東京新聞2004年6月30日付け朝刊の特集で『負ける建築』 世界包む 新旧融合 不思議な空間と題し、建築家・隈研吾氏に焦点を当てている。
たぶん、隈研吾氏ほど同業者から、世代によっても評価の分かれる建築家はいないだろう。彼のように作風がバブル期の80年代とバブル崩壊後の90年代とで豹変した建築家も珍しい。バブル後期にメディアのみならず、同業者からも受けたバッシングへの自己に対する落とし前が「負ける建築」なのか、過去を封印するための手段なのか、今更ながら環境派に転向する程、バカでもないということで「負ける建築」なのか、どうなんだろう。
5月12日発売の週刊文春2004年5月20日号・文春図書館書評欄に於いて建築史家の鈴木博之氏が隈研吾氏の著作「負ける建築」を取り上げ、その理論の矛盾点を指摘、彼の建築作品の遍歴に疑問を寄せている。(クリックで拡大)
やはり、隈氏は勝ち負けに拘っているのだろうか。
形あるものは壊れ、命あるものは、いずれ死を迎える。
それは勝ち負けという判断基準には当て嵌めるものではないと思うのだが。
「人生には青春もなければ老後もない
そんなものは昼寝に見る
あだ夢にすぎぬ。」
ゲロンチョン(GERONTION)前文より
T.S.エリオット 訳;福田睦太郎・森山泰夫
世田谷環8のM2は葬祭場になっています。初めて入ったけど中はまともでした。男子トイレは小便器がなく、ガラスに向かって用を足すとガラスの上から水が流れてくる、そのガラスの裏側に蛍光灯照明。たしかに品性はもひとつですがおもしろい。バブルの残りものが葬祭場として活用されているとは何を意味するのでしょう。
彼の文章は大昔SDの海外建築情報という欄を竹山某と一緒に書いていたころからすばらしいと思っていました。
しかし中身はこのころから見え見えの戦略です。今回のこの本も一種のマーケッティングで、このような評判が立つのも折込済みのはず。ただし同業者をやり玉にするのはどう考えても利口ではなさそうです。
2チャンネルの建築・土木系で滅茶苦茶に書かれていますね。ある意味で旬なのかも知れません。
http://science3.2ch.net/test/read.cgi/doboku/1017662096/
この話題に深入りすると、どんどん下品になるので止めましょう。
風俗嬢うんぬんは建築家が職能として自立したルネッサンスの時代から言われていることでしょうから、天に向かって唾を吐くようなものです。トルストイのような文学者が建築家を批判的に作品に登場させるのは、やはりそうした側面が皆無ではないからだと思います。
噂の真相2000年05月号【崩壊寸前"愛知万博パラサイト"の"戦犯"中沢新一と残間里江子の所業】レポーター 曽我静太郎
これを鈴木博之氏が読んだかどうか、読まなくても知っていることかも知りませんが。
ありがとうございます。
負ける建築の記事を書くときに何度も書き直しましたはじめは、隈さん対する怒りを書きました、が止めました。隈さんの過去については我々の30代世代が最後の証人ではないでしょうか?鈴木さんの違和感は我々も感じるところでもあります。そして自らを棚に上げて、我々を風俗嬢と呼ぶのですから、正直、読後はかなり苛立ちを覚えました。
鈴木さんが批判を書いているとは知りませんでした。「都市のかなしみ」は「負ける建築」と同時購入し、いま読んでいる最中でしたので、比較も面白いかも知れません。
それにしても鈴木さん(五十嵐さんも)は正直なひとでとても好感を持っています。わたしは臆病でまだ先輩に批判を書けません。
余談ですが「ゲニウス・ロキ」は絶対に忘れられない言葉です。