山荘が建築される予定だったが、前夫人との婚姻関係を解消されたので、成城の丹下自邸も山中湖の山荘予定地も、前夫人の所有となり、山中湖には吉村順三・設計による山中湖の山荘Cが建築された。上図の1975年の空撮写真には既に丹下自邸は解体され三本の銀杏の木の影が敷地を覆っている。
国立近代美術館の「日本の家」の図録では丹下自邸の庭で子供と戯れる家族写真まで掲載されているのが...以外であった。プライベートな経緯もあって人知れず、解体撤去されてしまった丹下自邸であったが、願わくば小金井公園に移築された前川国男邸の隣辺りに移築保存し、子弟競演となれば良かったと思うのは私だけではないだろう。
恐らくは此の辺りは風致地区の指定を受けていることだろうから、この配置図にも描かれている三本の銀杏の木は残されたのだろう。
広島市公文書館が開館した1977年に創刊された広島市公文書館紀要の第25号(2013年)から第29号(2016年)までがPDFで公開されていて興味深い内容が幾つかある。
広島市公文書館紀要を知る切っ掛けは『ETV特集「“原爆スラム”と呼ばれた街で」』(再放送6月14 日24:00)の中で広島大学の建築学科系研究室が“原爆スラム”を実測調査した図面等が残っていることを知り、ネット検索したら広島市公文書館に辿り着き、『広島市公文書館紀要』第29号に「〈研究報告〉基町/相生通り(通称「原爆スラム」)調査を回想する。〈前編〉」がPDFで公開されていた。紀要は年に一回発行の様だから、もしかすると〈後編〉は今年発行される第30号に掲載されるかも知れないので、期待したい。
と云うことで僕が興味を抱いたのは広島市公文書館紀要第27号(平成26年6月発行)の『〈翻刻〉「丹下健三書簡」』と、その『〈資料解説〉「丹下健三書簡綴」(藤本千万太資料)について―広島市公文書館所蔵資料との関係を中心として―』である。いずれもPDFをダウンロードできるので、広島平和公園建設の経緯の一端を伺うことができる。平和公園の北側、大田川左岸にあった“原爆スラム”と丹下健三の広島平和公園の構想を重ね合わせて読むのも良いだろう。
磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義で磯崎氏は「今回の対談では、岸田日出刀、丹下健三、浜口隆一、浅田孝は脇役です。」と語っていたが、或る意味「丹下健三・外伝」の体を成している印象もあり、この書簡の存在もモダニズム建築を語る上で貴重な資料と成りえるだろう。
2012年・夏の「フィンランドのくらしとデザイン」展から五年、フィンランド独立100周年記念の巡回展「フィンランド・デザイン展」の図録を補填をする書籍が「フィンランド・デザインの原点 ―くらしによりそう芸術」が宇都宮美術館・主任学芸員の橋本さんの手により刊行されたことをFBで知った。9月に開催される府中市美術館の展覧会に先立ちAmazonより入手した。因みに右は2012年の「フィンランドのくらしとデザイン展」の図録です。フィンランド独立100周年と云うことは1917年のロシア革命から100年ということでもあるが...。
僕にとって「フィンランド・デザイン」と聞いて先ず最初にイメージするのはやはり「アールト」の建築と家具だろう。そしてマリメッコのファブリックとかイーッタラにアラビアの食器...そして近年ではNokiaだろうか。2008年にiPhoneにするまでは3台のNokiaを乗り換えて使っていた。その程度の認識しか持ち合わせていなかった自分にとって2012年の宇都宮美術館で観た「フィンランドのくらしとデザイン展」は目に新鮮だった。
イタリア・ルネッサンスに始まり、マニエリズム、バロック、ロココ、新古典主義から近現代の絵画表現へと連なる流れの中で、北欧絵画に触れる機会は殆どないと言っても良い。極く最近では国立西洋美術館で「スケーエン:デンマークの芸術家村展」が開かれたりしているが、北欧と一括りにはできない風土の違いが空や海の色、人々の表情を捉える光に現れていて興味深い。そしてフィンランドの原風景にはユーラシア大陸から飛び出した半島の先にあるデンマーク・スケーエンの光は見られない。白夜の国の静かさが森と水面に表現されている。其処には表紙にも用いられているペッカ・ハロネンの雪の表現が川瀬巴水の版画表現に通じる処もみられ、フーゴ・シンペリの風景画も川瀬巴水の風景版画と共通する静寂さが感じられる。世界の中心になることを求めず、ゆったりと静かにコーヒーとシナモンロールを味わう、そんなひと時を支える自分好みのデザインがあれば尚更である。
フィンランド・デザイン展は現在愛知県美術館で5月28日まで開催中、その後、福井市美術館をへて、府中市美術館(9月9日〜10月22日)から宮城県美術館まで巡回。
本書目次
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フィンランドらしさ」とは何か── デザイン、建築、美術・工芸の根底を探る
第1章フィンランド・デザインの黄金期
くらしとデザイン── フィンランドの普遍性と独自性
□衣・住のためのテキスタイル
□食卓を彩る器とキッチン用品
□住まいの装飾と家具
Column
デザインを支えるフィンランドの企業──「デザインの原理」の正しい実践
国策としてのモダン・デザイン──「フィンランドらしさ」が世界に羽ばたく
第2章フィンランド・モダンの成立
□ナショナル・ロマンティシズムの現れ
□モダニズムの受容と展開
風土・文化に寄り添う独自のモダニズム
Column
サーリネンとアールトの建築ディテール
自然・人口の光をデザインする── 白夜と極夜の国で
第3章フィンランド・デザインの源流
北カレリアのイマジュリー―フィン人の原風景
□森と湖
□日常の風景
□物語『カレヴァラ』
Column
美術・産業工芸とカレリアニズムーフィンランドのものつくりの原点
パリ万国博覧会と芸術家たち── 芸術家コミュニティの形成へ
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そういえば、日本の建築家でアールトに影響を受けた建築家といえば吉武泰水に武藤章がその代表だろうか、アールトの国民年金局やヘルシンキ工科大学(現・アールト大学)等の煉瓦タイルの外壁と連窓による外部デザインのモチーフは吉武研究室による建築の随所に見られましたですね。
磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義
市ケ谷の文教堂書店で買うつもりもなく何気に手にした本書、そういえば昨年10月末に「東京新聞・新刊案内」で紹介されていたと思い出し、立ち読みを始めると、もう書棚に戻すことができず、そのままレジに。...博覧強記の二人が出合うと次から次と化学反応が起こるようだ、ライブで二人の話を聴けたらさぞかし面白かっただろう。逆に書籍名だけでは、Amazonから買うことはないだろう。本書・中表紙にあるサブタイトルの「戦後日本のモダニズムの核は、戦前・戦中にあった。」は、つい最近、出口治明・半藤一利の「世界史としての日本史」を読んだばかりなので世界史との関係性からみても興味深く、また「勝者によって記録された歴史」だけでない『B面昭和史 1926~1945』に通じるB面の現代建築史かも…敗戦の時、14歳の中学生だった磯崎新と敗戦の翌年に生れた藤森照信は15歳の年齢差による視座の差異を互いに補完しあい話が絶妙に広がりをみせる。その内容は...
目次
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序 語られなかった、
戦前・戦中を切り抜けてきた「モダニズム」
第1章 アントニン・レーモンドと吉村順三
アメリカと深く関係した二人
第4章 大江宏と吉阪隆正
戦後一九五〇年代初頭に渡航
「国際建築」としてのモダニズムを介して
自己形成した二人
対談を終えて
おわりに
『日本文化私観』を読み返す 磯崎新
コルビュジエ派はバウハウス派をいかにして抜いたか 藤森照信
年表 1880〜1980
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と云うことで第一章から第四章まで各章毎に二人の建築家を対比させ、八人の建築家が戦前・戦中、そして戦後までモダニズムを介して建築とどう関わってきたのか、様々なエピソードを通して語られているのであるが、あの丹下健三の名が無いと訝しく思われるかも知れないが「序文」である『語られなかった、戦前・戦中を切り抜けてきた「モダニズム」』に於いて磯崎新は「今回の対談では、岸田日出刀、丹下健三、浜口隆一、浅田孝は脇役です。…中略…15年間の戦争中のそれぞれの日の動きが見えてくると面白いなと思っているんです。」と述べているが、やはり丹下健三は常に比較対象とされる建築家として最も多く引用され、或る意味「丹下健三・外伝」の体を成している印象もある。akiさんが「吉村順三 /1941年12月8日」で藤森照信が歴史家として建築界の巨匠と云われる人達に「太平洋戦争開戦の時、何を思ったか」と尋ねたことを書いていたが、磯崎新は「丹下さんは最後までしゃべらなかったね。」と…語っている。
磯崎新云う処のテクノクラート養成学校の東京帝大を出て、戦中戦後と国の方針に抗う事なく、後を振り返らず…である。
第1章の「アントニン・レーモンドと吉村順三」で藤森照信は2005年11月19日の「吉村順三建築展・記念シンポジウム」で語られたレイモンドの「軽井沢 夏の家」と吉村山荘との関係性を更に…それを磯崎新が丹下健三の長女と共に吉村順三の長女を訪ね、伺った戦前米国のレーモンド事務所から帰国した時の話で肉付け…等々(因みに吉村順三即品集1941-1978に掲載されている山中湖の山荘Cが丹下健三の先妻と長女の別邸。)
正確な日付を憶えていないのでレーモンド設計事務所の沿革で調べると1970年レーモンド展を松坂屋銀座店にて開催とあった。その展覧会を見ている時、会場内がざわつきだしたので、その方向に目を向けると車椅子とそれに寄り添うアントニン&ノエミ・レーモンド夫妻の姿があった。確か日本での仕事を引退して米国に戻る前の回顧展だったと思う。
俎上にされた建築家のしんがりは吉阪隆正であるが、レヴイ=ストロースの「野生の思考」に呼応できたのは吉阪さんだけだと、その特異性を述べているのが興味深い。網野善彦の日本海側を下にした日本地図は…その前に吉阪隆正が早稲田大学〈21世紀の日本〉研究会で発表したものと共通のアイデアに基づいていたと…。
そういえば...磯崎新と藤森照信を結びつける共通の人物に赤瀬川原平がいた。藤森照信と赤瀬川原平は路上観察学会とニラハウスの建築家と施主の関係...磯崎新と赤瀬川原平は大分時代からのネオダダの繋がり…とか…そんな二人のモダニズム建築談義、面白くない筈はない。
村井修写真集:TIME AND LIFE 時空
9月16日から10月16日まで開催された村井修 半田写真展『めぐり逢ひ』を記念して出版された本書は村井氏の70年の足跡から1956年から2005年までの代表作と未発表作98点が選ばれ収載されている。
その村井修氏の訃報を知ったのは写真展も終了から10日を経た10月26日の村井修 半田写真展実行委員会のFacebookであった。そして、本日の告別式の時刻に合わせるように遺作となった本書がAmazonから届いた。
今回の写真展と同様に98点の写真には通し番号があるだけでタイトルもキャプションもない、これも先入観を持って写真に接しない為の配慮だろう、タイトルを見て判った気になるよりもあれこれ考えてから巻末の作品リストを見て納得したりする。お逢いすることは無かったけれど、これも故人を偲ぶ供養のカタチかも知れないと勝手に思っている。
昭和三年発行の五万分の一地形図の豊橋の市街地を流れる農業用水路(牟呂用水)の青く塗った部分に戦後闇市から派生した小規模店舗の移転先として1964年(昭和39年)から1967年(昭和42年)に掛けて造られた幾つかのビルを総称して水上ビルと呼ばれているそうだ。ん〜…これは三原橋の銀座/傳八のあった三原橋センターと三原橋地下街に似たような話である。そんな訳で「あいちトリエンナーレ 2016」の会場にも使用されている水上ビルを見たいと思った。
と云うことで、築50年を過ぎようとする建物は名誉ある?「既存不適格建物」となり、ここも御多分に洩れず、シャッターが閉まったままのテナントが多いようですが、どことなく戦後闇市のDNAが香り立つようです。そういえば、建替え中の渋谷東横百貨店も渋谷川の上に造られていますね。好き勝手に法律を解釈する官僚上がりの強盗慶太のDNAは今も健在のようです。
橋の欄干だけが残っている。あたしん家の地名は谷戸の地形から狭間町ですが、ここは何なのでしょうか。
ブラジルのラウラ・リマによるインスタレーションですが、小鳥が逃げたり死んだり、問題もあるようです。
問題:中日新聞・小鳥、逃げたり死んだり 「あいちトリエンナーレ」豊橋の展示
対処:鳥の保護活動/TSUBASAみらくる日記・「あいちトリエンナーレ2016」のご報告
屋上も無法地帯に…これも戦後闇市のDNAを伝えるものでしょうか。
関連:ミツカン水の文化センター機関誌『水の文化』47号 つなぐ橋
川がない橋が秘めた東京の履歴 斉藤 理
会期中に米寿を迎えた写真家・村井修の「村井修 半田写真展『めぐり逢ひ』」を連休の前日に見て来た。私の高木滋生建築設計事務所・時代の先輩・渡辺さんが会場の一つになっている「旧中埜半六邸(母屋)改修工事」に携わったこともあり、今回の写真展の展示にも協力していることから「見にきませんか」とお誘いがあったので、半田まで足を延ばし、事のついでに翌日は名古屋と豊橋のあいちトリエンナーレ 2016も見て来た。
村井修の写真は風景の切り取り方は元より、動かざる都市や建築そして風景を撮る時にも一瞬の光を捉えるシャッターチャンスは一度しか無い事を教えてくれる。松華堂ギャラリー会場の壁面を飾るルーブル美術館エントランスのガラスのピラミッドの写真はそんな写真だ。私を少年時代に時間旅行させてくれる記憶の風景「1950年代の風景」(昭和30〜34年)も良かった。この写真集は自主出版だけで市販されていないのが惜しい。丹下健三の山梨文化会館・1967の写真は『...雑踏のなかに、いかにもその環境にそぐわず建っている建築を意地悪そうな目つきで撮る。』と「村井修写真集 写真都市」の序文で丹下健三は物怖じしない15歳年下の村井修の才能をこの様に表現している。
TOTO通信の2016年 新春号の『藤森照信の「現代住宅併走」第32回』は『三澤邸 設計/吉阪隆正』だ。現在、国立近現代建築資料館で開催中の「みなでつくる方法 吉阪隆正+U研究室の建築」にも図面が展示されている葉山に建つ住宅である。記事には博覧強記と云われるF森教授でさえも初耳という吉阪隆正の少年時代のエピソードが施主の話として紹介されている。アトリエではコルビュジェからタカと愛称で呼ばれ可愛がられていたと伝え聞いているので、尤もらしいが…検証は未だのようだ。因みに吉阪隆正の著書「乾燥なめくじ―生ひ立ちの記」にはジュネーブでの少年時代の事も書かれているが「初耳…」の件についての記述はない。また、妹・よし子の「兄のこと」と題する文にジュネーブに建ったコルビュジェ設計のアパートが市民の間で話題となった事を見聞きしていたが兄がその頃からコルビュジェに関心を持っていたか、ついに聴き損ねてしまったと書いてある。
注:上記TOTO通信のサイトのアーカイブスには最新号は含まれていません。
と云うことで今月末に閉館することになった神奈川県立近代美術館 鎌倉にお別れに...。高尾山ICから圏央道を南下、新湘南バイパス、国道134号と走り、鎌倉市内の渋滞を含め約1時間10分程度のドライブでした。八王子市内にも幾つかの鎌倉道と云われている古道の名残がありますが、差し詰め圏央道が現代版鎌倉道となるかも…。
最初に来たのが高校生の頃だから、略半世紀前…建築だけでなく...展示してある絵画にも懐かしさを憶えました。
ついでに、神奈川県立近代美術館 葉山にも足を延ばし「ヘレン・シャルフベック―魂のまなざし」展も…。
関連
June 11, 2012:神奈川県立近代美術館・鎌倉
April 27, 2012:シャルロットの愛した日本
January 19, 2012:ベン・シャーン回顧展-2
October 23, 2007:タレル的な...
January 13, 2005:ジャン・プルーヴェ展
昨日、今年最後の授業で都心まで出掛けたついでに、国立近現代建築資料館のみなでつくる方法 吉阪隆正+U研究室の建築を見てきた。国立近現代建築資料館は展示会を見るのに事前申込が必要とか手続きが面倒だったので、興味のある展示会があっても訪れたことがなかったが、今回の展示からはその必要がないと云うことで湯島まで足を延ばすことにした。と云うことで会場の国立近現代建築資料館は旧・岩崎邸の敷地内にあるが、一度も訪れたことがなく今回が初めてである。明治政府の富国強兵政策の時流に乗り財閥の礎を築いた岩崎家の旧・岩崎邸は吉阪隆正の「みなでつくる方法」とは真逆な建築であるのが皮肉に思える。
関連:乾燥なめくじ―生ひ立ちの記
今週の火曜日、市ケ谷から三越前まで足を延ばし地図展2015を見に行った。帰りは吉祥寺のトムズボックスに寄るつもりなので、そのまま地上に出て東京駅まで歩いてゆくことにした。日本橋を渡り、暫く行くと再開発工事のクレーンの向こう側に見馴れない風景が…そう云えば高島屋の全体をこの方向から見ることがなかった。見ようとすれば見れたのに見てなかったのだろう。高島屋のファサードは折衷的な様式建築であるという記号化されたイメージが埋込まれていたので、何やらコルビジェ風のペントハウスやモダニズム風なガラス・カーテンウォールがパッチワークの如く嵌め込まれているとは思いも寄らなかった。
昨日、途中から見たMX-TVの「5時に夢中」でマツコが「建築のことは良く解らないけれど、61階建て高さ390mって、ちょっと変じゃないの?」と云う意味のコメントをしていた。確かにマツコの言う通りだが、数字に間違いがないのか他を当たってみても、三菱地所の発表通りの数値である。今朝の東京新聞(上図)の通りである。
巣鴨プリズン跡に建てられたサンシャイン60が地上60階建てで地上高239.7mである。たった1層分増えただけで、その差が150mもある。平均階高に直すと6.39mもある。普通の2階建て戸建て住宅の棟の高さと同じくらいである。
同じ三菱地所による横浜ランドマークタワーが70階建て、高さ296.33mである。これも塔屋とかで嵩上げしてこの高さとなっている。
横浜ランドマークタワーから日本一の高さを奪い取った「あべのハルカス」が地上60階建て、高さ300mだそうだが、これも写真を見る限り無理矢理、塔屋を嵩上げしている様に見えるが、それより90mも高い東京駅前に計画の超高層ビル…なにがなんだか…理解不能です。
一年前、埼玉県立近代美術館で開催された『戦後日本住宅伝説ー挑発する家・内省する家』の巡回展の最終会場となった八王子市夢美術館の展示も残すところ連休の最終日の7月20日までとなった。
展示会場のキャパシティの限界もあるだろうから、埼玉県立近代美術館との違いも確かめたく、昨日お盆の墓参りの前に美術館まで足を延ばした。エレベーターホールからホワイエに入ると、会期中に亡くなった東孝光・設計の「塔の家」の原寸大平面が床に、会場構成は一つの展示作品に対し大型出力写真のタペストリー、写真パネル、図面、模型が一点乃至二点、それに映像をレイアウトしたものとなっている。埼玉県立近代美術館では大型出力写真のタペストリーと原図が展示のメインになっていたと記憶していたが、八王子では模型が展示の主力になっているようだ。模型は各大学の研究室で手分けして制作しているようで、これら全てを埼玉県立近代美術館では展示してなかったように記憶しているが…どうだろう。残り後三日になってしまったが、見ておく価値のある展覧会である。
と云うことで先月の11日に更新手続きを申請した建築士事務所登録通知書が本日届いた。五年毎であるが、こうした事務手続きは楽しい仕事ではないので、つい先延ばしにしまいがちになる。今年も提出期限の4日前と…相変わらずである。今年度は三年毎の定期講習も受けねばならない。そして出講日と重ならない定期講習の日程となると選択肢が少なくなるのが悩ましい。今回で三回目の定期講習となるが受講申込書に既に氏名などの必要事項がプリントされている処は納税通知書のようでもある。こうしたところは改善?されているようだ。
先日、新宿の東京都建築士事務所協会登録センターまで事務所の更新手続きに行ったついでに地下鉄大江戸線で六本木まで足を延ばしTOTOギャラリー・間の「TANGE BY TANGE 1949-1959/丹下健三が見た丹下健三」を見てきた。会場には丹下健三の36歳から46歳までの仕事を自ら撮影した35ミリフイルム全てのベタ焼きが展示台に水平に置かれている。そして上記写真のルーフテラスには端正なプロポーションの丸の内の旧都庁舎と成城の自邸に桂離宮の大型プリントが展示されている。皮肉にも桂離宮は現存するが丹下健三・設計による旧都庁舎も成城の自邸も既にない。赤坂プリンスホテルもモリハナエ・ビルも取り壊され現代建築の寿命の短さに…言葉を失います。
因みに1949年は私が生れた年、1959年はオバカな小学四年生男子であった。ラジオでAmerican Popsを聴いたり、ローハイドに夢中になっていた。
建築家が建てた妻と娘のしあわせな家
昨日は久々の出講日、帰り新宿でブックファーストに立ち寄り本書を求めた。
タイトルの「...妻と娘のしあわせな…」は何だか…と思っていたが、元のリソースが雑誌「ミセス」の連載コラムと聞けば…成程である。読んでみたいと思った理由は建築家自邸のその後…であるが…。思い起こしてみると、こうした住宅を扱うメディアも時代と共に変化している。70年代の代表は既に廃刊となっている鹿島出版の『都市住宅』だろう、その後、建築思潮研究所・編集の『住宅建築』、新建築の『住宅特集』と云った具合だが、それらのメディアが現れる前の代表として清家さんと菊竹さんの自邸が選ばれているのも興味深いが、逆に今でも使われ続けている住宅が少ないということの証だろう。この二点は『戦後日本住宅伝説ー挑発する家・内省する家』の16点にも含まれているが、清家さんの娘さんの話からは、「私の家」は実験と云うより物試しの場でもあったようだが、挑発する家・内省する家と云ったイメージは感じられない。
因みに表紙は可喜庵の『住まいの「内と外」』シリーズの永田昌民 講演会でスライドを拝見した自邸のアプローチである。
内容
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01:大らかに受入れる家「私の家」清家清・自邸
02:端正な空間と身体がよろこぶ気持良さ「自邸」槇文彦・自邸
03:そこは帰りたくなる場所「スカイハウス」菊竹清訓・自邸
04:都会の真ん中に建つ家族の長屋「塔の家」東孝光・自邸
05:道具のように、住みこなす家「チキンハウス」吉田研介・自邸
06:時が育てた実生の家「新座の家」益子義弘・自邸
07:蓄積が活きる、新たな暮らし「下里の家」永田昌民・自邸
08:あなたと暮らす、やさしい住まい「相模原の住宅」野沢正光・自邸
09:少年の夢が描いた大人の家「タンポポハウス」藤森照信・自邸
10:生命の循環を受入れる場所「住居鷂1 共生住居」内藤廣・自邸
11:わかりやすさと暮らす家「のこぎり屋根の家」手塚貴晴・由比・自邸
12:実験的な二拠点生活「房総の馬場家」馬場正尊・自邸
13:天地の恵を映す家「LOVE HOUSE」保坂猛・自邸
14:さまざまなくつろぎをくれる家「駒場の家」竹山実・自邸
15:家族の変化に挑むために「北嶺町の住宅」室伏次郎・自邸
16:非日常に暮らす奇想の家「クレバスの家」六角鬼丈・自邸
17:きらきらの夢の在り処「宇宙を望む家」椎名英三・自邸
18:箱から家へ育てる暮らし「箱の家」難波和彦・自邸
19:トンネルに箱ひとつだけの豊饒感「トンネル住居」横河健・自邸
20:自立した大人のプラットホーム「南麻布のリノベーション」北山恒・自邸
21:木と木の間に引かれた交差点「ZIG HOUSE/ZAG HOUSE」古谷誠章・自邸
22:てくてくと探し求めた暮らしの地「小日向の家」堀越英嗣・自邸
23:不思議な箱に広がる景色「KATA House」マニュエル・タルディッツ、加茂紀和子・自邸
24:改築を重ねて「家」になった建築「永福の住宅」堀場弘、工藤和美・自邸
25:ひとりひとりの活動を受入れる家「アシタノイエ」小泉雅生・自邸
26:ふるまいというデザインが握る鍵「ハウス&アトリエ・ワン」塚本由晴・自邸
27:コンテナにある「本当の生活」「神宮前の住宅」フィリックス・クラウス・自邸
28:家族を越えて、みんなで生きる「foo」松野勉・自邸
29:大家族が暮らした包容力「新逗子の家」長島孝一・自邸
30:日常の小さな夢と生きる家「松原の家」内藤恒方・自邸
31:ゴロンと寝そべる浜辺のように「町庭の家」片山和俊・自邸
32:次の暮らしに寄りそう家「重箱住居」黒川哲郎・自邸
33:限られた環境にこそ開いた魅力「国立の家」田中敏溥・自邸
34:試しながら住まう家「1×1/2×2」川島茂・自邸
35:閉ざす街へと広がる家「MUSAKO House」山中新太郎・自邸
36:やわらかく包まれたリノベーションの家「KCH」河内一泰・自邸
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初めて知った人の名や、伝説となった大家の自邸まで、盛沢山である。知っている人の自邸も数軒かあるが、やはり自邸はその建築家の「人となり」を表わしていると思われる。
2008年のエントリーGoogleMapでPalladio tourで作成したPalladio Tour in Venetoであるが、その後、GoogleMapが改良されて敷地内のStreetviewが追加されているヴィッラやパラッツォも現れている。
上図のVilla Rotondaの他、Villa Barbaro、Villa Emo、それにGiulio RomanoのPalazzo Del TE 等がそうだ。と云うことで、夏休みに何処にも行けないならば…せめてヴァーチャルで…。ヴェネチアはStreetviewならぬCanalviewが用意され運河からの街並も堪能でき、S.Giorgio Maggioreは教会内部にも入れる。
パナソニック 汐留ミュージアムで開催中の『建築家ピエール・シャローとガラスの家』を見てきたが残念ながら期待外れに終わった。A.D.A.EDITA Tokyoから出版された二川幸夫の写真による『ガラスの家:ダルザス邸 La Maison de Verre/Pierre Chareau』を超えるだけの情報も感動も得ることは叶わなかった。出品資料リストにある映像の素材はモノクロプリント乃至はカラープリントとなっているが、それらは編集されプロジェクターによるスライドショーとして時間軸に支配され鑑賞者が自由に写真を選択することはできない。その上、プロジェクターの明るさが不足しているのか、会場が明るい所為か、映像が不鮮明であったりもする。昨今の建築に関わる展示会は鑑賞者の理解を深める為に展示にも、大判プリントや原寸模型やモックアップ等様々な工夫が成され、空間を追体験する仕掛けを考えているが、この展覧会は家具什器の展示台にダルザス邸のサロンで使われたモノに似ている黒のゴムタイルが使われているくらいで、模型も人造大理石の1/100があるだけ、図面等も昔の雑誌から引用したものだけ…なんともお粗末...。と云う訳で、ピエール・シャローによるアールデコの家具の実物が展示されているのが…唯一の救い…かな?。
関連:因みに映画・地獄の貴婦人 (Le Trio infernal)で2階のサロンが使われている様だが、YouTubeのビデオを子細に観察すると其のままではなく床や階段、壁等は既存の内装の上に新たに映画のセットが組込まれているのだろう。
YouTube:La Maison de Verre - Pierre Chareau,1932.(汐留ミュージアムの4階ロビーで流しているビデオと同じものか分らないが…このビデオで用いられた空間構成を分析してある模型位は展示すべきだろう。)
と云うことで昨日は築十年を経て外壁の塗装が風化してきた別所沼の風信子荘で待合せ、見学を終えて集合写真を撮ってから、歩いて埼玉県立近代美術館で開催中の『戦後日本住宅伝説ー挑発する家・内省する家』を見学…浦和の某所で反省会…は、16の戦後日本住宅伝説について喧々諤々の異論反論objectionと相成ったのである。当然の如く…川合健二の自邸を取り上げないで、その亜流の石山修武の幻庵はないでしょうとか...やはり川合邸を取り上げて欲しかったと思うのは…私だけではなかったようだ。そういえば2005年にX-Knowledgeから昭和住宅メモリーなるムックが出版されており、内容的には今回の展覧会とダブるものもあり、「丹下自邸の謎」と題された探偵・F森教授のレポートが目を引く内容であった。しかも。丹下の協力者であった川合健二の川合邸も掲載されていた。新宿ホワイトハウスも「伝説」と云う要件は充分に満たしているが…建築界に影響を与えた住宅としての要件を満たしているかと思えば疑問が残る。何れにせよ企画者や監修者の恣意的判断による16の住宅であり、なんたかんたと政治的パワーバランスも作用しているような気もするのである。それは兎も角、研ぎ澄まされた鉛筆の筆圧が感じられる原図は一見の価値有りです。
立川のたましんギャラリーで28日まで開催している同級生の個展に行ったついでにIKEAまで足を延ばしてみた。
ん〜何だか、港北のIKEAよりも店内レイアウトが解り難く、迷宮化がエスカレートしている。目的の商品を選んで、さっさと買い物を済ませたい向きには面倒くさいプランだし、非常の際の避難経路も係員の誘導がなければ難しいだろう。用意されているフロアガイドも「地図を読めない女性」に合わせたのか、売場番号がライン上に並んだだけのモノ、所々にショートサーキットは用意されている様だが、通路も狭く判りやすいとは言えない。まぁ、テーマパークの様に演出された思い掛けない発見を意図しているのかも知れないが…メインストリートが無く、路地だけで構成されている店内レイアウトに疑問を憶える。もう少し大らかで明解なプランが優先されるべきだと思うのであるが...。1階にあるトイレも最悪で、サイン計画はデザイナーの自己満足...男子便所には小便器や手洗器の廻りに手荷物を置く場所もない。困ったものだ。
教会裏手の納屋(鍛冶場)に入ると斜め左上から差す光がカラヴァッジョの「聖マタイの召命」を彷彿とさせた。
首都高4号線の工事渋滞に巻き込まれ三里塚教会に着いたのは13日日曜日午前11時半近く、主日礼拝が終わる午後0時まで外で待つことにした。三里塚教会についての知識は皆無に等しく、事前にGALLERY A4の「三里塚教会物語と吉村順三展」のプレスリーリスを読み、「三里塚芝山連合空港反対同盟」の戸村一作氏との関係を知っていたが、この朽ちた看板を見て、もしやと思い…主日礼拝の終了後に教会関係者に尋ねると、戸村氏の敷地の一画に建てられたもので、敷地内や納屋(鍛冶場)に置かれた、鉄の造形も戸村氏の作品だと知った。
教会内部に入ると梁間方向三間、桁行方向六間の主屋に玄関の下屋が付いた小さな木造教会が、教会裏手にある納屋のスケールに合わせて造られていることが直ぐに解った。カソリック教会は35年くらい前に何度か設計を手伝ったことがあるので、多少は知っているつもりだったが、このプロテスタント系の教会はそれらとは異なる文脈から造られているようだ。
こうして見ると聖書研究会的な集いが教会の主目的な使われ方に思える。
生れた時代が違っていたら、もしかすると「タケシの誰でもピカソ」に出て「芸大のケンちゃん」と造形作品を競っていたかも知れないと思える戸村一作氏とは何ものか…Amazonで100円也の古本を買ってみた。届いた本は四條畷市立図書館(しじょうなわて)から除籍図書となった本だ。何処も傷んでなく状態も宜しい図書が何故に除籍されたのか...それも疑問である。因みに表紙の絵は丸木位里・丸木俊であるが...丸木美術館への中高生の見学が…何処かの圧力で減っているそうだ。(続く)
戸村一作(1909〜1979)と吉村順三(1908〜1997)の接点を考えてみた。
1947年に父・武芳氏が死去した後、家業を受けつぐが、戦前の農機具の製造販売から、戦後は嘗ての軍需産業が農機具を製造するようになり、戸村農機は農機具の販売へと事業内容がシフトしていた。それに伴い農家への農機具セールスが主な業務となった。
吉村順三は戦後、佐倉市に1953年に竣工された佐倉厚生園サナトリウム(木造2階建て、400床、2,659.6㎡、現存せず)を設計している。戸村農機と佐倉厚生園との距儀は14.7km、車で30分ほどの距儀である。戸村農機の得意先は富里、八街の先まであったと云うから、佐倉もその範囲であったであろう。セールスの途中で佐倉厚生園サナトリウムの現場を見て直接依頼したのか、共通の知人を介して依頼したのかは不明だが…翌年の1954年に三里塚教会が完成したことを考え合わせると興味深いことである。(未確認情報であるが、サナトリウムの院長がクリスチャンでその関係者による紹介と云う有力な説が….。)
1969年(昭44)に戸村氏とその家族は教団から除名…1977年(昭和52)三里塚教会と付属幼稚園は御料牧場跡地に移転…上記地図には三つの三里塚教会があるが…一つは棄民ならぬ棄××なのだろうか…因みに三里塚教会と敷地続きの戸村農機は上記地図の旅館・大竹屋の向かいにあった。
24日までアップリンクで上映している『フォスター卿の建築術』をAppleのiTunesStoreからDownload購入した。(残念ながら、現在の処レンタルはされていない。)まぁ、山里から渋谷までの往復交通費と入場料を合計すると大差がないからである。Norman FosterといえばRichard Rogers、Renzo Pianoと並ぶ所謂ハイテク(High-Tech)建築の三巨匠の一人であり、最近ではApple Campus 2の設計でも知られている。原題の"How much does your building weigh, Mr. Foster?"はNorman Fosterが、彼の師でもあるRichard Buckminster Fullerをセインズベリー視覚芸術センターに案内した後でフーラーから質問された言葉である。ノーマンは述懐する『私は答えを知らなかった。』答えに窮したノーマンは一週間後に答えを出す。『5328トン その大半がコンクリート基礎部分だ。』重さを調べる過程でしみじみ感じた。『重さの殆どを地味な部分が占めている。面白い発見だった。』…と。
それは、もしかするとノーマンがマンチェスターの労働者階級の出身だったから余計にそう感じたのかも知れない。これが彼が育った部屋から見える風景だった。
だが線路をくぐると、街路樹と一軒家が並ぶ中産階級の住宅街。ノーマンはその境界を越えるべき人だった。…と映画では語られている。
映画では紹介されていないが私が雑誌で初めて見たノーマン・フォスターの仕事は1965年のBrumwell House Cornwallである。1969年にRIBA Awardを受賞しているから作品が日本に紹介されたのは恐らくその後、1970年代だろう。
映画を観る楽しみを奪いたくないので、これ以上の記述は避けるが、全体を通して観るとJobsがMr. FosterにApple Campus 2の設計を依頼したことが良く解る。
今月は建築家・大高正人・設計による市営基町高層アパートを舞台にしたドキュメンタリーやドラマが立て続けに放送されている。建物は1970年12月に一期工事が竣工しているから既に43年の歳月が流れていることになる。建築雑誌の写真や詳細図集で図面は見てるので概略は理解してるつもりだが、ムービーを見るとまた違う興味を覚える。8月の初めに放送されたETV特集・ガタロさんが描く町〜清掃員画家のヒロシマ〜(9/7再放送有り)は表舞台ではなく裏方として生きる清掃員の日常を描いているので、逆に建築雑誌には取上げられることのないバックヤード等が映像に現われ、当時のローコスト建築の仕上げが良く解る。そういえば、商店街の床に使われている丸形磁器モザイクタイルも最近は見かけないですね。
先週の土曜日、ドキュメンタリードラマ・基町アパートのタイトルが気になり念の為に録画していたが、今朝、早送りしながら見ると、基町アパートの全体を理解するには、成程こうなっていたのかと思わせる映像が多く興味深い。特に屋上庭園の雁行プランと高低差を活かしたデザインと手入れが行き届いた植栽に関心、嘗て「◎◎の名所」として全国的知名度を得た為に屋上を閉鎖された団地に住んだことがある身には羨ましくも思えたが...ウィキペディアによれば基町アパートも屋上庭園は犯罪防止の為、現在は施錠されているらしく...ドラマの演出上の措置だったようで...なぁ〜んだ、残念。
追記:本日(9月7日)再放送がありますね。
ドキュメンタリードラマ 基町アパート・再放送[総合]:2013年9月7日(土) 午後3:05〜午後4:20(75分)
ETV特集「ガタロさんが描く町〜清掃員画家のヒロシマ〜」[Eテレ]:2013年9月7日(土) 午後11:00〜午前0:00(60分)
新建築詳細図集より、一期工事の写真なのだろう、人口地盤や商店街の整備は行われていない。60年代後半の建築基準法の改正で高さ制限31mが撤廃され新たに容積制限が定められ、次々と高層アパートが建設されるようになったが、その魁となった建物である。
5年前のエントリーで軽蔑の舞台・マラパルテ邸を取上げたが、この「火のない暖炉」については書かなかった。domusによるAdalberto Libera e Villa Malaparteには平面図に室内透視図と写真も掲載されているが、軽蔑のワンシーンの様に暖炉がピクチャーウィンドウになっている事までは確認できない。リベラは初めから、この様に考えていたのか、途中で計画変更したのか不明だが、薪を置く場所は有るが、煙突らしきものは何処にも見当たらない。暖炉が南西に向いているので、冬至くらいには日没の太陽光が暖炉から差し込むかも知れない。軽蔑は1963年の作品、ゴダールは二年後の1965年に「気狂いピエロ」を発表している。「気狂いピエロ」のラストシーンでランボーの詩「永遠」が引用されているが、夕日を暖炉の火に見立てた...かも知れないマラパルテ邸から思いついたかは...不明。
と云うことでVectorWorksの太陽位置設定機能を用いて冬至の日没をザックリと検証。
マラパルテ邸の座標位置は北緯40度32分44秒東経14度15分37秒、北緯は日本の秋田と青森の県境くらい、VectorWorksのレイヤーにGoogleMapとマラパルテ邸の平面を貼付け、建物に直行する角度の時間を見ると午後2時10分、太陽高度は19.42°だ。冬至の日没は午後4時すぎくらいだろう。暖炉の向かい側にある彫刻は夕景の光に映えることだろうか。この居間は南側は寝室で塞がれ、日の出と日没を愉しむように東と西にピクチャーウィンドウが設えられている。尤も屋上には「ソラリウム」があるから...それが効果的なのだろう。
「漂うモダニズム」(槇 文彦・著)の第5章「作家と作品」の361頁を読んでいると次の一説に目が止まった。
かつて建築家ヴィトルヴィウスが述べた「用強美」の中で美はラテン語で「venustas」 といわれていた。しかし最近ある学者は実は彼がいっているのは〈美〉ではなく、より普遍的な価値すなわち〈悦び〉だと提言しそれが現在では通説となっている。
漂うモダニズム
1992年に筑摩書房より出版された「記憶の形象―都市と建築との間で」から20年を経て出版されたエッセー集である。今回は新進の出版社・左右社からの刊行だが、装幀とカバー写真は前作と同じ矢萩喜從郎氏によるもので書棚に並べても座りが良いものとなっている。
帯に書かれた本文の抜粋
『「半世紀前に私がもっていたモダニズムと現在のそれは
何が異なっているのだろうか。
ひと言でいうならば五十年前のモダニズムは、
誰もが乗っている大きな船であったと言える。
そして現在のモダニズムは最早船ではない。
大海原なのだ。」』
を読むとモダニズムをデモクラシーと置き換えても意味が通じるほど、1992年から2012年に掛けてイラク戦争、グローバリゼーション、同時多発テロ等、政治的、国際的、経済的、にも多難な時代に我々は置かれている。私はこの10年程の間に二度ほど、「2005年・「谷口吉生のミュージアム」開催記念・槇文彦講演会」と「2008年・トウキョウ建築コレクション2008・槇文彦特別講演」の講演を聴く機会があり、本書はその講演内容をもう一度記憶から呼び覚ますには待望の一冊でも有った。
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〈内容〉
1 モダニズムの現在
・漂うモダニズム
・建築のモダニティそして現在という意識
・玉葱の皮、或いはクリスタル・ボウル
・グローバリゼーゼーションの光と影
・空間、領域、知覚
・ユニヴァーサリティについて
・建築はいかに社会に潜在するものを実現しうるか
2 回想の半世紀
・群造形との四十五年
・ワシントン大学時代
・アーバン・デザイン会議56
・回想としての「平和な時代の野武士達」
・自分と出会う
・言葉、風景、集い 日本の都市・建築の近代化の中であらわれた特性
・「アプローチ」の歩みと半世紀
3 時評
・ブラジリア再訪
・ル・コルビュジエ・シンドローム
・ルネサンスのまなざし
・日本で建築をつくるということ
・日本の新しい世代の建築家たち
・多焦点都市東京と文化拠点の展開
・銀座独り歩き
・都市に咲いた小さな異郷
・都市住居における社会資本形成は可能か
・夏の定住社会
4 追悼
・三人の作家が残したもの
・画家・岩田栄吉
・木村俊彦 建築のための構造家
・至高の空間 丹下建三
5 作家と作品
・建築家・村野藤吾の世界
・印度の建築家・ドーシ
・前川國男と現在
・静けさと豊かさ 谷口吉生の建築
・都市の内から 富永譲
・千葉学の建築
・矢萩喜従郎 旅人の世界
・最後のモダニスト、アンジェロ・マンジャロッティ
・ハインツ・テーザー展に寄せて
・永遠の青年作家・飯田善國
・I・M・ペイへのインタビューを終えて
・ロンシャンの礼拝堂と私
・今も近くにいるコルビュジエ
・東方への旅とラ・トゥーレット
6 書評
・限りなく広がる時空の中で
・時間の中の建築
・林昌二毒本
7 作品に寄せて
・独りの為のパブリック・スペース
・大きな家・小さな家
・風景の使者 フローニングの実験
・ヒルサイドテラスとソーシャル・サスティナビリティ
・日本の都市とターミナル文化
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第7章の「・独りの為のパブリック・スペース」から「都市の孤独」の一部(423〜424頁)を引用したい、これは2008年の3月の講演で語ったものと重複する内容で講演のスライドは本書(424頁)でも使用されている。
.....かつてある知人は美術館で優れた作品と対面している時、そのとき本当のプライバシー、つまり誰にも侵されない自分だけの世界が存在することを感じると語っていた。孤独感を愛するということはそうした経験を指すのである。
..........中略.........
こうした資本の論理はあらゆる施設に拡大しつつある。六本木の国立新美術館に行く。美術の鑑賞を終えれば、まずは巨大な吹抜け空間に向き合わなければならない。ホワイエのエッジに設けられた休憩用のベンチに止まり木の鳥のように人々が座っているが、多くは観賞後のひとときを寛いでいる姿でない。表参道の巨大なショッピングモールについても似たような風景が展開されている。ベルトコンベヤーのようなパブリックスペースはヴィジターに独り佇む余裕を与えない。....
本来、パブリックスペースとは人を集め、流す道具立てだけではないはずである。つくる側の、設計する側の、そしてそれを利用する人々のこうした現象に対する批判能力が停止した時、我々の都市から〈優しさ〉が次第に消失していくのではないだろうか。
追記:先日「歩兵第3連隊・跡地」で美術を鑑賞しエントリーを書いた後、そうだ、「漂うモダニズム」はまだ書きかけのままだった事を思い出し、急遽エントリー。
参考
工学院大学・建築学部開設記念レクチャーシリーズ
槇 文彦「建築設計のなかで人間とは何かを考える」
追記
JIA MAGAZINE AUGUST2013 新国立競技場案を神宮外苑の歴史的文脈の中で考える
雑誌・「arts & architecture」の企画による実験的住宅・Case Study Houseの最も有名なのが#8のイームズハウスであるが、その隣には「arts & architecture」の発行人ジョン・エンテンザ(John Entenza)の#9が建っていた。この二棟のCase Study Houseはエーロ・サーリネンとイームズによる共同設計であった。イームズハウスはチャールズとレイによって基本設計を大幅に変更され実現されたが、#9の鉄骨のフレームを見ると#8のイームズハウスと共通の部材で計画されていたことが解る。#9のエンテンザ邸はその後、別のオーナーの手に渡り、増改築されたようだ。
GoogleMapの空撮写真を東に50°振って「arts & architecture」の配置図に合わせてある。イームズハウスは木立に隠れて屋根の一部が見えるだけである。
arts & architecture:Case Study Houseや雑誌のサマリー等のArchiveが置かれている。
GoogleMap:203 Chautauqua Blvd Pacific Palisades, CA 90272 USA
本日5月17日から八王子夢美術館で開かれる『坂本一成 住宅めぐり』であるが、JEDIの仲間に氏の教え子も居ることからギャラリートークの日程に合わせ、5月18日の午後から西八王子に集合し、千人町から、追分、八日町と歩いて美術館へ乱入?...その後...田町、中町、旭町と歩き...居酒屋にて直会の予定としている。
そう云えば「水無瀬の町屋」について6年前に氏の教え子を巻き込んでこんな事もありました。
そして7年前の「昭和モダニズムとバウハウス〜建築家土浦亀城を中心に〜」展のエントリーに掲載した都市住宅7109住宅第1集・表紙の左端の写真が「水無瀬の町屋」で右端の写真はakiさんが東孝光建築研究所時代に担当された別荘建築と...masaに奇しくもである。
より大きな地図で JEDI坂本一成住宅めぐり を表示
追記・aki's STOCKTAKING:坂本一成住宅めぐり
会場は写真撮影OK 但しインターネット公開が目的の撮影やフラッシュ・三脚の使用はNG
布地にインクジェットプリントされた建築写真のタペストリーによる展示は必見。
「ソニー、NYの米本社ビルを売却」だそうだが、マント姿でAT&T bldg.の模型を抱えるフィリップ・ジョンソン氏がNewsweekかThe Timesだかの表紙を飾ったのは既に30年以上昔のことだろうか...それにしてもWikipediaには「ゲイの人物」にカテゴリーされ、もはやフィリップ・ジョンソンがゲイであったことは建築系やアート系に限らず一般にも周知のこととされているようだ。ふーむ、時代は変わるのだ。
Le Corbusier Redrawn: The Houses
9月19日に注文して、配送は11月中旬になるのは承知していたが、二ヶ月も経つと何か注文していたけれど、それが何かも忘れていたが、12月2日に発送の知らせが届き、そうか忘れていたのはコルビジュエの本だと思い出した。
と云うことで本書はコルビジュエが設計した26の住宅の図面を新たに描直したものである。そのうち22の住宅に関しては表紙のサヴォア邸の様な断面透視図も描かれている。図面表現としてはアウトラインのみの表現と断面はベタ塗り、縮尺は概ね1/200、透視図はシェーディングとシャドウのみで質感は無しのニュートラルな表現となっている。何れも良く知られた住宅であるが、現実には見ることのできないアングルの外観透視図や断面透視図等も豊富で、ドローイングだけの一冊は新鮮である。より分析的にコルビジュエの住宅を研究したい向きにはうってつけの一冊だろう。
昨日、市ケ谷での午前中の授業を終え地下鉄南北線で六本木に向かった。目的地は映画・ル・コルビュジエの家を上映している「シネマート六本木」だ。映画館は六本木・瀬里奈の隣なので、南北線・六本木一丁目駅で降りて裏道を適当に歩いて行こうと、一番出口から地上に出る。すると、其処にあった筈の建物が姿を消していた。仮設ゲートの隙間から見るとプレキャストコンクリートの柱型と梁型のモジュールがまるでモックアップの様に一つだけ残されていた。1971年11月に竣工されたと云うこのビル、僅か40年で姿を消したことになる。設計時にコンピュータグラフィクスを用いて高速道路からのシークエンスを解析したことでも話題になったが...その当時は最新技術だったワイヤーフレームによるコンピュータグラフィクスも...現在から見れば考えられないほど稚拙なものであった。
空撮写真には残っている日本IBM本社ビルも六本木プリンスホテルも地上から姿を消した。そういえば、赤坂プリンスホテルの解体工事は...何処まで進んでいるのだろうか。
ツインコアの一部とプレキャストコンクリートの柱梁がモックアップの如く残っていた。ガードマン曰く「解体は早い!」そうだ。
1971年の竣工当時は首都高・谷町ジャンクションのランドマーク的存在であった地上22階のビルも付近の再開発ビルの谷間に埋もれてしまい、商業的価値を失い粗大ゴミとして処分されるとは...果たして、我々はいつまで粗大ゴミを再生産し続けるのだろうか。
ル・コルビュジエが南米アルゼンチンに設計したクルチェット邸を舞台にした映画...。
「隣の女」と云うのはフランソワ・トリュフォーの映画にあったけど、この映画の原題の"El hombre de al lado"はスペイン語で「隣の男」の意味らしい...何れにせよ「隣人は、選べない」ノダ。
新宿はK's cinemaで10/5まで上映中。『ニッポンの嘘』も午前中の回だけ上映しているので映画のハシゴでも...と思うのだが...先ずは見逃さないように忘備録。
偽装する者や偽者が現れると、それに乗じて法整備だとか理由を付けて、既得権の拡大を狙う輩も現れるし、結局そのとばっちりを受けるのは...。と云うことで国交省から暑中見舞ならぬ暑中倍増ハガキが...やれやれです。
東京駅一番線中央線ホームから仮囲いが外れ、復元?された旧駅舎のドームが見える様になったが...こうして見るとテーマパークの「なんちゃって西洋建築」と大差ないような...どこかで...大きな勘違いをしているように思えてならないのだが...。
何年か前、1970年頃の遙か昔々に新建築の巻頭エッセーで読んだと記憶していた吉阪隆正の「かんそうなめくじ」をキーワードにしてGoogleで検索したけれど、何一つ引っ掛からなかった。確か「かんそうなめくじ」だった筈だが...自分の記憶違いなのか....それ以上追求することもなく忘れていた...。
それが一月ほど前...facebookで『本の網 吉阪隆正蔵書公開』の情報を知り、再度、Googleで検索を掛けたら本書「乾燥なめくじ―生ひ立ちの記」がリストアップされた。書籍は既に絶版となっており、Amazon マーケットプレイスから古本を取り寄せることにした。
何故、読みたいかと思ったのは「かんそうなめくじ」の文明批評的内容が現在の状況を暗示していたと...記憶していたので...それを再確認したかったのである。
パラパラと頁を捲っていると、エネルギー消費と地球温暖化についてこんな一文があった。
....みんながみんなバラバラになって領分を守るだけになった時、一体誰が全体のタクトをふるのだ。どうやってバラバラの世界をそのまま崩壊に導かないようにできるのだろう。いやはや、おれもいつのまにか人間側で論を進めてしまった。おれの立場からすれば、早く人類が亡びてくれればいいんだ。あと五十年持てばいいという説もある。人類がいまのようにエネルギー使用量を倍々とやっていくと百年後には地面の温度が10度上昇するのだと計算した人がある。すると海の中にあるCO2を定着させていたものが、おだぶつになって放出するそうだ。地表はCO2で包まれると太陽熱は吸収蓄積されやすいから、暑い地球になってしまう。魚なら1〜2度の上昇で死んでしまうが、人間だって20度あがればどうなるか。
だいいち極地の氷がまず溶けだすだろうから、海面がどんどん高くなって、陸地はぐんと小さきなるだろう。平野に住んでいる野郎どもあわてるだろうな。ノアの箱船の用意はできているのかね。すべて宇宙の動きと関係するんだ。....
確か...建築が利益追求の目的だけに建設されるようになってしまったことを憂う...文章も読んだような記憶があるが...見つからないなぁ...
先日、中学生が竜巻によって倒壊した住宅の下敷きになって亡くなった。その倒壊現場をTV-Newsで見て唖然とした。住宅のあったと云う場所には基礎も残っていない。残っているのは割栗というよりも採石を敷き詰めた地業のみである。恐らく鉄筋コンクリートのベタ基礎に土台と柱をホールダウン金物によって強固に緊結されていたのだろう。布基礎ならばフーチングの引き抜き抵抗があるだろうが...地盤に載せただけのベタ基礎では引き抜き抵抗もなく建物本体諸共竜巻に持って行かれたのだろう。
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世界遺産に指定されているリートフェルトのシュロイダー邸(写真左手)の前には高速道路が走っている。Google Earthで現状を見ると空撮写真の解像度が向上しStreetviewにも対応していた。Streetviewで観察すると住宅地の中を走る高速道路と云うことで、植栽による修景等の環境対策や安全対策に気を使っていることが写真からでも伝わってくる。先ず、シュロイダー邸の斜向いにあるシュロイダー邸前面道路と高速道路との立体交差であるガード(陸橋)の天井高が低く2.4mしかない、これは高速道路が住宅地の障壁とならないよう高さを最小限に抑えているからだろう。生活道路は高速道路の下を一段下って潜る。従って大型車両は進入できない。それと高速道路の防音壁とガードレールが二重に設置されている。つまり先日の関越道の様な串刺し事故は起きないだろう。当然と云えば当然。
目黒美術館で開催中の『シャルロット・ペリアンと日本』を「ミューぽんの割引」を使って見てきた。同展は昨年10月から今年正月まで鎌倉の神奈川県立近代美術館でも開催されていたが...とうとう行く機会を逸し...目黒美術館まで巡回されるのを待っていた。今回の展覧会は日本との関係に特化したものでペリアンの作品の全てが展示されていないのは、玉井さんの「シャルロット・ペリアンと日本」を探るを読んで知っていたので落胆することなく、逆に知らなかった事や、「そうだったのか」と気付かされた事も多く楽しめた。エントランスに続く最初の展示のジャン・プルーヴェとの組立住宅の写真とスケッチから...彼女が日本建築に抱いた興味が暗示されている。そして初来日する1940年のペリアンと坂倉準三との往復書簡...70数年前の手紙を見ながら...国際交流は個人と個人の信頼関係に根差すものだなと...改めて思うと同時に...何かほっととしたものを感じた。....そして戦後の1952年にエールフランスの日本支社長となった夫と供に再来日を果たし赤坂に2年ほど暮らしていた事を今回の展覧会で初めて知り、成程と思った。
因みに本展覧会の図録:シャルロット・ペリアンと日本は会場内では3500円で買えます。
気付かされた事は1970年代に建築家の宮脇檀氏を中心に設立されたハードウェア商会のプラチェストのルーツがシャルロット・ペリアンのプラスチック製規格化トレイにあったことを、今回の展覧会で、その現物を見て知った。ハードウェア商会は既に解散した様だが、シャルロット・ペリアンのミームであるプラチェストは使い続けて30年以上経つが未だ健在である。そういえば...ハードウェア商会の依託生産だったのか...資料がなく詳しくは不明であるが、ペリアン・デザインの小椅子「オンブル」のレプリカを天童木工が限定生産したことがあったが、強度の関係からオリジナルよりも若干厚い合板が用いられていたのが...やや残念であったことを思い出した。
Debut of the Sydney Opera-Inspired Camper-Trailer
iPadのFlipboardを捲っていたらFlipHomeに建築家ヨーン・ウッツォンのシドニー・オペラハウスにインスパイアーされたと云うキャンピング・トレーラーが紹介されていた。
これはワンボックスのキャンピングカーと違って設営の楽しみがありそうだが...このキャンピング・トレーラーに似あう場所を探すのが...難しそう。
例のMacintoshの1984のTV-CMを手掛けた広告代理店の建物が...まさかフランク・ゲーリーが設計した例のオルデンバーグの双眼鏡付き建築とは思わなかった。
と云うのも「スティーブ・ジョブズ I」を読んでいたら「シャイアット・ディ」の固有名詞が、これは確か20数年前の書籍では「チアト・デイ」とカタカナ表記していた筈と...Googleで検索したら...双眼鏡が...なるほど....。
GoogleMap:Binoculars Building
いつの世も『泣く子と地頭には勝てぬ』訳でNemetschek Vectorworksのお代官様を務めてるA&Aに年貢を納めVectorworks 2011のDVDが送られてきたのだが、それだけではアップデートはままならず。年貢逃れをする不埒な輩が居る所為でアクティベーションとやらの手続きをしてシリアルナンバーを統合しないと使えない。先ずはお代官様にお伺いを立てる訳だが、お代官様から米国に居られる将軍様に光の速度で伝令が届いて許可を戴くと云う面倒な手続きを経て、改めてシリアルナンバーを拝領されるのである。
『Vectorworksの何が変わったの?』かと云うとBIMに関する事は差し置いて、RenderworksのレンダリングエンジンがLightworksからCINEMA 4Dにチェンジしたのが目立つ。なんだかんだ言って、Vectorworks 2010までのラジオシティ(Radiosity)によるレンダリングは非力なマシンでは途轍もなく時間が掛かり実用性が疑われる代物であった。故に学生には絶対にラジオシティに触れてはいけないと『ラジオシティ禁止令』成るお達しを定めた。それほど時間が掛かるのでパラメーターの設定をテストする気力もなかった。Vectorworks 2011のレンダリングメニューからラジオシティが無くなっていたので...『あれぇ...』と思ったが...標準のRWレンダリングでラジオシティがサポートされ、光源設定の『背景反射光...』から間接光のバウンス回数をポップアップメニューで設定できる様に変わり、レンダリング時間も実用的な範囲に納まっていた。因みに左から『間接光なし』、『標準バウンス2回』、『屋内バウンス4回』としてレンダリングした結果である。
江戸のお代官様の御振れ書き
PASSアップの手続き、ありがとうございました。[使用された「Kit No.」]
6JA-XXXXXX-XXXXXX-XXXXXX[新しいVectorworksシリアル番号は以下の番号です。] GXXXXT
EXXXXZ--XXXXXX-XXXXXX-GXXXXT[このシリアル番号は、以下の製品(機能)を含んでいます。]
Vectorworks Fundamentals 2011J
Vectorworks Designer 2011J
Renderworks 2011J<インストールついて>
製品付属のインストールガイドをご参照の上、インストールしてください。<シリアル番号の取扱いについてのご注意>
このメールを印刷しインストールDVDと一緒に大切に保管してください。
PASSアップ前のシリアル番号はご利用できません。お客様にて削除いた
だきますようお願い致します。全てのシリアル番号にはお客様情報が含まれ
ています。転売/譲渡等により発生した損害、または損害による賠償責任は
元所有者であるお客様となり、本使用条件にてお客様自身によって同意され
ています。<本メールついて>
本メールは、配信専用のメールアドレスから送信しています。
このメールアドレスにお問い合わせをいただいても、お返事ができませんの
でご注意ください。
--------------------------------------
エーアンドエー株式会社
カスタマーサービスデスク
gradeup@aanda.co.jp
と云うことで下6桁が各バージョンを通じてユーザー固有の記号となり、異なるバージョンを同時に立ち上げることは出来なくなります。(これはバージョンの違いを比較して解説を書くときにとても不便です。)
解説書を書いていると、只でVectorworksを貰えると誤解する人もいますが、全てのバージョンは自分で購入したものです。ベーター版やWindows版等は契約書を交わして貸出しを受けますが、執筆が終ると返却します。
ソフトウェアのコピーをする輩は試験でカンニングする輩と共通するものがあるようですね。まぁ...最近はデジタル・カンニングする学生もいるので...その対策も...考えねばいけません。
楽しくわかる!住宅工事現場写真帖
古川 泰司著:エクスナレッジ・ムック
昨年末、坂田明氏から伺った話で、海外公演旅行の際に余興で日本の伝統的歌謡を独唱すると場が盛り上がり、大体の国では受けるそうだが、中にはシラーとして全く受けず、逆に怪訝な顔をされる場合もあるそうである。何故か?といえば、その国では歌は一人で唄うものでなく皆で唄うものなのだそうだ。その話を聞いて『じゃぁソバヤを唄えば受けたかも知れませんね。』と言うと、坂田氏は『そうだね。』とソバヤのサワリを唄ってくれた。坂田氏の分析によれば職能が未分化な地域で共通するリアクションと云うことである。
近代化によって職能の分化がもたらされ、現代はその職能も更に細分化され、自分が従事している職能でさえも、その産業の全体像を捉えることは、もやは困難な時代となっている。住宅建築もその例外ではなく嘗て農村地域では村を上げて農家の新築や改築、そして茅葺き屋根のの葺き替えをしていたが、そうした農家でさえも今日では商品化住宅によって建替えられているのが現状だ。
話は大幅に逸れてしまったので本書に戻ろう。古川氏が再三Twitterで呟いていたメインタイトルの「住宅工事現場写真帖」だけでは、その内容が何のことやら想像できず、伝わり難いが、本書を手に取って見るとタイトルの脇に添えられた"Half-Build Handbook"の文字に合点し、そこに著者の思いが込められているように思えた。恐らくはタイトル決定まで著者と編集者、それに営業企画の間で喧々諤々とした話し合いが行われ、それぞれの意見を取り入れた結果、背表紙に副題、表紙カバーにキャプションやコンテンツを入れたと想像するのだが...さて真相は...如何に。
そんな深読みをするまでもなく、本書で最も多くの頁を割いているのが"Half-Build Handbook"に相応しい、床、壁、家具による、いわゆる内装工事にも分類できる工事区分である。これは新築でなくても、中古マンションや、中古住宅を自分の手でリフォームしたいという潜在的なニーズに応えたものであろう。いきなり自分の手で建築工事の何から何まで...セルフビルドでは余りにも敷居が高すぎて、尻込みしてしまうが...床の張り替え...とか壁の塗り替えの...ハーフビルドなら自分でもやってみたいと思う方には...最適な本である。
住宅は世界の至る所に遍在しているものである。見本となるものは幾らでもある。我流だろうが独学であろうが、自分で作ろうと思い立ち...研究心と根気さえあれば...誰でも可能性はある。必要なのは子供の頃に...秘密基地を作った...あの時の冒険心だけである。
aki's STOCKTAKING:住宅工事現場写真帖
昨日、来年早々にリリースされる日本語版"Vectorworks2011"のプレビューを兼ねた"Vectorworks Solution Days '10 "に行って参りました。
と云うことで社名を改めNemetschek Vectorworks, Inc.のCEO・Sean Flahertyのスピーチから始まった講演ですが、Vectorworksは米国よりも日本の方が売れていると云うことで、こうして毎年来日してユーザー向けのスピーチを欠かさない理由も解りますね。昨年、一昨年と同様にBIMをセールスポイントにしていることには変わりませんが、微妙にそのトーンに変化が生じているのが感じられました。大風呂敷を広げすぎた所為か.....VectorworksがBIMソフトと誤解するコンシューマが多くいることへの反省でしょう。まぁ..それでもBIMはオープン化の方向性に動いていることは確かでVectorworksもそのツールの一つとしてIFC ( Industry Foundation Classes )に対応することで他のツールとのコラボレーションを可能としています。海外のコンペの新たな潮流として、提出物はPDFとIFCだけと云う動きもあるようで...これも時代の変化ですね。
"Vectorworks2011"には170の新機能があるらしいですが、その中でも2Dと3Dの双方向性と云うか親和性が高まり、テキスト編集機能もそれに対応している様です。BIM/IFC対応としてはオブジェクトの属性データの管理機能の充実とかでしょうか...最も大きな変更点はレンダリングエンジンがCINEMA 4Dの64ビットレンダリングエンジンに変わったことでしょうか...確かに数倍の処理能力が得られるようです...。因みに"Vectorworks2011"の出荷は来年1月14日だそうです。まぁ...一番悩ましいのはアップデートに掛かる費用の捻出でしょうか...。
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VectorworksではじめるCAD/2010/2009/2008対応
"LogoVista"が「PC版」に続いて無償提供する『電子法令検索 for iPad』である。但し『...使用一年後くらいからアップデート代金をいただくというモデルを考えて...』と云うことのようなので、その際は赤本(建築基準法法令集)を買わずに得したと思われる価格を期待したい。
因みにこれがMac版の法令検索...MacBookにはこちらを...
と云うことで5日から開催されている『SIRAI, いま 白井晟一の造形』を授業前に見学。
展示テーマは「白井晟一の造形作品」二つある展示室の一つには書と装丁が、もう一つの展示室には"Unbuild Archtecture"(建てられなかった建築)つまり原爆堂に代表される計画案の模型や図面、スケッチ等が展示されている。展示されている様々なスケッチを見ると、白井晟一を異端の建築家、孤高の建築家とステレオタイプな語り口で取上げられていた事に違和感を憶える、彼もまた20世紀を生き、その時代の精神に影響を受けた建築家であった。因みに会場となっている東京造形大学附属横山記念マンズー美術館は白井晟一が生前に残した計画原案の図面に基づいて建築されたもので、その計画原案の図面も会場内に展示されている。
ところで先日(6/19)渋谷の桑沢デザイン研究所で開かれた『シンポジウム:白井晟一が生きた時代 Part1』の最後に前学長の白澤先生が東京造形大学の宇津貫キャンパスの指名設計コンペに於いて白井晟一・原案による横山記念マンズー美術館をキャンパス内に配置して計画する条件があったことを話された。実施設計に採用された磯崎新氏による設計案だけが、応募案の中で唯一つ美術館をキャンパスに取り込み軸線中心の一段高い丘陵の中腹に据え計画されていたと云う。その配置計画の確かさと共に、指名された応募者の中で恐らく磯崎新だけが生前の白井晟一と交流があり、リスペクトしていたことを思わせるエピソードでもある。
iPadでGoogleMapの位置情報を見る。GoogleMapで位置を示しているポイントはカフェテリア。
住宅建築2010年1月号で特集が組まれる等、再評価されている建築家・白井晟一の没後初の回顧展が東京造形大学・付属美術館(白井晟一・原案設計)で7月5日から7月30日まで開かれる。また、それを記念したイベント『シンポジウム:白井晟一が生きた時代 Part1』が6月19日に渋谷の桑沢デザイン研究所で開かれる。シンポジウム申込は東京造形大学・展覧会案内の頁から。
東京造形大学・地図:東京都八王子市宇津貫町1556
先月、五年毎の更新手続書類を提出、略一月後に登録通知書が届いた。登録通知書もハガキからA4に変更され封書で届くようになり、登録機関も都庁の建政課から設計事務所協会と大幅に変更された。自動車運転免許証なら誕生日の前後一ヶ月の二ヶ月間に更新手続きをすれば良いのだが、建築士事務所の更新手続きは前倒しが原則、登録期限の二ヶ月前から一ヶ月前の一月間に済ませなければいけない。しかも、身一つで済む自動車運転免許証更新と違い、事前に揃えておかなければいけない書類も多く、その為に都税事務所や法務局に行けなければならない。姉歯以前はそれだけで済んだのが、偽装事件以後、建築士法が改正され、定期講習が義務付けされ、それも建築士と管理建築士、その両方の講習を受け修了考査をパスして修了証を貰わなければならない等々...時間もお金も...三倍以上掛かるようになってしまったのである。こんな更新手続きでさえも代書屋からDMの案内が届くようになっているのだが...何がなんだか...。唯一の改善点は申請書式をダウンロードできること、それに申請窓口が意地の悪い役人ではないこと...くらいか...。
VectorworksではじめるCAD 2010/2009/2008対応
と云うことで前書・VectorWorks12ではじめるCADから略三年半ぶりに改訂版を上梓致しました。2008年1月のVectorWorks2008の発表から一年毎のアップデートが決まりVectorworks2009の発表会も同じ年の12月に行われ、一年後の昨年12月にVectorworks2010の発表会があり、今年1月に製品がリリースされると云うように慌ただしい限りで、出版もそれに振り回された感があります。それで何が変わったかと申しますと、パッケージの見た目で云えば『VectorWorks』が『Vectorworks』に変わっていると云うことでしょうか。Version2008の頃からCEOであるショーンのスピーチによれば、これからはBIMを標榜するらしく、と云うことで全て変数によって情報を支配制御する方向に向かって製品開発がシフトしていることは確かで、異なるパッケージによる製品の差別化にもそれは反映しているようです。一方、未だにプレゼンのドローイングをAdobeのillustratorで描くと云う極端な人もいて、今更...化石のような図面を描いても...と思いますが...かと言ってデザインプロセスのアルゴリズムも確立しないで、いきなりBIMもないでしょうね。
それからVersion2010からはIntelMacだけの対応となりPowerMac G5は切り捨てられ...お蔭でハードウェアやらAdobeのCS4やらにも...でした。
と云うことで"No Man's Land"の最終日に滑り込み在日フランス大使館・旧庁舎を見てきました。旧庁舎の本館(左図:赤)はフランス人建築家Joseph Belmont(ジョゼフ・ベルモン1928-2008年)により設計された1957年竣工の建物のようです。別館(左図:青)は1960年代の建築で設計者については記載なく不明ですが、ゲートに向かって大きく張り出したキャンティレバーが印象的な建物です。ジョゼフ・ベルモンはジャン・プルーヴェに師事した建築家と云うことで、ル・コルビュジエや師であるジャン・プルーヴェの影響がバルコニー手摺り等のディテールにも現れていると思われます。青木坂を背にした高低差10mの敷地に地下一階地上3階の建物が高低差を利用して巧みに配置されています。西側道路に面した門からスロープで一層分の高さに上ると車寄せが設けられたポーチがあり、そのレベルが1階と見做されているようです。中庭に面したポーチから動線は左右に別れ、右側のウィングがラウンジ(カフェテリア)になっていて、その屋上は2階レベルにある庭園と連続しています。この辺りの空間構成はアトリウムを内包する地中海住宅を彷彿とさせるものがあります。屋上庭園のレベルにある執務室(個室)には盗難予防と機密保持の目的か竣工後に鉄格子が設置され警察の取調室の様となっていますが、サッシュ割とかのプロポーションはコルビュジエのユニテやラ・トゥーレットの影響を感じさせられます。
Google Earthで見るフランス大使館の敷地、台地の上には大使館公邸と大使館員の宿舎が、敷地南側の谷には渋谷川(古川)が流れ、嘗ては「名所江戸百景 広尾ふる川」に描かれた風景が...
1階レベルの中庭と2階レベルの庭園から見た南側のファサード、翼のような断面を持つバルコニー手摺りが如何にもジャン・プルーヴェの門下生...。
建設された年代は鳥居坂の国際文化会館(1955)と2年程の差がありますが、其処にはモダニズムと云う共通の理念を感じることができます。...おまけの写真
KARAKARA-FACTORY:No Man’s Land/ 在日フランス大使館・旧庁舎
Kai-Wai 散策:"NO MAN'S LAND" FLAG
トリコロールと云えばこんなインスタレーションもありました。
と云うことで世界遺産の認定は見送られましたが「ル・コルビュジエと国立西洋美術館」を開催中の西洋美術館です。今週末の「ファン・デー2009」では無料開放されます。建築ツアー等もあるようで、忍耐強く、且つ運のよい方(20名×2回×2日)は整理券のゲットを...
一週間程前、造形大の出講日の5限目に建築ジャーナリスト・淵上正幸氏による公開講座があった。いつもなら4限が終っても居残りをする学生がいるのだが、この日は授業中に公開講座を聴講するようにと言っておいたので略時間通りに学生は退室、後片づけをして途中から講座を聴講。
旬な話しとしてペーター・ズントーの「ブルーダー・クラウス・フィールド・チャペル」が興味深かい。ズントーは今年のプリツカー賞受賞者に決定したということだが、洗練された素材の扱いは彼の出発点が家具職人だったということにも由来するようだ。そういえば未だ無名だった20年前の1989年のイタリアの建築雑誌「domus」に掲載された「聖ベネディクト教会」で既に只ならぬものを感じていたが...。
それに比べるとビックプロジェクトに挑んでいる建築家はどこか意匠の優先順位がマーケティング的差別化にありバブリーな印象が拭えなかったのが残念でもある。
と云うことで淵上氏のブログのアドレスをデジカメでメモ:淵上正幸の日々建築漬け
そういえば日曜美術館はヴォーリスの特集だったが、ゲストに呼ばれた建築家のコメントが...なかなか意味深で..それなりに面白かった。
ヘルツォーク&ド・ムーロンのエバースヴァルデ技術学校図書館(1999)の作品辺りから、世界的にも建築の外皮に対するデザインの傾向に変化が認められるようになったと、淵上氏も言っていたが、それから影響を受けたのかは不明だが2003年に竣工した建物で...クリソツなものが東京にもあったことを思い出した。
そう、I氏も言っていたが『人は真似したがる生き物』だと...きっとそれはDNAに刻まれているのでしょう。
「リートフェルトの建築」
リートフェルトと云えば世界遺産・シュロイダー邸とレッドアンドブルー・チェアーが代表作であるが、それ以外の建築作品は日本では殆ど知られていない。2004年に開催されたリートフェルト展でも建築作品はシュロイダー邸だけにフォーカスした構成となっていた。その展覧会の図録にはユトレヒトの建築マップが添付されていたが、写真はまさに爪の先・サムネイルで建築の全体像をイメージすることまでは不可能であった。本書は今まで日本国内で紹介される機会の少なかった戦前・戦後の「リートフェルトの建築」の現存する姿を「撮り下ろし写真」によって記録している。それだけでも20世紀のいわゆるミッド・センチュリーのモダニズムを再考する貴重な資料となるであろう。
内容
1 家具作家から建築家へ 1917-24
2 戦前の住宅:新即物主義を超えて 1925-45
3 戦後の住宅:「生活」と「空間」の同一化 1945-64
4 「構成」と「構造」の統合を目指して 1949-64
著者の奥佳弥氏は2004年のリートフェルト展に合わせて府中市美術館で「リートフェルトと日本をつなぐもの」と題した講演を行なっている。そこでも蔵田周忠の古仁所邸や旧 金子邸にも比較言及していたが、セゾン美術館で開催された「デ・ステイル1917-1932」の図録に「デ・ステイルと日本/日本における新造形主義の行方」と云う論文を寄せている。蔵田周忠は1930〜32に掛けてベルリンに滞在、グロピウスに師事、デ・ステイルの建築に見られる「面の立体的構成」に共感し、シュロイダー邸を高く評価している。帰国後の作品は、それまでの多摩聖蹟記念館(1927)に見られる表現主義は影を潜め、古仁所邸等の「等々力住宅区計画」(等々力ジードルング)にみられる面による立体的構成をモチーフとした非対象形な建築へと変化していった。
嘗て等々力渓谷に面したこの付近の閑静な住宅街にリートフェルト建築の影響を受けた「等々力住宅区計画」が4棟建てられた。旧三輪邸を除いて既に現存していないようであるが、その旧三輪邸も竣工当時の面影は残していない。そうした情況はリートフェルト・設計による戦前の住宅が現在でも手入れされ使用されているのに対して大きな違いがある。住宅に限らず多くの近代建築が姿を消してゆくのは、耐用年数の問題以上に建築的価値が投資に見合う金銭的対価をもってのみ評価されているからであろう。巷では中央郵便局の再開発に対し、某大臣が異論を唱えている。文化的価値から保存を望まれた三信ビルディングは既に解体されてしまった。そうした保存運動に関心を持たなかった男が俄に中央郵便局の文化的価値を語るとは...今更ながらの政治的茶番に片腹痛い...。
蔵田周忠・参考文献:INAX REPORT / 蔵田周忠・生活芸術を追及したモダニズムの啓蒙家(HTMLは抄文であるが、全文がPDFとなっている。)
12月12日の東京新聞夕刊紙面に今年六月杉並区の小学校で起きた天窓からの落下事故について、その設計者である船越氏が設計時の取り決め等について語っている。
偶々、私は事故が起きた当日は近くにある女子美の出講日だったので午前中の授業が終って東高円寺駅に向かう途中で、この小学校の前を通り、普段と違い小学校に多くの父兄や関係者等がいたことから何かあったのだろうとは思っていたが、そんな事故が起きていたとは夕刊か夕方のニュースを見るまでは知らなかった。しかし空撮の映像とGoogleMapで屋上の様子を見て、この屋上は児童や一般の教員も立ち入りを禁止されている領域であることは一目で解った。
考えてみると1970年代以降の鉄筋コンクリート校舎化を巡る近隣との関係はトラブルの連続でもあった。一つは日照権の問題、1960年代までは南側に校庭を広く取り、校舎は敷地の北に配置し、冬の北風を避け、南に面した窓に日だまりを設けるのが一般的であった。それが近隣への日照権の問題で校舎を敷地の南側に配し、校庭は北側に設ける事例が増えることになった。もう一つは近隣から騒音(屋上で遊ぶ児童の声がうるさい)とプライバシー(屋上から覗かれる)等の問題で屋上の利用が悉く否定され、屋上が使えなくなったことである。今回事故が起きた小学校建築はこの二つの問題も考慮して地域住民でつくる協議会との話し合いを通して設計が進められたもののようだ。屋上を利用するか否かで設計は構造耐力や防水の仕様からパラペットの立ち上がりや庇のディテールまで違ってくる。事故の起きた小学校の屋上は冷暖房等の設備機器の設置場所としても利用され、恐らくは機器交換も考慮した保守管理の為に出入口を設けてあったことが仇になったと考えられるが、建物の使用注意事項等についても前任者からの申し送りが徹底しておらず、更に想像力の欠如が招いた事故であろう。建物の保守管理者としての資格もない教員に屋上の鍵が渡ったことが...問題。
このサイトプランは1970年以前には考えられなかった小学校の配置計画であろう。東側に寄せられた校舎は遊歩道との間にも植込の緩衝地帯が設けられている。地域住民でつくる協議会の要求を取り入れた苦肉の策と云う気もするが、この小学校の前を通っていても、これが小学校だか、中学校だか、良く解らない。子供達の遊ぶ声が騒音と感じられたり、犯罪被害から児童を保護する目的で地域から隔離されてゆく学校を見るたびに...なんという時代なのか...と思う...。
まぁ、坊ちゃんの例を上げるまでもなく、昔から男子は向こう見ずで馬鹿なのである。
編集出版組織体アセテートからの注文控メール「・・・12月中旬にはお手元に届くと思います。」の通り、本日『藤森照信 グラウンド・ツアー』の泥モノ、石モノ、積みモノ、地底モノ、UFO、の全五巻が届いた。各巻の構成は中谷礼仁氏による藤森照信氏へのインタビューと建築ガイド(座標:緯度経度付き)からなる。判型は205×115mmで、一冊あたり88頁から104頁、フィールドワークに用いられる野帳より一回り大きく、ミシュランガイドよりも縦が13ミリ長いが、厚さは20ミリも薄く、軽くて、面白くて変。
『グランド・ツアー(Grand Tours)』から『グラウンド・ツアー(Ground Tours)』へと建築物を追って地を這う旅が...語られる...。
やはり、そうだった。3年前のMovie baton-3でも触れていた1974年のロミー・シュナイダー主演の映画『地獄の貴婦人 (原題:Le Trio infernal)』のロケ地となった建築を巡る疑問がYouTubeの御蔭で氷解した。映画そのものは1930年代のフランスで起きた猟奇的保険金殺人事件を核にブルジョアジーの頽廃的生活を描いたもので、私もこの映画を見るつもりはなく、併映されていた当時話題の『ラストタンゴ・イン・パリ』を見るのが目的で、『地獄の貴婦人』は途中から後半部分を見ただけで、映画のタイトルも永い間失念していた。
ロミー・シュナイダーをウィキペディアで検索し『地獄の貴婦人』の原題を探りあて、それからYouTubeで検索してみた。映画のタイトルも『地獄の×××』くらいの記憶しかなく、以前、映画に詳しいという建築家のWT氏に訊ねてみたことがあったが『皆さん、僕が映画に詳しいと思ってますが、一部の映画に詳しいだけで、何でも知ってる訳ではないんですよ。』と言われたことがあった。ん〜確かに。
やはり、マイナーな映画はインターネットがなかったら探り当てることができなかっただろう。
その建築はピエール・シャローの硝子の家(Maison de Verre)である。映画は後半部分を見ただけなので建物の外観が映っていたかは定かではないが、金属加工による間仕切りパネルにドアや建具金物等のアールデコ風な意匠に...只ならぬものを感じたものであった。今はGA booksから詳しい本も出ている。
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31 Rue St-Guillaume, Paris, France
「硝子の家」はオルセー美術館から歩いて行ける距離、20年ほど前、建物は公開されていなかったが前庭まで入れたのでガラスのファサードによる外観だけは見たことがある。現在、建物ははアメリカ人コレクターが買い取ったらしい。
と云うことで、12月2日の日にVectorWorksの次期バージョン「Vectorworks2009」の発表会であるA&A Festa'08でショーンの基調講演を聴いてきました。講演内容は前回同様にBIM(Building Information Modeling)の話が殆ど、定義が定まらず、それを口にする者によって温度差があるのは、なんだかWeb 2.0とよく似てます。予てより設計プロセスのあらゆる場面で「情報をデザインするCAD」と位置づけしていた者としては、今更...何だかな...という印象でもあります...それは別として3Dモデリング・カーネルにシーメンス・グループの「PARASOLID」が採用されたことで、3Dモデリングの精度が向上したということが、今回のグレードアップのポイントでしょう。それにしても毎年のグレードアップはユーザーへの負担を強いるものです。最低五年間はグレードアップしなくても使い続けたいのがユーザーの本音でしょう。
Nemetschek North America/BIM in Practice
編集出版組織体・アセテートから『藤森照信 グラウンド・ツアー』刊行決定の案内が届いた。発行日、価格等の詳細は未定であるが、サイトにはグラウンド・ツアー【泥もの】【石もの】【積みもの】【地底もの】【UFO】それぞれの収録予定地座標がありGoogleMapやGoogle Earthとリンクできるようになっている。そういえばGoogleMapもアップデートされマップ上に写真やWikipediaの情報を表示できるようになった。それにしてもポタラ宮を【UFO】に分類するとは、いかにもF森教授....。(初稿:June 03, 2008)
更新(2008.11.26):編集出版組織体・アセテートの中谷礼仁氏から書き込みがあり、2008年12月24日に発売予定で、既に予約を開始したとのことです。
ポタラと云えばFumanchu 先生が出放題に「補陀洛」というのは"Potala"のことだそうで...と書いていた。
今年の3月のことであるが、トウキョウ建築コレクション2008の「東京」をテーマとした槇文彦特別講演を聴いた。講演内容は「奥の思想」と東大・槇研究室を引き継いだ大野秀敏氏によるFIBER CITYから引用したデータを元に「東京」を鉄道網や地勢等の文脈から語り。代官山ヒルサイドテラスと最近作から都市に於けるパブリックスペースについて氏の持論を語った。その内容はクリエイティブ・コモンズにも通じるものがあるように思えた。特に印象に残ったのは『都市は、群から離れて一人で居ても楽しい場所、孤独でいることを保証するもの、』でなければいけないと云う考えであった。
その講演で今秋に『NURTURING DREAMS』のタイトルで本を上梓すると述べていた事を思い出し、Amazonで著者名で検索したが表れず、このエントリーの下書き(2008-03-16)から書名の『Nurturing Dreams』で検索したら既に10月31日に出版されていた。但し、それは洋書であった。つまり英文によるものである。う〜ん、現在、Amazonで「日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で」が売れているというし...デジタル・デバイドのみならず...ランゲージ・デバイドも...
と云うことで、塩漬けにしたまま埋もれていた下書きを...8ヶ月経ってから、ちょっとだけ手を加えてエントリーのお粗末でした。
参考:
法科大学院統一適性試験・長文読解力を測る問題3奥の思想・「中心」の思想との比較
大野秀敏研究室・FIBER CITY
三年前に起きた一級建築士のモラル崩壊による偽装事件に端を発した建築士法改正問題ですが、翌年の12月に改正建築士法が公布され、それから二年を経て11月28日に施行されることになりました。と云うことで昨日はその講習会に東京ビックサイトまで行ってきました。
まぁ、建築士の改正については昔から常に議論されていた問題で、事件を切っ掛けに落ち着く処に落ち着いたと云う印象ですが、やれやれですね。
改正の骨子は次の通り。
1)建築士の資質・能力の向上
〈建築士試験の見直し〉
○受験資格の見直し
(1:学歴要件)
(2:実務経歴要件)
(3:専門能力を有する技術者の受験資格)
○一級建築士試験内容の見直し
学科:現行4科目100問→5科目125問(現行から1時間延長)
設計製図:構造・設備の基本能力の確認(現行から1時間延長)
〈定期講習制度の創設〉
○定期講習の受講の義務づけ(3年毎)
講習5時間+終了考査1時間(講習内容の確認程度)
※現在設計事務所に所属している建築士は経過措置の猶予を加え2012.3.31(平成24年)を受講の期限とする
2)高度な専門能力を有する建築士による構造設計及び設備設計の適正化
○構造設計一級建築士/設備設計一級建築士制度の創設
○一定の建築物について法適合確認等の義務づけ
3)設計・工事監理業務の適正化、消費者への情報開示
○管理建築士の要件強化
3年の実務経験と3年ごとの管理建築士講習の受講義務(現行任意)
○管理建築士による重要事項説明の義務づけ
○再委託の制限
○名簿の閲覧、携帯用免許証の交付
4)団体による自律的な監督体制の確立
○建築士事務所協会、建築士事務所協会連合会の法定化
5)業務報酬基準等の見直し
○業務報酬基準の見直し
○工事監理業務の充実
-------------------------------------------------------------------------------------------以上概略
今回の受講申込は建築士会のウェッブサイトから行い、コンビニ支払いを済ませたにも関わらず、一向に受講票が届かない状況、連休明けの受講の前々日に建築士会に電話、担当部署が違うのでという返事に『あれ、たらい回し、これって、もしかすると講習会を騙った偽装振込め詐欺ですか?』と云うと、相手は慌てて、担当者から電話させるようにしますとの返事。なんたらかんたらあって、やっと受講票が届く始末に、なんだか。
ん〜、来年から本格的に稼働する講習会とかの業務、ホントにこれで大丈夫なのかな。
三年前のエントリーMovie baton-2で取上げたゴダールの「軽蔑」が 廉価版DVDでリリースされたので、リベラのマラパルテ邸をじっくりと見たくて買ってしまった。ゴダールの作品の殆どは「atg・新宿文化」で見ているが「軽蔑」は日比谷のみゆき座で再公開されたのを見たのかも知れないが確証はない。見てから未だ40年は経っていないけれど、四捨五入すれば40年昔のことでストーリーは殆ど記憶に残っていない。覚えているのはマラパルテ邸の地中海を望むピクチャーウィンドウや屋上テラスや階段のシーンと最後、交通事故で唐突にバルドー演じるカミーユが死んでしまうことだけ、物語の核心である男女の心変わりのドラマ等は全く憶えていない。まぁそれだけガキだったということである。
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マラパルテ邸はナポリの南32kmに位置する青の洞窟で有名なカプリ島の東に位置する。
(40°32'49.82"N 14°15'33.28"E)
ゴダールの作品の多くはスタンダード・サイズかビスタ・サイズで作られているが、アメリカ資本が入った「軽蔑」はシネマスコープ・サイズで作られている。それが二人の微妙な距離感を表現しているように思える。マラパルテ邸は後半の20分間くらいに登場する。
ツールケースにはこの7つだけではなく左のラッチを開けると、その下に6つのツールが収まっている。と云うことでWindowsMobileプラットフォームのDIMENSIONS 1.3をコンバートしたiPhone/iPodTouch版・ダイメンション(petiteMALLETTE・Dimensions1.0)である。価格はWindowsMobile版の10ドル弱に対してiPhone/iPodTouch版が2ドル弱(邦貨230円)とAppStoreプライスに押さえられ、求めやすくなっている。ツールケースの中身はノギスやら水準器やらと盛沢山である。iPhoneの加速度センサーやGPS機能を利用しているが、巻尺等は測定者の身体を距離を測る基準にするなど、測量技術の原点といえる発想だ。13あるツール全て使いこなすのは......それなりのスキルも必要だろうし、常用する道具としては本物には敵う筈もないが、コンベックスも何もないとき、iPhoneが...である。逆に計測にはアナログ的な目視や目測が重要だということを教えられもするソフトだ。
このAreaFinderはiPhoneの位置情報サービスで敷地面積を求めてしまおうと云うことのようだが...どうも誤差を計算に入れると敷地が100ヘクタール(1km四方)位でないと実用にならないようである。誤差20yardと言われても...。州境を緯度経度で決める国なら「ランチ(ranch)の広さをこれ(iPhone)で測ってもエーカー(acre)...」と共和党副大統領候補のサラ・ペイリン・アラスカ州知事を凍らせるオヤジギャグを飛ばせるのだが...ランチ(lunch)をワンコインで済ませたい住宅ローンに苦しむオヤジ達の住む国では住宅敷地の一辺は20yard(約18m)にも満たないのである...。(因みに20yard四方は約100坪)
クリノメーター(clinometer)である。前述の水準器はゲームのセッティング画面であったが、これはそのままiPhone/iPod touchをクリノメーター(傾斜儀)とするソフトである。僕の持っているアナログの本物は日本橋・丸善で買った簡易測量ができる玉屋のクリノメーターだ。(因みに写真のコンパスのEとWが左右反転しているのはこちらの理由から。)昭和の昔、測量機器や製図機器を扱っていた玉屋は銀座松屋の前、今のAppleStoreの隣りにあったのだが、ビルにその名を残しタマヤ計測システム株式会社は品川区南大井に移転しているようだ。その玉屋は1675年に玉屋眼鏡店として開業していると云う、あの伊能忠敬が用いた測量機器も玉屋が扱っていたと地図測量史に詳しい。と云うことで三者揃い踏みであるが、本物はアルミの削り出しの梨子地仕上げで実に堅牢なのだ。
これは加速度センサーの付いたiPhoneを水準器に変身させる無償のソフトである。もちろんiPod touch でも使える。いや、水準器として使うなら背面がフラットなiPod touch の方に分があるだろう。尤も水準器として使おうなんて考えるのは、ほんの少数の者と云うよりも例外であろう。何故ならばこれはゲームだからである。Labyrinth LEは無償のソフトウェアであるが、より上級向けに対応した有償の製品版へのアップグレードも考えられている。
Labyrinth(迷宮)と名付けられたゲームは玉をゴールまで転がして遊ぶと云う極くシンプルな仕組みであるが、障害物を避け玉を井戸に落ちないようにしてゴールまで転がすのは意外と難しい。と云うことで水準器である。これで水平を保つ訓練を積めば上級者への道が開かれるかも知れない....。
そうか、製図器のコンパスは二本足だから複数形になるのか。
と云うことでakiさんのECOBRA compassのエントリーを見て、口絵か挿し絵に使うつもりでVectorWorksの3Dで作成したコンパスがあったことを思い出した。なんだかんだとCADが主流になっても我々の世代にとって「設計」とか「製図」のアイコンと言えるのはコンパスかT定規だろう。
円の定義とコンパスの仕組み、その原理さえ解ればどんな大きさの円も描ける訳で、そのことに気付いた古代の人たちは得意満面で円を描いたんだろうな。
遠の昔に製図板も片づけてしまったが、スペースにゆとりがあれば...
AssistOnを出て横断歩道の前で明治通りの向かい側に目をやると鈍色の空に二台のメタルカラーのタワークレーンが凛として聳え立っていた。タワークレーンを美しいと感じたのは久しくなかったことだ。
昨日は出講日の午後を利用してバウハウス・デッサウ展に行ってきました。もちろん、その前に18日が開催期限のTizianoを観賞する為、西洋美術館に立ち寄ってからです。
と云うことで写真は只で入手できるパンフレット、右下の四つ折りにされたA4サイズのパンプレットを広げるとA2サイズ用紙の隅々に展示品が並んでいる。解説はないけど、これだけでも立派な資料。左下は同時開催されている芸大コレクション展の「東京美術学校とバウハウス」のリーフレット、これは1階の受付で申し出ると貰えます。因みにリーフレット右上の図はバウハウスに留学した山脇巌の芸大卒業制作。
展覧会の内容は次の通り
一部:デッサウ以前/バウハウスとその時代(地下展示室)
二部:デッサウのバウハウス/基礎教育と工房(三階展示室)
三部:建築(三階展示室)一画にグロピウスによる校長室をサッシュのディテールまで再現
尚、地下展示室では芸大コレクション展を同時開催
バウハウスのあるデッサウ(Dessau)は1989年のベルリンの壁崩壊まで、第二次世界大戦後は東ドイツ領であったため永い期間その実態の詳細が分からず、建築史の写真資料は戦前の写真か、戦後の荒廃した写真くらいであった。バウハウスを自由に訪れることが可能になったのは1990年代以降、ようやくこうした映像を見られるようになった。
GoogleMap:BAUHAUS( 51°50'23.04"N 12°13'39.25"E)
今日(4/19)のテレビ東京系「美の巨人たち」(PM10:00〜10:30)はクロード・N・ルドゥーの「アル=ケ=スナンの王立製塩所」だ。地名を冠にした名称(Saline royale d'Arc-et-Senans)もフランス語を仮名表記すると「アル=ケ=スナン」と「アルク・エ・スナン」と翻訳者によって微妙な違いがあるようだが、「ショーの製塩工場」と覚えた世代にはどちらも舌を噛みそうである。
GoogleMap( 47°2'6.00"N 5°46'37.26"E)
NHK 世界遺産の旅:【アルク・エ・スナンの王立製塩所】
昨年はル・コルビュジエ展でしたが、今年は藝大美術館でバウハウス・デッサウ展が大型連休前から開催されます。(引き続き巡回展が夏に浜松、秋に新潟、来春が宇都宮と開催予定。)そういえば三年前にエントリーした「Landscape of Architectures」でバウハウスについて触れていたこと思い出した。そうだ!5月18日までなら上野でヴィーナスにも会えるのだ。
その名の通り【地中海都市バルセロナから日本人というフィルターを通したヨーロッパの社会文化をお送りします。】と云うコンセプトで運営されているバルセロナ在住の建築家・cruasan 氏のブログである。見つけたのは偶然、いわゆるセレンディピティである。先のエントリーGoogleMapでPalladio tourで作成したGoogleMapにカルロ・スカルパのブリオン・ヴェガをプロットする際、場所を特定するのに何か情報がないかと"Cemetery Brion-Vega"をキーワードに検索していて見つけたサイトである。普通ならそのまま見逃してしまうのであるが、私の作成したGoogleMap"Palladio Tour in Veneto"の主要なポイントを押さえ「旅行記:建築 」のカテゴリーでエントリーされていたのであった。19年前の記憶を絞り出して書き綴っている私よりも、この三月に訪れた氏の新鮮な旅行記の方が情報が確かなことは言うまでもない。早速便乗させてもらうべくコメントを寄せたところ快く承諾を戴いた次第です。コンテンツは歴史、都市、建築、美術からサブカルチャーとその守備範囲は広く、その視点は人間社会に向けられています。最新のエントリー都市の闇:ヴェネチア(Venezia)の裏の顔とジェントリフィケーション(Gentrification)で氏は『一匹の妖怪がヨーロッパを徘徊している。ジェントリフィケーションという妖怪が』の言葉で結んでいる。重い言葉である、僕には「住む・2008春号」の松山巌氏によるエッセー「怠けるヒント」の『...どうやら川ばかりか、空まで人間は埋め立てはじめている。...』の言葉と共鳴して聴こえてきた。
GoogleMapの解像度が多少向上したので、今まで識別不能だったVilla Barbaro の形状が漸く確認できるようになった。と云うことで2008年は建築家"Andrea Palladio"の生誕500年なのでGoogleMapでPalladio tourを企画してみた。400年程の時代の差があるが同郷の建築家と云うことで、ちょっとだけ"Carlo Scarpa"も加えてある。
GoogleMapで"Palladio Tour in Veneto"を開く。
今まで書いた"Andrea Palladio"(アンドレア・パッラーディオ)に関するエントリー。
August 26, 2005 Rotonda
August 29, 2005 マゼールの館
January 06, 2006 Anaglyph
January 10, 2006 立体写真集 NIPPON・明治の日本を旅する
February 06, 2007 完璧な家
May 06, 2007 Santa Sofia
cruasanさんの地中海ブログ・ 旅行記:建築に"Palladio Tour in Veneto"で紹介したパラーディオやスカルパの作品についてのエントリーがあります。
いつか見に行きたいGiulio Romanoの"Palazzo del TE"も加えてしまいました。あまり大風呂敷を広げずに、このマップはポー川より北の範囲に留めて置かねばいけませんね。
この建築物はバラックに擬態しているのでしょうか、どうやら鉄筋コンクリート造の外壁とコンクリートの片持ち庇を錆トタンで覆っているようです。元の形態は分かりませんが、マンサード屋根と外壁のトタンは増改築の結果でしょうか、「なんちゃってセレブ」に対抗して「なんちゃってバラック」とか...。南西側から見ると屋上にコンテナらしきものが...。
東京都庭園美術館で開催中の『建築の記憶-写真と建築の近現代-』期間は3月31日まで、ドレスコードによる割引があるらしい。と云うことで見逃さないように備忘録。
(画像クリックで拡大)
と云うことで昨日、小雪がちらつく中、六本木ヒルズ49階のアカデミーヒルズ・タワーホールで行なわれたA&A主催による『VectorWorks2008全国 Tour東京』に行ってきたのだ。
VectorWorks13ではなくVectorWorks2008である。NNA(Nemetschek North America)のショーンはこれから一年毎にアップグレードを行なうと宣っていたが、そんなに煩雑にアップグレードするのは如何なものだろう。画面はVectorWorks2008のデモ版であるが、見て分かる通りアイコンやらデータバー等のインターフェースが大幅に変更されている。データバーはショートカットバーと統合され作図ウィンドウ上部に「表示バー」として再構築され、モードバーはツールバーと名称変更されている。特筆すべき改良点は「第二座標軸」への対応である。「第二座標軸」は拙著「2D-CAD」でも言及し、90年代にNNA(当時DGS)のショーンがディールと共に初来日したとき私と古山君が何とかしてくれないかとお願いしていた機能である。まぁ14年目にして漸く実現したと云うことである。画面の選択図形とデータパレットを見て解る通り、用紙を回転させても図形の属性は失われる事もなく、回転させたままで形状の変更も可能である。2月1日から発売の予定。
追記:困ったことに2D平面の回転は上位商品のDesignerにしか搭載されてない機能でした。m(__)m
来年まで使うとして総計85万1550円を19年で割ると年平均4万4818円の使用料と考えることもできる。前回のアップグレードと比べ32.7%の値上げ率が気になるところです。
伊東豊雄氏の設計になる多摩美術大学図書館を見学してきた。この10年くらいの間、多摩美・八王子キャンパス前の谷道を車で通ると、いつも工事中のシートや足場が見えていたが、それもこの図書館の完成で終止符を迎えたようだ。多摩美には10年一昔前くらいに行った事があるが、それ以来の訪問である。兎に角、キャンパスが広くなった。と云うよりも多摩ニュータウンが東側の道路を挟んで多摩美の隣まで押し寄せてきたと云うのが実感。(Google Earthの○が図書館の位置)
多摩丘陵の傾斜に合わせて1階・アーケードギャラリーの床も傾斜が付けられている。
建物廻りのグレーチングは免震構造により設けられた緩衝帯。傾斜している床に置かれた傘立ての水平調整が微妙です。閲覧室と開架書庫の撮影は禁止されているので写真はありませんが、閲覧室の窓から眺める八王子は鑓水の里山風景は心が和みます。
先週、横須賀美術館を見てきた。特に開催中の「澁澤龍彦 幻想美術館」を見たかった訳でもはなく、神奈川県立近代美術館-鎌倉の「アントニン&ノエミ・レーモンド」を見に行った足で、ちょっと横須賀までと思い立った。
1階の企画展示室を繋ぐ廊下から浦賀水道を航行する貨物船を見ていたら、係員の女性が『日没後の天窓も色が、、、奇麗ですよ。』と教えてくれた。
なるほど、時間限定だけど、タレル的な孔々である。建物を構成するニュートラルなマテリアルがより一層の効果を生んでいるように見える。(念の為、壁は白ですが、照明の色温度の関係で赤みを帯びて、それが青の補色効果を強調しているようです。)
と云うことで肝心の展覧会ですが、『澁澤龍彦 幻想美術館』は表現者として、ディレッタントしての澁澤龍彦と昭和の時代を俯瞰的に観るには良い企画だと思います。何か1970年代というか昭和40年代のユリイカや現代思想、美術手帖等の雑誌を観ているようで、時代がプレイバックしているように思えました。最初の展示物がジャン・コクトーの「大股開き」続いて、マン・レイのサド公爵、、後は、ご想像を、、、。
【MoMA E-News】から「MoMA Design Storeが表参道にOpen!」と云う案内が届いた。場所は何処かと確認すると「原宿ビブレ21」を解体撤去して新たに建設された商業施設「GYRE」である。
昔、1970年代まで、ここには鉄骨平屋建ての紀伊国屋ストアがあって、その裏が駐車場になっていました。その敷地にN商事ビルが建ち、「原宿ビブレ21」が入居した訳ですが、その間、なんたらかんたらと紆余曲折があった物件です。原宿・表参道も大手資本が闊歩する時代ですが、裏道までにもそうした大手資本が侵入したら、この街も死んでゆくでしょうね。
Apple.comにPhilip Johnson: A Glass House Opensの記事によると、Philip Johnsonの没後二年を経て、彼の自邸である Glass House が一般公開されるそうだ。この記事はビジターセンター内のマルチメディア・システムをAppleが協力したということによるものだろう。見学料金は、1人90分で25ドルの人数限定の予約制となっている。尚、500ドル払えばピクニック・ランチ付きのツアーもあるとか、、、、時間があって、お金もある人はこの夏休みにどうでしょうか。
MCが替わってから、あまり見なくなった新日曜美術館なので今朝(6/17)【むしろ『画家』と呼ばれたかった〜近代建築の父 ル・コルビュジエの真実〜】が放送されるとは気がつかなかった。(再放送:6/17午後8時から)
解説は我国有数のコルビュジエ・コレクターである大成建設・ギャルリー・タイセイ学芸員の林美佐さん、未だに多くの誤解を招いてるコルビュジエの言葉:「住宅は棲むための機械」について、メディアリテラシー的に正しく解釈を述べている。
現在開催中の森美術館・「ル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造の軌跡」のナビゲーターは建築家・青木淳氏。
六本木ヒルズ・森美術館でル・コルビュジエ展:建築とアート、その創造の軌跡を見てきた。
パリのコルビュジエのアトリエとマルセイユのユニテ・ダビタシオン、それにカップマルタンの休暇小屋の原寸室内模型が展示されているとのことであるが、イタリアの家具メーカー・カッシーナがミラノ・サローネに展示する為に製作したカップマルタンの休暇小屋の室内レプリカは良くできていたが、他の二点は貧弱でお粗末、多くを期待しないでスケールを確認するだけのものと考えた方が良さそうだ。そんな中で、ユニテ・ダビタシオンの室内階段のレプリカだけは一見の価値がある。ジャン・プルーヴェの影響によるデザインであろうか、薄板鋼板を三角形にロールフォーミングによる曲げ加工したササラ桁とプライウッドの踏み板のディテールが実に理に適って美しい。
そういえば、六本木にはコルビュジエを師とする前川國男氏の元で修業した大高正人氏による全日本海員組合会館が建っている。この建物にもコルビュジエのミームは受け継がれているのである。それにしても周囲に高層建築のなかった竣工当時の写真と比べると、様変わりしたものである。
下が1993年度版、上が2006年度版のJISハンドブック・製図です。頁数にして928頁から2152頁に増え、値段も4660円から9000円と略二倍になっている。この10年余りでグローバル・スタンダード化の潮流には逆らえずか、ISOの規格に準拠するカタチで"handbook"と云うには手に余る"a fat book"に、、、。
MyPlaceにエントリーされたタリアセン・ウェスト:TALIESIN WESTを見て、早速"Google Earth"で"TALIESIN WEST"まで飛んで行き、周囲を偵察していたら、もうひとつのタリアセン"TALIESIN EAST"はどうなっているのか好奇心が湧いて出た。丁度、Google Earthのサイドバーのレイヤに「AIA(アメリカ建築家協会)の特集コンテンツ」が組込まれていたのでそれを頼りに"TALIESIN EAST"( 43° 8'29.37"N 90° 4'13.30"W)まで飛んでみた。すると、低解像度の衛星写真の中に"TALIESIN EAST"が丘の上に漂着していた。このイメージはどこかで見たことがある。30年前に見たタルコフスキーの映画・惑星ソラリスのラストシーンにイメージが重なって見えてきた。
と云うことで昨年の第10回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展帰国展の「藤森建築と路上観察:誰も知らない日本の建築と都市」である。
銀座・メゾンエルメス:「メゾン四畳半 藤森照信 展」
と云うことで10日の午後、初台で途中下車して展覧会を観てきました。会場入り口でエレベータに乗ろうとする縄文人に遭遇、ロッカーに荷物を預け、第一展示室に入るとそこには藤森建築で使用された素材や屋根や壁のモックアップが展示されている。縄文建築を標榜する藤森建築であるが、その表面の自然素材に隠された裏側から近代合理主義に裏付けされたHigh-Techな甲冑が見え隠れし、決してナチュラルではないエキセントリックで強かな彼の二面性が伺え、そこが何であるが、、、。
第二展示室は下足をぬいで躙り口から入る仕掛けとなる。(靴下に穴が開いていると恥ずかしい思いをするので事前に要チェックである。)Tokyo Plan 2101は地球温暖化で海面上昇による都心部の水没を縄文海進期に見立て、生き残った未来人の為のサバイバル・シテイプランのようだが、些か漫画チックで藤森建築にしては皮肉のスパイスが今一つ不足しているように思えた。
竹と縄で編んだパビリオンの中では路上観察学会のスライドショーが見られ、路上観察写真のツボがオヤジ達の雑談(解説?)で語られ、それなりに面白いが、、既に賞味期限が切れているのが些か哀しい。
しかし、時代の感覚なのかF森教授と路上観察学会のオヤジ達は極くフツーに見えてしまうのだ。このまま縄文式掘っ建て柱の様に立ち枯れてしまうのかしら、、、アンチテーゼとしての作品主義の限界かなとも思う。
akiさんのLizards of OZを読んでリンク先の"JAPAN WINE CHALLENGE 2006"の"Gold Medal"を見ると"Santa Sofia"の文字が目に入った。このワイナリーは18年前に訪れているが、訪問の目的はワインではなく建築である。ヴェローナ郊外にあるパラーディオによる"Villa Serego"( 45°29'56.49"N 10°55'26.52"E)が、そのワイナリーなのである。
もちろん建築見学に留まらずワインを試飲して、1ダースのワインをゲットした事は云うまでもない。写真はワインケースを担いで"Villa Serego"を引き上げてくるツアー一行。(撮影場所:Google Earth 衛星写真の赤丸付近)
ヴェローナと云えば観光的にはヴェローナ・デ・アレーナのイタリアオペラとシェークスピアのロメオとジュリエットの舞台となったことで有名だが、建築家カルロ・スカルパの代表作の"Banca Popolare di Verona "( 45°26'24.41"N 10°59'48.62"E)と"Castelvecchio Museum "( 45°26'23.32"N 10°59'16.83"E)があることでも知られている。
今日は連休の谷間の出講日、明日から連休後半に突入、しかし連休明けに提出しなければいけない仕事があって、とーぜん休みはない。こんなときはGoogle Earthで気分転換するしかないのである。
と云うことで、昨年、建築家"Louis I. Khan"の足跡を追った映画"MY ARCHITECT A Son's Journey"を地味に話題にしたが、その時カーンの遺作となったダッカの国会議事堂をGoogle Earthで探してみた。だが川と大地の違いが判る程度の衛星写真ではとても見つけることはできなかった。それから一年、今日の再挑戦で漸くカーンの遺作である国会議事堂の幾何学的な形態を鮮明にみることができたのである。やれやれなのだ。
National Assembly Hall in Dacca, Bangladesh ( 23°45'45.79"N 90°22'46.69"E)
ところで、ダッカの旧市街地を上空から眺めるのも初めてなのだが、この楕円形をした池(?)のようなモノの存在が気になる。
カーンと云えばソーク研究所はどうなっているのだろうと偵察に行くと、こちらも鮮明な画像になっていた。研究所南側にある新興高級住宅地の成功者向け大邸宅がなんていうか、、、アメリカンです。
Salk Institute ( 32°53'13.68"N 117°14'43.25"W)
ル・コルビュジエ生誕120周年を記念した展覧会が5月26日から森美術館で開かれる。目玉はマルセイユのユニテ・ダビタシオンとカップマルタンの休暇小屋の原寸室内模型だそうだ。それまでには六本木ヒルズのエレベーター・ワイヤーケーブルの補修も終わるだろうが、、、。
Google Earthのサイドメニューバーを見ると特集コンテンツに「TBS世界遺産」が付け加えられていた事に気付いた。ならば世界遺産の二つの住宅はどうなっておるのか先ずは"Die Villa Tugendhat"に飛んでみた。するとウィキペデアやPanoramioのコンテンツのマーキングはあるが「TBS世界遺産」はない。ブルノの街を上空から偵察するとトンデモない場所にマーキングがあった。
と云うことで直線距離にして約780メートルも離れているのでした。TBSはこれだけのコンテンツを提供している訳ですから、位置情報も正確に伝えましょうね。
Die Villa Tugendhat (49°12'25.97"N 16°36'57.38"E)
因みにSchroder House (52° 5'7.30"N 5° 8'51.83"E)の位置情報は許容範囲内で問題ありませんでした。
この写真はSiedlung Halen(ハーレン・ジードルング)の写真集Wohnort Halenの表紙見返しである。阿佐ケ谷テラスハウスを見てから、略同時期に造られた"Siedlung Halen"の現在はどうなっているのか気になり"Google Earth"で一飛びした。空から"Siedlung Halen"とその周辺の環境を見ると人が集まって住むと云うことの意味と自然と開発について考えさせてくれる。
( 46°58'23.93"N 7°24'46.78"E )
因みに高木滋生建築設計事務所の同僚だった横澤くんがハーレンの集合住宅(Siedlung Halen 1959-61)として彼のサイトに写真をアップしてある。
(このエントリー、実は昨年暮れから下書きのまま、塩漬け状態でありました。akiさんのLe Corbusier ......を見て思いだし、取りあえずアップした次第であります。)
ハーレン・ジードルング付近の地形図:MapGate24
と云うことで昨日、善福寺川・調査ミニダイブから数えて5ヶ月が経ちましたが参加者21名で第五回アースダイビング・善福寺川+阿佐ケ谷住宅を無事に実行することができました。気になる天気もどうにか持ちこたえ、桜の花の下を方南町から阿佐ケ谷住宅まで善福寺川沿いに約4.2キロを3時間半近く掛けて散策し、途中でkawaさんから提供された善福寺川今昔を伝える写真撮影の場所も確認、時代による大都市郊外の変貌を改めて実感した次第であります。参加者の皆様お疲れさまでした。
Kai-Wai 散策:第五回アースダイビング (珍編)
aki's STOCKTAKING:第五回アースダイビング・善福寺川+阿佐ケ谷住宅
af_blog:花曇り@第五回アースダイビング大会
Roc写真箱:5th Earth diving
秋葉OLの楽しみ探し : ぜんぷくじ川周辺
N的画譚 : トタン系溶接加工工場
ONE DAY :第五回 アースダイビング<善福寺川+阿佐ケ谷住宅>その1
ONE DAY :第五回 アースダイビング<善福寺川+阿佐ヶ谷住宅>その2
東京クリップ: 善福寺川を歩く
MyPlace:「第五回アースダイビング・善福寺川+阿佐ケ谷住宅」
simple pleasure:桜・さくら・SAKURA
Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」:
第五回アースダイビング-善福寺川と阿佐ヶ谷住宅地の50年を探る。- (その1)-川の『原地形』-
第五回アースダイビング-善福寺川と阿佐ヶ谷住宅地の50年を探る。- (その2)-潰された『クボ』-
第五回アースダイビング-善福寺川と阿佐ヶ谷住宅地の50年を探る。- (その3)-阿佐ヶ谷住宅-
う・らくん家:アースダイビング
アナウンスだけで日程が決まっていなかった「第五回アースダイビング・善福寺川と阿佐ケ谷住宅の50年を探る。」+「花見付き」を3月31日午後に開催します。集合地点は地下鉄丸ノ内線・方南町駅、目的地は阿佐ケ谷住宅です。集合時間等のタイムスケジュール等が確定しましたら当ブログにて告知する他、前回参加者の皆様にメール致します。
これが阿佐ケ谷住宅を見る最後の機会かも知れません。散りゆく桜花を愛でながら1950年代のモダニズムに想いをはせるアースダイビングとなりそうです。
追記・更新:アバウトなタイムテーブル等を追加しました。
5th Earth diving. 『善福寺川と阿佐ケ谷住宅の50年を探る。』
今回のルートは神田川水系の善福寺川を方南町から南阿佐ケ谷の阿佐ケ谷住宅までです。ゴール地点の阿佐ケ谷住宅は昭和33年(1958)に竣工した日本住宅公団による分譲住宅の団地です。今から約50年前の昭和33年当時の地形図(P-6)を読むと台地部分は宅地化されていますが善福寺川流域には多くの水田が残されていた事が解ります。阿佐ケ谷住宅はそれらの水田を埋め立て宅地造成して建設された住宅公団による団地の一つです。現在の善福寺川流域には既に水田もなく護岸も整備され川底が深く渓谷化されています。それは川底の浅かった善福寺川の流域に沿って窪田が広がっていた嘗ての風景とは異なるものでしょう。昭和22年の航空写真(P-7)を見ても解る通り、当時既に武蔵野台地の薪炭林である雑木林や田畑の殆どは失われ宅地化されています。右のGoogleEarthの航空写真に見られる善福寺川流域の緑地は嘗て水田だった場所を埋め立て整備して緑地化されたものです。これらは古くからある大宮八幡宮と戦前から整備された和田堀公園を除いては未だ50年経っていないものです。逆に言えば50年あれば森を造る事が可能であることを示しています。また嘗ての窪田は豪雨の氾濫に対し調節池の役割も担っていました。今日の様に川幅ぎりぎりに宅地化された河川は豪雨に対する抵抗力を失い、新たな都市水害を招いています。そうした都市水害に備え流域の緑地では運動公園を兼ねた調節池の整備が現在進行中です。それが可能なのは善福寺川流域の元農地を私有地のままに置かず、行政が長年に亘り共有地として確保してきたからでしょう。理想的には英国の様に都市の余白としてヒースを残す事かも知れません。今回のダイビングは阿佐ケ谷住宅と重ね合わせ『コモンの思想』を考えてみる機会になればと思います。因みに善福寺川ではアースダイビングのシンボルである水鳥「カイツブリ」が出迎えます。
・日時 2007年3月31日(土曜)PM1:00〜PM6:00
・内容 距離:約4.2km
・PM1:00〜 方南町に集合し堀之内橋から善福寺川流域を散策
・PM2:00〜 杉並区立郷土資料館見学(入場料¥100)
・PM2:45〜 大宮八幡宮と和田堀公園を散策(休憩)
・PM3:45〜 花見がてら善福寺川を阿佐ケ谷住宅まで散策
・PM4:30〜 阿佐ケ谷住宅及びにトタンギャラリーを見学
公団阿佐ケ谷住宅・テラスハウス25号棟
・PM6:00〜 阿佐ケ谷界隈にて打上・反省会(場所未定)
・集合場所
2007年3月31日PM1:00
地下鉄丸ノ内線・方南町駅西改札を出る
地下鉄出口1(地上・方南町交差点角)
環状七号線・方南町交差点・北西側角にて。
・参考時刻表(ジョルダン・乗換案内調べ)
・新宿発12:46荻窪行・中野坂上乗換
方南町12:57着
・荻窪発12:37池袋行・中野坂上乗換
方南町12:57着
※中野坂上で乗換に注意!
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以上、資料等のダウンロード方法については別途メールにして連絡します。
akiさんから『天狗様、お願げえしますだ。』のメールを頂戴したので「水無瀬の町家」の所在地発見までの事の顛末を取り上げます。それは2月10日のこと、akiさんから電話で「水無瀬の町家」の場所を知らない?と尋ねられた。そういえば水無瀬橋の傍にある位の知識しかなく、その水無瀬橋も浅川に架かっているのは知ってるがその場所は知らなかった。坂本一成氏の教え子である河さんが以前「水無瀬の町家」をエントリーして、そこで『、、、信じられない程綺麗な水無瀬の町家を見る事ができて、凄く嬉しかった。』書いてあったので、「きっと河さんが知っているんじゃないかな。」と答えた。程なく「河さんも行ったことないらしい」とakiさんから電話がきた。なんだ河さんも自分と同じ講釈師だった。それならば"GoogleEarth"に頼るしかない、手掛かりを求めて古雑誌を調べはじめた。
そういえば「水無瀬の町家」はTOTO通信のF森教授の連載「原・現代住宅再見」に近況が出ていた筈と探したがこういう時に限って見つからない。確か雑誌・都市住宅に出ている筈と書棚から都市住宅7109臨時増刊・住宅第1集を引っ張り出した。ネットでも「水無瀬の町家」についての情報がないか調べてみた。都市住宅には旧道沿いの町並に建つ「水無瀬の町家」の写真があった。ネットからの情報では南南西に向かって建っているらしい。一番の手掛かりは都市住宅の町並が写った写真である。旧道が浅川の堤に向かって緩い勾配の上りになっていること、「水無瀬の町家」の左隣の家は角地でそこが四つ辻になっている。この写真とネット情報から浅川の南側にあるらしいことが推測される。地形と建物の形状、銀色の屋根にはトップライト、それらを手掛かりにして水無瀬橋の付近を"GoogleEarth"で調べた。そして浮かび上がったのがこの地点。
< 35°39'42.15"N 139°18'40.70"E >
それらの条件に該当する場所は此処しかない。座標情報をakiさんにメールすると『、、、なんだか軒が出ていて影が落ちている感じだし、ちょっと大きいという感じがしますが、、、』の返事。
翌日の2月11日、車で買い出しに、運転の途中で、そうだついでに水無瀬橋まで行ってみようと思い立つ。目的のスーパーを行き過ごし、甲州街道に出て千人町の交差点で左折する。この道は八王子市役所に行く時に通る道だ。その道を陣馬街道の手前で左折すれば、この道の右手に「水無瀬の町家」がある筈だ。ゆっくりと車を走らせると右手前方に銀色に輝く建物が、、、『やったね!(^o^)』、生憎とカメラを持たずに出たので証拠写真はないが、家に戻ってから『へへへ、、、、』の一行メールをakiさんに送信。
aki's STOCKTAKINGのコメントにも書いたが、「水無瀬の町家」を手掛けた建築家・坂本一成氏の処女作「散田の家」は中央線の車窓から工事中の段階から注目していた。尤も、その段階では誰の仕事かは知る由もないが近隣に点在する住宅と異なる文脈で造られている事は理解できた。完成した姿から建築家・篠原一男氏の影響を受けている住宅であることは予想できた。それから、後に新建築に「散田の家」として発表されたのを見て坂本一成と云う名がインプットされた。昭和30年代初めの西八王子から高尾(浅川)までの中央線の南側は、一面に畑が広がり、曲がりくねった農道の両側には桑の木が植えられ、雑木林の丘陵の山裾に人家が点在するような風景であった。散田(八王子市側)または三田(旧南多摩郡浅川町側、現・東浅川)と云う同じ読みの地名が付けられてはいたが水田は見たことがない。散田から東浅川の一帯が工場誘致の為に区画整理されたのは浅川町が八王子市に編入合併された後の昭和30年代も後半になってからである。1969年(昭和44)の「散田の家」も周囲は畑ばかりで、野中の一軒家と云う様相であったが、いつの間にか人家が建込み中央線の車窓から姿を消してしまった。
GoogleEarthで「散田の家」を探す手掛かりは方形屋根とトップライト、それにGA HOUSE No.4に掲載の図面であった。何よりも正方形のプランに側室の出張りが決め手となった。
< 35°39'4.66"N 139°18'17.44"E >
北側の前面道路に沿って附属棟が増築され建物全体を伺う事は叶わない。築40年近く経っているがメンテナンスも良い、やはり庇の存在によって建物の傷みも押えられているのだろう。
どうも、右側のサイディングの家はOMっぽいのだが、モスバーガーの駐車場からなら確認できるでしょう。その奥の建物が散田の共同住宅ではとfuruさんに指摘されました。やはり教え子の力は違います。
東京工業大学・坂本一成研究室
昨日、打合せで杉並校舎に行ったついでに、31日の為の調査ダイブとして方南町から阿佐ケ谷住宅まで歩きました。昨年の10月28日に一度 善福寺川・調査ミニダイブは済ませていますが、調査に漏れた箇所と地下鉄・方南町駅からのルートを確認する為です。そして前回立ち寄らなかった杉並区立郷土博物館で資料の収集、大宮八幡宮ではアースダイビングの無事を願っての神頼みです。と云うことで左の写真は善福寺川の緑地に面した木造四階建?の建物ですが、実際は鉄骨で補強した木造三階+地下一階(擁壁部分を利用)でしょうか。それにしても恐れを知らぬ三階部分のオーバーハングです。
月に響く笛・耐震偽装 藤田 東吾 (著)
耐震偽装を公表したイーホームズ藤田東吾による所謂告発本である。Amazonから購入したが正規販売でなくマーケットプレイスによる代行販売である。前書きによれば文藝春秋社から刊行することで合意していたそうだが、アパグループによる耐震偽装の記述を削除しなければ文藝春秋社から発行できない、云々の経緯が記されている。そうした耐震偽装に関わることだけでなく、何故に建築の専門教育を受けていない上昇志向の強い青年が検査機関を起業し経営するに至った動機付け知りたかったが、キャッチコピーのようなイーホームズの理念「21世紀の住環境の向上」から伺い知る筈もなく、只そこには文系による理系支配と云う、今日的な社会構図さえ隠れみえてくる。新幹線で野中広務を見掛けた事象を出会いのエピソードに増幅する例からも、彼にとって検査機関の経営は己の社会的発言権を確実にするための布石だったのだろう。今回の別件逮捕に等しい社会的制裁は、逆に彼にとっては政界進出の好機と捉えているのではなかろうか。感傷的すぎる文体も、そうした思惑があってのことかと意地悪オヤジは勘ぐってしまうのだが、、、
2002年に東京都現代美術館で「ルイス・バラガン 静かなる革命」 展が開かれた当時は未だ世界遺産に指定されていなかった「ルイス・バラガンの自邸とスタジオ」であるが、その当時、NHK新日曜美術館やテレビ朝日の特別番組で放送されて以来のメディア登場ではなかろうか。シンプルな片持ちの木製階段に注目を。
2007年2月18日午後11時30分 TBS系列「世界遺産」で放送予定。
GoogleEarth < 19°24'39.98"N 99°11'32.65"W >
本日のテレビ東京・「美の巨人たち」はフランク・ロイド・ライト「落水荘」です。
放送は午後10時から午後10時30分まで、ライトのファンもそうでない人も必見か、『滝の上に家を建てるという構想を抱いたライトは、わずか2時間で設計図を完成させた。』と云う伝説を縦糸に番組制作しているようだが、、、さて、録画予約だけは忘れないようにしておこう。
Great Buildings Online:Fallingwater
公式サイト:Fallingwater
GoogleEarth < 39°54'20.48"N 79°27'39.62"W >低解像度
図説・西洋建築史グルッポ7・共著
彰国社・刊 ISBN4-395-00648-5 定価(¥2,800+税)
7人の建築史家のコラボレーションによる西洋建築史の入門本である。内容は古代から19世紀までを五つの時代に分類、各時代毎に15のテーマを設定し、一つのテーマを見開き二頁で一人の執筆者が担当している。ある意味、カタログ的な編集でもある。読者は興味や関心のあるテーマから読めるようになっている。読者には建築史を履修する学生を対象としているが、勿論一般の読者にも受けいられる内容でもある。もしも、欧州への旅行を計画しているのならば、旅行に沿ったテーマを選び一読しておくことを勧めたい。旅行が100倍楽しくなることは間違いない。
手前味噌になるがこれは「Macintosh Desktop Architecture Guide」の編集方針と共通するものがある。グループで一冊の本を上梓する場合の最善の選択肢の一つであるようだ。
アップデートされたVectorWorks12.5はGoogle-Earthで3Dを表示するKMLファイル形式を取り出せるようになりました。と云う訳で手持ちのファイルからKMLファイルを作成してみました。(但し、KMLの取り出しは12.5DXのみ。)
Schroder House.kml:Download file
完璧な家 パラーディオのヴィラをめぐる旅
ヴィトルト・リプチンスキ (著), 渡辺 真弓 (翻訳)
白水社・刊 ISBN4-560-02702-1
サブタイトルの通り、 本書はパラーディオ設計の公共建築や宗教建築、はたまたパラッツオと呼ばれる都市住宅ではなく、郊外や田園地帯に建つヴィラ(別荘と云うよりも荘園住宅)に焦点が当てられている。
完璧な家とは所謂『用・美・強』を兼ね備えた家である。『、、、なぜなら、有用であっても長持ちしない建物、永続性はあっても便利でない建物、あるいは耐久性と有用性の両方を供えていてはいても美しさに欠ける建物を、完璧と呼ぶことはできないからである。』とパラーディオは語る。
因みに2005年12月の地中海学会月報285の「自著を語る」に於いて翻訳者の渡辺真弓さんが著者や本の内容についてのエピソード等を語られている。尚、リプチンスキ氏はねじとねじ回しの著者でもある。
そういえば来年はパラーディオ生誕500年を記念する年である。没後400年を迎えた1980年も世界各地でパラーディオを記念する展覧会が開かれ、日本では九段のイタリア文化会館で開催されている。そのとき配布された建築見学案内の小冊子・表紙のロトンダの空撮写真が珍しかった。
パラーディオに興味を抱いたのはロバート・ヴェンチュリーの「建築の複合と対立」に於けるサン・ジョルジョ・マッジョーレのファサードの分析からであろう。その後、ヴィチェンツアのバシリカの写真のセルリアン・モチーフの端正な力強さに魅せられ、これはいつか見に行きたいと思っていた。
そんなことで建築家協会が「パラーディオ紀行」を企画していたのを知り、渡りに舟と申込んだ。時はバブル絶世期の1989年、世の中の建築関係者の誰もが多忙を極めていた。最小催行人員15人のところ、集まったのはたったの9人だけであったが、ツアーは予定通り実行された。ツアーに先立ち勉強会が行なわれたが、その講師を担当されたのが「完璧な家」の翻訳者・渡辺真弓さんであった。
1989年8月27日21時30発・搭乗予定の英国航空006便が台風の影響で韓国の金浦空港より遅れて成田に到着、時間は遅れたが搭乗手続きも荷物も積み終え、滑走路に出て、いざ離陸と云うところでタイムオーバー、成田空港の離着陸時間を過ぎ空港が使用できなくなってしまった。これは言い訳、本当は機体整備の不良であることは間違いない。きっと、離陸寸前まで機長、機関士、整備員、管制官の間で揉めていたのだろう。深夜につき、そのまま機中に泊まり、翌日午後の英国航空008便で再出発。てことで命拾いしたのだが、当初の予定が狂い、パドヴァ行きはキャンセルと相成り、パドヴァ近郊の五つのヴィラを見学することは叶わなかった。結局、一日遅れでヴェネチアに到着、その翌日の8月30日午前10時にロトンダに辿り着いた次第である。
Villa Malcontentaは運河からの眺めが優美である。
Villa Cornaro の前の通りでは朝市が開かれていたが、村人は我々日本人の一団を珍しそうに眺めていた。
Villa Emoの前に訪れたVilla Barbaroについては拙ブログのマゼールの館で触れている。
現地で「パラーディオ紀行」に同行し、我々に解説と助言を与えてくれた福田晴虔氏はGA JAPAN47の「歴史は現代建築に必要か」に於いて『建築史という学問の目標は、建築創作の過程を追体験することだと考えている。、、、、、その追体験を学生諸君に語ることによって、幾分かはもの作りの倫理が伝えられるのではないかと考えている。』と述べている。
「完璧な家」の著者・ヴィトルト・リプチンスキも建築家としてパラーディオのヴィラをめぐる旅を続けながら、パラーディオの建築創作の過程を追体験しているのであろう。そうした視点で本書を読むと、訪問したヴィラの佇まいが脳裏に浮かび、未だ見ていないヴィラへの想像力がかきたてられてゆく。なかでも最終章のヴィラ・サラチェーノは見学予定を断念したヴィラであるが、現在は貸別荘として利用できるようになっているようだ。
翻訳者である渡辺真弓先生は私が週に一度、非常勤講師を務める東京造形大学の教授である。昨年、海外研修で半年間ヴェネツィアに滞在しパラーディオの研究を続けてこられた。そのエピソードは地中海学会月報は2006年10月の月報293「ヴェネツィア雑感」としてエッセーに記されている。
暮れの吉原ミニダイブで見掛けた趣味と実業を併用した建築。家主の本来の趣味は左側の立面にあるのだろうが、それと対照的に右側鉄工所側の立面は実用的に敷地の接道部分全面に八枚建てのハンガードアとそれを吊り支えるトラスによって構成されている。ホイスト・クレーンのタワーと控えが隣接する建物にある所を見ると、其処までが鉄工所なのだろうか。ホイスト・クレーンやキュービクルにも小屋根が設けられているところが、うーむ。
先月のアースダイビングのポイントである王子、それに私の住んでいる八王子から、王子繋がりと云う事ではないが、京都東山は若王子神社参道近くの四軒長屋である。東京は谷根千界隈にある長屋とも趣が異なる。大阪の文化住宅に見られる破風を強調した妻入り程ではないが、下屋部分の出張りで分節し入り母屋にしているところが、軒入り(平入り)を旨とする市中の町屋に見られない自己主張なのだろうか。
二軒毎に前面道路の高低差に合わせられている。南面する裏側も隣地との高低差がきつい。
この前に修学院離宮を見たのは空に浮かぶ浜辺に記したように1977年早春のことだから略三十年ぶりに訪れたわけである。と云う事で予定参観時間よりも早めに着いたので離宮周辺を散策することにした。この鄙びた田園風景の野焼きの煙の向うが中離宮、いわゆる中ノ茶屋である。修学院離宮の造営は後水尾上皇によって明暦元年(1655)から万治二年(1659)に行われた。時代小説・吉原御免状の松永誠一郎が浅草日本堤の上に立ったのが明暦三年(1657)のこと、小説で語られている様に幕府と朝廷の確執と緊張が頂点に達していた時代である。
やれた寂トタンの向うが下離宮(下ノ茶屋)、松並木の奥の山懐に上離宮(上ノ茶屋)がある。
こうした寂トタンも風景と一体化している。人に比べ自然の懐は斯様に深い。
みゆき道からの枝道の寂トタン、これが町名、寂トタンであっても建物には古都の趣が残されている。
京都の町にブルートタンは似合わない。トタンもブルーではなく「利休鼠」を意識しているのだろうか、八坂の塔から二年坂へ向かう途中で家並みが途切れ露にされた妻壁に引き込まれ奥にはいると斯様な草庵系とも云えるトタンハウスがあった。
と云う事で略三十年ぶりに桂離宮と修学院離宮の庭を見に京都に行ってきたのであるが、ついでに東山の山裾にそってミニダイブしていたときに発見した風景である。
歴史的町並保存地域に指定されているであろう観光地化された尾根道に挟まれたスリバチ状の谷戸に取り残されたように長屋やアパートがひっそりと佇んでいる。何か、この一画を舞台にしたドラマが生まれても良さそうに思えて、妄想が、、、。
草庵系利休鼠トタンハウスに見とれていると足下で何か鳴き声が、その主に、ご挨拶するのを忘れていた。
場所は( 34°59'53.07"N 135°46'47.69"E)
こんなメーターボックスを見たのは初めてだ。プレキャストコンクリートの枠にスレート板を嵌め込んだものである。阿佐ヶ谷テラスハウス固有のディテールはこちらに倣い取り敢ず『阿佐ヶ谷式...』と呼ぶことにした。
2階窓に設けられた手摺りの腰板にスリットが3箇所設けられている。意匠以外の用途があるかは不明だが、全て共通の意匠である。この棟は増築はされておらず、アルミサッシュへの交換以外、外観は略オリジナルのままのようだ。
昨日、授業の前に阿佐ケ谷テラスハウスのTOTAN GALLERYに行ってきた。同行者はブログで私の行動を嗅ぎつけたsimple pleasureのりりこさんである。丸ノ内線・南阿佐ケ谷駅から適当に南に向かって住宅街を抜けると団地が現れる。団地内の周回道路の南端は芝生広場の向うにTOTAN GALLERYのある公団阿佐ケ谷住宅25号棟がある。『道に迷われた方から、電話で道順を尋ねられますが、駅から迷わず真直ぐ来るよりも、少し迷子になってから、ここを見つけたほうが楽しいようです。』と、TOTAN GALLERYのTさんは言う。それはそうだ、散歩の楽しみは普段と違う道を歩いて迷子になることなのだ。
29日まで展示のhana写真展『全窓全開』はGRによる作品ということである。hanaさんは田中長徳さんらによるGR DIGITAL BOXに作品を載せている10人の1人だ。
これはGRのユーザーは必見でしょう。誰とは言わないけれど。
階段のディテールを見ると、前川国男邸と共通の印象を憶える、骨太のディテールが前川さんらしい。壁には団地の地図が、、、これも作品だ。
築48年の建物は雨漏りもするが、ステンレスのボウルもここではアート、かな?
と云う事で、昨日は残念ながら雨降りの上に、朝から中央線の人身事故で30分も時間を無駄にしたので、授業の準備もあってゆっくりする間もなくギャラリーを後にした。晴れているときに又来よう。
南阿佐ケ谷駅前でりりこさんと分かれる際、彼女はこのチラシを大学に置くようにとのミッションを残し、いそいそとランチへとむかった。私はあたふたと地下鉄に飛び乗り、大学に急いだ。結局、授業の準備でランチを食べる暇はなくなり、恐怖の三コマ(90分×3)授業へ突入したのであった。
追記:因みに女子美祭2006が10月27日から29日まで開催されます。杉並校舎の最寄り駅は東高円寺で、南阿佐ケ谷とは二駅離れているだけ。
Kai-Wai 散策:阿佐ヶ谷テラスハウス
今日の朝刊には『シモキタ』再開発了承の文字が目に付いたが、一昨日の夕刊に前川国男による「阿佐ケ谷テラスハウス半世紀たち取り壊し」の記事が社会面トップを飾った。昨年の生誕100年・前川国男建築展によって再評価の高まった建築だが、またモダニズムの建築が地上から消えることになる。東京新聞の記事では阿佐ケ谷テラスハウスの自宅を開放してTOTAN GALLERYを開設した阿佐ヶ谷住宅日記の管理人で「とたんギャラリー実行委員会 」代表の大川さんが紹介されていた。ギャラリーのオープニングを飾ったhana写真展『全窓全開』 の展示期間が延長されたようなので、来週、途中下車して立ち寄ってみよう。
この団地は空が広くて気持ちいいだろうな。ブルートタンで葺き替えた家もありますね。
Kai-Wai 散策:阿佐ヶ谷テラスハウス
石神井川の下流、王子の堰で分流された音無川(既に暗渠)の下流を辿って行くと或る街に出ます。その昔、日本橋は人形町辺りにあったらしいのですが、幕府の政策でこの地に移転、昭和33年にその商売は法律で禁止され、この地も昔の面影は無くなったそうですが、この屋上の工作物群を観ると、やはり、他とは事情の異なる街のようです。( 35°43'26.08"N 139°47'43.91"E)
何気にArcspace - architecture onlineをチェックしたらRem Koolhaas OMAによるZollverein Mining Complexのマスタープランが目に付いた。ユネスコ世界文化遺産に指定されたエッセンのDer Schacht XII der Zeche Zollverein(ツォルフェライン炭坑遺跡群)の整備計画である。見覚えのあるタワーに、直ぐに自分が持っているBERND & HILLA BECHERの写真集・Typologien Typologiesを探してみた。やはりZollvereinのシンボルであるWinding Towerの写真があった。こうした近代産業の遺産をただ静態保存するだけでなく、コンバーションすることで新たな命を吹き込み動態保存することが、自らの作り上げた近代史に対して誇りと責任を持つことなのだろう。それにしても日本の炭坑の街とは大違い、緑豊かな住宅街が構成されている。財政破綻した夕張のその後はどうなるのか。
World Heritage Site Zollverein Foundation
炭坑の縦坑横坑を視覚化したサイトのインターフェース・デザインが秀逸。
GoogleEarth・Download file:Zollverein.kmz.zip( 51°29'16.65"N 7° 2'17.88"E)
それは"Alvar Aalto"の"Helsinki University of Technology"の別名"Otaniemi"をGoogle検索していた時に偶然出会った。"Artifice Great Buildings Online"による"The Great Buildings Collection"である。検索はキーワードによる"Search"、建築名称による"Buildings"、建築家による"Architects"、場所による"Places"と四つの選択肢がある。特筆すべきは建築データの位置情報が"GoogleMap"にリンクされていることである。願わくば"GoogleEarth"でアクセス可能な緯度経度の情報があると有り難いのであるが。
と云うことで実はCD-ROMによる"The Great Buildings Collection"を持っているのである。1994年にハイパーカードをベースに制作されたものだがPowerMacG5のclassic環境でも難なく開くことができた。何故このCD-ROMが手元にあるかと云えば1995年2月のatで特集したMacintoshの記事を書く際に3D InnovationsのDesignWorkshopを取り上げ、3D Innovationsの井上淳氏に協力して頂いたことから始まる。DesignWorkshopはオレゴン大学建築美術学部のケビン・マシューズ助教授(当時)の手によるもので、DesignWorkshopによるモデリングデータとリアルな建築データを組み合わせたデータベースが"The Great Buildings Collection"と云う訳だ。このときシアトルに行く用事のあった古山くんがオレゴンまで足を延ばし、オレゴン大学建築美術学部のケビン・マシューズ助教授を取材しその時に頂いたCD-ROMと云う訳である。CD-ROMの閉じられた系からInternetによる開かれた系へと本来在るべきシステムに進化していたことを喜びたい。
左上の画面は"Architects"より"C"から"Le Corbusier"を選択し"Works"のリストから"Villa Savoye"を選んだ状態である。更に"Location"の項目に"map"があれば左図の"GoogleMap"に連動する。左図は"Villa Savoye"の"Location"を示す"GoogleMap"を最大限に拡大したものである。ディフォルトは航空写真に地図を重ねたデュアルであるが、もちろん地図だけ、航空写真だけも表示できる。
しかし、これだけのデータがあってもLouis I. KahnのBangladeshは"National Assembly in Dacca"の位置情報を示すMapはないのである。マイ・アーキテクトを見て"GoogleEarth"でダッカの議事堂を見つけられなかったが、やはり詳細な航空(衛星)写真がなく、見つけられないようである。
ちょっと風信子荘をVectorWorksの3Dで作ってみた。西側の出窓や北側出張りの屋根等は手抜きしているので、この方向だけ。小壁に使ったナマコ板は無塗装のガリバリウム鋼板のテクスチャデータにPhotoshopでペンキ塗り。この小技を試してみたかっただけ。
1週間振りGoogleEarthを立ち上げると、アップデートを促すダイアログが表示されたので指示に従いダウンロードするとGoogleEarthのMac版が日本語対応になっていた。akiさんがエントリーしたBrunelleschi's Domeを見た後、トリノまで一飛びした。イタリア合理主義を代表するフィアットのリンゴット工場が本当に全長500mあるのか確認してみたくなったのである。因みにリンゴット工場は既に生産拠点の役目を終えRenzo Piano Building Workshopによってリノベーションされている。( 45°01'55.37"N 7°39'55.25"E)
やはり、工業都市トリノなのか鉄道施設が充実しているようだ。こんな施設もみられたが、さすがデザイン王国・イタリアである。
因みにトリノと云えばスクデットを剥奪されセリエBに降格となったユヴェントスのホームでもある。
国内に於けるエレヴェータの死亡事故は1984年8月に横浜のスーパーで起きた事故以来のことです。その事故を起こしたエレヴェータはF社の低層建物用の油圧エレヴェータでした。その後、仕事の関係で業界の事故調査委員会に参加したと云うM社の方に話しを伺ったことがありました。事故原因は特定できていませんが、剥き出しの基盤に金属片の落下物が付着して誤作動したと云う説が有力でした。その事故以降は落下物による基盤の保護は義務付けられている筈です。昔から、エレヴェータの現場納入価格は設計価格の半値八掛けが当たり前と云われているくらい競争の激しい業界です。そこに新規参入した「シンドラーのリフト」は低価格で市場を開拓していったようですが、超高層住宅とエレヴェータの高速化の影で優先されるべき安全性が蔑ろにされました。これも経済性が最優先される社会故に起きた事でしょう。何か暴走するコンピュータが支配する近未来社会を暗示する事件のような気もします。
昨日、二年前にエントリーした風信子ハウスに学生を連れて見学してきた。夭折の詩人・建築家である立原道造のヒアシンスハウスは埼京線・中浦和の近く別所沼のほとり、メタセコイアの大樹に囲まれた一画にひっそりと建っていた。
ヒアシンスハウスの平面は8尺(2,424)×20尺(6,060)、床面積は便所の出張りの5平方尺(下の写真参照)を含めると165平方尺、坪(36平方尺)に換算すると僅かに4.58坪(15.12平米)である。これはタイニーハウスと呼ぶべきものであろう。東南角の窓は幅が5尺、高さが5尺1寸5分の一本引きの突き合わせ、雨戸はハンガーレールから吊り下げられている。
北面には便所の一部が幅2尺5寸、奥行き2尺の出張りとなっている。北側には6尺幅の窓が二つ並んでいる。片流れ屋根の母屋の間隔は5尺、軒の出は2尺5寸のようである。
西側壁面は幅8尺(2,424)、窓は2尺幅の両開き、雨どいを受ける壺が置かれている。右に見えるポールには在宅を知らせる旗を揚げるようになっている。雨が止んだ頃合いを見計らってボランティア・スタッフの方が学生に旗を揚げるところを見せてくれた。
玄関を入ると友を招いての語らいの場がある。室内の天井高は7尺5寸(2,272)、これはコルビジェのモジュロールによる天井高の基準値(2,260)と略同じである。天井まである一本引き窓は開くと壁に収まり、コーナーは柱だけとなる。窓の腰高は2尺3寸5分(710)。
3尺四方のポーチに設けられたドアは内開きである。一見すると室内空間を狭くしてしまう奥まったポーチが、室内空間にくびれを与え、逆にそれが空間に奥行きと広がりを与え、就寝、読書、団らん、と云う異なる機能に対するゾーニングを明解に分離する役目も果たしている。直射日光を避け北側の窓に面したライティングデスクは幅6尺奥行き2尺、この窓から見る順光の景色は思索に疲れた脳を癒す効果も期待できる。
尚、室内を見学できる日は、水曜、土曜、日曜の三日、水曜は東大建築学科の学生によるボランティア・スタッフが、土曜、日曜は地元のボランティア・スタッフが丁寧に対応してくれると云うことである。昨日は学生2名が下車駅を間違え南浦和に行ってしまい。現地に着いたのが閉館時間の午後三時になってしまったが、快く開館時間を延長して下さった上に、遅れた学生2名に対しても丁寧に解説して下さった。真に有り難いことでした。それにしても埼玉には浦和と名のつくJRの駅名が七つもある。本家の浦和駅があって、それに東、西、南、北が勢揃い、更に武蔵浦和に中浦和である。
追記:このピアニシモなヒアシンスハウスを見てから根津に向かい、ミニアチュールの中のピアニシモな建築たちを見たのであったが、そこには何か共通する通奏低音が流れているように感じられた。
東陶通信の抜粋がPDFで提供されていました。原・現代住宅再見「叙情詩人の小部屋」 文・藤森照信PDF/772kb
VectorWorksによるHyacinth House3D
N.Y.C.の5th AvenueにオープンするAppleStoreと云うことだがメインフロアを地階、エントランスのクリスタル・キュービックを広場に置いたコンセプトはパリのルーブル美術館のガラスピラミッドと共通である。ZDNet Japanのレポートにある写真を見るとエントランスホールの螺旋階段の中心は油圧のリフト(エレヴェータ)が設置されているようだが、これもルーブル美術館と共通である。似たようなコンセプトによるエントランスホールを持つ建築に葛西臨海水族園がある。しかし、この水族館はエレヴェータが建物の隅に追いやられて、車椅子による入館者はガラス張りのエントランスホールの空間を体験することができない。この差は何だろう。
今日のETV特集(4月1日22:00)
第1部”耐震強度偽装・何が問われているのか”安全な建築を守るには東京ステーションギャラリーの生誕100年・前川國男建築展はもう終わってしまったが、地方での巡回展の企画もあるようだ。そういえば松山巌氏は季刊 [ 住 む。] 春号の連載・怠けるヒントで「法律を崩すのは法律である」を書いている。全く以てその通り、松山巌氏の弁舌が楽しみだ。
[出]今川憲英(構造設計家)、五十嵐敬喜(弁護士)
第2部”もうだまっていられない”建築家・前川国男・戦後日本を憂える直言
[出]松山巌(作家・評論家)
と云うことで「昭和モダニズムとバウハウス〜建築家土浦亀城を中心に〜」展を見てきた。都市住宅7109住宅第1集に掲載された土浦亀城邸(表紙サムネイル写真左から2番目、外装は原設計から変更)がモダニズムのセオリーだけでなく、F.L.ライトの影響も強く受けていたのだ。
新建築の昭和10年3月号に掲載された写真やスケッチ、それとは別の平面図と立面図も展示されているが、平面図と立面図は微妙に異なっている。恐らくは立面図が原設計に基づいたもので、平面図左側(西)の和室は後から計画されたものであろう。この和室も都市住宅7109住宅第1集の添田浩氏による実測図には無く。地階の鉄筋コンクリート部分から左側へ2間分、つまり12尺×15尺(3.6×4.5m)だけが現存する増築部(?)である。立面図から考察すると4間四方(24尺×24尺:7.2×7.2m)のコンパクトな平面の一翼が1間(6尺:1.8m)だけ飛び出しているのが原設計であろう。この平面図がF.L.ライトがレディーズ・ホーム・ジャーナルに発表したコンクリート住宅のモデルプランに酷似していることが解る。F.L.ライトのプランではファイアープレースを中心にリビング、ダイニング、キッチンが展開し、空間は連続し回遊式動線が確保されている。土浦亀城邸では玄関と居間が5尺(約1.5m)の高低差を持つスキップフロア(スプリット・レベル)になっており、回遊式動線は地下に下る階段によって破綻しているが、無理矢理に回遊式動線を確保する為に階段途中に扉を設けている。F.L.ライトの建築の特徴である空間の相互貫入はオランダのデスティル建築にも影響を与え、逆にデスティル建築からの影響と云うか刺激を受けF.L.ライトも落水荘で左右非対称による造形を物にしている。昔、土浦亀城邸の写真を見たときリートフェルトのシュロイダー邸を連想したのも強ち的外れでもなさそうだ。F.L.ライトは弟子のモダニズムへの傾倒を嘆いて「君は何故、遠藤新らと協力して有機的建築を日本で広めないで、フランクフルトのファンクショナリズム(ドイツの機能主義=バウハウスのことらしいい)やコルビュジェなんかを真似するんだ。」と手紙を土浦亀城に送っているそうだ。
Kai-Wai 散策: 傳八ビルのルーツ(三原橋地下街・三原橋センターの図面あり)
余談:因みに都市住宅7109住宅第1集・表紙の右端の写真はakiさんが東孝光建築研究所時代に担当された別荘建築です。
蛇足:江戸東京博物館は窓口でJAFの会員証を見せると5名まで2割引で入場できます。(小金井の江戸東京たてもの園も同様)
竹中工務店東京本店1FGallery A4の「北田英治写真展 ル・コルビュジェのインド 」を見た。そして講演会+シンポジウムにも参加した。その前にmasaさんの傳八ビルのルーツで紹介された両国・江戸東京博物館の「昭和モダニズムとバウハウス〜建築家土浦亀城を中心に〜」展を見てから、大江戸線と東西線を乗り継いで東陽町に向かった。東陽町は随分と前に運転免許証の再交付で行っただけで不案内な土地だが、地下鉄出口を出て次の交差点で右を向くと、直ぐにそれと分かる建物が視界に入ってきた。
北田さんの写真には、いわゆる「建築写真」つまり建築だけにフォーカスした写真とは一線を画し、建築の今を生きている姿が表わされている。建築が風土や人間との関係性に於いて成立するもので或る以上、建築が社会の中でどう生きてきたか、或いは生かされているか、その時間がフィルムに焼き付けられているように思えた。
そう云えばル・コルビュジェもルイス・カーンも最晩年をインドの仕事に費やしていた。北田さんのスライドにも写っていたインド人建築家B.V.ドーシ氏はMY ARCHITECT A Son's Journeyにも出ていた。彼はチャンディガールの計画を知り、ル・コルビュジェの元に押し掛け設計に携り、現場を担当し、その後、カーンを招聘しインド経営大学の設計に推薦している。(カーンはこのインドの現場から帰路、N.Y.C.で倒れ帰らぬ人となっている。)
コルビュジェのインドでの仕事を見ていると彼の提唱した建築の五原則が実に伸びやかに生き生きと実現されているかが良く分かる。亜細亜的な建築の内と外との関係のユルさがコルビュジェの建築に命を与えているような気がした。
会場で落ち合ったakiさんは「ル・コルビュジェのインド」をエントリーしている。
オープニングに行かれた真鍋さんはル・コルビュジエのインド/北田写真の魅力について語っている。
輪島は河原田川・河口近くのY字路に建つ建築であるが、これを狭小住宅と言うのは憚れそうである。元々この様な形状の建物なのか、もしかすると河口を拡幅工事した際に区画整理で半分削り取られたようにも見えるが定かではない。
追記:この写真で異様に見える交通標識であるが、左側通行に慣れた目にはY字路の左側道路が進入禁止となっているのが変だ。これではY字路で車がシャッフルされることになり危険に思えるし、地元民以外のドライバーは戸惑いそうである。
akiさんが今日のエントリーRachel Corrieで3年前、イラク戦争が始まった頃のことを書いています。aki's STOCKTAKINGを立ち上げたのが2003年5月のことですから、その2ヶ月前はメーリングリスト等で意見を交換していたことになります。
以下はその時に書いた「戦争と建築家」です。
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戦争について考えると、どうしても二人の建築家のことが思い出されます。
それはジュゼッペ・テッラーニとイアニス・クセナキスの二人です。戦争に翻弄され 自らの命を絶った者と、生き延びた者、対照的な人生ですが、二人とも国家と 戦争によって人生を狂わされたことには違いありません。
●ジュゼッペ・テッラーニはイタリア・ラショナリズモ(合理主義)の建築家として評価されて然るべき人物ですが、政治的にファシスト党の党員だったこともあり戦後暫くの間は黙殺されてきた建築家です。
古典主義的モチーフを表現手段とした多くのファシズム建築の中でジュゼッペ・テッラーニは異端と言わざるを得ません。彼の代表作のコモにあるカーサ・デッラ・ファッショもファシスト党の建築ならば広場に面して党首ムッソリーニが演説するための跳ね出し式のバルコニーが設けられるのが当たり前なのにそれがありません。俗な言い方をすれば未来派建築やファシズム建築の多くに見られるファルス(男根)を象徴する突起物が無く、一見してモダニズムの集合住宅のようなファサードをしているだけです。
テッラーニがロシア戦線に召集され、肉体も精神も病み、病院列車で帰郷し許嫁の家の階段室で首を吊って自殺したのはムッソリーニが失脚する6日前の1943年7月19日のことです。テッラーニがファシズムにも戦争にも関わらず生きていたら時代的にもコルビジェの良きライバルになったことは疑いもありません。
1998年に開催された「ジュゼッペ・テッラーニ展」に共催される形で六本木のTNプローブ・サロンで行われたシンポジウムで美術史家の若桑みどりがファシズムの定義についてベンヤミン等を引用して次のように要約していたと思います。つまり、「国家の起源を神話等の虚構に求め、全体主義的な国家権力に個人を溶解し階級的矛盾を覆い隠す思想。」と、それは正に明治政府が行なったプロパガンダそのものです。尊王攘夷思想に西欧から取り入れた国民国家、ドイツ帝国憲法、それらをミックスしたものが国体思想というわけで、1945年8月15日の悲惨な結末へのレールは既に明治政府によって敷かれていたといえます。
因みにイタリア・ファシズムにも影響を与えている1909年のイタリア未来派宣言で、戦争について肯定的に「9、われわれは、世界の唯一の健康法である戦争、軍国主義、愛国主義、無政府主義者の破壊的な行動、命を犠牲にできる美しい理想、そして女性蔑視に栄光を与えたい。」と語られています。未来派建築のモチーフの一つである男根崇拝のルーツはここにあります。日本では未来派宣言(マニフェスト)の負の側面について美術史・建築史でもあまり多く語られていません。
●イアニス・クセナキスの建築家としての活動はコルビジェの元でベルギー万博のフィリップス館のデザインとラ・トゥーレット修道院(主に窓の割り付けデザイン)を担当したことが知られていますが、彼は建築家としてよりも現代音楽家としての実績の方が有名で、確か数年前に亡くなったと思います。
クセナキスはルーマニア生まれのギリシャ人でアテネ工科大学で建築を学んでいます。多くのバイオグラフィーではギリシャがナチス・ドイツに占領された学生時代にパルチザンに加わり、その後パリに亡命してコルビジェのアトリエに入ったというくらいしか語られていません。
ナチス・ドイツがギリシャから撤退した後、ギリシャは王政派と解放戦線との内乱状態となり、実質的に英国軍の統治下に置かれることになります。この時代状況はギリシャ映画「旅芸人の記録」(テオ・アンゲロプロス監督、1975)によく描かれています。クセナキスはこの解放戦線に加わって負傷し右目を失明し頬には深い傷跡を負っています。ギリシャを統治していた英国軍の軍法会議(欠席裁判)によってクセナキスは死刑を宣告されることになり、地下に潜りフランスへ亡命します。その後、ギリシャには右寄りの政権が生まれることになります。
考えてみると元ボクサーの建築家よりも元死刑囚の建築家のほうがずっとインパクトがあると思います。
イアニス・クセナキスの作品でイランのペルセポリス・ダリウス王神殿跡で演奏された「ペルセファサ」がレコードになっています。初めてこのレコードを聴いたときマイケル・カコヤニス監督の「トロイアの女」の映像がイメージされたことを思い出します。大地が軋み、死者達の霊が甦り、暗雲が立ちこめ、雷鳴が轟く、黙示録的世界を連想しました。
イアニス・クセナキスの師匠にあたるオリビエ・メシアンに「世の終わりのための四重奏曲」があります。オリビエ・メシアンがドイツ軍の捕虜として捉えられていた収容所でヨハネの黙示録をテクストに書いた作品と言われています。もう、20年以上前になるのかピーター・ゼルキン率いるアンサンブル・タ
ッシの演奏で「世の終わりのための四重奏曲」を西武劇場で聴いたことがありますが、この時の演奏は本当に素晴らしいものでした。
小学一年生の頃だったと思いますが、六つ違いの兄と近所の社務所の前を歩いていたとき、上空を飛行機が飛んでいました。それを見て「また、戦争が始まるの?」と聴くと、兄は「日本は平和憲法があるから、もう戦争はしないんだ。」と言ってくれた。何故かその記憶がいつまでも残っています。
何故そんなこと兄に尋ねたのか、いま推測すると当時映画館のニュースで見たスエズ運河を巡るエジプト紛争が子供心に世界大戦を呼び起こすと思っていたのかも知れません。
玉井さんが CITROHAN.NET のメーリングリストに書かれた「『反戦』は、よい住宅をつくることと大いに関わりがあるのだとぼくは思っています。いや、反戦を語るときには住宅やまちづくりのことを同時に考えているというべきかもしれない。」僕もそう考えている。家を作ること考えることは、戦争と正反対のことなんだ。と秋山さんも語っています。
私も建築を職業として選んだのには、直接的にも間接的にも人を殺すことをしなくても済むだ ろうという思いがありました。少なくとも破壊よりモノづくりに関与していたいと いう気持ちです。
構造解析も施工も高い技術力を必要とする建築であるが、そうした裏話は銀座を歩く人にはまったく関係ない。ブランドを信仰する人々に対して、もはや建築家は無力と思える。
前川國男建築展に氏の愛聴盤LPレコードが数枚展示されていた。クラシックレコードが多い中で一番上にジョン・コルトレーンのブルー・トレインが重ねられていた。LPの発売時期と照らし合わせると、氏が50代の前半に出会ったことになる。なんだかちょっと前川さんが身近に感じられた。
Blue Train
生誕100年・前川國男建築展を見てきた。会場は嘗て美観論争を巻き起こした東京海上ビルから目と鼻の先にある東京ステーションギャラリーです。当時、東京都がこの東京海上ビルの確認申請を却下した理由は当該申請建築物と既存建築物は用途上可分の関係にあり一つの敷地と見なすことは出来ないと云うものでした。建築基準法施行令・第一条第1項で敷地は「一の建築物又は用途上不可分の関係にある2以上の建築物のある一団の土地をいう。」と定義されています。つまり、用途の異なる建築を一つの敷地に建てるのを禁止している訳ですが、構造的に一体化されている建築物は「この限りでない」と適用されないのが一般的判断です。従って地階や渡り廊下等で既存建築物と一体化されている申請建築物は過去の事例からも適法な訳です。当然、東京海上側は東京都の判断を不服として建築審査会に審査請求し、建築審査会は東京都の処分を取り消す判断を下します。時は1967年9月、その時、歴史は動いたか?。11月には佐藤B作じゃなく、時の首相・佐藤A作までが介入し、東京海上側に建設中止を求める始末、法治国家にしてこの有り様です。結局、東京海上側が自主的に階数を減らし、建物高さを低くして美観論争はうやむやのままソフトランディングした訳です。その後、美観を盾に東京海上ビルの建設に異を唱えた丸の内のMは、続々と東京海上ビルを超える超高層を建てています。そして用途上可分・不可分を争った敷地問題も、容積率で余った床面積を隣接する用途上可分な土地に売ることすら出来るようになりました。全ての価値は金に等価交換される時代です。丸の内地区の美観論争とは何だったのだろうか、欲深い人間の嫉みから派生した問題としか思えません。
註:可分(かぶん)--分けられる。不可分(ふかぶん)--分けられない。
先週、MY ARCHITECT A Son's Journeyを見たついでに神田小川町まで足を延ばしオリンパスのサービスステーションでC-5060-WZを修理にだした。ここまで来ると交通博物館は目と鼻の先、這ってでも行ける距離だ。と云う訳で旧万世橋駅遺構を見るべく交通博物館に立ち寄った。見学時間は午後3時30分、それまで小一時間以上あるので先ずは近所を散歩することにし、手始めに外観の写真を撮ることにした。旧万世橋駅遺構は既にあちらでもこちらでも紹介されているのでモダニズムにフォーカスしてみた。
交通博物館・解説シートNo.101-2によれば旧鉄道博物館は1936年(昭和11年)の竣工と云うことだ。館内の案内板にはコルビュジェの元で学んだ技官による設計らしいことが書いてあった、1936年と云えば、2.26事件のあった年、確か渡辺仁・設計の第一生命本館と原邸(現・原美術館)がこの年に竣工している。モダニズム建築にも忍び寄る軍靴の音が現実となった年である。1930年代の「国際建築」バックナンバーの目録を見ると「国粋的建築か国辱的建築か」等の論文もあり東京帝室博物館コンペに建築界が揺れ動いている様子が見て取れるが、未だ山脇巌、蔵田周忠、山口蚊象、土浦亀城らがモダニズムのデザインボキャブラリーで建築を設計していた。
追記:aKiさん情報によると設計者は伊藤滋(1898年〜1971年)でJR中央線・日野駅も設計しているらしい。因みに「美しい景観を創る会」の伊藤滋とは同姓同名ですが別人です。(敬称略)
階段室のこうしたデザインボキャブラリーは原美術館との共通性も見出せるが、コルビュジェというよりもバウハウスやグロピウスの影響が強いように思える。
「お父さん見てよ、僕こんなにローラースケートが上手くなったんだ。」
父に見守られているかのように、ソーク研究所の中庭でローラースケートで遊ぶナサニエルはきっと11歳の少年に戻っていたのだろう。MY ARCHITECT A Son's Journeyを見てきた。建築家・ルイス・カーンの足跡を息子が辿るドキュメンタリー映画であるが、同時に家族とは何かを問う映画でもあった。カーンの葬式以来、ノーマン・フィッシャー邸のリビングで初めて顔を合わせる三人の子どもたちは、母親は異なるが父親は同じだ。座っている距離感が複雑で微妙な人間関係を表わしている。次のシーンでカメラはノーマン・フィッシャー邸の外観を捉えている。リビングの会話だけが聴こえる。「僕たちは家族かな?」「父親が同じだからって家族じゃないわ、お互いに気遣う気持ちがあれば、それは家族よ。」二人の姉は成長したナサニエルに父親の幻影を見たかも知れない。
蛇足その1:フィラデルフィアの都市計画でカーンと意見の相違から袂を別ったエドマンド・ベイコンがナサニエルが仕返しに来たと勘違いし、ファイテングポーズを取っていたのが意外性があって面白い。因みにこのシーンの背景にオルデンバーグの洗濯ばさみがちょこっと見える。ワーマンはこのことをジューイッシュ(Jewish)と云う出自故に疎外されたとみているようだ。furuさんもaf_blog: 「マイ・アーキテクト」でフィリップ・ジョンソンのインタビューを書いているが、あの話、映画を見た時は、以外とジョンソンは正直と思ったけれど、良く考えるとあれはリップサービスですね、そこがカーンとの違いで財産を残せるのでしょう。
蛇足その2:ルイス・カーンもイサム・ノグチと同様に越境者としての自覚があったのだろうか。ユダヤ社会にもWASPが支配するアメリカ社会のどちらからも疎外され、彼が帰属する場所・社会があったとは思えない。そのどちらでもない、ヒンズーのインドや回教のバングラディッシュで晩年の作品を残せたのは、宗教の枠組みを超えた思想・哲学を受け入れる度量が彼の国にあったということだろう。
やっぱり、ここもヒルズなんだ、(>z<)参ったな。
建物を低層にしたことはそれなりに評価できるけれど、、、本来は旧住民が帰ってきて此の場所に嘗て存在したコミュニティが復活されるか否かで評価が与えられるべきでしょうね。御為倒しな復元保存は何故か空しく見えてしまいます。(昨日、アースダイブの前に立ち寄りました。)
何故か建築から社会性や公共性が失われ、消費の器と化しているような気がします。街路に面して開かれたプロムナードが造られることを期待していたのですが、とても内向きな建物で、残念な結果ですね。
安藤忠雄氏は2000年4月からNHK人間講座「建築に夢を見た」を担当して、その10回目の放送で同潤会アパートを取り上げています。そのテキストに書かれたことと今回実施された計画との乖離は何なのでしょう。
おためごかし【御為倒し】
表面は相手のためになるように見せかけて、実は自分の利益をはかること。「―を言う」
(広辞苑第五版)
昔の養生シートはグリーンが主流だったが、最近は白の養生シートが主流のようだ。そこで夜景はどうかなと10時過ぎに高尾駅南口まで写真を撮りに行ったのだが、件の集合住宅は明かりのついている住戸が少なくて被写体としては今一つである。そのうえデジカメのレリーズがないのでタイマーでスローシャッターを切っている間にカメラの前をバスが通りすぎた。
「生誕100年・前川國男建築展」が東京ステーションギャラリーで開かれている。生前の前川さんの姿を一度だけ見掛けたことがある。それは赤坂草月会館の裏手にある東京ドイツ文化センターで開催されたワルター・グロピウス展であった。カタログを見ると1980年と記されているから氏が75歳の時であろう。清潔感の漂う小柄ながら背筋の伸びた矍鑠たる紳士だったと云う印象が残っている。その印象は氏の建築から受ける、肯定的な意味での不器用な生真面目さと共通する何かがあったように思える。
前川さんの代表作の一つである神奈川県立音楽堂の保存を訴える集会が1994年5月17日に同所で開かれたことがあった。その時に音楽家の口から「神奈川県立音楽堂の音響効果は偶然の賜物」と云う言葉が発せられた。その言葉を耳にした時ほど、この国の文化の不毛を感じたことはなかった。
神奈川県立音楽堂1994年5月17日
音楽のゲニウスロキ・建築のゲニウスロキ
一昨日の新年会二次会でこの映画が話題になりました。S教授は是非とも学生に見せたい映画だが、映画館の場所が問題と言います。それにレイトショーなのですね。まぁ、保護者引率ということで希望者を集め団体で観賞しに行くしかないでしょうという結論でしたが、まぁ社会見学にもなるでしょうね。と云うことで"MY ARCHITECT A Son's Journey"の上映期間中は建築関係者はこの付近での秘密めいた夜遊びはお控え下さい。お知り合いに目撃される恐れがあります。
これが"aki's STOCKTAKING"のエントリー3Dに紹介されていた1968年4月発行の「都市住宅」創刊号表紙の杉浦康平によるアナグリフ(anaglyph)である。38年前の雑誌故にすっかり退色してしまい立体視するのは到底無理である。しかし1976年の創刊100号記念・総特集カタログ「都市住宅」に於いて創刊号の表紙が復刻されているのだ。杉浦康平による「都市住宅」表紙のアナグリフは創刊6805号から6904号まで一年間続けられていた。
都市住宅・創刊号目次
因みに創刊一年間の表紙アナグリフは下記の通りである。
6805:耕地管理人の家/クロード・ニコラ・ルドゥ
6806:サヴォイ邸/ル・コルビュジェ
6807:ダイマクシオン・ハウス/バックミンスター・フーラー
6808:シュレーダー邸/G.T.リートフェルト
6809:カサ・バトロ/アントニオ・ガウディ
6810:フラグ・ハウス/ロバート・ヴェンチュリー
6811:ガラスの家/フィリップ・ジョンソン
6812:トリッシーノ邸/アンドレア・パッラーディオ
6901:エンドレス・ハウス/フレデリック・キースラー
6902:トリスタン・ツァラの家/アドルフ・ロース
6903:ショーダン邸/ル・コルビュジェ
6904:落水荘/フランク・ロイド・ライト
今日の東京新聞朝刊に大学院生らが署名運動・三信ビル解体させぬの特集記事が掲載されていた。ネットから運動が起こり、多くのブログでも紹介された三信ビル保存プロジェクトについてだ。記事でもこの活動が評価されているのは単なる解体反対でなく、保存計画の対案を用意し所有者の三井不動産へ提案していることだ。
三信ビルは外観が派手じゃないので知る人も少ないビルだが、大抵の人はアーケードやエレヴェーターホールを見ると目の色が変わる。その反応が面白い。
追記:aneppe さんが哀愁ビルディング【みつい篇】
で三信ビルの詳細なレポートをしています。
実は伯父(父の長兄)がこの三信ビルに本社のあった三機工業に務めていまして、三信ビルの建設時にも関わっていたと亡父から聞いていましたが、それ以上の詳しいことは知らずに、20代の時、近くを通りかかって内部に入ってみて驚きました。
その伯父の生前の姿の記憶は未就学児だった僕にはなく、伯父の葬儀の時の微かな断片的な記憶しかありません。伯父は今で云えば過労死、50歳そこそこでした。ですから伯母は生涯、三機工業を許さなかったようです。戦後、三機工業の或る部門の設計部長だった伯父は沖縄の米軍施設の設計に従事し、嘉手納と厚木基地の間を米軍機で行ったり来たりで忙殺され、休みも取れずに過労で倒れ、それでも病床まで会社は伯父を追いかけて休ませなかったとは、亡き伯母の話。「泣く子と進駐軍には勝てず」の時代の話ですが、未だにそうですね。
ずいぶん長い間待ちましたが、劇場公開は2006年1月28日からです。予告編だけでも期待が膨らみます。
吉村順三とキース・ジャレットの直接的な関連性は特にないだろうが、キース・ジャレットが八ケ岳高原音楽堂でコンサートを開いたことがある。八ケ岳高原音楽堂・竣工の翌年、1989年1月13日と14日の二日間のハープシコードによる演奏会だ。ライブ録音ではないがキース・ジャレットは演奏会に前後して八ケ岳高原音楽堂でのレコーディングを残しており、それはECMからリリースされているJ.S.バッハのゴールドベルグ変奏曲である。キース・ジャレットの演奏はジャズからのアプローチではなく純粋にクラシック演奏家のそれである。八ケ岳高原音楽堂とキース・ジャレット、そしてバッハと演奏会には行きたかったが、冬場の八ケ岳は遠く、他にも何かあって断念したのを思いだすと悔やまれる。
株式会社クロサワの沿革によれば1912年(大正元年)に東京・京橋区尾張町2丁目(現銀座6丁目)に黒沢商店ビルを建築している。この黒沢商店ビルは1979年(昭和54年)に建て替えられた。新しくなったクロサワビルの外壁には旧黒澤商店ビルで使用されていたレールが記念プレートと共に埋め込まれている。旧黒澤商店ビルは日本で最初の鉄筋コンクリート造りの事務所建築として関東大震災や第二次世界大戦の戦禍を生き抜いてきた。この旧黒澤商店ビルが解体されるときに建築家・槇文彦氏がゲスト出演したテレビ放送を見た。26年前以上のことなので全て記憶している訳ではないが、その放送によれば、旧黒澤商店ビルは施主による直営工事、今風に言えばセルフビルドだったということである。もちろん施主は建築の専門家ではない、それでも確かドイツ等の先進国から文献を取り寄せ研究を重ね、設計から工事まで行い完成させた。解体現場を見た槇文彦氏は鉄筋の配筋からコンクリートの品質まで、解体工事が難航する程の丁寧な仕事ぶりに驚嘆していた。そして技術の普及に伴って失われていった技術への尊厳を改めて考え直すことが必要ではないだろうかと云う意味のことを語っていたと思う。
技術への信頼は、技術への畏怖を失った時に崩れ去る。耐震強度偽造事件はそうして起きたのだろう。「ものつくり」の貴さが失われ、技術者が蔑ろにされ、ヒルズ族が持て囃される時代への警鐘と受け止めるべきだろう。
東京藝大美術館の吉村順三建築展・記念シンポジウム「吉村順三の現代的意味」を聴いてきた。パネラーには植田実氏、藤森照信氏、松山巌氏と豪華な論客を揃え、期待を裏切らずに、面白おかしく、そして為になる2時間だった。建築探偵団・F森教授による吉村順三の設計流儀のルーツを巡り、レイモンドからコル、ライトへとミームの源流を探る話は推理小説よりも奇なり。シンポジウムの内容は既にakiさんとfuruさんがエントリーしている。
軽井沢別荘建築のルーツの一つ堀辰雄山荘は軽井沢タリアセン・歴史的建築に保存されている。吉村山荘のルーツと建築探偵団・F森教授が推理するレイモンドによる「軽井沢 夏の家」の移築前の姿と移築された「現:ペイネ美術館」では吉村好みの高床部分がなくなっている。「軽井沢 夏の家」は取り壊されずに移築保存されたが吉村順三には喜びも半分だったらしい。
レイモンドが「軽井沢 夏の家」の下敷きにしたコルビュジエのエラズリス邸(VectorWorksにて作成)
建築確認の許認可業務が民間委託されたときから、不正が起こるのではと懸念していたが、最悪の事態ですね。手抜き工事で崩落したビルの工事責任者を死刑判決にした韓国だったら、あの建築士は刑事裁判で重罪になるでしょうね。それにしてもテレビカメラの前の彼は不敵不敵しく、反省すらしてませんでした。理念以前のモラルが崩壊しているのでしょう。バブル時は「法に触れなければ何をしてもよい」と云う風潮でしたが、それが「バレなければ何をしてもよい」に変化してます。大人がこの様です、反省を忘れた誰かとイメージが重なり、この国の現在を象徴しています。また急速な米国型・自由主義市場経済への移行が齎した事件ともいえるでしょう。
追記:この一週間前のエントリーで憲法25条と建築基準法を書いたが、何か予兆のようなものを感じていたのかも。
東京新聞11月22日欠陥住宅は今日も建つ・検査機関機能せず
土曜日の夕方、TV番組表に「美の巨人たち:アメリカの夢・絶景、エコロジー住宅」の文字を見つけた。内容は不明だが取り敢ずビデオ録画を予約しておいた。夜中、録画しておいたビデオを再生するとチャールズ・ムーア他「シーランチ」(前編)だった。ナレーションは「今日紹介する建築は、あまり有名なものでも、著名な建築家のものでもありません。」と伝えていた。60年代後半から70年代の建築デザインの潮流を知っている者にとって、チャールズ・ムーアは紛れもなく時代の寵児だったが、それから40年余りを経た今日の一般的認識はそんなものだろう。番組はシーランチの実現に携った3人にスポットを当て構成され、前編を主にデベロッパーのアル・ボーキーとランドスケープ・デザイナーのローレンス・ハルプリンに、後編を主に建築家のチャールズ・ムーアに焦点をあてるようだ。アル・ボーキーから計画を依頼されたハルプリンは1962年から一年間に亘って敷地を分析調査し、この土地で行なっても良いこと、行なってはならない、イエス/ノーをレポートに纏めた。左上図のプロセス・アーキテクチャー4号(1978年2月発行)ローレンス・ハルプリン特集によれば、ハルプリンの事務所が全体のコミュニティ計画を引き受け、その建物の設計者として、ハルプリンの計画主旨に共鳴したムーア/ターンブル事務所と契約したとある。
ハルプリンの土地利用計画は生態学的理論を基にしており、自然のたたずまいをそこなうことなく、人々がそこで生活できる方法を開発している。生態学的レベルで敷地分析を行なうことで、ハルプリンのデザインは自然本来の姿を反映するものとなった。つまり結果として、人々は自然の力を重複するのと同じように、出来上がった環境も重視する。有機的な方法で、建物と環境とを関連付けるというハルプリンの設計手法は彼の生活の基本理論でもある、、、、斯くして、自然環境の一部となった"Sea Ranch Condominium"は出来上がった。 この頃、アノニマス(anonymous)やヴァナキュラー(vernacular)と云う言葉が建築を理解する一つのキーワードであった。建築デザイン的にはヴァナキュラーは土着的なとか自然発生的な土地独特の建築様式を意味するが、松岡正剛の千夜千冊『シャドウ・ワーク』 にはイヴァン・イリイチによる経済学的なヴァナキュラーの解釈があり、こちらも参考になる。 尚、テレビ東京ではチャールズ・ムーア他「シーランチ」(前編)に引き続き、次週11月19日午後10時から後編が放送される。
1980年代に一級建築士試験・設計製図受験講座の講習会講師を5年程務めたことがあった。受験講座は4月から10月の試験日直前まで毎日曜日行われ、前半を基礎練習に8月の学科試験の週に設計製図の課題が発表された後は、その課題に合わせて練習課題が出される。試験課題が集合住宅の年があった。練習問題では規模や敷地条件を想定してプランニングを行うのであるが、ある受講生は毎回、建築基準法とその関連法規を無視してプランニングをし、何度注意してもそれが直らなかった。彼は建築の質のことなど全く考えていなかった。日照や採光を無視し面積さえ確保できれば良いと云う考えであった。僕は憲法25条の生存権を引き合いに出し、建築基準法の主旨を「国民が健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」を守るための最低限の基準であることを示し、この集合住宅の計画案で健康で文化的な最低限度の生活が過ごせるかよく考えなさいと諭したが、僕の言っていることが理解できないのか一向にプランが改善されることもなく、当然の結果として彼は試験に失敗した。試験直前の特訓講座で、彼が日本を代表するゼネコン大手五社の一つに勤める者であることが胸のバッチで判明したが、あのゼネコンならば、さもありなん、結局はそういう社員教育が為されているのであろうと妙に感心してしまった。近頃、サスティナブルやロハスという言葉をそうしたゼネコンやデベロッパーのサイトで見せられるにつけ片腹痛い思いをするのである。
憲法25条
1、 すべて国民は,健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2、 国は,すべての生活部面について,社会福祉,社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。
憲法の理念はどこへやら、経済効率を第一優先とするような都市計画法や建築基準法の改正をみるにつけ何をか言わんや。社会性や公共性という言葉ですら死語となりつつある。
2年前にエントリーしたLouis I Khanの映画がようやく渋谷で来春公開される。楽しみだなぁ。因みに、この渋谷にできるシネコンの5つのスクリーンの2つを桜丘町から移転してくるユーロスペースが使うらしい、"MY ARCHITECT"は「Q−AXシネマ」で上映の予定。東京新聞11/10、映画館“バブル”を生き抜くに、ミニシアターの現状が語られている。
MY ARCHITECT A Son's Journey
茂木健一郎 クオリア日記のエントリー「白熱と養老孟司!」に縄文人・F森教授の設計した「バカの壁ハウス」の写真があった。壁には本当にバ・カが描かれている。ある意味で養老センセーは「バカ本のパパ」なのだ。
2005年10月22日は私の東京タワー記念日。東京に生まれ、物心付いてから半世紀経ち、初めて東京タワーに上った。因みにこの写真は東京の都市模型を見に六本木ヒルズに行った時に東京タワー方面を撮ったもので、同じような気象条件だったので使ってみた。六本木ヒルズから下を眺めた時も思ったが、上から眺めると事の他墓地が目立つ。東京は生きている者だけの街ではなく、死者の街でもあるのだ。
と云うことでトリエンナーレ会場の山下埠頭から横浜港大桟橋の遠景です。コンペで選ばれた横浜港大桟橋国際客船ターミナルですが、国際客船ターミナルとして相応しいカタチなのか意見が分かれるところです。後方のランドマークタワー・ビルと港の入り口のベイブリッジがランドマークの役割をしているから国際客船ターミナルにはランドマーク的意味は必要ないと考えたのでしょうか。空から見ればランドマークになるかも知れませんが入港する客船からは目だ立たないように思えます。尤も客船が主役と考えれば国際客船ターミナルは脇役として主役を引き立てる役割ですのでそれも良いでしょう。それにしてもこの国際客船ターミナルに何かが欠けています。船出をするときの高揚感が穴蔵のようなロビーからは感じることはできないのがとても残念です。
ターミナルビルをランドスケープ・アーキテクチャーと見れば、屋上のデッキと芝生は遠足に来た小学生や休日を楽しむ人にはピクニック気分が味わえてとても良いでしょう。
今朝の日曜美術館のアートコーナーで伊東豊雄の「アイランドシティ中央公園中核施設 ぐりんぐりん 」が紹介され、工事中の映像もありました。(午後8時45分過ぎからNHK教育で再放送)
三次元曲面を巧みに使った鉄筋コンクリートシェルによるランドスケープ・アーキテクチャーなのですが、設計はコンピュータで解析できて問題ないのでしょうが、施工が一筋縄ではいかない代物です。優秀な仮枠大工に鉄筋工を必要とするもので、コンクリート打ちの品質にも徹底した管理が求められるものです。CADの普及によって建築家には造形の自由度が齎されましたが、施工現場にはあまり恩恵が齎されていないと云うのが現実。
探し物をしていたら珍しいものが出て来た。雑誌・都市住宅の1968年11月号の付録だ。A1のポスターは吉村順三・設計の旧軽井沢の別邸のアクソメを中心に添田浩氏のイラストと吉村事務所の図面がレイアウトされている。ポスター裏面は添田浩氏による「人間をつくるもの・吉村順三から何を学んだか」となっている。
東京藝大美術館のサイトに告知はないがブログ一酔千日戯言覚書2によれば吉村順三建築展が11月から開催される。建築家・清家清展に続いての建築展だ。
毎度おなじみ流浪の番組で始まるタモリ倶楽部に建築家・清家清がゲスト出演したことを憶えている人は少ないだろう。タモリ倶楽部に清家さんは建築家として出演したのではなく自宅に鉄道車両を所有する鉄道マニアの変わったオジサンとして出演したのだった。いつものようにオープニングは街角でマイク片手に「毎度おなじみ、、」とボヤくタモリの傍に進行役のタレントが近寄り、一言二言、タモリに突っ込みを入れる。そしてカメラがパンをすると、そこに貨物列車最後尾車両が、デッキで鉄道員の制服を着てニコニコしていたのは、なんと清家さんだったのだ。
9月25日まで開催中の建築家・清家清展を見てきた。展示会の目玉は自邸である「私の家」の原寸模型だが、そこに置かれたT定規や物差し、計算尺にも郷愁を憶える。そんな展示品にはもちろんホビーもある。庭の一角に置かれた緩急車(貨物列車最後尾の車掌室を有し手ブレーキまたは車掌弁がある車両)のデッキに立ち微笑む清家さんの写真の傍に置かれたメルクリンの鉄道模型を見ると、清家さんの家には優しい時間が流れていたのだろうなぁと思われる。
「うそーぉ」「やだぁ!わぁーかわいーぃ」とこのヴィッラを見た女の子の嬌声が聞こえてきそうである、そのくらい、イオニア式のオーダーにペディメント(三角破風)をもつ神殿風の中央部と両翼のペディメント付きコロンバーラ(鳩小屋)の日時計の装飾とそれを支える四分の一円のバットレスに特徴付けられた、この薄黄色味掛かったストッコ仕上のヴィッラはメルヘン・チックな乙女心を擽るのに充分に優美な外観を備えている。しかしヴェネツィアの北北西50km程離れた交通不便なこのマゼールの地までうら若き乙女が自分探しの旅に遥々とくることもなく、この静かなベネトの田園の地にやってくる日本人は建築か美術を学ぶ者くらいである。(初稿 MADPress 1993/10/31)
ヴィッラ・バルバロ或いはヴィッラ・マゼールと呼ばれるこのヴィッラは建築家アンドレア・パッラーディオの手により、ヴェネツィア貴族である兄ダニエーレ、弟マルカントーニオのバルバロ兄弟の為に1562年に建てられたものである。また、このヴィッラを有名なものにしているもう一つの理由がヴェネツィア派の画家パオロ・ベロネーゼのフレスコ画によるトロンプ・ルイユ(騙し絵)である。アルプス越えをしてドイツからやってくる観光客の目当てはどうやらこのフレスコ画のようでもある。
ディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったノイシュヴァンシュタイン城がルードウィッヒ二世の奇想によるものであったように、このヴィッラ・バルバロもメルヘンの国のお姫様が登場するに相応しい外観とは裏腹の人々を幻惑する建物である。それはアンドレア・パッラーディオによるものというよりも、バルバロ兄弟による奇想ではないだろうか。
ガレー船の交易で富を得たヴェネェツィア貴族はラグーナに浮かぶ人工海上都市の生活から、その拠点を大陸へと領地を求めた、それは虚構と幻想に充ちた都市生活から、大地と共に生きる「健全なる生活」(ヴィタ・ソプリア)を実践することでもあった。なかでも時代の知識人であったバルバロ兄弟はその模範となる人物であった筈である。
ヴィッラ・ルスティカ(田園のヴィッラ)であるヴィッラ・バルバロはユソ・ディ・ヴィッラ(農作業の場)でもある、所謂、ヴィッラが別荘ではなく、領地での拠点でありルネッサンスのユマニズムに基づくイディアの表現としての建築、そしてその思想を実践する生活の場でもあったのだ。
緩いスロープになっているアプローチ正面の神殿風のオーダーの中にはこのヴィッラのエントランスを見つけることができない。何故ならばそこは台所となっている。玄関にあたる部分が実は勝手口とは皮肉だ。エントランスへは左右に分かれたバルケッサ(納屋)のロッジアから階段で昇らなければならない。書き割りとしての正面性と機能としての正面性がずらされ、訪問者の印象を惑わす。エントランスのあるピアノ・ノビーレ(上層)の十字形広間には、騙し絵の執事や下女が訪問者を迎え入れる。壁面をフレスコ画で装飾されたこの広間の天井には交差ヴォールトが用いられ、壁のフレスコ画とは対照的にその漆喰の唯一残された白さが印象的である。領地を広く望む十字形広間の脇部屋のグロッタ絵画の表現する、草花であれ、動物であれ、生とし生ける凡ゆる物を等距離で見つめる眼差しの根底はギリシアの宇宙論にあり、四元素が万物を生成している考えに基づくものである。しかし、ダニエーレも参加した反宗教改革において、否定される異教的な思想でもあった。
ピアノ・ノビーレ(上層)は主人の為のフロアである。初層は台所や使用人の為の正にサーバント・スペースである。そして屋内階段は使用人が主人にサービスする為に昇り降りするものであった。主人の用足しも私室に置かれたオマルで事を済せ使用人がそれを処分するといった具合である。当然、主人や奥方が屋内階段を使うこともなく、あるとすれば浮気の現場が見つかりそうなとき愛人をアティック(屋根裏部屋:当時のアティックは穀物倉庫として用いられ、収穫・脱穀されたトウモロコシ等が保存された。)に匿うときくらいなものであった。注 1
主人や訪問者の為のピアノ・ノビーレへ昇る主階段は建物正面やロッジアに設けられるのが普通で、屋内に主階段が設けられたのはミケランジェロのロレンツィオ図書館が最初とされる。吹き抜けの階段室が設けられるようになったのはバロック以降とされている。
ピアノ・ノビーレはエントランスから、公的な広間と私的な部分とに分かれている。領地を望むように位置づけられた公的な広間とは対照的に、私的な部屋はニンフィニアムのある裏庭に面している。この裏庭は傾斜地を利用してピアノ・ノビーレと同じレベルに設けられている。そしてこの私室の壁面には等身大の家族の肖像がヴェロネーゼによってフレスコ画になっている。書き割りであった筈のフレスコ画が主人達を見つめ、見られるものが見る側になり主客が転倒する。
裏庭のニンフィニアム(泉)のアーチ両側の収穫物を背中に担ぐ人物像は顔の異様な大きさから仮面を付けたようでもあり、理想的な肉体美とは程遠い存在と思える。また左右両端の人物像のポーズはまさに男娼のそれである。バルケッサのロッジアのアーチのキーストーンに装飾された男子の顔面はどれも虚ろな表情である。
兄:ダニエーレは英国大使、大司教補佐役、二十年続いたトレント宗教会議のヴェネツィア代表を歴任、そしてヴィトルヴィウスの註釈者でもあった。
弟:マルカントーニオはフランス大使、トルコ大使を歴任し、美術・彫刻を愛し、数学、機械技術にも明るく、薬草等の知識も豊富で薬草園も所有していたと言われる。
「健全なる生活」(ヴィタ・ソプリア)を求めて人工海上都市からやってきた知識人の田園での生活は刺激に充ちた都市生活に較べてどれ程退屈なものであっただろうか。人知れない裏庭のニンフィニアムで何が行われたか知るよしもないが、理想的な「健全なる生活」だけでは充たされることはなかったであろう自我を見つめ、何を思い、バルバロ兄弟はヴィッラでの生活を過ごしたのだろうか。このヴィッラが現代に問いかけるものは何かと考えるとき、私はその直前に見たスカルパのヴリオン・ヴェガの事が脳裏を占める。小雨降るヴリオン・ヴェガで、タルコフスキーの問いかける1+1=1の持つ意味を思いだしていた。そのヴリオン・ヴェガとグロッタとの共通性が妙に気になる。(五十嵐)
建築四書(中央公論社版)の注釈より
以下に示す建物は、トレヴィーゾ郡の城郭、アーゾロの近い領地マゼールにあり、バールバロ家の二兄弟、尊師アクイレーイア選出主教猊下およびマルカントーニオ閣下の所有するところである。建物の幾分か外に突出している部分は、脇部屋が二層にわったており、上層の部屋の床面が、背後の中庭の地盤面と同一平面にある。その中庭には、家と向かい合った丘に泉が堀ぬかれ、ストゥッコ細工と絵画による大量の装飾が施されている。この泉は小さい池となり、これは養魚池として役立っている。そこから溢れ出る水は、台所に流れ込み、それから建物に向かって緩やかに上昇してゆく道路の左右にある庭園を潤し、二つの養魚池を形作り、公道に面して、家畜の水飲み場も設けらている。そこから溢れ出た水は果樹園を潤しているが。この果樹園はひじょうに広大で、極めて良質の果樹や、さまざまの雑木が豊富に植えられている。主人公の館の正面は、四本のイオニア式オーダーの円柱を持ち、隅の円柱の柱頭は、二つの側に渦巻型の前面を形作っている。これらの柱頭をどのようにしてつくるかを、私は「神殿の書」で示すつもりである。左右両方の側にロッジアがあり、それらの端部に鳩小屋がある。そして、その下にはワインを作る部屋、厩舎、その他のヴィッラの用のための部屋がある。
建築四書の木版画による平面図では外構も初層も上層も同一平面上に描かれている。濃いめの網目部分が上層(ピアノ・ノビーレ)の居室部分である。外構に使われている半円のモチーフが公道に面した水飲み場にも使われていた。
注1:ヴィスコンティ監督の「夏の嵐」にパッラディーオによるヴィッラ・ゴーディが舞台として使われている。アリダ・ヴァリ(第三の男のヒロイン役)紛する貴族の夫人がオーストリア軍将校の愛人をアティックに匿うシーンがある。またヴェローナのオーストリア軍司令部の部屋はグロッタ絵画で装飾されている。
The Centro Internazionale di Studi di Architettura Andrea Palladio
Villa Barbaro - Maser - (1554)
都市のデザイン、エドマンド・ベイコン著、渡辺定夫訳
鹿島出版会 1968年発行・現在絶版
原書・Design of Cities
Amazonを見るかぎり米国ではエドマンド・ベイコンの本書とケビン・リンチの「都市のイメージ」は建築学生の必須図書となっているようだ。
丹下健三による序文には「彼(ベイコン)は、古代ギリシャの都市から現代の都市に至る人類の歴史の中で、都市がいかに大衆の芸術であり、文明の最高の表現であったかを明らかにしている。しかし、それにもまして、彼はこうした文明の形態と人間の意思が、時間と空間の中で、芸術までに転化し、定着しゆく過程に目を注いでいる。そうして、そのなかに都市デザインの意思を見出し、また方法論を学びとっている。」と書かれている。
本書では人間の意思によって造られた都市が時代と共にどのように造られ変化していったかを、豊富な図版などにより分析解説しているのであるが、なかでもローマについて多くの頁が割かれている。GoogleMapでカンピドリオ広場やポポロ広場そしてスペイン広場等を空から眺めると、先人達の都市デザインに対する意思が伝わってくるようである。
その内容の一部を紹介すると、
ミケランジェロの意思行為と題された章、カンピドリオ広場が計画される以前の様子。(カンピドリオ広場の後ろ側にフォロ・ロマーノが広がっている。)
ミケランジェロによって再開発整備されたカンピドリオ広場。広場を囲む両側のパラッツォのファサードデザインは完璧なまでの美しさを持つ。
建築家ヴィニョーラによる教皇ユリウス三世のヴィッラ・ジュリア、地下二階のレベルに設けられたニンファエウムが特異な空間構成。現在は博物館となっている。
GoogleMapでイタリア紀行を楽しんでいたらヴィチェンツァにも詳細な衛星写真があった。ヴィチェンツァは建築家・アンドレア・パッラーディオの活躍した都市としてバシリカ等の建築共々、世界遺産に登録されている。またテアトロ・オリンピコには天正少年使節団来訪を記念するレリーフが残されており、日本とも少なからず縁のある都市である。
パッラーディオの代表作といえばロトンダ(ヴィラ・アルメリコ・カプラ)であるが、それを衛星写真で見ることによってロトンダが如何に「純粋建築」であるかがよく解る。(写真は北東方向から見たもの、左手にトウモロコシ畑が広がる。1989年8月30日午前10時前に撮影)
上図はVectorWorksによる3Dモデルで北西側を見たものである。デザインモチーフにはプリミティブな幾何学図形の丸、十字形、三角、四角(○×△□)が用いられ、ロトンダと云う通称の起源である円形広間が建物の中心となる。ロトンダ上部のクーポラも建築四書に残されている図面では外観も半球であり、実施されたクーポラの外観の形状とは異なっている。正方形平面の各面にはペディメントを戴いた5ベイの列柱のあるポルティコが設けられている。そして写真だけでは解らないのが建物の配置である。このロトンダの衛星写真を見れば一目瞭然であるが建物は子午線に対して45°の傾きを持っているのである。つまりこれによって全ての壁面に対して太陽の日射が得られ、「純粋建築」としての面目を保つのである。
アプローチ右手のバルケッサ(納屋・附属棟)はパッラーディオの死後にヴィチェンツォ・スカモッティの手によって作られたと云われている。(1989年8月30日午前10時過ぎに撮影)入場料:5000リラ(1989年当時)
ゲーテの「君知るやかの家を、いらかは円柱に支えられ、広間や部屋々にはともしび輝き、大理石の像は我を見つめる。」と云う詩は未だ見ぬロトンダをイメージしたものと云われている。しかし、そのゲーテもイタリア紀行でロトンダを訪れた際、その居住性に疑念を抱いている。これも「純粋建築」故の評価であろう。それは他の「純粋建築」であるミースのファンスワース邸や丹下健三の成城の自邸にも云えそうである。
「純粋建築」としての評価を別にして、住宅としてのロトンダの歴史は悲劇そのものであったようだ。施主のパオロ・アルメリコの死後、ロトンダを相続した庶子ヴィルジニオ・バルトロメオは二束三文でオドリコ・カプラに売却、そのオドリコ・カプラからロトンダを相続した孫はならず者でロトンダはマフィアかヤクザのアジトと化し、ロトンダは荒れ放題、幽霊屋敷の相を示していたとも云われている。その後、ならず者カプラの血統は絶え、紆余曲折して20世紀になってからヴァルマラーナ家の所有になっている。
GoogleMapでローマの休日です。GoogleMapは画期的な教材になりますね。
ローマ市街
テルミネ
スペイン広場
トレビの泉
パンテオン
カンピドリオ
ポポロ広場
バチカン
フォロ・ロマーノ
コロッセオ
カラカラ
ヴィラ・ジュリア
GPSがないので探すのに苦労したけれど、フィレンツェに到着。
大聖堂からシニョリア広場、ウフィツィ宮から回廊を経てポンテ・ベッキォまで一望です。
ついでにミラノ大聖堂とガレリア
X-Knowledge HOME 特別編集No.5
昭和住宅メモリー・そして家は生きつづける
昭和の時代に造られた住宅、今も生きつづける家、そして記憶だけに残る家が各執筆者の言葉で語られている。同時代を生きた川合健二と丹下健三、夫々の自邸の極端なまでの差違は何を物語っているのか。「丹下自邸の謎」と題された探偵・F森教授のレポートが戦後モダニズム住宅にせまる。
表紙を飾っている清家清自邸「私の家」の原寸模型が展示されている建築家・清家清展も9月25日まで開催中だ。(日本建築学会建築博物館の「図面に見る清家清の世界」は8月24日まで。)昨年2月にエントリーした風信子ハウスも"さいたま市別所沼公園"内に昨年11月に竣工したようだ。立原道造記念館に竣工した写真や立原道造のスケッチがある。
昭和という時代を客観的に振り返るには今が良い時期なのかも知れない。
追記:幻の"丹下別邸"
F森教授のレポートを読むと丹下自身が自邸に愛着も拘りも抱いていなかったことが判る。丹下が成城の家を出て、新しいパートナーと新居を構えたのが三田の我が国初の超高層集合住宅であることから見ても、彼にとって合理性が最優先事項だったのだろう。成城の自邸は建築家として国内外にその存在と実力を顕示することが目的であるならば、確固たる地位を築いた後では、彼にその存在理由が薄れるのは当然かも知れない。丹下自邸の保存そのものが丹下や前夫人のプライバシーに関わることでもあり、既に建築界のドンであった丹下はアンタッチャブルな存在でも有り、保存運動すら起こることなく成城の自邸は闇に葬られることになってしまったのは建築界にとって不幸であった。
さて幻の"丹下別邸"であるが具体的な建築計画が進められていたかは不明であるが、別荘用地だけは確保されていた。隣接地にはあの東京オリンピックのポスターデザインをされた亀倉雄策の別邸があった。もしも丹下自身の手により別荘がデザインされていたとしたら、どのような建築になったのであろうか、興味深いことである。(この項、敬称省略)
スウェーデンのグローバル企業である家具・インテリアメーカーのイケアが来年春に日本初のイケアストアを船橋(スキードーム・ザウス跡地)にオープンする。イケアストアは他に横浜・港北、神戸・ポートアイランドにも出店、首都圏に4〜6店舗、関西地区に4〜6店舗の店舗展開する構えだ。
イケアが本格的に日本参入するのは今回が初めてということだが、70年代は東急百貨店がイケアを取り扱い、子供部屋向き等のカジュアルな家具を販売していた。その後の80年代はララポート船橋のテナントとして出店していた筈だが、知らぬ間に撤退していた。日本に於ける郊外型大型店舗の定着がイケアにリターンマッチさせる動機付けとなったか定かでないが、グローバル化の流れであることは確かでジェトロも支援している。
スウェーデンの家具と云えば村田合同が取り扱うイノベーターがカジュアルな家具として知られているが、イケアの参入で競争が激化することは必須であろう。果たして三度目の正直となるのであろうか。
その昔、工学院大学の学生だった友達から、建築家・磯崎新の特講があるから聴きに来ないかと誘われたことがあった。そのとき磯崎氏は福岡相互銀行本店のスライドを見せながら、建築写真のセオリーである「目高・平行・あおり付き写真」について異を唱えた。こうした建築雑誌向けの写真は実際の見えかたと異なり不自然であるというのがその理由であったと思う。その後、磯崎氏は写真家・篠山紀信と手を組み六耀社から建築行脚シリーズを出すことになる。写真家・篠山紀信による建築写真への挑戦であった。それは写真家・二川幸夫の主宰するA.D.A EDITA Tokyoが発行する建築雑誌GAシリーズの「目高・平行・あおり付き写真」に馴れた目には新鮮に写った。
こんなことを思いだしたのはakiさんのaki's STOCKTAKING・吉祥寺通りにてと、masa さんのKai-Wai 散策・吉祥寺通りにては同じ建築を被写体にしても写真表現に違いがあって興味深かったからである。akiさんの分析的な写真と、masa さんの対象にがぶり寄って行く写真、どちらも見事である。そんな二人が根津・谷中界隈で邂逅したというから、どんな写真を見せてくれるのか楽しみである。
と云うことで、透視図法で解説。
目高:目の高さ、つまりアイレベルで撮影
平行:壁面に平行に撮影する。
あおり付き:垂直方向に消失点が生じないようにする。垂直線はすべて平行。
Photoshopであおり補正を試みた写真の例
一点透視投影図(クリックで拡大)
こうした一点透視投影図のような構図が「目高・平行・あおり付き写真」と云える。新建築やGAシリーズの写真の75%くらいは「目高・平行・あおり付き写真」ではないだろうか。建築空間のプロポーションや構造を説明するのに適しているだけでなく、誌面を編集デザインするのにも都合が良い。
二点透視投影図(クリックで拡大)
図法的には建物を画面に対して30°、60°に配置するのが三角定規を用いて簡単に描くことができるが、あまり見栄えの良い透視図は得られない。そこで、15°、75°とかに配置すると消失点が製図板の中に収まらなくなるので、透視図を描くには幅が1800ミリとかの製図板が必要になる。そして垂直線方向に消失点を持つと三点透視投影図(鳥瞰図等に応用)になる。
現在は手描きの透視図も構図を決めたり下絵の段階では3DCGで行うのが一般的です。
先日、自宅を放火されたフリージャーナリスト・山岡俊介氏のブログ情報紙「ストレイ・ドッグ」であるが、氏は八王子の公団欠陥マンションについても取材、問題点を追求している。どうやら問題は公団の杜撰な工事監理体制にあるようである。件の公団マンション、南大沢のシネコンに行く途中にあり、その前を通るのだが、数年前から調査の為に足場と仮囲いが設けられていたが、とうとう解体撤去されてしまった。建て替えする建物が20棟というから半端ではない。今どきの時代に鉄筋の本数を誤魔化すなど、信じられないことである。これは工事監理とか仕様書以前の話である。嘗ては公団などの公共工事は施工の品質安定や技術向上の為に共通仕様書や工事監督要領が定められ民間の手本であったものだが、この為体はどうしたものか。
八王子の公団欠陥マンション、ついに工事監理業者が判明
八王子の公団欠陥マンション問題のさらなる疑惑
八王子の公団欠陥マンションで指名停止処分を受けた業者名
前代未聞の欠陥公団マンション建設業者を指名停止にしない東京都を始めとする自治体
これは二年前に撮ったものだが、この建物は既に解体撤去されてしまった。
ル・コルビュジエ財団に所蔵されている全ての建築作品の設計資料がDVD全16枚に収録されている。価格は〆て80万円+税、個人ではとても買えないが見てみたい。
今晩、10時からテレビ東京の"美の巨人たち"は「18坪の奇跡・コルビュジェの極限住宅」です。内容は湖畔に建つ「小さな家」ですね。要チェック(Gコード・5966)
このコルビュジェの小さな家(母の家)は他にも雑誌・都市と建築(a+u)2000年3月臨時増刊号「20世紀のモダン・ハウス:理想の実現1」に現状の姿が詳しく紹介されています。
Le Corbusier une petite maison 1文字化け注意
ARCHITECT STUDIO ROOM335によるUne Petite Maison CG
能登半島・西海岸は七海漁港の民家。249号線を挟んで日本海、これは防風、防潮の竹垣なのか。漁村には日本海の荒波だけでなく、IT化の荒波も押し寄せている。右側の電柱には工事中の光ファイバー・ケーブルが見える。
石川県羽咋郡富来町七海(しつみ)漁港(第1種漁港) 位置37-07.7N,136-43.9E付近
民家の基本アイテムは釉薬の施された日本瓦と下見板張り、山陰地方の日本瓦の釉薬は赤み掛っているが、北陸の日本瓦の釉薬は黒である。倉は海岸側だけが下見板張り、モノトーンの佇まいが美しい。
石川県羽咋市は母方の祖母が生まれたところ、祖母の生家は典型的な没落士族、曽祖父は死ぬまで髷を結っていたとか、働きもせず、他人の面倒や祭り事には私財を投げ出し、晩年、屋敷は他人の手に、最後はその長屋門の使用人部屋で息を引き取ったとか、曽祖父は時代の変革を拒否しつづけたのだろう。
金沢市東山の「ひがし茶屋街」の街並保存地区である。歴史的コンテキスト度は高く、金沢21世紀美術館とは対極にある建築群である。茶屋という性格上、建物は決して開放的ではなく、格子によって街路と隔てられ街並みを殺風景なものにしている。花街として栄えた頃は、これでも良かったのであろうが、茶屋以外の店舗やギャラリー等の用途に転用するにはインターフェースに工夫が必要であろう。こうした歴史保存地区をそのまま静態保存すべきなのか、経済活動を維持するためにコンバーションし、歴史的コンテキストを考慮してリデザインすべきなのか二つの意見があるだろう。
こうして静態保存された街並みを見ると、他の解決法もあるのではないか。そう思うのも、これらの街並みが現代を生きているように見えず、日常から乖離しテーマパーク化しつつあるからだろう。
裏道に入ると、以外とモダンな感性で作られた建物に出会ったりする。
先週末、金沢21世紀美術館を見てきた。
北陸の城下町・金沢に不時着したUFOの如く金沢21世紀美術館は古都の文脈とは何の関係性も持たないように見える。その平面計画の特異さにも拘わらず周囲環境に圧迫感も違和感も与えず、ごく普通にその場所に馴染んでいる。それは外観的には平屋で、ガラスと白くペイントされたスチールと云うごく見馴れた素材による建築デザインと、道路からセットバックし建物周囲を芝生広場として開放した配置計画によるものであろう。それによって金沢21世紀美術館の裏隣に建つ平凡な意匠の金沢市役所の異様さが逆に目立つ結果となっているのは想定外なのだろうか。それでもこの建築が忽然とその痕跡だけ残して姿を消しても誰も驚かないような気もするのは何故だろう。どこか季節ごとにやってくるサーカスのテント小屋を思わせるような儚さを持っているのかも知れない。
妹島和世氏の作るような存在感の虚ろなホモジナイズされた空間の試みは彼女が初めてではない。雑誌「a+u」1972.01号の特集「"AN ARCHITECT IN AMBIVALENCE"=磯崎新」に於いて、磯崎新氏は「増幅」と云う手法概念を用いて建築や物質の持つ存在感を打ち消す試みについて述べている。磯崎新氏は3Dワイヤーフレームだけで群馬の森美術館を作りたかったのであろう。
抽象的な観念のレベルにおいては、このような無限連続立体格子は、初歩的な空間分割手法そのものだが、それを建築物として実在させるとき、その座標軸上に配列された線だけとりだすように限定することは、あきらかに反自然的な手法になってしまう。ということは、建物は、地球上にあるかぎり、一定の重力場で支配され、質量をもった物体でそれを構築する以外に方法がない。確か、林昌二氏も建築構造を必要悪と言っていたような記憶がある。
増幅の手法は、構成素子となっている物体もそれ自体の特性とは無縁の立体格子という、連続システムに従属させることにある。そのうえで枠組みそのものが浮かびあがり、すべての物体が、格子の背後に消し去られ、無化することを意図している。格子そのものが先験的に存在するのである。物体からは可能なかぎり、その材質感と重量感を消す。ねけがらの格子だけが空間を支配する。、、中略、、、このようにして獲得されるのは、無限に展開する立体格子という、比例の存在しない、したがって部分が明確化せず、物質感の希薄な空間である。これは、おそらく薄明のような、透明感と浮遊感をかきたてるにちがいない。影と色彩を可能なかぎりのせまいラチチュードの中に分布させることで、あらゆる表面を漂白し、中性化する、すると、元来各々独自の情報を内包していた物体で構成されている空間内で、判読可能のコンテキストが減少してゆく、そして茫漠とした単一の形式だけが全体を覆うことになるのである。おそらく、非実在感だけが実在するという、論理的パラドックスが具体化される。磯崎新氏が論理的に試みたことを、妹島和世氏は彼女の感性で臆面もなく実現してしまったのであろう。それは建築家としての出自から由来するものなのか不明だが、彼女が「建築構造を必要悪」といった言説や建築の常識に支配されていないことは確かであろう。
一番これが面白かったかも、、
天候によって左右されるジェームス・タレルの部屋は空が、、、、残念
そして、日曜日は輪島まで足を延ばし、二日で1200km近くステアリングを握っていた。
5月11日の「谷口吉生のミュージアム」開催記念・槇文彦講演会にいってきた。講演会の様子はishikawaさんがBlogdesign platformに書かれているので省くが、谷口吉生氏、槇文彦氏、共々、モダニズムの人であることを再確認することができた。槇文彦氏はメキシコのノーベル賞作家・オクタヴィオ・パスの言葉「1000人の人間がいれば1000のモダニズムがある。」を引用した。メモを取っていなかったので記憶は曖昧で聞き間違いや誤解もあるかも知れないが、その意味するところは私自身のモダニズムの解釈である「個の覚醒」と同意義であったと思う。モダニズムの反対概念は原理主義(fundamentalismーファンダメンタリズム)、つまり、個が思想、宗教に隷属し、国家に溶解する様である。それに対しモダニズムは現実世界を直視し、自己の意志で理性を持って行動することから始まる。つまり「1000人の人間がいれば1000のモダニズムがある。」と云うことであろう。それはモダニズムが決して形式主義でなく、多様な個性を受け入れるものでなければならないと云うことである。そうした一様でない"個の織りなすゆらぎ"が豊かな社会を作るのではないだろうか。
五年毎に行う建築士事務所登録の更新手続きが受理されたことを示す通知である。運転免許証の更新手続きは誕生日を挟んで前後一ヶ月以内に更新手続きをすれば済むように改正されたが、建築士事務所登録の更新は登録満了日の30日前までに更新手続きを行う必要がある。忘れると事務所登録は失効して新たに新規登録しなければならず、当然、登録番号も変わる。申請者が個人から法人に替わっても新規登録になるので、やはり事務所登録番号が変わる。従って廃業も含めて欠番もかなりの数があると思われる。更新手数料も15000円から17000円と値上げされていた。五年毎の更新なので前回も石原知事、前々回は鈴木知事で青島知事のモノはない。青島幸男が都知事だったことも記憶から薄れている。
管理建築士の職歴に非常勤講師についても記載したら、それを証明する辞令と時間割表等も提出するように求められた。非常勤講師の場合、管理建築士として認められるのは週二日まで、週三日になると、専任に準じる扱いとなり管理建築士として認められないと云うことだそうだ。世の中、個人情報保護法とかなんたら「別件逮捕」の口実となる法律が矢鱈と増えている故に公文書不実記載なんてことにならないよう脇を固めておかないとね、もちろん、悪いことなんてしていませんが。
今日から24日の日曜日まで世田谷美術館の区民ギャラリーで【Be-h@us展】が開かれています。
と云うことで私もPalladian Barrack "Littel Emo"を出展しましたので世田谷美術館に搬入に行きました。
先ずは原寸大のBe-h@usの組立です。先ずは土台の設置です。
柱と桁が立ち上がりました。
壁のパネルと窓が付きました。
展示の準備です。Be-h@usユーザーである那須の殻々工房のnozawaさんもセルフビルドを記録した写真や巣箱など出展してます。
クライアントも建築家も出展するのがとてもBe-h@us的ですね。
UPLINKより日本語字幕付きでリリースされている「Landscape of Architectures DVD-BOX」
いま松下電工の汐留ミュージアムで文化遺産としてのモダニズム建築が開催されている。折しも日本建築学会が日土小学校校舎の保存・再生要望書を八幡浜市に提出したばかりでもある。松村正恒による日土小学校は学校建築の事例として建築資料集成にも取り上げられ戦後日本を代表するモダニズム建築であるが、老朽化を理由に取り壊されようとしている。以前、建築家協会関東支部で建築ガイドマップの企画づくりを担当したことがあるが、そのとき協力を求めた東京都の担当者は助成できるのは明治建築までであり、大正・昭和の建築は対象外と取りつく島もなかった。
「Landscape of Architectures」は19世紀から20世紀までの12の近代・現代建築が26分の映像で紹介されている。その中には取り壊しの危機に陥った建築もある。
中でもバウハウスの生命力には驚かされる。ファシズムの驚異、第二次大戦の空爆被害、分裂国家となった東ドイツでの細々とした延命、戦後30年を過ぎてからの修復、89年のベルリンの壁崩壊、そして世界遺産への登録。バウハウスの建築の持つ力が人々を動かしたのではないだろうかと思わされる。
建築は実際にその空間を体験することが良いに決まっている。しかし実物を見ただけでは得られない情報がこうした映像資料にあるとしたら、その存在価値は大きい。その意味でこの「Landscape of Architectures」は設計者自身による言葉、模型や3Dによる造形のコンセプト、建設時の記録フィルム、竣工から現在までの状況、社会的賛辞と批評等々、多角的に検証され、一見では決して知りえない情報が詰まっている。
Landscape of ArchitecturesVol.1
●バウハウス・デッソー校舎 / ウォルター・グロピウス
○ポルト大学建築学部校舎 / アルバロ・シザ
○ギーズの集合住宅ファミリーステール / ジャン = バティスト・ゴダン
●公営住宅ネマウサス / ジャン・ヌーベル
●ポンピドゥ・センター / レンゾ・ピアノ
○ウィーン郵便貯金局舎 / オットー・ワグナー
Landscape of ArchitecturesVol.2
●ダラヴァ邸 / レム・コールハース
○ジョンソン・ワックス本社ビル / フランク・ロイド・ライト
○ウンベルト一世のガレリア / エマヌエーレ・ロッコ
●TGVリヨン空港駅 / サンティアゴ・カラトラバ
●グラウンヒュンデン温泉施設 / ピーター・ズントー
○パリ国立高等美術学校校舎 / ジャック・フェリックス・デュパン
Landscape of ArchitecturesVol.3
○シカゴ市庁舎 / L・サリヴァン、ルイス・H・サリヴァン
○パリ・オペラ座 (ガルニエ宮) / シャルル・ガルニエ
●カサ・ミラ / アントニオ・ガウディ
●セイナッツァロ住民センター・役場 / アルヴァ・アアルト
●ラ・トゥーレット修道院 / ル・コルビジュエ
○ベルリン・ユダヤ博物館 / ダニエル・リベスキンド
昨年の11月にリニューアルオープンしたMOMAのオープニングを飾った「MUSEUMS BY YOSHIO TANIGUCHI」の巡回展が東京オペラシティアートギャラリーで開催されている。会場は二つの展示室から構成され一つはMOMAの歴史、コンペの経緯、実施設計、建設、完成と各プロセス毎に模型、図面、マテリアル、写真、ムービー等で多角的にプロジェクトを検証している。もう一つの展示室は谷口氏による代表的なミュージアム作品を模型、写真、ビデオによって紹介している。
谷口吉生の建築に見られる適切なスケールによる洗練された気持ちの良いインターフェースは、人と建築との関係性、都市と建築との関係性、自然と建築との関係性を巧みにデザインに取込んだ結果、生み出されたものだろう。谷口吉生の建築は粋である。
一つだけ残念なのはカタログである。判型、図版、写真等については問題ないのだがテキストがとても読みづらい、コラム幅、フォント、行間隔、文字間隔、マージン等々が適切とは思えない。こうした展覧会カタログが読まれることを考えないでブックデザインをしているとしたら問題である。
丹下健三氏が逝った、1913年の9月生まれだから91歳の大往生である。戦後日本を代表する建築家であるが、氏の代表作の一つである丸の内旧都庁舎も、氏の数少ない住宅作品である旧自邸も、既に存在しない。どちらも時代の精神を代表する建築である。特に丸の内旧都庁舎は岡本太郎の壁画作品も含めての保存運動は何の盛り上がりも見せずフェイドアウトした。丹下氏が保存問題に対して何を考えていたか知る由もないが、外部から見ればスクラップアンドビルドの旗振り役と誤解されても致し方ないようにも思える。やはり、東京フォーラムは丸の内旧都庁舎の保存を含めて計画すべきであったであろう。特に海外からの建築家も応募できる国際コンペだっただけに尚更である。現代史に於いて建築家が何を築いてきたか、氏は後世に伝える責務がある立場にいた人であっただけに残念である。
成城の旧自邸はプライベートな問題を含んでいただけ、現状保存は困難であったろうが解体保存されていれば、丹下健三氏の作品と云う事で海外からの買い手も付いたかも知れないし、どこかに建築博物館が整備されれば復元する事も可能であっただろう。
アーキグラムを建築界のビートルズやロックスターに準えるのは、既に散々言い回された表現で新鮮味も面白みもない。水戸芸術館の「アーキグラムの実験建築 1961- 1974」で再現されたアーキグラムのオフィスの片隅に立て掛けられたBird(Charlie Parker)のレコードジャケットを見つけたとき、ちょっとクールで嬉しくなった。そして、紛れもなくアーキグラムのメンバーの監修の元に再現されていることがBirdのLP一枚で伝わってきた。
確かにビートルズはアーキグラムと同時代に活動したロックスターだが、アーキグラムのメンバーにとってライバルと成り得てもアイドルとは成り得ない。そんな彼らのアイドルはCharlie Parkerだったのだ。特にメンバーのデヴィット・グリーンがビートニックの詩人に心酔していたとなれば尚更である。1950年前後をティーンエージャーとして過ごした彼らにとって、最も尖っていたムーブメントの一つははモダンジャズとビートニックであったのだろう。時代の先駆者としてのCharlie Parkerに対する敬意が何気なく表現されていた。
「アーキグラムの実験建築 1961- 1974」の展覧会カタログは事前に用意されたものでなく、展覧会そのものをライブで記録し、過去のアーキグラム誌の複製を付け加えたスクラップブック仕立てとなっている。
尚、会期は今月27日まで。
aki's STOCKTAKING: ARCHIGRAM
メタボリズム・グループの論客であった黒川紀章氏による中銀カプセルタワーであるが、分譲マンションの性と言うべきかメタボリズム(新陳代謝)はおろかメンテナンスもままならぬようである。その上、心なき住人によって窓際に堆く積み上げられた不用品によって粗大ゴミ・コンテナと化してしまっているのが哀しい。
"metabolism"(新陳代謝)しないのなら"catabolism"(異化作用)によって何かに変化するとかしないだろうか。
今朝の東京新聞に「国際文化会館 心合わせ残った」の記事。
建築学会から提出されていた保存を求める要望書に国際文化会館側が応える形で保存される事が決まったが、こうした戦後の1950年代に建てられたモダニズム建築が老朽化と耐震基準に合わないという表向きの理由で取り壊しの危機に晒されているのが現実である。
国際文化会館には事務所を始めた頃、赤坂から六本木まで散歩がてらランチを食べによく行ったものだった。都会の喧騒を忘れさせてくれる日本庭園に面した落ち着いた佇まいのレストランは値段もそこそこで、知る人も少なくちょっとした穴場であった。建物だけでなく日本庭園を含んだ環境は次世代への貴重な遺産となるだろう。3月21日に見学会がある。
特定非営利法人NPO地域再創生プログラム
社団法人 日本建築学会
JapanDesign Netの田嶋正行氏のリポート・オランダ便りにヘルツォーク&ド・ムーロン建築における美学と余白と題してロッテルダムで開催されたHerzog & de Meuronの展示会が紹介されている。
彼らの設計による青山のプラダビルは建築界でも賛否両論あるが、批判の多くは既存の町並みに対する配慮を欠いているのではないかと云うものだが、それに対してこの土地から都市の歴史的コンテクストを読み取ることは不可能だったと云う意味のことを彼らが語っていたと記憶している。或る意味でプラダビルは明治以降の都市デザインの無策ぶりをいみじくも語っているのであろう。
因みにプラダビルの土地は以前は太陽神戸銀行の東京研修所(寮)があった。銀座でもそうだが銀行の再編で空いたところに海外ブランドが進出するケースに似ている。
この辺り、江戸時代は与力・同心等の長屋、つまり今で云う公務員住宅があったところで、明治以降は明治政府に没収され一時的に茶畑や桑畑になっていた。与力・同心長屋の流れを汲んでいるのか、裏道には銀行の社宅があったり、昔は建設省の公務員住宅などもあったりとか、法務省の施設、地方自治体の東京寮、銀行の研修所等も多い。
70年代前半から90年代前半までの間、途中五年間を除いてプラダビルの前を毎日歩いていたので、この辺りの変遷ぶりは知っているつもりだから、余計にHerzog & de Meuronのコンテクスト云々の指摘に、もっと勉強せいと腹の立つ反面、それもそうだと妙に納得してしまう。
The New York Times
miyajima/weblogにPhilip Johnson 逝く/ガラスの棺のエントリー。
良くも悪くも米国建築界のドンでした。享年98歳。色んな意味で最後の伝説の人でしょうね。
私がJohnsonの作品で好きなのは自邸の敷地内に建つ彫刻館ぐらい。
ジャン・プルーヴェ展が終了したばかりであるが、引き続き二つの建築展が開かれている。一つは六本木・森美術館の「アーキラボ:建築・都市・アートの新たな実験展 1950-2005」である。もう一つは水戸芸術館現代美術ギャラリー/現代美術センターの「アーキグラムの実験建築 1961-1974」だ。一昨日の日曜美術館の特集「建築・都市・ユートピア/実験建築の半世紀」は青山のプラダビルで始まり、森美術館の「アーキラボ」を中心に海外取材を含んだ内容であったが、一方の「アーキグラムの実験建築 1961-1974」で来日していたピーター・クックも出演していた。番組の最後は昨年2月11日のエントリーでも紹介したPeter CookのKunsthausで幕を閉じていた。二つの建築展に共通する内容はARCHIGRAMである。六本木に出掛けるのも良いが、ARCHIGRAMと鮟鱇鍋を求めて水戸まで行くのも乙かもしれない。
アーキグラムのプラグインシティから発想を得たのが嘗てのメタボリズム運動の旗手・黒川紀章氏の中銀カプセルタワーであるが、同様な計画は様々な建築家によって他にもあったが実現化したものは殆どない。他に実現した例では上田篤+都市科学研究所による滋賀県希望が丘・青年の城がある。このカプセルタワーの設計を担当したのは1960年代半ばの新建築住宅コンペ(審査員:丹下健三)で一等を獲得した渋谷氏である。(まだ計画中の青年の城の模型は京都四条烏丸にあった都市科学研究所で見た事がある。)しかし、滋賀県希望が丘・青年の城が竣工された頃には既にメタボリズム建築の熱も醒めていたのである。
VectorWorks11ではじめるCAD
ISBN4-88166-436-0
発行:株式会社ソーテック社
定価(本体価格3,800円+税)
拙著が本日発売となりました。
表紙と前書きでリートフェルトの平行定規に触れてます。と云うことで装丁はデスティル・カラーです。
今回はDTPにMacOSX環境でInDesign CSを用いています。昨年、アカデミックプライスで購入したAdobe Creative Suiteが早速役に立ちました。本格的にInDesign を使うのは初めてですが、いつものように使いながら操作を憶えるということで、ツールを探してパレットをあちこちひっくり返しながらの作業でしたが。使ってみて、Illustrator や Photoshop との親和性が高く、PageMakerやQuarkXPress v3等より使いやすいことが実感できました。
出版社の方でもInDesign CSを本格的に使うのは初めてで、印刷所(図書印刷)への入稿もPDF/X-1a形式で行ったと云うことです。そんな訳でソーテック社が発行する「Acrobat7スーパーリファレンス」にPDF入稿の事例として掲載されるようです。
昨日、16日まで開催のジャン・プルーヴェ展を見てきた。模型でもモックアップでもない実物の6×6mの戦後復興プレハブ住宅が展示されているというAkiさんの話なので、それは見逃したら次は無いだろうと、いざ鎌倉へ、馳せ参じ。今年で還暦を迎える戦争被災者の為の組立住宅はヴァーチャルではない実物が展示されている。なるほどこれでは側に置かれた模型が刺し身のツマにもならないという意見に納得、ましてやビデオモニターには目も行かぬ。ジャン・プルーヴェといえば薄板鋼板のマジシャン、折曲げ加工の端部をよく見ようと、身を乗り出して細部を覗くと、私の行動にシンクロするように展示室係員が不審者を見る眼差しでこちらを監視、お役目ご苦労様です。触れる展示品は第三展示室中二階のスチールと成型合板による椅子だけ、腰掛けてみると実に堅牢、この安定感は何ものにも換え難い。
神奈川県立近代美術館に来たら、必ず二階の喫茶室で休むことにしている。ぼんやりと池を眺めながら珈琲を飲むのだが、この空間は最初に訪れた30年以上前と変わっていない。広すぎない部屋と高い天井が心地良い。美術館の建物も一度、パラペット部分が補修されたくらいで建設当時の面影をそのまま残している。何年か前に地主の鶴岡八幡宮から借地権の更新を行わないと、退去を求められたことがあったが、その後はどうなっているのだろうか。
神奈川県立近代美術館100年の会会報原稿
鶴岡八幡宮の参拝客には何の関心も持たれないようです。
先日TIMEDOMAIN に行く途中で表参道に完成した建築家・伊東豊雄氏の新作を外から眺めた。同じ表参道に建つ、弟子の作品より遥かに完成度が高く、師匠の面目躍如である。
写真は南側隣地に面した壁面である。法規的にはこれらの窓は採光の条件を満たすものではないだろうが、南側隣地の用途地域や前面道路等の条件を考えると、これらの窓が塞がれる心配も当分のあいだなさそうである。その上、隣地に面した南側窓の方が非常用進入口等の設置義務もなく、形態的にも純粋性が保たれている。デザインの大胆さと緻密なディテールとストイックなまでのマテリアルの使用で均衡が保たれている建物だ、エッジの扱いが見事。しかし、そう思って建物を見上げる人は物好きだけで、多くの人は建築の意匠に気付かぬまま、ショーウィンドウのディスプレイを眺めるか、うつむきかげんで足早に通り過ぎるだけである。
追記:masaさんのBlog"Kai-Wai 散策"のエントリー"谷中の石碑と青山のビル"を見るとこの建築デザインの秘密が解明されます。(2005.02.26)
表参道に面する壁面には非常用進入口等が設けられているが、それらも上手く処理されている。
新しい建築が建つと、以前ここに何が在ったのか直ぐには思い出せなくなる。確かここには80年代に行列ができる程に流行ったカフェバーが建っていた。鉄骨平屋波形スレートの外観が当時の商業建築の常識からみると異彩を放っていたということだろう。
TOD'Sビルと同様にケヤキを建築外被のデザインモチーフとした、伊東豊雄氏による武蔵境駅前のプロポーザル・コンペの応募案が武蔵野市企画調整室のサイトにあります。
武蔵境新公共施設設計プロポーザル
先週12月11日土曜日の番組表に美の巨人たち イタリア・幻想の宮殿の超絶トリックの文字があった。内容は不明だが、いちおうビデオチェックだけはしておいた。騙し絵(トロンプ-ルイユ)や遠近法を駆使したトリックはイタリア・ルネッサンス以降盛んに用いられている手法なので何が出るかお楽しみであった。蓋を開けたらジュリオ・ロマーノのパラッツオ・デル・テであった。このイタリアはマントヴァにある「パラッツオ・デル・テ」は一度は尋ねてみたいと思っている建築の一つである。それにマントヴァにはレオン・バッティスタ・アルベルティの建築もあるのだ。
domus1989年11月号に改修された「パラッツオ・デル・テ」の特集が掲載されている。改修前の写真や平面、立面などの図版も豊富で、ルネッサンス後期・マニエリズムのオーダーやオーナメント、ペディメント等に見られるポストモダン的デザインが良く解る。奇想を凝らしている部分が随所にあるが全体は破綻することなく纏められている。特に庭園に面したセルリアーナ(セルリオ式アーチ)を持つファサードが美しい建物。用途は愛人の為に作られた別邸。
磯崎新の建築談義#08
パラッツオ・デル・テ(16世紀)写真 篠山紀信
磯崎新に五十嵐太郎がインタビューする形式、磯崎新の博識は並みの建築史家を超えるものがある。
村の庄屋さんが平成バブルで没落、その跡に建てられた建売り住宅の外壁は3DCGのようにテクスチャーマッピングされて、なんだかヴァーチャルで生活感にも乏しく、貧しい景観となっている。アングルを工夫しても絵にならない。
イギリスの建築写真家集団のサイトVIEW、いわゆる大判カメラ4×5版フィルムの高解像度データが1カット、1ユーロからだそうです。建築家、カテゴリー別に分類されていて、透しの入った低解像度の写真はフリー。こうしたサイトを見るとフォトジェニックな建築がもて囃されるブルータス現象(ファッション化)が益々進みそうな予感がします。
先日のCBSドキュメントで米国ハーバード大学・デザイン学科・風景学の教授の仕事を紹介していた。残念ながら名前は聞き取れなかったのでハーバードのF森教授(仮名)としておこう。彼の授業は学生をボストンの街に連れ出し、路上のあらゆるものを観察し、考察を加え、そのコンテクストを探ると云うものである。学生達は、教授の授業が何かの役に立つか解らないが、モノの見方を変えてくれたのは確かだ、と一様に述べている。観察の対象は路上だけに留まらず、あらゆるポスター、広告、DM等の印刷物等にも及ぶ、彼は研究の為、自宅に仮想の人物を設定して彼らに送り届けられるDMもチェックし、送り届けられるカタログの表紙も性の違いによって、そのイメージを替えていることを指摘する。彼が最初にCBSのキャスターに出した質問はFedExのロゴに隠されている記号は何かというものである。
その答えはアローマーク、矢印。
大文字のEと小文字のxの間に隠されている。
教授は幼い子供に直ぐに見つけられても大人は答えに窮すると述べている。
届いたばかりの夕刊のテレビ欄に、aki's STOCKTAKINGのF教授の.........を作った縄文人を自称するF森教授が出演するNHK教育放送・ETV特集「スロー建築のススメ〜藤森照信流 家の作り方」を見つけた。放送は午後10時から。
新建築にも掲載されている「高過庵」高過ぎ床住宅ですね。
A9.comで"G.T.Rietveld"を検索した時に、たまたま引っ掛かった中国の建築系サイト「建築博物館」、まったく中国語は解らないが、建築大師・コルビジェの当字や、新しい建築の五原則の中国語訳を見ると、なかなか興味深い。
さてクイズです。世界各地で活躍の建築家「蓋裏」とは誰でしょうか?
他に、私が解ったのは「菲利普.約翰遜」くらいでした。
住み家殺人事件・建築論ノート
松山巌・著 みすず書房・刊
ISBN4-622-07089-8 定価2100円(税込)
「建築を新たにつくることは、近代に入ってテロリズムの色彩を強めている。なぜなら、それ以前の時代とくらべれば驚くほどの短時間に周辺環境を変え、人間関係を変えてしまうからだ」
「もはやかつてあったような共同体や『公的』な世界は消えつつある。しかし建築を通じ、建築を考え、建築がつくりだす環境を考えることによって、共同体と呼ぶこともない新たな多彩な声のつながりを生み出せるのではないだろうか」
「マザー・グース」の唄、「小さな緑のお家の中に、小さな金茶のお家がひとつ、」から始まる本書はミステリー作品ではなく、建築論ノートである。これは現代建築の、都市の、社会の、そして現代人である我々が抱える社会的病理に対する問いかけである。
東京人2003年4月号の槙文彦氏と松葉一清氏との対談「建築家の責任」の冒頭部分でも、公共空間が消費されてゆく現実が語られている。現代に於いては、公も私も消費社会に支配され隷属する存在でしかないのだろうか。建築も消費生活を包み込むパッケージとして消費社会に隷属し、消費され、やがてスクラップされる運命に晒されている。
「共生・共棲」と云う言葉には「寄生」の意味も含まれている。「環境共生」と云う「うたい文句」は「寄生」の事実を隠蔽し、私には偽善にしか思えない。左の東京新聞の書評で千田智子氏が述べているように、松山氏は人も建築も自己完結する存在ではなく、何かが欠如していて、社会や地域に寄生することで成り立つと云う。
1967年にSD選書として刊行されたS. シャマイエフとC.アレクサンダーとの共著「コミュニティとプライバシー」ではプライバシーは頑なにバリアーを配し守るべき存在とされていたが、その後、C.アレクサンダー自身の論文、自動車社会に於いての「ヒューマンコンタクトを育てる都市」で、その考えを一部否定して、リビングアクセスの考えを導入していたが、あまり建築界では評判にならなかったようである。自閉症的デザイナー住宅を見るにつけ、「コミュニティとプライバシー」に縛られている気がしてならない。住宅に自己完結を求めるのは建築家の傲慢であろう。
VectorWorks11の追加オプションのレンダリングエンジン・RenderWorks11の新機能・アートレンダリング。12種類のオプションがあるが、Photoshopのフィルター機能で代用できる表現を除いても、オリジナリティのある表現として使えそうなものは2種類くらいだろう。
RW-仕上げレンダリング
背景テクスチャーにイメージファイルを適用。
基本的にRenderWorks10と同じである。
RW-アートレンダリング(セル画)
RW-仕上げレンダリングと同様にレイトレーシングやテクスチャーマッピングを行うがエッジを強調した画風で仕上げられる。エッジの設定によっては往年のレンダリングアーチスト・ジャコビー風に仕上げられそうだ。但しイメージファイルを点景にした場合は透明な筈のマスクイメージのエッジも表示されてしまう。
RW-アートレンダリング(水筆)
予想しがたい色相だが、陰影のないマットでソフトなイラストレーション風な仕上がりになる。
一見すると地中海の都市集落のようであるが、都市整備公団、改め、独立行政法人・都市再生機構によって開発された八王子みなみ野シティの住宅地に建てられた民間デベロッパーの建売り住宅。
ハウスメーカーや電鉄系不動産会社の建て売りが多い中、独立系?の不動産会社による建て売り住宅も増えている。他の業者の建て売りとの差別化を計るための手段としてのテーマパーク的デザインなのだろうか。憂鬱なアースカラーの建て売り住宅の中では目立つが、、
遠くから見ると、 かなり密集している。
こちらはパームツリーが植えられているところを見ると、カルフォルニアのリゾートを意識しているのかしら?。こちらはデザイナー住宅風?、ニューハウスの表紙のようだ。他にもスパニッシュ風やら、ハーフティンバー・モドキやら、なんでもあり。
台東区立病院の基本設計が8366円で落札
落札したのは松田平田設計、既に8月4日に契約。どうしたものか入札参加36社中26社が調査対象となる定額入札だそうだ。基本設計の予定価格は3600万円、基本設計を只にしても実施設計も受注できると見込んでの目論見。事務所の創設者・松田軍平氏が生きていたらどう思うだろう?。役所側も乞食根性まるだし、只より高いものはない。
世界広しと云えども、基本設計を入札にする国は日本くらいではなかろうか。
今週のJapan Design Net は長谷川貴子・「ロンドン 霧の向こう側」ロンドンの建築教育は今 がRCA(王立美術大学)、Bartlett(ロンドン大学バートレット校)、AAスクールの学生作品を紹介していて興味深い。ピーター・クックが指導するバートレット校の学生作品は歩き出しそうなビルディングが多くみられる。
[Be-h@usの本]にも紹介されていたD.A.ノーマンによる「誰のためのデザイン」の翻訳者である野島久雄氏が認知科学の立場から不適切なユーザーインターフェースを補う目的の貼り紙(或いはテプラ)に着目した研究、「貼り紙プロジェクト」を公開している。
追記:上記のサイトは閉鎖されてます。代わりに「誰のためのデザイン? 誰のための貼り紙?」をご覧下さい。
昔、南青山にいたとき、事務所のマンションの1階にアパレルメーカーが入居した。或る朝、出勤したとき建物の管理をしていたHさんが、アパレルメーカーのドアを指さしてため息をついていた。近くによって見ると、レバーハンドルが手前に曲げられ捩れていた。アパレルメーカーの社員がレバーハンドルの操作が解らず、無理矢理力ずくで引いてしまったのだろう。たぶん、その社員は自動車のドアノブか何かと同じだと思ったのだろう。認知科学的に見ればレバーハンドルの形状がドアの開閉に適切なアフォーダンス(affordance)を伝えていなかったと云うことなのだろうが。
LANDshipの秋山東一氏とGEODESICの栗田伸一氏のコラボレーションによる「Be-h@usの本」が届いた。発行人は九天社の沖山克弘氏、カバーデザインは高橋貴子さんである。皆さん、ソフトバンクから出したCD-WORKSHOPシリーズの拙著MiniCad篇でお世話になった方々である。僕にとって行間から作り手の顔の見える本でもある。
「Be-h@usの本」
秋山東一 著
ジオデシック 監修
株式会社 九天社 発行
ISBN4-86167-008-X
定価(本体3000円+税)
「Be-h@usの本」には僕と秋山さんとのMacintoshを通じての出会いについても触れられている。初めて下北沢の事務所を訪れお会いしたのは1990年の3月頃であるが、それ以前に秋山さんとは何度かニアミスをしている。1975年、まだ僕が高木滋生建築設計事務所に務めていた頃、山中湖は賛美が丘の別荘を担当していた。その時、丸格建築の羽田社長から、唐突に「秋山さんを知っている?高木さんの後輩だって、」と言われ、差し出された秋山さんの図面を見て、「お会いしたことはないけれど、東孝光さんの事務所にいた人ですね。」と、脳内リンクが繋がった。当時の高木事務所の所員が行く居酒屋の定番は新宿の傳八であった。その傳八で、高木さんの芸大時代の同級生の曽根幸一氏の事務所に務めていた平瀬氏に偶然お会いしたとき名刺を頂いていた。曽根幸一氏は山中湖のアトリエ(施工丸格建築)を雑誌に発表したばかり、平瀬氏はその担当であった。平瀬氏も高木事務所に一時在籍していたことがあり、僕が頂いた名刺で高木さんが平瀬氏に電話をして丸格建築を紹介するように要請して業者が決まったのであった。平瀬氏はaki's STOCKTAKINGのエントリーにある「東アジア世紀末研究会」のメンバーでもあった。その後、新宿の傳八は青山、銀座へと進出、店の内装設計は秋山さんによるもの、工事は高木事務所にも出入りしていた簗田氏と、どこかで人間関係の間接的な繋がりがあった。従って、秋山さんと初めてあったときも、既に共通のコンテクストがあったので昔から知っているような感じであった。
軽井沢の主役は森であろう。古代より日本人は森から出て生活を始め文明を築いてきた。森は畏敬の念を覚えるものであり、信仰の対象であり、修験者の修業の場でもあった。人里近くの里山は薪炭林としてリサイクル可能な循環型の生活を支える場でもあった。軽井沢の森を避暑地としたのが英国人であったように、森の中で生活することは明治の日本人には考え及ばぬことであったであろう。
それは現代人も同様で、軽井沢を訪れる人々の最大関心事は消費生活であり、目的は旧軽井沢のショッピングモールや軽井沢駅前のショッピングモールであり、森の中に立ち入ることはしないようである。
週末、旧軽井沢の女子美の軽井沢寮を訪れた。軽井沢寮の設計は僕が務めていた高木滋生建築設計事務所によるもので、僕が退職した翌年の作品である。自然から森の一部を借りて自生する木々の邪魔にならないように建てられている。高木さんは脇田邸を設計した吉村順三先生の教え子であり、師から多くの薫陶を受けている。
自生の藤蔓が光を求め地を這い樹木に絡み空に向かう。
今日の午前中、旧軽井沢の脇田美術館内の脇田邸(1970年竣工)の室内(非公開)を見学してきた。脇田美術館は脇田邸を囲むように建てられているが、吉村順三設計による脇田邸は現状のまま保存され、夫人の生活空間としてそのまま使われている。新しく建設された脇田美術館と脇田邸のスケールとプロポーションの対比に学ぶところが多い。室内は吉村順三作品集1944-1978(新建築社)の表紙を飾った竣工当時の姿をそのまま保持している。
2004.06.30のエントリーエスカレーターの右空けのその後の情報。
東京新聞2004.07.09都会の死角 エスカレーターの右空け<番外>
そして、ようやく行政が動き出した。
東京新聞2004.07.27エスカレーター事故、東京消防庁が検討委
本日、VectorWorks11とRenderWorks11の製品版がそれぞれ別便で届きました。これで機密保持契約書に基づく箝口令が解除されましたが、引き換えに改訂版の原稿に専念しなければならなくなりました。画面のインターフェースは標準ではなく、ツールパレット等をフルスペックにしたものです。
と、云うことでVectorWorks11からRenderWorksを追加するとQuickTimeVRの取り出しが可能になりました。
画像をクリックするとQuickTimeVRパノラマに変わります。
画面が下向きになっているので、ズームインしてから垂直の調整をしてください。
旧青木家那須別邸は道の駅「明治の森・黒磯」にある。小屋組みや木造軸組はドイツの木造建築技術の流れを汲むものとされているが、外観はドイツ風と云うよりも、コロニアル(植民地)スタイルを思わせる。やはり開拓地に於ける農場主の邸宅と云うことでは、コロニアルとプランテーションの関係に近いものがあるのかも知れない。
写真はC-5060WZにワイドコンバージョンレンズを取付、約19ミリ相当(35ミリフィルム換算)の広角撮影したものをPhotoshopでアオリ補正している。
7月9日、仕事を終えてから那須高原・殻々工房(Karakara-factory)のBe-h@us見学会に行った。八王子インターが午後6時、高井戸で環八に降り、渋滞の環八を抜けて、ようやく和光で外環に入り川口JCで東北道に合流、那須IC に9時半過ぎ到着、那須街道を北上、広谷地の交差点を左折、ここからKarakara-factoryは目と鼻の先、冷えたビールが待っている。場所はマピオンで調べてある、ここまでは用意周到だったが、夜も10時近く、那須高原の森は暗く目的の脇道がどこだか見つからない。ん〜こんな筈ではなかった。
脇道を間違え、サファリパークに着いたりハイランドパーク方向に車を走らせたりと漆黒の那須高原の迷路抜けて広谷地まで戻り、携帯で助けを求め、脇道の場所を確認、殻々工房到着は既に夜の10時を廻っていた。
冷たい生ビールと久しぶりの香り高いシェリー酒で咽を潤し、厨房長の優しい御心遣いで私の到着に合わせて焼き上てくれたというラムローストに感激し、合鴨のロースト、カルボナーラ、ピッツア、ザワークラウトとソーセージの煮込み等々の料理は長距離ドライブの疲れをどこかに吹き飛ばしてくれた。そして最後に戴いた森伊蔵は香り高く、旨い。夜から参加の私は見学会を忘れ、唯々飲み食いに専念するのであった。
東京新聞2004年6月30日付け朝刊の特集で『負ける建築』 世界包む 新旧融合 不思議な空間と題し、建築家・隈研吾氏に焦点を当てている。
たぶん、隈研吾氏ほど同業者から、世代によっても評価の分かれる建築家はいないだろう。彼のように作風がバブル期の80年代とバブル崩壊後の90年代とで豹変した建築家も珍しい。バブル後期にメディアのみならず、同業者からも受けたバッシングへの自己に対する落とし前が「負ける建築」なのか、過去を封印するための手段なのか、今更ながら環境派に転向する程、バカでもないということで「負ける建築」なのか、どうなんだろう。
5月12日発売の週刊文春2004年5月20日号・文春図書館書評欄に於いて建築史家の鈴木博之氏が隈研吾氏の著作「負ける建築」を取り上げ、その理論の矛盾点を指摘、彼の建築作品の遍歴に疑問を寄せている。(クリックで拡大)
やはり、隈氏は勝ち負けに拘っているのだろうか。
形あるものは壊れ、命あるものは、いずれ死を迎える。
それは勝ち負けという判断基準には当て嵌めるものではないと思うのだが。
「人生には青春もなければ老後もない
そんなものは昼寝に見る
あだ夢にすぎぬ。」
ゲロンチョン(GERONTION)前文より
T.S.エリオット 訳;福田睦太郎・森山泰夫
9坪ハウス狂騒曲 萩原百合著 光文社・知恵の森文庫 ISBN4-334-78292-2 定価900円
スミレアオイハウスと名付けられた9坪ハウスの住まい手による、計画から着工、引っ越し、生活、改装と、今日までの9坪ハウスの日常を綴った物語である。そこには、不安、とまどい、決意、喜び等が主婦の目線で正直に語られている。増沢洵による「最小限住宅」の原寸大の骨組み模型を引き取った、リビングデザイ ンセンターOZONEに務める夫と書籍編修に携っていたらしい妻と二人の娘が施主一家となる、この9坪ハウスの新築は計画当初から増築するかどうか悩んでいたという、その理由は、、、、。
このスミレアオイハウスがNHKの午前中の番組で紹介されていたときに、偶然見た事がある。確か、収納がテーマの放送だったような、、気もするが、はっきりと憶えていない。その番組の中で、二人の娘が個室を主張し始めたということが、9坪ハウスの新しい問題となってきたと語られていたが、本書では既に問題解決されていた。
スミレアオイハウスの現在はここから、9坪スタジオ
デザイン住宅 9坪ハウス
スミレアオイハウスの原形となった。最小限住居--自邸(1952)
最小限住居は移築されていた。住宅再訪ー淀川邸(旧増沢自邸)
同じ、建築家・増沢洵による住宅建築の名作、あの「最小限住宅」を、その精神、その合理性を現代に蘇らせたいというコンセプトで、Be-h@us(ビー・ハウス)のBe/606/BOXは縦横3間角の9坪の平面を、現代的な「集成材・金物・パネル」による工法で、メーターモジュールの Be-h@us 6m × 6m として、正方形のプラン、箱状の躯体の2階建の住宅を、システマチックな考え方で、セルフビルドが 可能なキット化された、新しい時代の「最小限住宅」を作りだしている。
増沢幸尋氏と秋山東一氏。Masuzawa Architect & Associates
最小限住宅をリメイク。Be/606/BOX
aki's Stocktaking/Be-h@us
6月5日のエントリーエスカレーターの安全性で紹介した東京新聞の特集記事に引き続き、昨日と本日の二回に亙り東京新聞では「エスカレーターの右空け」の問題を取り上げている。奇しくも27日には「2歳男児のエスカレーター転落事故」があったばかりである。
都会の死角 エスカレーターの右空け<上>
都会の死角 エスカレーターの右空け<下>
私は空いたエスカレータに乗るときは右側に立ち、右手で手すり(ベルト)に手を掛けている。右利きなのでごく自然な立ち位置だと思う。
エスカレータの片側を開ける習慣は関西から伝わったと聞いているが、これも地下鉄やJR・私鉄等の駅構内のエスカレータ設置が行き渡ってからの習慣ではないだろうか。逆に言えばエスカレータ設置によって階段の一部が潰され、乗降客の流れにボトルネックが生じるようになったのも一因であろう。エスカレータは乗員が限定されたスローな乗り物であって、決してトラフィックを改善するものとはなり得ない。その矛盾が「エスカレーターの右空け」という現象となって表れているのではないだろうか。
そんなことがあったことも忘れていたが先週の新聞に「黒川紀章氏の名誉棄損訴訟 文春側の敗訴確定」の記事が載った。
この週刊文春の記事は掲載されたときに読んだことがあるが、既に記事の内容は記憶には残っていないが、問題の橋の写真を見ると、、、、これは何だろうと思うが、、。
週刊文春や週刊新潮等の文芸誌系週刊誌の記事は良く言えばシニカル、悪く言えばネタミに満ち、どういう理由からか昔から建築家がお嫌いのようで、忘れた頃に建築家をバッシングする記事を書くのが好きだ。そしてバッシングの餌食は丹下健三や黒川紀章に代表される、メディアにも登場し政財界に人脈を持つ建築家がその条件である。
建築家を擁護するつもりもないし、週刊誌の肩を持つ気もないが、週刊誌側の調査と勉強不足、脇の甘さだけが目に付く、恣意的な感情論でなく論理的戦略を以て建築家を批判すべきであろう。
売れているのは相変わらず「バカの壁」だけ、「バカの壁」に続けと他の出版社もヨーロー先生を詣で、似たような類いのヨーロー本を出しているようでは、この出版界の「不況の壁」をとても崩せそうにもない。書店に平積みされている「バカの壁」を見ると、出版不況の犠牲になって裁断されてしまう新刊書を読者の目に触れないようにする「バカの壁」になっているように思えてくる。
建築ジャーナリズムが存在するかも不明だが、バブル崩壊後の建築雑誌の落ち込みは、たとえ景気が回復したとしても立ち直るとは思えない。書店から建築雑誌のコーナーが消えつつある。知らぬ間に鹿島出版会の【SD】は休刊、建築系出版社の老舗・彰国社が発行する【建築文化】は隔月刊となってしまった。やはり、これらの建築雑誌の凋落も学生が本を読まないし買わなくなったからであろう。情報収集のアイテムのなかで印刷物の優先順位が年々落ちているのは確実、キーワード検索可能なwebの即答性に敵わなくなっている。
新建築社の【新建築】は今のところ健在だが、以前に比べると広告ダイエットに成功したのか随分と薄く軽くなった。
建築系出版社としては後発の【建築知識】は社名をX-Knowledgeと変え、雑誌【X-Knowledge HOME】を出したが通巻23号で失墜、新しい建築雑誌を目指したのだろうが、贔屓目に見てもフォーカスが定まっておらず、やりたいことが伝わってこない。同じく後発の建築資料研究社の【住宅建築】は変わり映えなし。
不可思議なのは近代建築社の【近代建築】誰が買うのか知らないが継続している。特集を組まれた設計会社の販促アイテムにしかなりえないが、書店にも置いてあるのが分からない。
なんとなくエコブームに便乗したカタチで創刊された「チルチンびと」や「住む」はどちらが生き残るのか、どうなんだろう。
他の建築系出版社と一線を画しているGAもバックナンバーを取りそろえている書店が減ってきている気がする。
そうした建築系出版社の悲鳴をよそに、成功しているかに見える娯楽系商業誌の平凡出版改めマガジンハウスの【カーサ ブルータス】は差し詰め建築スノッブの愛読書であろう。広告内容を見ても、相当な販売部数を確保しているのが読める。【カーサ ブルータス】の手に落ちれば巨匠といえども情報消費される対象としてブランド品と肩を並べ、建築思想もファッションと同レベルのアイテムとなるのである。
エスクァイア日本版は先月号でオランダ建築の特集を組んでいる。TBSブリタニカが阪急電鉄に売却され、社名が変わった「阪急コミュニケーションズ」から出版されている男性向情報誌Penは度々、住宅の特集を組みようである。
嘘か真か、高名な建築家が某商業誌系出版社から資金援助を受けたという噂話も伝わっている。専門家しか読まないような建築雑誌に掲載されるより、一般大衆雑誌で特集を組まれるほうがマーケティングには有利である。その意味で建築家と大衆雑誌の利害は一致するのである。
追記:(6/28)
そういえば美術出版社からは「国際建築」が月刊誌として1967年まで発行されていました。確か最後が帝国ホテルの保存問題と丸の内の東京海上ビルの美観問題。他に月刊誌で「建築」が出版社を替え休刊したり再刊したりしていたけど1970年代前半に廃刊になってました。(最初が槇書店、最後が中外出版株式会社)、昔は青土社からも建築雑誌が出ていたような気がするけれど、私の記憶違いかも知れません。そういえば米国でも90年代にPAが廃刊(休刊?)されたときにK君が嘆いていたことを思い出した。
東京・首都圏未来地図 成美堂出版 ISBN4-415-10037-6 定価1050円
現在、東京及び首都圏で計画されている大規模再開発計画を地図に落とし込んで集大成としたものである。その中には、もちろん汐留地区や品川地区再開発のトーキョー・ウオールも含まれている。建設不況と云われている中、よくもこれだけの大規模再開発があるかと思う反面、再びこれらが不良債権化しないかとの疑問が沸き起こる。大手デペロッパーとゼネコンが主導する経済効率優先のこれら大規模再開発計画の未来を考えると、プライオリティの経済効率が果たせなくなったとき間違いなく21世紀の廃墟となる運命にあるということだろう。
この未来地図の中で、評価できるモノを一つ探すとならば安藤忠雄の青山同潤会アパートの再開発計画だけである。都市の文脈を読み解き、高層にしないで低層に押さえたことだけは評価に値する。
トーキョー・ウオーカーではない、トーキョー・ウオールである。汐留地区や品川地区の再開発による超高層ビル群が東京湾からの海風を阻む屏風岩になっているという。これによりヒートアイランド現象の悪化による経済的損失はエネルギー換算で数十億円という。更にヒートアイランド現象により派生する自然現象の都市型集中豪雨、落雷、竜巻等を加えると問題は深刻である。
東京新聞6月19日朝刊・湾岸に屏風岩『トーキョー・ウオール』
「リートフェルトの平行定規」を図面にまとめました。レンダリングデータを含めて一冊のPDF書類にしたものは1.6MBになります。また、図面を1枚毎にPDFファイルにしたものも用意しました。図面は上図の左側のサムネイルに対応していますので、目安にしてください。
Adobe Acrobat Files, Drawing-size A3(420×297)
G.T.Rietveld's Drawingboard & Parallel-motion ruler Drawing Book PDF 1,669KB 製本
G.T.Rietveld's Drawingboard & Parallel-motion ruler Drawing 01 PDF 756KB 解説・総合
G.T.Rietveld's Drawingboard & Parallel-motion ruler Drawing 02 PDF 728KB 解説・機構
G.T.Rietveld's Drawingboard & Parallel-motion ruler Drawing 03 PDF 64KB 製図台
G.T.Rietveld's Drawingboard & Parallel-motion ruler Drawing 04 PDF 60KB 製図板
G.T.Rietveld's Drawingboard & Parallel-motion ruler Drawing 05 PDF 68KB 金具詳細
研究目的等で図面を使用される方はご自由にご利用下さい。但し断りなく商用目的への転用及び他のメディアへの転載等は固く禁じます。
Rietveld Drawingboard Stand Download file PDF 90kb
リートフェルトの平行定規・2D図面の第一段階として製図台の図面をアップしました。Macintosh とWindowsでの互換性確認済みです。図面のブラウズ及びに印刷にはAdobe Acrobat Readerが必要です。
研究目的等で復元されたり、図面を使用される方はご自由にご利用下さい。但し商用目的利用及び他のメディアへの転載は禁じます。尚、復元された場合は完成写真等を見せて戴けたら幸いです。
東京新聞に5月28日から3回に亙ってエスカレーターの安全性に対する特集が掲載されている。
2004.05.28都会の死角 エスカレーター編<上>進まぬ原因究明
2004.05.31都会の死角 エスカレーター編<中>多い転倒事故
2004.06.01都会の死角 エスカレーター編<下>利便性と安全
この特集では主に転倒事故について触れているが、当然、昇りのエスカレーターから身を乗り出して、天井や梁との間に首を挟まれたりする事故もあるだろう。こうした事故もプランにゆとりがあれば防げるのであるが経済効率が優先される現状ではそれも叶わない。それもエスカレーターと梁や天井との安全なクリアランスを確保する替わりに奇妙なアクリル棒等のぶら下がりモノでお茶を濁しているのが情けない。事故が起きれば当然の如く国土交通省はアクリル棒に気付かなかった者が悪いのだと自己責任論に転嫁するのがおちであろう。あの、天井からぶら下がっているアクリル棒を見る度に自分もエスカレーター事故の犠牲者にならないようにと気持ちを引き締めるのである。
昨年11月28日にユニバーサル・デザイン?のタイトルでオートスロープの安全性を問うエントリーを書いたことがある。この東京新聞の特集ではオートスロープは取り上げていないが、一般的に普及して乗り慣れていると思われるエスカレーターでも転倒事故が絶えない現状を考えると、オートスロープや動く歩道でも事件にはならない事故もあるのではないだろうか。
※追加更新2004.06.07都会の死角 エスカレーター編<番外>読者からの提言
建築はほほえむ 松山巌・著 西田書店 ISBN4-88866-385-8 (定価1300+税)
松山巌氏の【建築はほほえむ】はこれから建築を学ぼうとしている若い人たちに向けて書かれた本だ。だからと言って教条的な押しつけがましさはない、あたり前のことをあたり前の言葉で書いている。建築に興味があったり、関心を寄せている人は何故、自分がそうなのか、著者の言葉の中に答えを発見するだろう。著者は繰り返す「気持ちの良い場所、好きだなと感じる場所」のことを、そしてそれが小さな場所であることを。
小さな場と細部について熟考したときに、
新鮮な建築がつくられるだろう。新鮮さとは、楽しく使われ、続けること。
多くの人々の手が、触れる建築の細部にこそ、
その建築を日常使う人たちの、経験の核へと、蓄えられる。
修学院離宮・上離宮(上の茶屋)の浴龍池に架かる土橋から見た西浜。
自然な風景に見えるが意志を持って人工的に修景されたものである。修学院離宮・上離宮は地形を生かし借景を取り込み雄大で気持ちの良い眺めを作り上げている。
近ごろ、意味を理解せず「借景」を連発するタレントがいるが、とても耳障りで聴くに堪えない。
【借景】:庭園外の遠山や樹木をその庭のものであるかのように利用してあること。また、そのような造園法。[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
広辞苑に書いてあるように【借景】はそれを取り込む庭園があって初めて成り立つ技法である。窓やベランダからの眺めは唯の景色であって、それは借景ではない。修学院離宮を見ずして「借景」を語るなかれである。
写真左:各離宮を結ぶ松並木からみた上離宮の大刈込、この向こうに浴龍池がある。
写真右:上離宮の浴龍池から隣雲亭を見上げる。冬場は渇水期なのか池の水が少なかった。(1977)
修学院離宮配置図
宮内庁参観案内:施設情報:修学院離宮修学院離宮の案内ビデオもある。
仙洞御所・桂離宮・修学院離宮等の見学は宮内庁の参観案内を参照。
今年度からインターネットから参観申し込みができるようになった。
宮内庁オンライン参観申込
昔、岡本太郎が竜安寺の石庭について語った文章を読んだことがある。岡本太郎の考察によれば竜安寺の石庭は遠景の山並みと中景の松林を借景とし、近景の枯山水と一体化することで成立している庭であって。従って現在のように遠景が見えなくなってしまった竜安寺の石庭は本来の姿には程遠いと述べていたと記憶している。その意味でも修学院離宮は創建当時の姿をほぼそのまま伝える貴重な遺産である。
リートフェルト展の最終日、中央高速、環八、東京外環、東北自動車道を乗り継ぎ、往復360km掛けて宇都宮まで行ってきました。例の「製図板と平行定規」の幾つかの寸法を実測していない個所があったからです。3Dモデルだけを見せる分には然程問題はないのですが、2D図面にしたときに寸法押さえが曖昧になる部分があり、そのままでは「気持ち悪い」ので、閉館後の撤収作業の中で再実測させて戴きました。それと折角の機会なのでクーリエとして来日したユトレヒト中央美術館館長のイダ・ファン・ゼイルさんの講演も併せて聴いてきました。
そのような訳で、2D図面はPDF化して近々中ににアップする予定です。
Japan Design Netの建築家・長谷川貴子氏のリポートDiverse City ─ ロンドンのお仕事 PART1 私たち日本人が面白い。
ロンドンの建築設計事務所で働く日本人スタッフの会話から見えてくる、あちらの事務所の事情とは、、
(2004.05.13 一部改訂追加)
ここに公開する「リートフェルトの平行定規」のデータは2004年4月13日、宇都宮美術館に於いて学芸員・橋本優子氏並びに濱崎礼二氏の立会の元に、私・五十嵐と秋山東一氏の共同作業にて行われた実測に基づくものです。実測に際して使用した計測機器は展示品に対する配慮から、金属テープやノギス等の金属製は避け、布テープによるメジャーが用いられました。従って精度に関してはそれを保証する数値とはいえず、あくまでも非公式参考記録の範囲です。またメカニズム等の考察は私・五十嵐の独断と偏見に基づくものです。
1 平行定規のメカニズムについて:(全ての図はクリックすると拡大します。)
A:下部プーリー(固定式)
B:上部プーリー(二重、調整機能付)
C:平行定規固定金具
D:バランスウェイト
E:ワイヤー接続固定金具
以上の基本パーツとワイヤーが平行定規の駆動部を構成するパーツである。パーツはそれぞれ上図の記号に対応している。
また、金属部分の素材はオリーブグリーンの塗装が剥げ落ちた部分から考察すると、鉄錆もなく白っぽいテクスチャーから【白銅】が使われているのではないだろうかと推測される。(これは私の個人的見解です。因みに秋山説は亜鉛ダイキャストです。私の見た目優先に対し、秋山説は当時の工業化社会の環境からの結論です。成分分析するなり、比重を計れば分かることですが、目測による推測なので、他の説もあるでしょうね。)
尚、一部が近年になって修理されたと考えられる右側のC:平行定規固定金具はアルミが用いられていました。
※白銅:銅とニッケルの合金、日本国硬貨に使用されている白銅は銅75%、ニッケル25%だそうです。白銅は金属工芸品にも使用されている合金ですから、リートフェルトが修行時代に金属工芸やジュエリーも手掛けていたと云うこと考えると、白銅を扱う職人は身近にいたのではないでしょうか。
デザイナーであると共に職人でもあったリートフェルトによってデザイン、製作されたこの平行定規、製図板、製図台は細かいところまで配慮が行き届き、一つとして無駄なデザインが見当たりません。
2:ループの法則
リートフェルトの平行定規は単純明解なメカニズムによって成り立っています。それは「ループの法則」(勝手にそう名付けました。)の原理に基づいています。
下図のループ上の任意の点、A、Bはその間の距離を常に一定に保って移動します。Aを或る時間内に於いて移動すると、Bも同じ時間内に同じ距離だけ移動します。これが「ループの法則」です。この法則はループがどのように複雑になっても変わりません。
問題になるのはループの素材です。伸び縮みしないことが原則です。その上、捩れに強く、またプーリー(滑車)に対するフレキシビリティが求められます。
3:変則的ループ
下図のループは水平のプーリーにより運動方向を直角に変化させたものですが、A点とB点は逆方向に移動します。A点と同じ方向に移動するC点は高さが異なるので、平行定規をそのままA点とC点に取り付けることは困難です。
4:リートフェルトの平行定規のループ
B点がA点と同じ方向に移動するには水平方向のプーリーに対してタスキ掛けにクロスさせると可能になります。但しこのままでは垂直方向から見た場合、クロス部分のループが重なってしまいます。それに対してリートフェルトはもう一つ工夫を加えています。
5:左側上部詳細
左側上部のB:水平二重プーリーは上が大、下が小になっています。Dのバランスウェイトの中心にワイヤーを通し、下からビスでワイヤーとバランスウェイトを固定しています。B-3の支持棒はバランスウェイトの重さによってワイヤーがプーリーから外れるのを阻止します。またストッパーの役割を果たしバランスウェイトが支持棒に当たり止まることで平行定規が製図板から脱落するのを防いでいます。Eのワイヤー接続固定金具は円筒状の金物とビスによって構成され、水平方向に開けられた穴にワイヤーを通して、下からビスでワイヤーを固定します。
6:左側下部詳細
Aの下部のプーリーは固定されています。Cの平行定規固定金具と平行定規でワイヤーを挟み固定します。ワイヤーに固定するボルトは平行定規の上に設けられています。これはボルトを緩めて平行定規の水平を調整する為のものです。
6:垂直方向から見たワイヤーとBの右側上部のプーリー(下が大、上が小で左側のものと逆になっている)。プーリーの大きさを変えることによりクロス部分のワイヤーが重ならないように工夫してある。つまり、ワイヤーは同じサイズのプーリーに掛けられています。(つまり左側の上の大きなプーリーから右側の下の大きなプーリーといった具合です。)それは、上から見るとワイヤーの平行が保たれていることが良くわかります。またBの上部プーリーの固定金物はワイヤーに弛みが生じないように、スライドさせてワイヤーに張りを与えられる構造になっている。
7:右側上部のBのプーリーとスライドする軸受け金物、上から見た図と下から見た図
因みに下から見た図は支持棒等の位置関係を揃えるために鏡像としてます。(建築関係の設計者は、天井伏せ図や、構造図の梁伏せ図等の見上の図面を座標関係を優先させる為に鏡像で描きます。)
8:平行定規とバランスウェイトの関係
下図に示す通り、平行定規を製図板下端に移動した状態でバランスウェイトが金物Bの支持棒に当たるように設定しておけば、平行定規が製図板から外れ落ちる心配はない。
平行定規に取り付けられた把手状の横棒は刳り込みが付けられ、鉛筆などの筆記具が床に落ちないように配慮されている。
平行定規の左右の刳り型は平行定規を製図板下端に移動した場合にプーリーに当たらないようにするためと考えられる。(実際には平行定規とプーリーとのクリアランスは上下方向で約4ミリあるので、当たることはないと思われるが、プーリーの大きさによってはその心配もあり、予め平行定規側にその対策を施している。)
9:製図板
製図板は板厚20ミリの柾目のムク板が6枚用いられ、反り止めの吸い付け桟で製図台に固定されるようになっている。
4月5日のエントリー、「リートフェルトの平行定規・3Dモデル」は目測で描いたものでしたが、今回の【リートフェルトの平行定規・実測版】は4月13日に宇都宮美術館で実測したデータに基づいて描いたものです。
QuickTime Movie:リートフェルトの平行定規 732kb
取り敢ずレンダリングデータとムービーをアップしました。
メカニズムに関しては近々、図解付きで解説します。タイトルは「リートフェルトの平行定規の秘密・ループの法則」です。
製図板右上のプーリーと取付金物
製図板右下のプーリーと取付金物
保存が決まった、ミース・ファン・デル・ローエのファーンズワース邸の公式サイトが開設されました。
開館時間:木曜日〜日曜日の10時〜16時、入場料が$20だそうです。
やっぱり建築はその場所と共に保存されるのが最善ですね。
Nemetschek North America (formerly Diehl Graphsoft)のサイトに先月出荷されたVectorWorks 11(英語版)の新機能がPDFやQuickTime movies で紹介されています。
先日、とんぼ返りで宇都宮美術館まで出掛けたが、昔々県庁の仕事で何度か宇都宮には行った事が有るので、宇都宮市内はどんな風に変わっているのかGoogle検索してみた。そこで栃木県庁のホームページにアクセスしてみて驚いた。県庁舎の建て替え工事が行われているではないか。それも配置計画を見ると県庁敷地内の建物の殆どを撤去して栃木県新県庁舎を建設するというものである。県庁敷地の南西に位置する栃木県議会庁舎は1969年に建築家・大高正人氏の主宰する大高建築設計事務所 の設計、鹿島建設の施工によって建てられ、まだ竣工してから35年しか経っていない建築物である。35年と云えば木造住宅の償却年数である。それでも短いと思えるのに、公共建築の寿命がたった35年とはどういうことだろう。議会棟はメタボリズム(新陳代謝)をシンボル化した建物である。スーパーストラクチャーの構造体にプレキャストコンクリートの部材によってオフイスが増殖してゆくというアイデアが根底にあり、メタボリズム(新陳代謝)可能な建築として設計されている。35年経った現在では耐震基準等の状況の変化は認められるが、対策を施しメタボリズムする以前に引導を渡され、いとも簡単にスクラップにして良いのであろうか疑問が残る。
つまりはバブル崩壊以降、神戸大震災を契機にして新耐震基準による耐震補強や免震技術は建設業界にとっては起死回生の手段なのである。それも震災対策の拠点となる公共建築にそれらの新技術を投入するのは新庁舎建設の反対意見を封殺するにも好都合なアイテムとなる。こうしてみると穿った見方になるが北朝鮮の脅威を声高に述べ、不安を煽り国防の必要性を説き軍事力を増強する手段にも似ているような気がする。何れもそれによって利益を得るものがいることだけは事実である。
工事状況を空撮したページをみると、昨年11月1日の解体準備の状況がわかる。本庁舎の北西にある第二庁舎は僕が初めて勤めた公共建築設計事務所の仕事で、僕は設計変更と外構の一部の図面を描いている。この建物は構造が青木繁研究室によるもので、やはり議会棟に合わせプレキャストコンクリートを用いた10階建ての事務所棟である。中央コア部分は鉄筋コンクリートのスーパーラーメンになっていて塔屋部分の東西方向にはポストテンションが掛けられている。壁厚も1mから70cmくらいあり、中央コア部分の地中梁は土木的スケールを持っている。解体工事・2004/3/21の写真を見ると、解体が容易でないことが良く分かる。
原設計の透視図、工事途中で設計変更がありPC柱のデザインが変わった。修行時代、この設計変更の立面図を描いていて、その時にCADがあれば良いのにと思った。今ならPCのユニットを一つ描いて後は配列複製すれば良い。
4月18日は建築家ジュゼッペ・テッラーニの100年目の誕生日にあたる。そのテッラーニ・生誕100年を記念したサイトGT04が開かれ、貴重なスケッチや写真等のスライドショーが掲載されています。1940年代の戦時中に描かれたスケッチを見ると、スタジアムのキャノピーのデザインや、プレハブ化を考えたような構造技術のスケッチなど、どこかレンゾ・ピアノへ繋がる建築的アイデアの持ち主だったように思えます。40歳を待たずして自死したことが惜しまれる建築家です。
日本では1998年4月から6月まで水戸芸術館・現代美術ギャラリーに於いて「ジュゼッペ・テラーニ ファシズムを超えた建築」展が開かれ、展示内容等が水戸芸術館のサイトに残されています。
と云うことで、昨日(4月13日)宇都宮美術館まで「リートフェルトの平行定規」を取材に行ってきました。宇都宮美術館は市の北部「うつのみや文化の森」に設計が岡田新一設計事務所で1966年に竣工、翌年1997年3月にオープンした未だ新しい美術館です。宇都宮の美術館というと1970年代初頭の川崎清・設計の栃木県立美術館と勘違いしてしまいそうですが、どちらも或る意味、その時代の精神を反映している建物のような気もします。
地域の美術館としての宇都宮美術館を特徴づけるテーマの一つに「生活と美術」があり、デザインや建築にフォーカスした企画の一環として今回の「リートフェルト展」を開催、より多くの人にデザインを身近に親しめるように「職人であり続けた、、、、」の名コピーが生まれたようです。
宇都宮美術館"Utsunomiya Museum of Art"を省略すると"U-MOA"ユーモアと読めます。これからも、人間性に溢れた楽しい企画が展開されることでしょう。
今回、「リートフェルト展」を企画された宇都宮美術館・学芸員橋本優子さんのコメントです。
「リートフェルト展」は大幅なバージョン・アップをして、宇都宮美術館で始まりました。府中では全く実現できなかったインスタレーション「シュロイダー邸インテリアの部分再現」、スライド・ショー「シュロイダー邸=ベルリン・チェア」のほか、研究目的で再制作した子供用家具なども特別出品します。展示面積は格段に広く、内容や展示デザインも充実。関連事業も盛り沢山ですので、ご期待ください。詳しくは、宇都宮美術館HPでどうぞ。会期は3月28日〜5月23日です
リートフェルトの平行定規のワイヤーの仕組みが解るように、製図板と平行定規を透明にして輪郭線だけの表示としました。あえて、実測する前の目測によるデータを公開して、実測と目測の誤差を検証する資料にも使うつもりです。本日、実測の予定、その結果は月末か来月初めに公開します。
製図板上部の製図板に水平に設置されたプーリーは大きい方が直径が65ミリくらい、小さいものが50ミリくらいにみえた。それが大小一組で左右にあります。それで左側が上に大きいプーリー、下に小さなプーリーが同軸で逆回転するように設置され、右側はその逆で、下が大、上が小になっている。このようにワイヤーをたすき掛けにして、交差する個所でワイヤー同士が接触するのを避けているようです。製図板の下側の製図板に垂直に設置されているプーリーも直径が65ミリくらいです。垂直のプーリーに掛けられたワイヤーは上のワイヤーは水平の上側のプーリーに掛けられてました。
定規は幅が約80ミリ、厚が5〜6ミリで長さはA0の製図板の幅約1200ミリから、左右に40ミリくらいはみ出してます。飛び出した部分の定規幅が40ミリで、定規幅80ミリとの差分は1/4円の円弧で納められてます。定規に設けられた横長の把手は鉛筆受けにもなっているようです。ワイヤーは平行定規の下端に金具で固定されています。
上部のプーリーの詳細、これは左側になります。右側は大小のプーリーが上下逆になります。
バランサーはビス(図では省略)で中に通したワイヤに固定されています。
玉井さんが翻訳されたタイニーハウスに触発され、昨年「タイニーハウス」をCADの課題に取り上げた。これは、学生に見せるための見本として作成したもの。
Palladian Barrack "Littel Emo"
パラディオ風バラックをパロディー風なバラックと読み違えても、パラディアン・バロックと勘違いしても差し支えない。パラディオによるVillaEmoを下敷にこの小さな菜園に付属する週末小屋はデザインされている。VillaEmoはパラディオによって1559年から1565年に掛けて北イタリアはヴェネト州トレヴィーゾのファンゾーロに造られたヴィッラである。パラディオが設計した多くのヴィッラの中でもVillaEmoは農作業の場を最優先にした田園風なヴィッラ(ヴィッラ・ルスティカ)となっている。VillaEmoの南からエントランスポーチに至るアプローチは緩やかなスロープとなっており、そこは収穫した穀物を日干し乾燥する場ともなっている。主屋の両翼にはバルケッサと呼ばれる納屋があり、穀物倉庫、ワイン貯蔵庫、厩舎等が設けられ、南面はロッジア(回廊)となっており、屋根にはコロンバーラ(鳩小屋)が設けられている。都市生活者であったヴェネチア貴族の為に建設されたヴィッラは理想的な田園生活を過ごすための舞台でもあった。
Palladian Barrack "Little Emo"
パラディオによるVillaEmoを下敷きにデザインされたこの週末小屋は規模に於ても、仕様に於ても比較にならないほど貧弱であり、その外観はヴィッラと云うよりモダン・バラックと呼ぶのに相応しい。主屋は4m四方の総二階、両翼に下屋が設けられサニタリースペースとなっている。玄関は設けられておらず、南に面して設けられた広いデッキスペースが、この週末小屋の顔、つまり外部とのインターフェースとなっており、コミュニケーションの場でもあり、菜園での農作業の延長の場ともなり、多目的な用途に対応する。デッキスペースには外流しとグリルが設けられ、煙や汚れを気にせずに炊事を楽しめる。デッキスペースと主室を仕切る建具は両翼に引き分けられフルオープンとなり、空間を一体化することができる。また、夜間や不在時には両翼の格子戸を閉めることもできる。1階の主室には小さなシンクとクックトップを設えたキッチンテーブルが置かれるだけである。2階は読書室と二帖の畳が敷かれ、晴耕雨読の生活に対応する。
モジュールは1mを使用、Be-h@usを採用できるように対応している。
「リートフェルトの平行定規」の3Dモデル(VectorWorks10.5による。)
4月5日付けのエントリーの未完成3Dモデルにワイヤとバランサー等を加え、テクスチャーマッピングを施してレンダリングしてあります。
尚、目測によるスケッチから起こしたものなので寸法等には、当然ながら誤差があります。
3Dをクリックすると拡大します。
今回の「リートフェルト展」を企画・コーディネイトした宇都宮美術館の学芸員・橋本優子さんから、とても貴重でレアな情報を戴きました。aki's STOKTAKING:リートフェルトの平行定規に寄せられたコメントの転載です。
五十嵐さんの素晴らしいスケッチには敬服の至りです。また、秋山さん、玉井さんの説明も、とても貴重で勉強になりました。ちなみにあの製図板は、リートフェルト自身が作ったものであることが、今日になってオランダの美術館の方の追跡調査で判明! しかも若い頃の製作で、シュロイダー邸の設計にまさしくこの製図板を使ったそうです。リートフェルトが家具工房を開いたのが1917年、「赤と青の椅子」の原型を作ったのが1918年、そして初めて設計事務所を設立したのは、シュロイダー邸が竣工した翌年(1925年)ですから、おそらくこの間の製作に違いありません。ちなみにこれを美術館に寄贈された方は、シュロイダー夫人の次女・ハネッケ(1950年代にはリートフェルト設計事務所の所員として活躍を始める)の友人ということですので、やはり設計に携わる人だったのでしょう。これ以外にも、リートフェルトは道具類を自分で作ることが多かったようです。修業時代は、金属工芸やジュエリーも手がけていましたので、実は木工以外のワザにも長けています。
※橋本さんがユトレヒトの学芸員から得た新たな情報を追加しました。
ハネッケ・シュロイダー(シュロイダー夫人の次女)が、リートフェルト設計事務所の所 員となったことは、先に書いた通りですが、この製図板をリートフェルトから譲り受けたハネッケは、その後、女流建築家として独立しました。その際に、この製図板を自身のアトリエで使ったそうです。また、一緒にアトリエを開いたハネッケの友人が、さらに製図板を大切に使い続け、1999年にユトレヒト市立中央美術館に寄贈しています。やはり、この製図板と平行定規は永い間大切に使われてきたからこそ道具自身から語りかけてくる何かがありますね。
因みに海外の平行定規にはどんなモノがあるのかGoogle検索してみました。
キーワードは「Parallel-motion ruler」です。
Parallel Ruler 光栄堂の平行定規に近いタイプ。
Parallel Motion Drawing/Design Board 一般的な平行定規
Peter Parallel Motion上部の駆動部分が同軸で回転するタイプ
Peter Wraight 3Dデザイナーのサイト、この平行定規が最も似ている。
Drawing Board 大型平行定規のショッピングサイト
大型の平行定規には「リートフェルトの平行定規」に似ているものがありましたが、上部の駆動部分は左右共同軸の回転ドラム式になっていて、「リートフェルトの平行定規」のようにワイヤーを上部でたすき掛けにする例は見つかりませんでした。
4月から始まる建築系のテレビ番組がNHK教育テレビと放送大学であります。
NHK教育テレビ「人間講座」
可能性の建築 〜人間と空間を考える。
4月6日午後10:25〜50まで(毎週火曜日)、放送回数:9回
講師:岡部憲明(建築家・神戸芸術工科大学教授)
放送大学
4月3日午前7:30〜8:15まで(毎週土曜日)、放送回数:16回
住まいの構造・構法
講師:深尾 精一(東京都立大学大学院教授)
こちらは放送大学の講座ですが、受信可能な地域であれば、堂々と偽学生になれます。
放送大学のサイトにシラバス(講座概要)のPDFがあります。
六本木ヒルズを初めて訪れたのは昨年夏に世界都市展の模型を見るためだった。六本木ヒルズの第一印象はユーザーインターフェースが全く考えられていない建物の一語、つまりユーザーフレンドリーには作られていないのである。基本的には来訪者を拒絶する為にデザインされていると言い換えても良い。オフィスビルにとって招かざる者は門前払いするのが、森ビルの流儀なのであろう。従って、来訪者の為のインフォメーション・デザインはどこにあるのか見つけるのは至難の業、アフォーダンス(affordance)なんて概念は皆無である。そうしたハードウェア・デザインの欠点を補うために、美術館や展望施設の係員の異常なまでの人数動員には呆れるばかりであった。
建築計画のどの段階で最上階を有料展望台と美術館にすることが決定されたのか知る由もないが、オフィスビルと美術館・展望台という異なる用途を組み込み、足下には商業施設という複合施設の建築計画として、平面計画も動線計画も悪すぎる。幼児が駆け込んだ回転扉はオフィスビルへの入り口であって、展望施設への入り口は高層ビルの周囲を廻って反対側にあるのだが、その誘導の為のサインを見つけるのは、湘南の砂浜で砂金を見つけるのと、同じように難しいのである。
森ビルは高度成長期に港区虎ノ門周辺で中小の賃貸オフィスビルを次々と建設し、70年代辺りから急成長した不動産業である。建築基準法で31mの高さ制限があった時代、三菱地所が階数を7〜8階止まりでオフィスビルを計画するところ、10階建てでオフィスビルを作るのが森ビルの流儀でもあった。当然、階高も天井高も低く押さえられることになるが、賃貸面積は広く確保できる。60年代後半に建築基準法が31mの高さ制限を撤廃し、容積率を導入したことによって、中小の賃貸オフィスビルをメインにした経営方針を捨て、よりスケールメリットの大きい大規模ビルの開発にシフトすることになった。そして今日では地上げを伴う再開発は他の大手不動産業の追従を許さぬほどになっている。
企業が大きくなっても、創業者の体質や理念は残るものである。80年代に日経アーキテクチャーのインタビューで当時の会長(故人)が東京を世界金融の中心にするのが夢だと息巻いていた。そして、東京はエリートだけが住む都市にするのだ、とも言っていた。横浜国立大学の経済学部の教授という経歴をもっていた人の発言とも思えなかったのが、今でも印象に残っている。
事故発生後の森ビル管理者のコメントの行間から滲みだす「迷惑なことをされた」というメッセージを読み取った人は少なくないであろう。これも創業者の体質がなせる業かしら。
東京新聞・こちら特報部六本木ヒルズの広報体質
しかし、駅のプラットホームでも幼児の手を引いてあげるでもなく、走り廻らしている親を見るにつけ、ハラハラ・ドキドキして親を叱りつけたい気持ちになるのは私だけではないでしょうね。
3月26日深夜のテレビ欄にタモリ倶楽部の耐力壁グランプリとある。いったい、これは何であろう、以前にもタモリ倶楽部では大学対抗でテストピースの圧縮試験を行い、最強のコンクリートを競う番組を放送したことがあった。であるから、それに準じた内容であることは想像できる。
「空耳アワー」のフアンとしては、別に「耐力壁グランプリ」でなくても見るのだが、およそテレビ番組、それも深夜の娯楽番組に相応しい内容か、等と考えないで、フツーなら企画にも上がらない内容で番組をつくるタモリ倶楽部は絶滅品種の朱鷺に匹敵するくらいに貴重、且つ馬鹿馬鹿しい番組であり、私の好みだ。
番組は四チームによって木造軸組構造の耐力壁の強度を競う内容であった。柱間が約三尺、水平横架材間が約八〜九尺の耐力壁をチーム別に左右に配し、上部の水平横架材を油圧ジャッキで繋いで引き合い、破壊した耐力壁のチームが負けになる。
一回戦は「ものつくり大学」vs「森林文化アカデミー」
二回戦は「日本建築専門学校」vs「岡本建築構造研究室+平成建設」
それぞれの勝利チームで決勝戦を行い。
決勝戦は「森林文化アカデミー」vs「岡本建築構造研究室+平成建設」で行われ、「岡本建築構造研究室+平成建設」チームが優勝した。
いわゆる「通し貫」系耐力壁とブレース系耐力壁の差が如実な結果となって現れ、「岡本建築構造研究室+平成建設」チームのブレース系+大型ガセットプレートによる耐力壁が勝利を治めた。
上図は「日本建築専門学校」の耐力壁であるが、引っ張り側に強い力が働いている。ホールダウン金物の義務化が納得。
aki's Stocktakingのリートフェルトの平行定規を書かれた秋山氏からのミッションによりリートフェルト展で平行定規をスケッチしてきました。もちろん展示物なので触れることもできませんから、寸法は目測です。目測するための目安に巻尺を出しただけでも注意され、叱られました。そんな訳で寸法にはそれなりの誤差があります。細かいところもスケッチしたつもりでも見落としている個所が多々あります。やはり写真による記録で補足していないといけません。どうも設計屋の体質として構造的なことや仕組みが概ね解れば、後は自分の想像力で補えば良いという判断が意識下にあるのかも知れない。
上部のプーリー、ワイヤーの張り具合を調整できるような構造のファスナー(締付金具)になっている。
定規:ワイヤーに金具で固定、これもナットを緩めて定規の水平傾きを調整できるようになっている。
と云うことで、暇を見つけて3Dに起こす予定です。
後で思いついたことですが、目測でスケッチするときは実寸部材のチャートを用意しておくと良いでしょうね。カード状にして見比べながらスケッチすれば誤差は少なくなるでしょう。
リートフェルトへのオマージュとして私が97年に作成したレッドアンドブルー・チェアーのメタルバージョン。
3Dの作成はMiniCad6でモデリングを行い、レイトレーシングによるレンダリングはform・Z を用いてましたが、現在はVectorWorksで全て行えるようになりました。このレンダリングはVectorWorks10.5+RenderWorksで行ったものです。
昨日、府中市美術館まで行って見てきました。三部構成の第一部:職人としてのリートフェルトの比重が大きく、第三部の建築家としてのリートフェルトはシュロイダー邸だけというのは些か期待外れだったが、逆にシュロイダー邸だけにフォーカスしたのが印象が散漫にならずに済んでいるのかも知れない。
今回のリートフェルト展はユトレヒト中央美術館提供の所蔵品をメインにしているので、出展されている作品は彼の全作品ではない。1997年12月から翌年2月までセゾン美術館で開催された「デ・ステイル展」にはユトレヒト中央美術館の他、アムステルダム市立美術館、オランダ建築美術館のリートフェルト・コレクションも展示されていた。今回のリートフェルト展で残念なのはアムステルダム市立美術館所蔵の子供のための手押し車やカートがなかったことである。
もう一つ、気になったのがカタログのデザインです。デ・ステイルの三原色をテーマカラーにするのは良いのですが、それを地色にまでして、その上にテキストを細かい文字でプリントしてある。これではテキストと地との明暗・コントラストが低くて、とても読めたものではなく、ユニバーサルデザインを考えていないと言われても仕方ない。このカタログは誰に何を伝えるのか、基本的なことが欠落しているのが惜しまれる。府中市美術館のホームページには「来館者がくつろげ、またお年寄りや障害者にやさしい設計です。」と書いてある。そうした配慮は建物だけでなく印刷物にも気を配らなければいけない。比較するのも失礼かも知れないが「デ・ステイル展」のカタログはセゾン美術館と東京新聞との共同で作られ、資料的価値の高いものとなっていた。デザイナーの意識改革を望むものである。
数年前に友達がMoMAで買ってきてくれたイームズの【HOUSE OF CARDS】。
最近ではAssist Onでも取り扱っているようです。私の持っている【THE ORIGINAL HOUSE OF CARDS】はAssist Onの取り扱い品と異なり、トランプサイズで枚数が54枚+2枚である。写真の多くはイームズ夫妻の愛しきガラクタ?・コレクションであったりする。僕の好きなカードは時計の短針と長針を集めたカード、こうしたものが宝物だった時代があった。
右下のセルフビルド必須アイテムもこんな風に写真になるとアートですね。
実は私は未だ見ていないのですが、AkiさんやMiniくんのBlogでも紹介されているリートフェルト展が好評のようですね。リートフェルトの家具は1997年にセゾン美術館で行われた「デ・ステイル展」で主要なものは見ていますが、今回の展示内容はまたそれとは視点を変えたコンセプトとなっていると思いますので期待しています。
と云うことで、リートフェルト展を記念して、数年前にVectorWorksで作成した3Dの"Rietveld Collection"を公開します。
3D制作の底本は"HOW TO CONSTRUCT RIETVELD FURNITURE WORKBOOK"です。
Rietveld Collection v9 Win ZipArchive 20kb(Win)
Rietveld Collection v9 Mac Stuffit Archive 14kb(Mac)
※データのリソースからはビットマップテクスチャーを省き、バージョンはVectorWorks9です。
国連の新しいビルの設計者に槙文彦氏が選ばれたそうです。
Japan Today
dezain.net
Yahoo! News
Maki and Associates
国連ビルの情報はまだ掲載されていない。
元の情報は共同通信による2月12日付けの配信記事であるが、一般紙で報道したのは日本経済新聞だけのようである。(読売新聞はデータ検索が有料なので調べていないが、朝日、毎日、産経、東京の各新聞社のサイト検索による。)建築に対するメディアの感心の低さを物語っています。
Japan Design Netに建築家・長谷川貴子さんによるリポート「 Graz ─ 明日を恐れぬ中世の街」が掲載されています。昨年10月にオープンしたPeter Cookによる初めての主要な建築作品となった現代美術館・Kunsthaus(クンストハウス)を訪ね、44枚の写真で綴るレポートです。
Peter Cookは確か78〜9年頃に新建築住宅コンペの審査員で来日した際の記念講演を聴講に行った覚えがあります。その講演で「グリーンの縁の眼鏡に合うカメラを新宿ヨドバシカメラに探しに行ったけれど見つからず残念だった。」と言っていたのと、都市の表層をレイヤーの概念で説明したのが新鮮で印象的だったのが記憶に残っています。
レポートの写真のPeter Cookは67歳になった現在もグリーンの丸い縁の眼鏡で、まだまだ、やんちゃなPeter Cookのようです。
arcspace.comのKunsthaus Graz ここにはPlanがあります。
ARCHIGRAM
今日の東京新聞朝刊に夭折の詩人、立原道造 文化拠点の夢と云う記事がありました。詩人で建築家の立原道造が残したスケッチを元に「ヒアシンスハウス」を建設する計画を紹介したものです。立原道造記念館のサイトに募金協力の趣意書や、立原が描いた「別所沼のほとりに建つ風信子ハウス設計図」のスケッチがあります。
「お元気ですか、まだまだ戦ってますが、、、。」嶋影さんからの年賀状にはそんなコメントが書かれていた。OM研究所が主催する昨日の土曜リレーフォーラム勉強会は嶋影さんを講師に招いて目白のOM研究所(元・吉村順三建築設計事務所の建物)で行われた。嶋影さんは僕が5年間お世話になった高木滋生建築設計事務所の先輩である。現在は故郷である福島県郡山市で建築工房と云う設計事務所を主宰している。今回の土曜リレーフォーラムのテーマの中心となった「なのはな保育園」は計画・設計・施工・維持管理を通して、役所、理事長、園長、保母、保護者をまでを巻き込んで全員参加で建物に関わっている。キーワードはユニバーサルデザインであるが、主義主張やカタチが先行するそれでなく、建物の運営を含めて、地域で活動する建築家の一つの在り方を示すものとなっている。ここれからも、嶋影さんは相変わらず戦い続けるようだ。
Schroder House QuickTime movie 192kb(VectorWorksで作成)
リートフェルト展 が東京の府中市美術館で明日(1/17)から3/21まで開催されます。会期期間中のワークショップでレッドアンドブルーチェアーの組立などが行われるようです。
坂本九の「見上げてごらん〜♪」、、こちらの曲は最近では平井堅がカバーしているようですね。
James Stirlingが亡くなってから、もう12年も経つんですね。享年66才、ちょっと早すぎます。この本は75年から亡くなるまでの92年までの作品を集めたものですが、時期的にポストモダン、それと建築界でも設計ツールがCADに移行する、ちょうど端境期にあたりますね。そういう意味でちょっと興味を引かれました。
それで、James Stirlingのドローイングですが、軸測投影法(Axonometric Projection)は必ず「見上げ」になっているのが特徴ですね。ですからブックカバーも書籍本体も見上のAxonometricになってます。
何に書いてあったのか忘れましたが、James StirlingはこうしたAxonometricはクライアントには特に見せない、と書いてあったことだけは記憶してます。
Up view of the entrance hall and rotunda
と云うことでシュッツガルドの美術館のエントランスとロトンダの見上のアクソメです。
月刊「東京人」2003年4月号に建築家・槙文彦氏と評論家・松葉一清氏との対談「建築家の責任」に於て松葉一清氏による上野駅構内、いわゆる公共空間を商業施設が侵食し商業化していると云う問題提起に対して、槙文彦氏がこう答えていた。
「、、最近、強烈に消費層がが都市を変えている。これは日本に限らず、アメリカ、ヨーロッパでもそうですが、かってある種の公共性をもって存在を主張していたものが、今や消費文化に侵食されている。公共施設の本質というのは、その空間がどこまでいっても消費されない強さを持っていることなんです。駅であり、タウンホールであり宗教空間、そういうものが、次第に消費空間に置き換えられていくことに対して、大変な疑問があります。、、、」
ソファーの上にあった先週末のタウン紙を片づけようと手にしたら「都市公団が施設を公開」の文字が目に留まった。何だろうと内容を読むと都市公団総合技術研究所・技術センターが特別公開すると書いてある。期日を見ると10/16から10/18まで「なに?、今日から明後日まで?」そうか一週間前の記事だった。
都市公団総合技術研究所・技術センターは中央高速下り車線の石川パーキングエリアの先の左側、八王子インターの手前に見える赤白ダンダラ模様の鉄骨高層タワー、あそこです。あのタワーが何だったのか、これで一つ疑問が解決するでしょう。
都市公団総合技術研究所・技術センター
駐車場はないようで、電車かバスによるアクセスですね。
Louis I Khanの息子が父の足跡を辿るドキュメンタリー映画MY ARCHITECT A Son's Journeyを創ったという。
Louis I Khanが亡くなったのがイランがまだパーレビ政権下にあるときで、首都テヘランの都市計画を日本の丹下健三と協同で設計しているときだから1970年代の後半だろう。
今になって考えるとLouis I Khanの死因はいわゆる俗に言う「エコノミークラス症候群」ではないだろうか。イランからの帰路、N.Y.のペンシルベニア駅で行き倒れ、そのまま身元不明の遺体として三日の間、モルグに安置されていたという。長時間のフライトで血液がドロドロになり、それによって生じた血栓で肺血栓による呼吸器障害による心不全、或いは心筋梗塞か脳梗塞を起こしたとも考えられる。これは全くの想像であるが考えられないこともない。
1993年8月末に八ケ岳で開催したMADParty#14の時、見学に行ったリゾナーレ小淵沢のコンクリート打ち放し壁面に浮き出たフジヤマ。
偶然なのか意図したことか定かでないが、コンクリート打設時の生コン供給のタイムラグのなせる技?
建築家という言葉に対して一つの側面としてのイメージが固定されたのは高校二年生の頃、トルストイの復活を読んでのことだった。
小説の中の建築家像はパトロンである貴族(放蕩者の主人公ネフリュードフの父親)の元に度々現れ媚びへつらい、金銭を無心する下劣な太鼓持ちのような人間として書かれていた。トルストイ自身が貴族階級の放蕩者であったことからも自分の体験も重ね合わせていると思えるが、小説とは言え、現実もそうだったのか検証することもできず、半信半疑のまま腑に落ちず消化不良のままでいた
それが、強ち作り話ではないことが判ったのは「パッラーディオ-世界の建築家」福田晴虔著(鹿島出版会1979年刊・絶版)を読んでのことだった。パッラーディオは16世紀、ベネチア共和国(現在の北イタリア・ヴェネト地方)を中心に活躍した建築家であり、公共建築の他、多くの住宅も手掛け、世界初の住宅建築家と言っても差し支えない。パッラーディオによる理想的な建築は彼の著書「建築四書」に記されているが、現実は決して理想通りに事が進まないのは、今も昔も変わらない。常に再三にわたる設計計画の見直し、工事金額の予算オーバーと工事費カットと工事の中断、設計料支払いの滞り、等々により経済的に豊かではなかったらしく。やはり時として、クライアントであるパトロンに窮状を訴え金銭を無心することもあったようである。パトロンと芸術家という支配と隷属の関係は16世紀の建築家からトルストイの生きた19世紀までも、そして今日でも、社会システムが変わっても亡霊のようにまとわりついている気がしないでもない。
参考文献:東海大学出版会「復活」あとがき 北御門二郎
Centro Internazionale di Studi di Architettura Andrea Palladio