先週末、金沢21世紀美術館を見てきた。
北陸の城下町・金沢に不時着したUFOの如く金沢21世紀美術館は古都の文脈とは何の関係性も持たないように見える。その平面計画の特異さにも拘わらず周囲環境に圧迫感も違和感も与えず、ごく普通にその場所に馴染んでいる。それは外観的には平屋で、ガラスと白くペイントされたスチールと云うごく見馴れた素材による建築デザインと、道路からセットバックし建物周囲を芝生広場として開放した配置計画によるものであろう。それによって金沢21世紀美術館の裏隣に建つ平凡な意匠の金沢市役所の異様さが逆に目立つ結果となっているのは想定外なのだろうか。それでもこの建築が忽然とその痕跡だけ残して姿を消しても誰も驚かないような気もするのは何故だろう。どこか季節ごとにやってくるサーカスのテント小屋を思わせるような儚さを持っているのかも知れない。
妹島和世氏の作るような存在感の虚ろなホモジナイズされた空間の試みは彼女が初めてではない。雑誌「a+u」1972.01号の特集「"AN ARCHITECT IN AMBIVALENCE"=磯崎新」に於いて、磯崎新氏は「増幅」と云う手法概念を用いて建築や物質の持つ存在感を打ち消す試みについて述べている。磯崎新氏は3Dワイヤーフレームだけで群馬の森美術館を作りたかったのであろう。
抽象的な観念のレベルにおいては、このような無限連続立体格子は、初歩的な空間分割手法そのものだが、それを建築物として実在させるとき、その座標軸上に配列された線だけとりだすように限定することは、あきらかに反自然的な手法になってしまう。ということは、建物は、地球上にあるかぎり、一定の重力場で支配され、質量をもった物体でそれを構築する以外に方法がない。確か、林昌二氏も建築構造を必要悪と言っていたような記憶がある。
増幅の手法は、構成素子となっている物体もそれ自体の特性とは無縁の立体格子という、連続システムに従属させることにある。そのうえで枠組みそのものが浮かびあがり、すべての物体が、格子の背後に消し去られ、無化することを意図している。格子そのものが先験的に存在するのである。物体からは可能なかぎり、その材質感と重量感を消す。ねけがらの格子だけが空間を支配する。、、中略、、、このようにして獲得されるのは、無限に展開する立体格子という、比例の存在しない、したがって部分が明確化せず、物質感の希薄な空間である。これは、おそらく薄明のような、透明感と浮遊感をかきたてるにちがいない。影と色彩を可能なかぎりのせまいラチチュードの中に分布させることで、あらゆる表面を漂白し、中性化する、すると、元来各々独自の情報を内包していた物体で構成されている空間内で、判読可能のコンテキストが減少してゆく、そして茫漠とした単一の形式だけが全体を覆うことになるのである。おそらく、非実在感だけが実在するという、論理的パラドックスが具体化される。磯崎新氏が論理的に試みたことを、妹島和世氏は彼女の感性で臆面もなく実現してしまったのであろう。それは建築家としての出自から由来するものなのか不明だが、彼女が「建築構造を必要悪」といった言説や建築の常識に支配されていないことは確かであろう。
一番これが面白かったかも、、
天候によって左右されるジェームス・タレルの部屋は空が、、、、残念
そして、日曜日は輪島まで足を延ばし、二日で1200km近くステアリングを握っていた。
Posted by S.Igarashi at May 23, 2005 11:29 AM