March 31, 2004

六本木ヒルズのユーザーインターフェース

六本木ヒルズを初めて訪れたのは昨年夏に世界都市展の模型を見るためだった。六本木ヒルズの第一印象はユーザーインターフェースが全く考えられていない建物の一語、つまりユーザーフレンドリーには作られていないのである。基本的には来訪者を拒絶する為にデザインされていると言い換えても良い。オフィスビルにとって招かざる者は門前払いするのが、森ビルの流儀なのであろう。従って、来訪者の為のインフォメーション・デザインはどこにあるのか見つけるのは至難の業、アフォーダンス(affordance)なんて概念は皆無である。そうしたハードウェア・デザインの欠点を補うために、美術館や展望施設の係員の異常なまでの人数動員には呆れるばかりであった。
建築計画のどの段階で最上階を有料展望台と美術館にすることが決定されたのか知る由もないが、オフィスビルと美術館・展望台という異なる用途を組み込み、足下には商業施設という複合施設の建築計画として、平面計画も動線計画も悪すぎる。幼児が駆け込んだ回転扉はオフィスビルへの入り口であって、展望施設への入り口は高層ビルの周囲を廻って反対側にあるのだが、その誘導の為のサインを見つけるのは、湘南の砂浜で砂金を見つけるのと、同じように難しいのである。

森ビルは高度成長期に港区虎ノ門周辺で中小の賃貸オフィスビルを次々と建設し、70年代辺りから急成長した不動産業である。建築基準法で31mの高さ制限があった時代、三菱地所が階数を7〜8階止まりでオフィスビルを計画するところ、10階建てでオフィスビルを作るのが森ビルの流儀でもあった。当然、階高も天井高も低く押さえられることになるが、賃貸面積は広く確保できる。60年代後半に建築基準法が31mの高さ制限を撤廃し、容積率を導入したことによって、中小の賃貸オフィスビルをメインにした経営方針を捨て、よりスケールメリットの大きい大規模ビルの開発にシフトすることになった。そして今日では地上げを伴う再開発は他の大手不動産業の追従を許さぬほどになっている。

企業が大きくなっても、創業者の体質や理念は残るものである。80年代に日経アーキテクチャーのインタビューで当時の会長(故人)が東京を世界金融の中心にするのが夢だと息巻いていた。そして、東京はエリートだけが住む都市にするのだ、とも言っていた。横浜国立大学の経済学部の教授という経歴をもっていた人の発言とも思えなかったのが、今でも印象に残っている。

事故発生後の森ビル管理者のコメントの行間から滲みだす「迷惑なことをされた」というメッセージを読み取った人は少なくないであろう。これも創業者の体質がなせる業かしら。

東京新聞・こちら特報部六本木ヒルズの広報体質

しかし、駅のプラットホームでも幼児の手を引いてあげるでもなく、走り廻らしている親を見るにつけ、ハラハラ・ドキドキして親を叱りつけたい気持ちになるのは私だけではないでしょうね。

Posted by S.Igarashi at March 31, 2004 11:34 AM | トラックバック
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