このテキストはMAD Pressに「神奈川県立音楽堂1994年5月17日」を掲載した、次の号に書いたものです。
音楽のゲニウスロキ・建築のゲニウスロキ 1994/10/31
もう、大分前の事になるが、高橋悠治氏が芸能山城組を批判していたことがあった。芸能山城組は山城祥二氏を組長とする、素人を組員として団体生活を通して音楽芸能活動をする団体で一時期、新宿の三井ビルの広場でケチャを演奏(?)していた。高橋悠治氏の論旨は二つ有り一つは「土地と宗教に根付いたケチャを外国に持ち運ぶことはできない。」というもの、また「ケチャをバリから持ち去った後、彼らはバリに対して何を為しうることができるのか、何もせずにいるならば、植民地主義における搾取行為と何ら変わるものがない。」という二点を問題視していた。それは山城祥二氏に対する批判であると同時に、自分自身或いは日本人への問い掛けの意味もあったであろう。
Posted by S.Igarashi at November 4, 2003 10:32 AM | トラックバック
1960年代は西洋音楽の延長線にある現代音楽も行き詰まりを見せていた時期で、それらの解決の手掛かりを、インドネシアやインドの亜細亜やアフリカに求めていた。ミニマル・ミュージックの教祖となったテリー・ライリーのインドやペルシャ、同じくスティーブ・ライヒのインドネシアやアフリカにモチーフを求めた音楽も、結局のところ西洋のテキストで記述された流通される音楽であった。流通されると言う事は則ち経済活動を意味することでもある。音楽の流通はバロック以降、平均率コードの発明によって、記述可能な音楽としてデジタル化の道を歩むことになる。コンピュータの芸術への応用という意味で西洋音楽がいち早く、それに対応できたのも既に半ばデジタル化していたからであって、デジタルへの収斂も口伝からテキスト記述へと音楽の流通が変化した時点で予測可能なことであった。 イタリア人アルダスによる出版技術の改良はルネッサンス・マニエリズムの建築家パッラーディオの建築四書を世界中に広めることになり、その影響はイギリスのパラディアニズムや合衆国大統領トマス・ジェファーソンによるモンテチェロ、そして遠く日本では大阪中ノ島の図書館にまで及ぼすことになった。国際様式が言われる以前から、建築の流通は行われていた。ゴシックの呪縛から解き放たれたルネッサンス建築のロジックは500年を経てデジタルへと収斂されることになる。
ヴィッラのポーチを神殿風のオーダーとペディメントで装飾し、都市建築を舞台装置に変換し書き割りとするパッラーディオは建築をメディアに変換した情報の建築家であった。パッラーディオを諧謔的な建築家と看破したのは磯崎新氏に背中を押されてパッラーディオを研究することになった福田晴虔氏であった。情報の誇張、操作、編集は笑いの基本である。チャップリンの胡散臭さは情報操作と言う意味でヒットラーと同じレベルの人間だからである。情報化時代と言われる今日、好感度タレントのチャートにランクされるのが、お笑い芸人というのも宣なるかな。
建築の情報化、流通化は土地、場所性との乖離を意味する。差し詰めロトンダの幾何学形態への還元はその最たるものである。
ネグロポンテのソフト・アーキテクチャーマシンに至っては、もはや過去のビルディングエレメントからなる建築の概念では捉えることはできない。究極の情報化は人間の意識の流れとコンピュータとの交流である。しかし、これは意識の肉体からの乖離をも意味する。
情報化、流通化された建築や土地はゲニウスロキの存在を否定する。場所性と乖離し幽体離脱した建築の保存運動ほどナンセンスなものはない。
どうも、情報化時代を生き残るには「お笑い建築芸人」になることなのかも知れない。そう言えばすでにそれらしき人がいるじゃないですか。
神奈川県立音楽堂について使った偶然性という言葉に対して古山氏や川端氏が反応していた。音楽家達が言った「神奈川県立音楽堂の音響効果は偶然の賜物」という言葉のコンテクストについてもう少し考えてみたい。
記述される音楽、つまりはデジタル化され、ロジカルに構築された音楽とそれを演奏する側の肉体的精神的な要素や、それを演奏する空間や、さらに聴衆の質が音楽に与える影響には計り知れないものがある。レコーディングに於ては良いところだけ繋ぎ合わせて一つの曲にする事など、いまや常識である。それでも演奏会に足を運ぶ聴衆は「偶然の賜物」を期待しているのか。
ユリイカの1976年1月号の寺山修司と武満徹の対談で寺山修司がJAZZを「日付のある表現」と言っていた。JAZZは記述されることを拒否することでその生命力を勝ちえた。それは西洋音楽が記述されること(デジタル化)で失われたものでもあった。そしてJAZZの衰退は西洋音楽と同じ記述化の道を辿ることで始まった。
西洋音楽の究極の演奏家はデジタル楽器でありコンピュータである。つまり音楽演奏家の目標は肉体をデジタル化することであり、どれだけコンピュータに近づくことなのである。そういう音楽演奏家に替わってシンセサイザーやコンピュータが音楽を演奏するようになるのは自然の成り行きでもある。しかし、悲しいことに西洋音楽演奏家の多くは、精神を叙情的世界に置いて、肉体と論理はデジタルにあろうとする自己の矛盾に気付いていない。
西洋文明のΩ点というのは記述化されないものを否定する言葉だけで構築された世界の終点ではなかろうか。究極のデジタル化というのも、どうもそういう方向に向かっている気がする。(iGa)