August 27, 2020

黒澤明・パッラーディオ・須賀敦子

「黒澤明・パッラーディオ・須賀敦子」と...全く脈絡もないタイトルを付けてみたが、時空を超え...ヴィッラ・マゼールによって繋がっていた。

2010年1月に放送されたNHK「世界遺産への招待状 Travel29 イタリア 知られざるベネチア」の番組に登場し、ヴィッラの案内役を買って出た男性はこの館の主・ヴィットリオ・ダッレ・オーレ氏である。彼は1980年代前半に来日し、黒澤明・監督の下で「乱」「夢」「8月の狂詩曲」、そして最後の作品「まぁだだよ」まで、助監督を務めている。
2015年の第28回東京国際映画祭に於ける東京国際映画祭 『黒澤明監督・乱[4Kデジタル復元版]』/ トークショーで彼が来日した経緯等についてイタリア在住の塩野七生の紹介があったと語っている。

須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』に次のような条がある。

恐らく1960年のことだあろう、ヴィッラ・マゼールのオーナーである初老の公爵夫人・マリーナ・Vは恐らく年から考えるとヴィットリオ・ダッレ・オーレの祖母ではないだろうか。すると、侯爵夫人の娘・ディアマンテは...叔母か? 何れにしても侯爵家の人々...日本の文化に興味があったようで、揚げ句の果てに「7人の侍」に感動して黒澤明の門下生になる者まで現れるとは。それも、キリスト教左派にエンパシーを抱く須賀敦子とは真逆のマキアヴェッリ研究家の塩野七生を通して...渡りを付けるとは...権謀術数に長けていなければ侯爵家を維持するのは難しいだろう。
確か、公爵夫人からヴィッラ・マゼールに招待されていたが、夫となるペッピーノとの結婚準備の為、招待を断念したという記述があった筈だが、それが何処か見つからない。或いは私の妄想か...

須賀敦子「ミラノ霧の風景」の「舞台のうえのヴェネツィア」を読むと福田晴虔・著「パッラーディオ」(鹿島出版会・1979・装丁・磯崎新)が第一章を「テアトロ・オリムピコ」から始めたことと共通するのが興味深い。パッラーディオを反古典主義(マニエリズム)の諧謔的な建築家と看破したのは磯崎新氏に背中を押されてパッラーディオを研究することになった福田晴虔氏であった。
ヴィッラのポーチを神殿風のオーダーとペディメントで装飾し、都市建築を舞台装置に変換し書き割りとするパッラーディオは建築を言語化し、更にメディアに変換した情報の建築家でもあった。

参照
PALLADIO MUSEUM:ヴィラバルバロ
MADCONNECTIONの過去のエントリー
March 27, 2008:GoogleMapでPalladio tour
February 06, 2007:完璧な家
August 29, 2005:マゼールの館
August 26, 2005:Rotonda
December 30, 2003:家庭画報2月号
November 04, 2003:音楽のゲニウスロキ・建築のゲニウスロキ
September 15, 2003:建築家-その1

Posted by S.Igarashi at August 27, 2020 11:04 AM
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