July 10, 2016

B面昭和史 1926~1945

B面昭和史 1926-1945
東京新聞・書評を読み、これは読まねばと、くまざわ書店で買い求めた。生憎と未だ文庫本にはなってなく、単行本で598頁は携行するには些か大きすぎるが、Kindle版もiBook版も用意されており、アナログでもデジタルでも読書スタイルは自由に選択可能である。
『国民はいかにして戦争になびいていったのか?政府や軍部の動きを中心に戦前日本を語り下ろした『昭和史1926‐1945』(=A面)と対をなす、国民の目線から綴った“もうひとつの昭和史”』と云うのは出版社のコピーだろうが、プロローグの言葉を引用すると『…本書が主題とするのは歴史探偵が掘りだした、ごく一般の日々の生活にあった話だけで昭和史を語ってみよう、というのである。片々たる街の片隅の裏話で滔々たる歴史の流れがたどれるか、となると、かならずしも自身はないが、「細部にこそ神が宿る」という言葉もある。民草の日常の生活のすぐそこににある「こぼれ話」を拾い出し、それらをつなげてゆくことで、かえって時代というもののほんとうの姿がみえてくることになるかもしれない。….』そして、後書きでは『わたしたち民草がどのように時勢の動きに流され、何をそのときどきで考えていたか、つまり戦争への過程を昭和史から知ることが、平和でありつづけるための日常的努力ではないかと思われるのです。
過去の戦争は決して指導者だけでやったものでなく、わたくしたち民草がその気になったのです。総力戦の掛け声に率先して乗ったのです。それゆえに実際に何があったのか、誰が何をしたのか、それをくり返し考え知ることが大事だと思います。無念の死をとげた人びとのことを忘れないこと、それはふたたび同じことをくり返さないことに通じるからです』…と。

1926~1945年は僕が生れる24年前から4年前である。既に父が亡くなってから30年、母が亡くなってから8年が経つ。時代を遠近法で眺め、自分の立ち位置を相対化し想像力を巡らすと、戦前の出来事も身近なものと捉えることもできる。父母から伝え聞いた昔話も、B面昭和史の時系列に落し込めば、また違った様相が表れるてくるようだ。1926~1945年の真ん中、1936年(昭和11年)は時代の転換期だった様で「2.26事件」から今年で80年が経つ。本書によって10年前に当ブログに書いた「マサさんの2月26日」のぼやけた輪郭部分が見えてくると、つくづく叔母から当時の話を聞いてみたかったと思う。小学六年か中一の頃だったと思うけれど、父母が新聞の日曜版だかに連載されていた大宅壮一の昭和の回顧録の写真を見ていて、「この人も気の毒だったね。」「運が悪かったね。」と処刑されたA級戦犯を、さも知り合いであるかのように語っていたことがある。その人物が広田弘毅と認識したのは随分後になってからである。「2.26事件」の後、首相に就任した広田弘毅は軍部の圧力に屈して、軍部の政治介入を許したとされている、元外交官にとって外交努力によって戦争回避することが使命・信条であると云うことが分っていながら、それを止められなかった事に対する自責の念が彼を無抵抗で死刑台に向かわせたのだろうかと改めて考えさせられる。
1936年4月12日の早朝、未だ中学生だったモタさんこと齊藤茂太が赤坂憲兵連隊に連行されていた。理由は飛行機好きのモタさんが軍事秘密の新鋭機の写真を持っているのではないかという疑い。これだけでも国民を萎縮させるには充分である。恐らく憲兵達は青山脳病院の立地に興味があったのではないかと…地図好きの私は思うのだが。因みに青山南町の斎藤脳病院の前を麻布方面に向かい北坂を下り、麻布笄町を抜けると、霞町に出る。其処にあった仏蘭西料理店で青年将校達が事件を画策していたいう話を聞いた事があるが...その青年将校らが処刑されたのが1936年7月12日のこと、場所は代々木の刑場、現在のNHK放送センター辺りというのも何だかである。その年の5月には例の阿部定事件があり、マスコミに扇情的に書き立てられた。それは錦絵新聞の様ではなかったのかと私は推測するのだが...因みに私が阿部定のことを知ったのは中学生の頃…たぶん、新聞か何かで知ったのだと思う。親父に尋ねたら情交の場面を省いて他は包み隠さず話してくれた。「愛のコリーダ」を見たのはそれから…10数年後であった。
説教強盗は昭和四年、昭和八年は経済学者・河上肇の検挙に小林多喜二の拷問死と政府による社会主義弾圧政策…4年前に書いた「説教強盗と学者...」も当時のB面的時代背景を知ると、また違う感慨がある。…母は兄(私の伯父)の影響を受けていたのかもしれない。法政大学出身の伯父には特高によってその交友関係と行動が監視されていたそうである。伯父が脳溢血で信用金庫の理事長をリタイアしたあと書きためた和歌をを読むと、志し半ばで獄死したり戦死した友を偲んだ和歌が大半を占めていた。本人も70年代当時このままでは大蔵省(当時)に信用金庫は潰されると語っていたから、二重の悔しさがあったと思う。(伯父が懸念していた通り、信用金庫は合併統合された。)
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目次
プロローグ 一週間しかなかった年―昭和元年
 元号は「光文」?/「イ」の一字/「昭和の子供」/昭和元年生れ
第1話 「大学は出たけれど」の時代―昭和二〜四年
 第2話 赤い夕陽の曠野・満洲―昭和五〜七年
第3話 束の間の穏やかな日々―昭和八〜十年
第4話 大いなる転回のとき―昭和十一年
第5話 軍歌と万歳と旗の波―昭和十二〜十三年
第6話 「対米英蘭戦争を決意」したとき―昭和十四〜十六年
第7話 「撃ちてし止まむ」の雄叫び―昭和十七〜十八年
第8話 鬼畜米英と神がかり―昭和十九〜二十年
エピローグ 天皇放送のあとに
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そういえば中学の時、日本史の時間(中世辺り)に似たような質問をしたことがある。いわゆるA面の史実ではなく、当時の人々の日々の暮らし(衣食住等)つまりB面はどうだったのか質問したら、即、教師に「分らない」と質問を事実上却下されてしまったことがあった。たんなる無知なのか、都合の悪い事には答えたくないのか...それは不明だが、教師に対する不信感だけが残った。

Posted by S.Igarashi at July 10, 2016 09:39 AM