September 21, 2004

住み家殺人事件・建築論ノート

住み家殺人事件・建築論ノート
松山巌・著 みすず書房・刊
ISBN4-622-07089-8 定価2100円(税込)
「建築を新たにつくることは、近代に入ってテロリズムの色彩を強めている。なぜなら、それ以前の時代とくらべれば驚くほどの短時間に周辺環境を変え、人間関係を変えてしまうからだ」
「もはやかつてあったような共同体や『公的』な世界は消えつつある。しかし建築を通じ、建築を考え、建築がつくりだす環境を考えることによって、共同体と呼ぶこともない新たな多彩な声のつながりを生み出せるのではないだろうか」

「マザー・グース」の唄、「小さな緑のお家の中に、小さな金茶のお家がひとつ、」から始まる本書はミステリー作品ではなく、建築論ノートである。これは現代建築の、都市の、社会の、そして現代人である我々が抱える社会的病理に対する問いかけである。

東京人2003年4月号の槙文彦氏と松葉一清氏との対談「建築家の責任」の冒頭部分でも、公共空間が消費されてゆく現実が語られている。現代に於いては、公も私も消費社会に支配され隷属する存在でしかないのだろうか。建築も消費生活を包み込むパッケージとして消費社会に隷属し、消費され、やがてスクラップされる運命に晒されている。

「共生・共棲」と云う言葉には「寄生」の意味も含まれている。「環境共生」と云う「うたい文句」は「寄生」の事実を隠蔽し、私には偽善にしか思えない。左の東京新聞の書評で千田智子氏が述べているように、松山氏は人も建築も自己完結する存在ではなく、何かが欠如していて、社会や地域に寄生することで成り立つと云う。
1967年にSD選書として刊行されたS. シャマイエフとC.アレクサンダーとの共著「コミュニティとプライバシー」ではプライバシーは頑なにバリアーを配し守るべき存在とされていたが、その後、C.アレクサンダー自身の論文、自動車社会に於いての「ヒューマンコンタクトを育てる都市」で、その考えを一部否定して、リビングアクセスの考えを導入していたが、あまり建築界では評判にならなかったようである。自閉症的デザイナー住宅を見るにつけ、「コミュニティとプライバシー」に縛られている気がしてならない。住宅に自己完結を求めるのは建築家の傲慢であろう。

Posted by S.Igarashi at September 21, 2004 01:24 PM
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