わきたさん、本屋で「暮しの手帳」を立ち読みしましたが、写真も内容も切り口もあまり新鮮味は感じませんでした。
Posted by iGa at January 26, 2007 01:35 AMiGaさん、こんにちは。『暮しの手帳』で取り上げたようですね。それから、盛岡では道造の『盛岡ノート』が復刊されました。TBのかわりです。すみません。
http://blue.ap.teacup.com/wakkyken/560.html
東陶通信連載のF森教授による「原・現代住宅再見」が「叙情詩人の小部屋」と称して「ヒアシンスハウス」を取り上げた回の抜粋がPDFになっていました。(追記にリンクを記載。)
F森教授は住宅に花の名前を付けたのは「ヒアシンスハウス」が最初だろうと書いていますね。それとF森教授が名付けた分離派(ゼセッションの事ではない、建築を小部屋単位に分離する傾向をそう呼んでいる)のはしりではないかと分析してますね。まぁ、文章として残るから公衆便所云々についての軽口はないですね。
あ、あり得ますね〜。F森教授、実はそうだったのかも。。
Posted by neon at May 29, 2006 01:02 PMやぁ、iGa さんの二年前のエントリーに反応していたのに、すっかり忘れていた。
才気みなぎる作品なのだが、吉村順三もそうですが、あの頃の方々は早熟で、20才過ぎたばかりの青年の仕事とは見えない、ちょっと大人っぽい仕事に見えますね。
私も行ってみなくちゃ。
neonさん、どうも。
ん〜、もしかするとF森教授も誰かに「遠くから見たらタンポポハウスが公園の公衆便所に見えてね」と揶揄されたことがあったりして。
そういえば「タンポポハウス」とか「ニラハウス」という名称は「ヒアシンスハウス」の影響でしょうか。
う〜む(-"-;)
私には、公衆便所には、絶対見えませんけどね〜。
iGaさん 普段は寡黙な私ですが、立原のこととなると止まりません。十代の頃から、研究書も随分読みました。このヒヤシンス・ハウスも、設計図見取り図などは資料として知っていて、まさかこの時代に造られることになろうとは、夢のようでした。彼の色々な設計図もとても美しいです(記念館でよく展示をしています)。でも、藤森照信氏は、このかわいい家を、「遠くから見たら新しい公衆便所みたいに見えてね〜」とおっしゃってました〜。それはないですよねえ。。。(泣)
Posted by neon at May 28, 2006 04:33 PMその旗が揚がっている時は在宅、そうでないときは不在と云うサインを友達に送る為だそうです。
Posted by iGa at May 28, 2006 04:14 PM以前、盛岡に6年間住んでたとき、『盛岡ノート』という本の存在を知りました。立原道造が、昭和13年9月から10月まで画家・深沢紅子の盛岡にある生家の別荘に滞在し、盛岡での叙景や心情を綴ったものです。彼は、東京帝大の建築でしたね。こんなかわいらしい素敵な家を設計されていたのですね。iGaさんが、リンクされていた「ヒアシンスハウス」のなかに、「庭に掲げる旗のデザインを深沢紅子画伯に依頼した」とありました。
Posted by わきた・けんいち at May 28, 2006 03:25 PM