April 17, 2014

三里塚...

教会裏手の納屋(鍛冶場)に入ると斜め左上から差す光がカラヴァッジョの「聖マタイの召命」を彷彿とさせた。

首都高4号線の工事渋滞に巻き込まれ三里塚教会に着いたのは13日日曜日午前11時半近く、主日礼拝が終わる午後0時まで外で待つことにした。三里塚教会についての知識は皆無に等しく、事前にGALLERY A4の「三里塚教会物語と吉村順三展」のプレスリーリスを読み、「三里塚芝山連合空港反対同盟」の戸村一作氏との関係を知っていたが、この朽ちた看板を見て、もしやと思い…主日礼拝の終了後に教会関係者に尋ねると、戸村氏の敷地の一画に建てられたもので、敷地内や納屋(鍛冶場)に置かれた、鉄の造形も戸村氏の作品だと知った。

教会内部に入ると梁間方向三間、桁行方向六間の主屋に玄関の下屋が付いた小さな木造教会が、教会裏手にある納屋のスケールに合わせて造られていることが直ぐに解った。カソリック教会は35年くらい前に何度か設計を手伝ったことがあるので、多少は知っているつもりだったが、このプロテスタント系の教会はそれらとは異なる文脈から造られているようだ。

こうして見ると聖書研究会的な集いが教会の主目的な使われ方に思える。

生れた時代が違っていたら、もしかすると「タケシの誰でもピカソ」に出て「芸大のケンちゃん」と造形作品を競っていたかも知れないと思える戸村一作氏とは何ものか…Amazonで100円也の古本を買ってみた。届いた本は四條畷市立図書館(しじょうなわて)から除籍図書となった本だ。何処も傷んでなく状態も宜しい図書が何故に除籍されたのか...それも疑問である。因みに表紙の絵は丸木位里・丸木俊であるが...丸木美術館への中高生の見学が…何処かの圧力で減っているそうだ。(続く)


戸村一作(1909〜1979)と吉村順三(1908〜1997)の接点を考えてみた。
1947年に父・武芳氏が死去した後、家業を受けつぐが、戦前の農機具の製造販売から、戦後は嘗ての軍需産業が農機具を製造するようになり、戸村農機は農機具の販売へと事業内容がシフトしていた。それに伴い農家への農機具セールスが主な業務となった。
吉村順三は戦後、佐倉市に1953年に竣工された佐倉厚生園サナトリウム(木造2階建て、400床、2,659.6㎡、現存せず)を設計している。戸村農機と佐倉厚生園との距儀は14.7km、車で30分ほどの距儀である。戸村農機の得意先は富里、八街の先まであったと云うから、佐倉もその範囲であったであろう。セールスの途中で佐倉厚生園サナトリウムの現場を見て直接依頼したのか、共通の知人を介して依頼したのかは不明だが…翌年の1954年に三里塚教会が完成したことを考え合わせると興味深いことである。(未確認情報であるが、サナトリウムの院長がクリスチャンでその関係者による紹介と云う有力な説が….。)

1969年(昭44)に戸村氏とその家族は教団から除名…1977年(昭和52)三里塚教会と付属幼稚園は御料牧場跡地に移転…上記地図には三つの三里塚教会があるが…一つは棄民ならぬ棄××なのだろうか…因みに三里塚教会と敷地続きの戸村農機は上記地図の旅館・大竹屋の向かいにあった。

Posted by S.Igarashi at April 17, 2014 09:03 AM
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