神奈川県立音楽堂は保存運動の成果もあったのか、或いはバブルの破綻なのか取り壊されずに済んでいるようだ。これは1994年5月17日の保存運動を求めるコンサートをネタにMAD Pressに書いたもの、過激な内容もあるけれど、そのまま載せることにする。10年前とは考え方も違っているところもあるが、当時はこのテキストのように考えていた訳で、それを否定するつもりもない。
神奈川県立音楽堂1994年5月17日
このホールに来たのは何年ぶりだろうか、かれこれ15年位は経っていると思う。やはりどうしても東京の人間には馴染みが薄い、余程のことが無い限り桜木町まで足を延ばすこともない。もっとも神川県民の為に造られた施設であるから県外の者があれこれ言う理由も資格もない。15年前にこのホールに来たのはストラスブール・パーカッションアンサンブルが演奏するヤニス・クセナキスを聞くためだった。
クセナキスに興味を持ったのは彼が音楽家に成る前にコルビジュエのところで修業していた建築家であったことや、イギリス軍に死刑宣告されたギリシャのパルチザンだったことよりも、実際に彼の音楽に触れたことが大きい。高橋アキの「季節外れのヴァレンタイン」というケージのアルバム・タイトル曲の他にクセナキス、武満、ドビュシー、サティのピアノ曲が収められたLPは当時の僕の愛聴盤の一つだった。それまでクセナキスは上野の東京文化会館の小ホールで高橋アキによるピアノ曲を聞いたことがあるが、アンサンブルによる楽曲を生で聴くのは神奈川県立音楽堂での演奏会が初めてだった。僕の記憶によればストラスブール・パーカッションアンサンブルの演奏はステージと客席通路に奏者を配し、正にホール全体を楽器に変え、楽曲の響きの中心に聴衆がいるというものだった。音を星雲に変えホールを音楽のプラネタリウムにした演奏会だった。 それから15年経った今、神奈川県立音楽堂は県による大規模開発によって取り壊されるという。建築家、市民、音楽家が夫々の立場で神奈川県立音楽堂の保存を訴えている、しかしその論旨には微妙に擦れと軋みが見られるようだ。尤も、そうした差異を包括した保存運動でない限りゴールに辿り着くことは困難だろう。
この日の収穫は音楽家達の神奈川県立音楽堂に寄せる思いを聞けたこと、それと現代邦楽の演奏にこのホールがとても良く響き心地好かったことを発見したことだ。
音楽家達の論旨は明解だ、神奈川県立音楽堂は音楽専門のホールとして我が国に於いて最も優れた音響効果を持つホールのひとつである。そして、そうした音響効果の優れたホールは現代の技術をもってしても再現することが困難なことを上げ、更に楽器造りに準えて神奈川県立音楽堂の優れた音響効果は全くの偶然の賜物であり論理的に造られた結果によるものではないことを再三にわたり強調していた。
こうした意見を聞いていると心の中に砂漠が拡がり荒涼とした風景を見るようであり、何か此の国の文化的背景の貧しさを見るようでもある。他の分野の人達の仕事を尊敬できなくては、自分達が尊敬されることもない。これでは建築家前川国男と彼のスタッフもこの神奈川県立音楽堂の建設に携わった多くの技術者、職人達の仕事も音楽家には全く評価されていないことになる。彼ら音楽家が神奈川県立音楽堂の取り壊しに反対する理由はその建築的評価にあるのではなく、取り壊された後に造られるであろう音楽ホールが再び同じ音響効果を齎らすと考えられないというのが第一の理由である。(そして第二の理由として当然値上げされるであろうホール使用料が考えられる。)
果たして偶然だけで音響効果の優れた音楽ホールを造る事が可能であろうか、それは素人がストラテバリウスに匹敵するヴァイオリンを造れないように、名匠といわれる釖鍛冶でも失敗するように、卓越した90%の技術力と残りの10%の記述不可能な体験値や或いは感性が必要とされているのではないか、同じことは音楽演奏家にも言えるはずである。5月22日の朝のテレビでピアニストの中村紘子が「努力も才能のうち」と言っていた。著名な音楽家ほど練習を怠らない、それが出来ないのは結局のところそこまでの才能しかないという意味であろう、耳の痛い話だ。
いま、全国で演奏会の行われるホールが1500あり、今年中に30のホールが新たにできるそうである。外国から招致した演奏家の平均的な入場者率が約60%あるが、人口20万規模の地方都市で音楽愛好家の数は1000人位の単位で多くても2000人までと言われている。年々高くなる入場料に加え、聴衆によるブランド志向の結果、ベルリンやウィーンと名の付く俄仕立の外タレ集団が音楽市場に氾濫することになる。ただでさえ、その少ないパイを演奏家は分け合わなければならない、2000人規模の地方都市のホールを満員にするのは至難の技である。若い優秀な才能も海外の音楽コンクールで入賞しただけでは国内でデビューすることは難しく、音楽的才能に付け加えて美貌が伴わなければレコード会社も契約しようとしない。高橋悠治が以前、大衆消費音楽という言葉を使っていたが、消費音楽という意味ではクラシックとポピュラーの間の垣根は既に取り払われた。音楽も建築も消費されるものとしての価値しか此の国では与えられていない。四所帯に一台という世界一のピアノの普及率は毎年スクラップにされるピアノの数でも世界一であることがそれを証明するようだ。
ラックスと聞いてもそれがオーディオ・メーカーと知る人は極く僅かな数にしかすぎないだろう。そのラックスが韓国の三星電機に買収されたという記事がセンセーショナルな扱われかたで新聞やテレビで報じられていた。僕の持っている二台のアンプは両方ともラックス製である、20年以上前のLUXMAN 507Xは一度だけ修理に出したけれど、まだ現役で仕事場のBGMに活躍している。ローズウッドの突き板による外箱とアルミの無垢の削りだしのつまみで構成されたシンプルなデザインは古さを感じないモダンデザインである。もう一つのアンプはアルプス電機が資本参加していたときに作られた真空管とソリッドステートとのハイブリット・アンプだ、これも既に10年は経っている。ラックスは国内メーカーで唯一の組立キットを販売していたオーディオ・メーカーとしてマニアには知られた存在だった。ラックスの真空管アンプを自分で作ることはラヂヲ少年達の夢だった。
CDを聞いて育った世代はCDの音がミュージックであり、PAを通さない生の楽器の音はもうミュージックではなくなっている。今やクラシックもポップスも演奏会の音を如何にCDの音に近付けるかが問題とされている。「自然が人工を模倣する。」そういう時代になるのかもしれない。
ナチュラルな音の再生を志向したラックスの経営が苦しくなるのも時代の成り行きなのだろうか。神奈川県立音楽堂建て替え問題の背景には様々な文脈がある、音楽にしても建築にしても明治政府以降の近代化政策は西洋を規範とし、それらをモデルとした文化政策が行われ、日本の伝統文化芸能は天皇制を堅持するもの以外は、一段も、或いはそれ以上格下のものとみなされていた。
自治体の御為ごかしな保存行政も既に評価の定まった明治、大正期の建築にしか助成金が出ない仕組みである。
以前、JIAの建築MAP作りの為に、助成金を御願いに都庁を訪れコミュニティ文化部振興計画室 文化担当課長という肩書きの人物に会ったことがあったが、「昭和の初期の建築だったら、何とかできるが、戦後の建物を対象にするんだったら、話にならない。」と暖簾に腕押しと言うべきか、取り付く島もなく断られた。その後、私達の手によって纒められた「JIA建築MAPの企画書」は、支部の幹事会、支部長を経て本部の幹事会で当時のJIAの会長であったN設計のH.S.の手によって、握りつぶされてしまった。後で聞いた話であるが、「こーゆーことは新建築のテリトリーを害するもので、JIAがすることではない。」とH.S.が言ったそうである。そんなこともすっかり忘れていたが、この間届いたTOTO通信を見て、はっ!とした。「建築MAP東京」がTOTO出版から発売されるとの折り込み広告が挾まれていた。TOTOは「JIA建築MAP」企画する際に協賛企業として協力要請していた会社で、企画会議にも再三に亘って出席してもらい、当然、企画書や私の作ったダミーにも目を通していた。編集がギャラリー・間となっているところをみると、「JIA建築MAP」の企画に参加していた、フリー・エディターのあの人物もからんでいるんだろうな。でも、彼はH.S.に散々、嫌味を言われたようだし、JIAの馬鹿共に振り回されたから、江戸の敵を長崎でという気持ちもあるだろうな。しかし、このレイアウトは気になるよな。イラストマップを見ると、結局Macを使って、イラストレータで作成したようね。あの頃は俺が何か言っても、誰も理解できなかったけど、Macも「あたりまぇー」になったのね。
まあ、JIAの会長からにして、あの程度の認識しかないわけだから、神奈川県立音楽堂が風前の灯火なのも「あたりまぇー」なのだ。JIAの会長といえば、H.S.の後任のK.A.は、JIAの横浜大会にスタッフとして駆り出された俺達が、その大会が終了してタクシーの順番待ちをして、やっとタクシーに乗ったところ、ドヤドヤと傍若無人に取り巻きの腰巾着と共に俺達のタクシーに乗り込んできた。その腰巾着氏「どうせ、君たち桜木町まで行くんだろう。桜木町まで乗せていってあげるからいいだろう。」まったく、恥を知らない大人である。不承不承、会長達を同乗させた俺達のタクシーは工事中のランドマーク・タワーの脇を通り桜木町へ向かった。タクシーの中でK.A.が大観覧車を見上げ、「こーゆーものが、この場所に相応しいのかねぇー。」と呟いた。俺はランドマーク・タワーを指差して「でも、これよりは、ずうっと益しですよ。第一、見てて楽しい気分にさせてくれる。」と言った。
オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、アリダ・ヴァリ出演の「第三の男」は第二次世界大戦後のウィーンが舞台である。ウィーンの街はまだ戦争の爪痕を残し、工事用の石材が街角に積み上げられている。そんな状況の中での大観覧車のシーンは印象的である。他の公共施設の復興に先掛けて、子供や恋人達の為に大観覧車はいち早く修復された。
幼年期は一度だけ、夢見る季節を過ぎて見る夢は悪夢である。貧しい時代でも、子供達は夢を必要としている。野毛の丘の上から見るランドマーク・タワーを表現する言葉を私は知らないし、それから何も連想しない。でも、その隣の大観覧車を見ていると、色々な事を連想する。それが、第三の男であったり、子供の頃に行った後楽園遊園地の記憶だったり、まぁーるい形から色々なものを連想したりする。
結局、現代建築は大観覧車以上のものを創ったのだろうか、そんな疑問が起きる。
現代建築の保存問題が不毛な理由はこういうことではないだろうか。音楽家たちは神奈川県立音楽堂の音響効果を保存したいのであって、建築の保存は音響装置の入れ物であって二の次である。人々に建築から受ける感興が無い限りむりである。専門馬鹿が何百人いようがいまいが、鼻糞程度の存在である。
現代建築の保存問題は環境保存を味方に付ける以外、他に打つ手はなさそうである。
才能のない建築家ほど建築の周囲を緑で覆い誤魔化すとは、H.S.が良く言う手垢に塗れた言葉である。しかし、都市の背後に森林を控え、その成り立ちから異なる西欧の都市と比較するのはナンセンスでもある。シエナ・グラフィカ、書き割りとしての都市は西欧でのみ有効な言語なのだ。
ショーグンの箱庭都市だった江戸東京から建築が人々の共通の理念となり得たことは一度もない、社寺仏閣の人工的箱庭ネットワークが人々の精神的慰めだった。(iGa)