と云うことで「昭和モダニズムとバウハウス〜建築家土浦亀城を中心に〜」展を見てきた。都市住宅7109住宅第1集に掲載された土浦亀城邸(表紙サムネイル写真左から2番目、外装は原設計から変更)がモダニズムのセオリーだけでなく、F.L.ライトの影響も強く受けていたのだ。
新建築の昭和10年3月号に掲載された写真やスケッチ、それとは別の平面図と立面図も展示されているが、平面図と立面図は微妙に異なっている。恐らくは立面図が原設計に基づいたもので、平面図左側(西)の和室は後から計画されたものであろう。この和室も都市住宅7109住宅第1集の添田浩氏による実測図には無く。地階の鉄筋コンクリート部分から左側へ2間分、つまり12尺×15尺(3.6×4.5m)だけが現存する増築部(?)である。立面図から考察すると4間四方(24尺×24尺:7.2×7.2m)のコンパクトな平面の一翼が1間(6尺:1.8m)だけ飛び出しているのが原設計であろう。この平面図がF.L.ライトがレディーズ・ホーム・ジャーナルに発表したコンクリート住宅のモデルプランに酷似していることが解る。F.L.ライトのプランではファイアープレースを中心にリビング、ダイニング、キッチンが展開し、空間は連続し回遊式動線が確保されている。土浦亀城邸では玄関と居間が5尺(約1.5m)の高低差を持つスキップフロア(スプリット・レベル)になっており、回遊式動線は地下に下る階段によって破綻しているが、無理矢理に回遊式動線を確保する為に階段途中に扉を設けている。F.L.ライトの建築の特徴である空間の相互貫入はオランダのデスティル建築にも影響を与え、逆にデスティル建築からの影響と云うか刺激を受けF.L.ライトも落水荘で左右非対称による造形を物にしている。昔、土浦亀城邸の写真を見たときリートフェルトのシュロイダー邸を連想したのも強ち的外れでもなさそうだ。F.L.ライトは弟子のモダニズムへの傾倒を嘆いて「君は何故、遠藤新らと協力して有機的建築を日本で広めないで、フランクフルトのファンクショナリズム(ドイツの機能主義=バウハウスのことらしいい)やコルビュジェなんかを真似するんだ。」と手紙を土浦亀城に送っているそうだ。
Kai-Wai 散策: 傳八ビルのルーツ(三原橋地下街・三原橋センターの図面あり)
余談:因みに都市住宅7109住宅第1集・表紙の右端の写真はakiさんが東孝光建築研究所時代に担当された別荘建築です。
蛇足:江戸東京博物館は窓口でJAFの会員証を見せると5名まで2割引で入場できます。(小金井の江戸東京たてもの園も同様)
shinさん、こんにちわ。
小学生の頃に、そうしたモダニズムの住宅を体験できたなんて素晴らしいですね。
igaさんしばらくでした
小学生の頃、常磐線にのってお化け煙突を半ば面白がったり、半ばばかばかしいと思いながら柏の一人住まいの大叔母をよく訪ねました。大叔母は国立公衆衛生院につとめていた栄養士で、クリスチャン。衛生院の講話で土浦亀城を知ったそうで、自分の住宅を頼みました。柏の家は平屋で15坪?ほど、五百円ちょっとの工事費、簡素な家でした。あまり覚えていませんが綺麗な色に塗り分けられた家具が間仕切りだったと思います。
「内外のユルい関係性」についてのご考察、その通りですね。
この頃の別荘って、「夏の家」的なものだったのも影響しているのかなぁ。
北田さんの写真でコルビュジェのインドの住宅の内と外とのユルい関係性が気になりましたが、この北軽井沢の学者村の別荘も内と外との関係がユルいですね。どうも最近の家がシェルターと云うよりもバリアーになっているのが気に掛かります。
そう云えば、このとき土浦亀城邸が築35年目、この都市住宅も35年前の雑誌でした。
そうでありました。
北軽井沢の学者村の別荘、木造二階建て片流れの小さなものでした。
二階の居間の端部はキャンティで、それに上部の屋根部との間に柱がないというアクロバットな構造を作ったり、内部にはガラス屋根の裏返しという仕掛けを作ったりと、ずいぶんと頑張ったものです。
今あるかどうか分かりませんが、その後増築して、原型の面影はないはずです。