March 20, 2006

戦争と建築家

akiさんが今日のエントリーRachel Corrieで3年前、イラク戦争が始まった頃のことを書いています。aki's STOCKTAKINGを立ち上げたのが2003年5月のことですから、その2ヶ月前はメーリングリスト等で意見を交換していたことになります。
以下はその時に書いた「戦争と建築家」です。
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戦争について考えると、どうしても二人の建築家のことが思い出されます。
それはジュゼッペ・テッラーニとイアニス・クセナキスの二人です。戦争に翻弄され 自らの命を絶った者と、生き延びた者、対照的な人生ですが、二人とも国家と 戦争によって人生を狂わされたことには違いありません。

ジュゼッペ・テッラーニはイタリア・ラショナリズモ(合理主義)の建築家として評価されて然るべき人物ですが、政治的にファシスト党の党員だったこともあり戦後暫くの間は黙殺されてきた建築家です。

古典主義的モチーフを表現手段とした多くのファシズム建築の中でジュゼッペ・テッラーニは異端と言わざるを得ません。彼の代表作のコモにあるカーサ・デッラ・ファッショもファシスト党の建築ならば広場に面して党首ムッソリーニが演説するための跳ね出し式のバルコニーが設けられるのが当たり前なのにそれがありません。俗な言い方をすれば未来派建築やファシズム建築の多くに見られるファルス(男根)を象徴する突起物が無く、一見してモダニズムの集合住宅のようなファサードをしているだけです。
テッラーニがロシア戦線に召集され、肉体も精神も病み、病院列車で帰郷し許嫁の家の階段室で首を吊って自殺したのはムッソリーニが失脚する6日前の1943年7月19日のことです。テッラーニがファシズムにも戦争にも関わらず生きていたら時代的にもコルビジェの良きライバルになったことは疑いもありません。

1998年に開催された「ジュゼッペ・テッラーニ展」に共催される形で六本木のTNプローブ・サロンで行われたシンポジウムで美術史家の若桑みどりがファシズムの定義についてベンヤミン等を引用して次のように要約していたと思います。つまり、「国家の起源を神話等の虚構に求め、全体主義的な国家権力に個人を溶解し階級的矛盾を覆い隠す思想。」と、それは正に明治政府が行なったプロパガンダそのものです。尊王攘夷思想に西欧から取り入れた国民国家、ドイツ帝国憲法、それらをミックスしたものが国体思想というわけで、1945年8月15日の悲惨な結末へのレールは既に明治政府によって敷かれていたといえます。
因みにイタリア・ファシズムにも影響を与えている1909年のイタリア未来派宣言で、戦争について肯定的に「9、われわれは、世界の唯一の健康法である戦争、軍国主義、愛国主義、無政府主義者の破壊的な行動、命を犠牲にできる美しい理想、そして女性蔑視に栄光を与えたい。」と語られています。未来派建築のモチーフの一つである男根崇拝のルーツはここにあります。日本では未来派宣言(マニフェスト)の負の側面について美術史・建築史でもあまり多く語られていません。

●イアニス・クセナキスの建築家としての活動はコルビジェの元でベルギー万博のフィリップス館のデザインとラ・トゥーレット修道院(主に窓の割り付けデザイン)を担当したことが知られていますが、彼は建築家としてよりも現代音楽家としての実績の方が有名で、確か数年前に亡くなったと思います。
クセナキスはルーマニア生まれのギリシャ人でアテネ工科大学で建築を学んでいます。多くのバイオグラフィーではギリシャがナチス・ドイツに占領された学生時代にパルチザンに加わり、その後パリに亡命してコルビジェのアトリエに入ったというくらいしか語られていません。
ナチス・ドイツがギリシャから撤退した後、ギリシャは王政派と解放戦線との内乱状態となり、実質的に英国軍の統治下に置かれることになります。この時代状況はギリシャ映画「旅芸人の記録」(テオ・アンゲロプロス監督、1975)によく描かれています。クセナキスはこの解放戦線に加わって負傷し右目を失明し頬には深い傷跡を負っています。ギリシャを統治していた英国軍の軍法会議(欠席裁判)によってクセナキスは死刑を宣告されることになり、地下に潜りフランスへ亡命します。その後、ギリシャには右寄りの政権が生まれることになります。

考えてみると元ボクサーの建築家よりも元死刑囚の建築家のほうがずっとインパクトがあると思います。

イアニス・クセナキスの作品でイランのペルセポリス・ダリウス王神殿跡で演奏された「ペルセファサ」がレコードになっています。初めてこのレコードを聴いたときマイケル・カコヤニス監督の「トロイアの女」の映像がイメージされたことを思い出します。大地が軋み、死者達の霊が甦り、暗雲が立ちこめ、雷鳴が轟く、黙示録的世界を連想しました。
イアニス・クセナキスの師匠にあたるオリビエ・メシアンに「世の終わりのための四重奏曲」があります。オリビエ・メシアンがドイツ軍の捕虜として捉えられていた収容所でヨハネの黙示録をテクストに書いた作品と言われています。もう、20年以上前になるのかピーター・ゼルキン率いるアンサンブル・タ
ッシの演奏で「世の終わりのための四重奏曲」を西武劇場で聴いたことがありますが、この時の演奏は本当に素晴らしいものでした。

小学一年生の頃だったと思いますが、六つ違いの兄と近所の社務所の前を歩いていたとき、上空を飛行機が飛んでいました。それを見て「また、戦争が始まるの?」と聴くと、兄は「日本は平和憲法があるから、もう戦争はしないんだ。」と言ってくれた。何故かその記憶がいつまでも残っています。
何故そんなこと兄に尋ねたのか、いま推測すると当時映画館のニュースで見たスエズ運河を巡るエジプト紛争が子供心に世界大戦を呼び起こすと思っていたのかも知れません。

玉井さんが CITROHAN.NET のメーリングリストに書かれた「『反戦』は、よい住宅をつくることと大いに関わりがあるのだとぼくは思っています。いや、反戦を語るときには住宅やまちづくりのことを同時に考えているというべきかもしれない。」僕もそう考えている。家を作ること考えることは、戦争と正反対のことなんだ。
と秋山さんも語っています。

私も建築を職業として選んだのには、直接的にも間接的にも人を殺すことをしなくても済むだ ろうという思いがありました。少なくとも破壊よりモノづくりに関与していたいと いう気持ちです。

Posted by S.Igarashi at March 20, 2006 01:15 PM