MacWorld奮戦記 1992/2 先ずはExpoで僕等が販売した「Macintosh Desktop Architecture Guide」の企画から出版までの経過が紆余曲折しながらも、どんな風に進んだのかを今回は執筆者とUG主宰者の目から記してみたいと思う。MAD Press は「書いたもの勝ち」なのね。
この出版の企画が始まったのが昨年('91)の3月で、本が出来上がったのが2月17日だから、およそ一年かけて発行までこぎつけた訳だ。通常、建築関係の単行本が企画から出版まで一年半を費やすのに比較して1/3の時間が節約できたことになる。
MAD Party のガイドラインに記された活動に「チュートリアル・ブックの作成」という項目があった。自費出版で200部くらいのオーダーで出来ないものかと漠然と考えていたものが、出版社がついて、6000部のオーダーと30倍になり、Expo会場で185部売れたことは、当初の考えから言えば飛躍的な事だ
それでも、出版までの過程は決してスムーズなものではなかった。当初は教育産業を母体とする、ある出版社から出版される予定だった。300頁で150のトピック、価格が4000円、一つの建築設計をドキュメントにそのフローと150のトピックをリンクさせるという企画で進行し、3箇月くらい経たところで、企画がペンディングになってしまった。出版社の営業担当はいけると考えていたものが、契約の直前になって社内稟議を通すのが難しい状況になってしまったのだ。その教育産業が母体の出版社(編集はしない)ではPC-98を工務店等に販売する営業も行なっていて、PC-98の本を作るのならよいがMacの本などもってのほかだ!と言うことになり、出版の企画は暗礁に乗り上げてしまったのである。ザッブーン・・(効果音・世間の荒波)Posted by S.Igarashi at September 28, 2003 08:51 PM | トラックバックんな訳で、責任を感じたその出版社の営業担当者が別な出版社を紹介する形となり、座礁していたMAD Party丸は果てしないDTPの海原に乗り出したのであった。
再開された編集会議は言い様によってはブレインストーミングとも呼ぶ雑談に終始し、我々の編集長であるM氏のイライラが募るばかりである。そのM氏が遂に爆発してしまった。(10年以上に亘って建築雑誌の編集長をしていた彼は時として横暴になり、絶対権力者であることを誇示する態度にでるのである。これは一種の職業病である。)
それは、本の最初に載せる座談会を収録しているときだった。話しが盛り上がり、過激にエスカレートしていくとき、突如立ち上がりカセットを切り「駄目!駄目だ!駄目だよー!こんなの載せられないよ!」とわめき始めたのである。我々はなす術もなく黙って嵐が治まるのを待った。テープから起こした原稿をもって「いやー専門用語が多くてリライトの人が大変だったみたいねー、でも面白いよね、これって、結構良いこと言ってるよね。」と照れ臭そうにニヤニヤするM氏なのだ。
共同執筆というものも大変である。共通の認識としてのガイドラインがなければ成り立たない、それを探るブレーンストーミングに時間をとられるのは仕方のないことであろう。そうやって出来たこの本は民主主義的な作られ方をしていて、ちょっぴり自慢をしても良いのかも知れない。
DTPの海は穏やかな日ばかりは続かない
本の体裁として見開き2頁を一つのトピックにして、長くなっても偶数頁に納め、見開きの原則を守る。これがDTPの約束事の一つだった。原稿の入稿も、それぞれがPageMakerに図版と原稿を割り付けそれをTeleFinderによってホストコンピュータに送るかたちを取った。(ちなみに、このホストコンピュータはAppleの特販プログラムの抽選で当たったSE/30だ。)この方法は最終イメージを執筆者自らがレイアウトして確認する事が出来て、良い方法にも思えるが、結果的にはM氏の仕事を増やすことにもなってしまった。これは僕等が視覚人間であり、テキストだけでモノを考える事をしないからであろう。PageMakerで図版を割り付けてからテキストを考えるという、出版界の常識やぶりを躊躇いもなく実行してしまう僕等に今度はM氏が振り回されることになった。しかし、何だかんだといっても、レイアウトを自分で最終調整しないと気が済まないM氏の職人気質をDTPが呼び覚ましてしまったのだろう。
PageMakerの原稿は最終の「仕上がりイメージ」として考え、別にテキストと図版を入稿するのがベターであると思い付いたのは、作業も相当進んでからだった。そのうえ題割りもなく、ページ割が出来たのも出力センターに持ち込む直前である。JAZZの集団即興演奏のようにして僕等の本は作られたのだ。
忘年会の前に全てを終えたいというM氏の願いも空しく、版下を凸版印刷に持ち込んだのは正月明けの8日だ。「もう、間に合わないよ。」とM氏の泣き言が始まる度に、「お黙り!2月20日は絶対だからね。」とサディスティックな悦びに浸る私であった。
僕等の本の発行先である出版社は編集に係わることは、ほとんど何もしていない。最初の出版社とは制作費の一部の前渡しと執筆者に対して原稿料と印税支払という条件をほぼ合意していたが、実際に発行先となった出版社は規模も小さく、執筆者の条件も芳しくなく、制作費の一部を編集長が肩代わりをしなければいけないほどだった。それならば、自分達で出版すればよいではないかという理屈も成り立つかもしれない、しかしそれでは流通に乗らない事になってしまう。書籍には必ずISBN4-○○○○○とかいうコードがあって、これがないと日販とか東販とかの取次店にいく事がない。そのうえ悪いことに、この出版コードをこれから出版社を設立して得ることは不可能に近いことなんだ。ある企業が出版部門を作る場合は神田辺りにある休眠出版社を買収して出版コードを得るしかなく、ここでも利権が巾を効かし、出版社の地上げまで行われる始末である。
今回の僕等の「Macintosh Desktop Architecture Guide」の出版に関わり、編集者と執筆者の情熱と言うのか意地と呼ぶのか、それがなければ思ったような本が生まれることがないんだ、と極く当たり前の事を痛感した一年だった。
しかし、物を売るって言うことは難しい、Expoで三日間もくたびれた売り子を演じてしまった。まあ、僕等の本は誰でもが買ってくれる訳ではないので、魚屋のおっさんになってもしょうがない。売っていて気がついたことは「買ってくれる人は買ってくれる。買ってくれない人は買ってくれない。」あれ、これじゃ当たり前だ。黙ってすぅーっと近ずいて「これ下さい。」と言って買ってくれる人、だらだらと流れにまかせてきて、立ち止りちょっとペラペラと頁をめくってそのまま行く人。何回も頁をめくり長考して「これ下さい。」と買う人。兄貴が建築をやってるからと買ってくれた人。北京出身南京工科大卒のチャイニーズ、本を買ってくれてシェイシェイ。悪意を持った目で一瞥した人も、、、
なんだかんだ言って、MDA Guideが約180部(勘定がピッタリ合わないのだ)に絵本が85部売れたの成功ではないかと思う。絵本の配本を頼んだときリブロポートの編集の人が「一軒の本屋で30冊売るなんてことは気の遠くなるほど大変なんです。」と話していたことが良くわかった。お釣りを間違えたり、領収証を書くペンがなくて一所懸命探したら胸のポケットにあったりとかドタバタしながらの本屋さんでした。間違えて多くお金を戴いてしまった人、もう時効にしてください。Expoが終了してからの搬出は殆ど戦争だった。ささやかな打ち上げは幕張駅前のテント小屋で取り敢えずビールで乾杯して、「帰りは車を運転しないからね、吉田くんたのむね」と僕が言う。しかしビールの泡も消えないうち、しっかりと躊躇いもなくハンドルを握っていた僕だった。ぼくらはビートルのテールランプが闇ににすいこまれて行くのを追いながら、東京に向かって幕張を後にした。
そうですね。競争みたいにすっとんで帰りましたね。あの頃のビートルはよく走りました。
Posted by: 秋山東一 at September 29, 2003 01:42 PM