ブラタモリ「#85 高知」で案内人の名刺にプリントされた高知・長浜競馬場の痕跡写真から話しが脱線しタモリが最近、目黒競馬場の痕跡を歩いたばかりだと話しが弾んでいたのを聞いて、そういえば10年前、aki's STOCKTAKING:八王子 /1964年冬にakiさんの御父さんが撮影したパノラマ写真に八王子競馬場の跡が写っていたことを思いだし今昔マップでその位置を確かめてみると、大和田町1丁目13番地辺りの道路のカーブがその痕跡のようにも思えるが等高線とも重なっているようで定かではない。都立八王子東高と市立高倉小や首都大学東京の日野キャンパスが八王子競馬場の跡地の一画を利用しているようだ。
因みに八王子市の市制100周年と八王子市郷土資料館50周年の記念特別展の図録を調べると八王子競馬場と八王子遊廓の記録は抹殺されていました。俗に云う「飲む打つ買う」は負の歴史として市制100周年には相応しくないのでしょう。それにしては八王子芸者と黒塀を町づくりのシンボルとしているのは解せませんです。
1964/05/16(昭39)の空撮写真(地理院地図より)国道20号線の日野バイパスは完成している。
沖電気工業・八王子事業所が撤退し、そして...一棟だけ残った...跡地も暫くの間...取り敢えず…駐車場に...使われていた。その跡地利用に建つ大型商業施設の概要が公表され地元説明会が開かれたのは昨年のこと...交通渋滞を懸念する地元住民の声には耳を貸さず、計画はそのまま実行に...前面道路からのアプローチの写真を見ても歩行者や近隣に対して何も考えてないことが良く解るプロット・プラン。モールの中に引きずり込んでしまえば、こっちのモノ...と云うことでしょうね。
この地域には他にも大型商業施設が乱立...さてさて生き残るのは......そして良い明日を迎えられるのは...果たして...
それにしても、駅前にあったSoftBankもDoCoMoも...駅前のダイエーにあった「とんかつ・さぼてん」も、この商業施設に移動...通勤の帰りに利用していた地元民には不評。八王子市民球場の命名権もこの商業施設の親会社の.関西企業に売渡し...八王子はどうなることやら...
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市ケ谷からの帰り都営新宿線と京王線を乗り継ぎ、京王八王子から甲州街道沿いの廃れて行く商店街の中、孤軍奮闘している個人商店を横目に横山町から八日町まで歩き、八王子夢美術館で会期が今週末までとなった「カッサンドル・ポスター展」を見てきた。チャコールグレーの壁面に展示されたカッサンドルの大型ポスターは、極端にパースペクティブを強調したり、部分を極端にクローズアップした構図等々、コルビジュエをして「キュビズムではない」と言わしめるほど、トリッキーでセンセーショナルだったのだろうが、ポップアートやポストモダニズムの季節を通過した後では、グラフィックデザインのルーツとして懐かしさも感じる。そういえばレイモンド・ローウィとイメージが重なる処が感じられたので、ローウィの2004年の展覧会図録を引っ張り出し調べてみると、二人ともアメリカの雑誌「ハーパーズ・バザール」(Harper's Bazaar)の仕事をしていた、これは編集者が同時代の表現者として彼らのデザインを採用していたのだろう。
今回の図録には掲載されていないが、アナザーストーリーとして9枚のレコードジャケットが展示されていた、これはカッサンドルのデザイン事務所による仕事の様だ。その中の一枚、アルド・チッコリーニのサティのピアノ曲集は私も持っていた。尤も私のLPは東芝EMIによる国内盤なので若干の変更は加えられているようだ。
公式サイト:A.M.CASSANDRE
Wikipedia:アドルフ・ムーロン・カッサンドル (Adolphe Mouron Cassandre)
午前中、八王子南郵便局からの帰り、工事途中の八王子南バイパスの西行き正面に富士が...この季節にしてははっきりと見えたので、栃谷戸公園に立ち寄り車を止め、展望台からiPhoneで撮影。みなみ野の開発で、七国峠に通じる、この公園付近の鎌倉古道は消えてしまったが、この風景から人工物を消し去れば古の人々が見た風景とそれほど変らない筈だ。もちろん人工的に発生した飛行機雲も消し去った方が良いだろう。
水仕事をしていると台所の窓から山桜の花びらが舞い落ちるのが見えた。昼食後の腹ごなしに裏山から初沢城跡まで往復小一時間弱の散歩...去年よりも一週間程度...春がゆっくりです。山道の脇では控えめにミツバツツジも咲いていた。
と云うことで昨日、高尾警察署で免許証の更新を行なったのだが、有効期限は平成三十四年である。陛下の生前退位に伴い年号も改められるだろうから、訪れることのない幻の未来まで有効な免許証の様である。これで再び西暦との換算がややこしくなるのだろう。尤も既に西暦にシフトしている爺には役所の手続きの際に年号換算Applicationが手放せないのである。大正生まれの父母や昭和の自分たちの生年月日や出来事は西暦と年号のダブルスタンダードで時代を覚えているが、平成は大喪の礼が1989年と記憶されているだけで、年号は記憶から外れたままである。従って、阪神淡路も地下鉄サリンも西暦は直ぐに解るが、年号は記憶されていないのである。
30分の講習が終り免許証を受け取ってから、高尾警察署の裏の南浅川の岸辺まで足を延ばし桜を...山里は満開ではないようだ。
今年は昨年よりも開花が遅れ、未だ満開とはなっていないようです。私もインフルエンザでダウンしていたので例年の様に開花ウォッチングすることもなく今日が初めてでした。昨日は高尾山の貫首様も花見に訪れていたようです。
佐藤孝太郎著「八王子物語・上巻」342頁「女登山を許す富士縁年」より。
ブラタモリ#52 富士山麓にて富士吉田の御師のお宅で万延元年-1860年(庚申)の「御縁年」に纏る話の中で、その年だけ女性の登山が許されたと云うことであるが、その件については高尾山の麓、小仏関所(駒木野関所)の日誌にも記録されている。ブラタモリ#47 高尾山でも薬王院境内にある浅間神社等、高尾山と富士信仰の関係が語られていたが、江戸時代まで高尾山の表参道であった旧甲州街道からの蛇滝口はスルーされていた為、蛇滝口の茶店脇にある富士講の石碑などは無視されていたのが残念である。
しかし、世の中には奇特な人もいて、江戸市中から甲州街道を歩き富士講の足跡を辿るを実践した人もいおられる様だ。北口本宮冨士浅間神社・富士講には現在も活動している富士講のリストがあるが、その中に小仏関所の記録にある鳩ケ谷の富士講もある。小仏関所を通過した鳩ケ谷の富士講680名の内、女性が145名というからには関所役人の懐も多いに潤ったに違いない。
二年前の四月のエントリー『そして...一棟だけ残った...』で紹介した沖電気の八王子事業所跡地に建設中のショッピングセンターの計画図であるが、これは先週の大規模小売店舗立地法に基づく地元説明会で配布された資料だ。8月の「市長と語る」では市長が『…施設前の車道は3車線分の幅員があり…(中略)…交通への支障は少ないものと考えています』と述べているが、「3車線」と言わず「3車線分」と言う処に狡猾さが滲み出ている。「3車線分」の道幅があると言っても路肩に車が停められていたら、当然の事ながらセンターラインをオーバーする訳で対向車とのすれ違いには徐行して充分注意しないと危険が伴います。従って交通に支障が出るのは明らか、既に町田街道は圏央道の高尾山インターに繋がる浅川トンネルが出来てから慢性的に渋滞しているので、このショッピングセンターが出来たら更に渋滞は酷くなるでしょう。既に種畜場跡にはホームセンターと生鮮食料品を扱う大型店舗が出店、南大沢に移転したスリーボンド本社の跡地にはヤマダ電機が出店するとか、八王子インターの北側にはイオンモールの計画もあり、建設通信新聞によれば「加速する多摩地域の大規模商業施設群開発/総延べ床60万㎡」とあるが、進行中の計画を含めると74万7600平米まで膨らむそうだ。供給過剰となって…『そして...一件だけ残った…』とならなければ良いのだが...さてさて生き残るのは...
JR高尾駅から京王狭間駅周辺の大規模小売店舗(地図はクリックして拡大)
こんな狭い地域で顧客の奪いあいが始まるのか...既にJR高尾駅北口商店街は全滅、替わってコンビニがある程度。駅舎を取り壊し、かろうじて生き残っている店舗を追い出して北口駅前広場を拡張してバスターミナルを設けるのも八王子の西北部を開発するデペロッパーのため…。
Change.org:SAVE TAKAO STATION PROJECT
「高尾駅舎の現地保存を願う会」がChange.orgで「八王子市: SAVE TAKAO STATION PROJECT 高尾駅北口駅舎の現地保存を求めます。」という署名キャンペーンを発信しました。賛同者の目標は46,000人です。賛同していただける人は何とぞ宜しくお願いします。
関連
高尾駅・南北自由通路
八王子と鉄道
四谷大木戸より十二里も離れると『江戸っ子は五月の鯉の吹流し』の喩えも...空々しく聴こえますが…ここ南浅川にも鯉が遡上…しているようです。
五月最初の日曜日、上流では水遊びする親子も...川べりにイタドリが群生しています。
ちょっと裏山まで散歩、新緑に山桜の花と葉が彩りを添えてます。夏場は緑一色となる雑木林のもこの季節は水彩画の様に微妙な色彩の重なりが愉しめます。
やんごとなき方の墓所から下々の墓所、心を病んでしまった方々の医療施設から、罪を犯してしまった人々の医療施設、ターミナルケアの施設に、老人ホームに介護施設、等々...八王子には他所では快く受入れて戴けない施設が…数多くあります。
此処は市内の桜の名所の中でも近くまで車でアプローチが出来る為か、介護施設のワゴン車に分乗してお年寄りも数多く訪れていました。そんな中、車椅子の後期高齢者の御婦人に『綺麗に咲いているわね、よーく見ておいて下さいね。』と話しかける介護士。
と云うことで樹齢250年を越える老木故に昨年よりも今年は花を付けない枝が多く見られ、花の季節が終わったら大規模な延命治療が待っている様です。また、高楽寺の裏山の旧道に抜ける嘗ての里道だった赤道の土手にはカタクリの花も咲いてました。
因みに本日の東京新聞朝刊多摩版にも高楽寺の枝垂れ桜が大きく扱われています。
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関連:ブログを始めた半年後からの「高楽寺の枝垂れ桜」に関する記事。
March 27, 2004・高楽寺の枝垂れ桜
April 01, 2006・Sakura
March 26, 2008・福楽会の...
March 24, 2009・三分咲き...
April 05, 2011・高楽寺の枝垂れ桜 2011
April 08, 2012・改訂:高楽寺の枝垂れ桜 2012
April 12, 2012・福楽の桜
March 18, 2013・高楽寺の枝垂れ桜 2013
March 21, 2013・続・高楽寺の枝垂れ桜 2013
March 26, 2013・続々・高楽寺の枝垂れ桜 2013
March 26, 2014・2014・春
April 04, 2014・高楽寺の枝垂れ桜 2014
March 26, 2015・高楽寺の枝垂れ桜 2015
March 30, 2015・高楽寺の枝垂れ桜 2015-その2
March 23, 2016・高楽寺の枝垂れ桜 2016
昨日のMX-TVの夕方のニュースであるが、まぁ、知事が言うのだから間違いないでしょう。八王子は田舎です。しかし…言葉に詰まった処は…他に言い換える言葉が見つからず「ボキャ貧」を露呈してしまったようにも見えました。しかし相変わらず上から目線の物言いは直らないですね。
まぁ田舎には故郷の意味と都会の対義語としての辺境の地とか鄙びた文化果てる地の意味があると思うけど、地元の人が言う「八王子は田舎です」は謙遜と自虐が含まれているが、23区内に住む人の言う「八王子は田舎です」は優越感と差別意識が含まれていると言っていいでしょう。どっちにしろ目糞鼻糞の類いですが、この男の本質が垣間見えたようです。
と云うことで田舎に住む私の家も土砂災害警戒区域に引っ掛かってますが…その原因の多くは人為的なモノの様に思えます。
昨年暮から今年の1月に掛けてテレビドラマ(29日放送)のロケが行なわれた場所である。そのシーンの一つがこれらしい。物語の舞台は前橋周辺に高崎辺りの北関東らしいのだが、このマンションがドラマでどう使われているか分らないが、ここは群馬ではなく八王子の山里である。尤も映画やテレビドラマでは遠く離れた場所でも空間をワープさせて無理矢理近づけることは常識の様ですね。
このマンションの建っている辺り、私が小学生の頃は畑でした。この道は幅が一間程度の農道で、その左は雑木林で丘陵から山間部と変わる境界線でもありました。その雑木林も今ではこの写真にあるような建て売り住宅が並んでいます。この道路の正面にはこの霊堂の尖塔部分が見えてしまうので、カメラアングルには気を使ったかのかなと思います。
今年1月の夕刻、買い物からの帰りにロケに出会したことがありましたが、この道の手前を左折して次の丁字路を右折すると私の住んでいる谷戸に降りますので、マンションの前を交通規制していても無問題でしたが…どうやら私が遭遇したロケの現場に富司純子さんもいたようですね。
追記:どうやら撮影協力は無視されたようです。
と云うことで、全部ではなく確認の為にところどころと最後のエンドロールだけ見ましたが、高崎市の皆様とか、撮影協力として川越市、秩父市とかはありましたが、八王子○○町会の皆様とはありませんでしたね。と...するとこれは口止め料でしょうか、昔々、獅子舞を取材しに来た時はタオル一本でしたから、時代も変わりましたですね。まぁ...町会でも警察署の協力を戴いて防犯対策とか行なっているのに…DV犯罪現場のロケとは…後味悪くて残念でした。
中学生の頃、体育の授業で区画整理されたばかりの此の道路を走らされた。俺も痩せてヒョロヒョロだったけど、街路樹として植えられたばかりのケヤキもヒョロヒョロで未だ頼りなげだった。そして校外授業でこの向かいに出来たばかりの事業所に見学に行ったこともある。当時最先端の半導体工場の見学範囲は限定され、ここで何が造られているのか、何だか良く解らないまま工場見学は終わった。その時、初めて聞いたクリーンルームという言葉を覚えたのが唯一の収穫だった。あれから半世紀余り、次から次へと拡張された工場群は...今では僅かに一棟を残すだけとなった。これも斜陽の都を象徴することかも…
赤で囲われた東南の一画だけが残され、他は更地となった。パノラマは事業所の向かい側にあるホンダのディーラーの前から撮ったモノ。(赤丸印)
GoogleMapの空撮は比較的新しく2012年の暮れから2013年の初め頃だろうか。
追記:2014年5月に空撮写真が更新され『そして...一棟だけ残った...』ことが良く解る。
この前の道は車で良く通るが、道路に違法駐車して写真を撮る程、ずうずうしくもないので、いつか撮りに行こうと思っていたが、ようやく2013年の10月27日に撮ったのがこの写真だ。
そういえば、此の辺りで、座り込みをしていた唄う人はどうしたのだろうか。
昭和30年代前半まで此の辺りは畑、桑都・八王子に相応しく曲がりくねった農道の脇に桑の木が植えられていた。
JR中央線側から…
プラントの解体工事は…とてつもなく時間が掛かるものだ。
そういえば…先日「サラメシ」でこの企業の制服を久しぶりに見たが…あれは本社の社食なのかな…会社の沿革を見ても…工場の新設はあるが…事業所の売却は書かれていない…。
先週の土曜日、京王高尾線の車窓から片倉城跡のある丘に桜が咲き始めているのが見えたので、天気が回復した今日の午前中に城跡の穏やかな風景の桜を愛できた。カタクリの花はそろそろ…
菜の花も後は種を収穫するだけ…と云う農業が...いつまで続けられるのか...
昨年は例年より早くお彼岸には咲いてましたが、今年は例年より遅く四月になって咲きそろい昨日・一昨日の雨にもマケズ、今朝まで降り続いた雨の所為か花が重そうに見えますが、花が散ることなかったようです。因みに6日の日曜日まで夜間はライトアップするとか…です。
と云うことでライトアップの様子を...
ぼくは高尾山の森林保護員
宮入芳雄 (著)こぶし書房 (2014/2/25)
先日、市ケ谷見付から江戸湾・お台場周辺まで出掛けた帰り、高尾駅南口の啓文堂書店に立ち寄ると、本書が平積みにされていた。いつもなら一瞥するか、手に取りパラパラと頁を捲り、元に戻すのだが、珍しくそのままレジに持って行った。外連味も作為も感じられない体裁と、飾り気の無い正直で読みやすい文章に共感を憶えたからである。
都内から転校してきた小学二年から中学三年まで地元の公立校に通っていたので、秋の遠足と云えば高尾山周辺を学年に応じたコースで歩かされるのが定番であった。それに子供の頃は山の中も遊び場だったから道なき山を分け入ることや、沢に降りてサワガニを捕ったり、自生の栗や柿やアケビやキイチゴを採集したりもしたが、地元で生まれ育った農家の子が持っている動植物に対する知識にはとても敵わなかった。頁を捲ると、そうした昔を思い出し「そうそう」「そうだったのか」「へぇ〜」と知っていることよりも、知らないことが多いと、今さらながら思うのである。
内容
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はじめに
春 ----------------------------------------------------
春を告げる花々/芽吹きの山/高尾山のスミレ/高尾山のブナ/蛙合戦/タゴガエル/
異形のビーナス/ジャケツイバラ/立ち入り禁止の植物/境界線と林班図/
森の中の信号 不思議な建物/ヤマガラを野鳥に戻そう/ホウチャクチゴユリ/
イヌブナの実生/高尾山山頂の賑わい/エビネの群落/ヤマシャクヤク/高尾山野観察路/
江川杉/ミミガタテンナンショウ/霧の森
夏 ----------------------------------------------------
夏の花々/キヨスミウツボ/捨てられたウサギ/イノシシ/山ガール/オオムラサキ/
高尾山の動物事情/不思議なアジサイ/ランの季節/クガビル/薬王院/飯綱権現/地衣類/
森の中の結婚式/冬虫夏草/ゲリラ豪雨/他人になりすますアゲハモドキ/石清水/
よく見るとカワイイ?小型のヘビ/忘れられた場所
秋 ----------------------------------------------------
秋の花々/麦蒔きイチョウ/スズメバチ/タカオヒゴタイ/黄葉/キノコ/妖しい八王子城山/
幻の滝 青龍寺滝/キジョランの実の中から/ブナの結実調査/アサギマダラ/
高尾山ケーブルカー/奇妙な虫たち/サルの食事/秋の実/八十八大師巡り/
冬 ----------------------------------------------------
元旦/シモバシラ/ムササビの食痕/国有林の間伐/キジョランとテイカカズラの綿毛/
冬芽と葉痕/スギ花粉/林道歩き/リスの食べ方、ネズミの食べ方/高尾山から見える山と海/
雪景色/動物たちの足跡/他人の家で越冬するフクラスズメ/高尾山の救助態勢/
ダイヤモンド富士
昼寝の話---あとがきにかえて
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因みに著者の宮入芳雄氏の前歴はカメラマン(今もそうかも知れないが)、広告業界をフィールドにして「モノ撮り」をしていたらしい。そういう業界を知っているから、逆に外連味のない編集を心掛けたのかも知れない。
あの日、自分が何を呟いていたのかTweets 3.11で確かめてみた。
当日は情報も少なかったがコストコのスロープが落ちたことは確認していた。
Tweets 3.12〜3.13
翌日は福島第一原発の情報を海外メディアから得ていた。震災翌日、取り敢えず早めに自動車への給油を済ませておいた行付けの個人経営のガソリンスタンドは事情があって今月中で廃業するとのことだ…
Tweets 3.14
震災から3日目は生活物資が話題に…
Tweets 3.15
震災から4日目は計画停電が話題で…ポポポポ〜ン
そしてBlogを再開したのは震災から168時間が...過ぎてからでした。
四年前の夜分に瓜坊を写真に収めた事があるが、今日は雑木林を伐採した裏山に真っ昼間から現れた猪を発見、直ぐ様、台所の窓からiPhoneで撮影(部分拡大)。あの時の瓜坊ではないだろうが、まだ若者の猪のようだ。我家の庭には野鳥や野良猫だけでなく狸や猪も闖入するようで、庭に猪が鼻先で植物の根を掘り起こした穴が見つかる時もある。
八王子夢美術館で開かれた「坂本一成 住宅めぐり」のトークショーが終わってから、略12年振りに八王子・田町の八王子遊廓・跡まで足を延ばした。上図・明治25年(1892)の古地図には未だ遊廓はなく、極楽寺裏手の浅川橋付近から取水した農業用水の水路に架かる浦田橋の橋跡が残されている。遊廓が田町に移ったのはこの古地図が作成された二年後の明治27年と伝えられている。
参照:歴史的農業環境閲覧システム・明治「迅速測図」
上:横山町から暁橋に向かう道の八王子遊廓の手前に浦田橋(地図の○)があった。
下:明治25年の古地図と比べると都市計画的に八王子遊廓が造られたのが良く解る。
追記
ミツカン水の文化センター 第14回里川文化塾「大久保長安・八王子の治水とまちづくり」
9月7日(土)里川文化塾・実施報告・大久保長安・八王子の治水とまちづくり
因みに当ブログでもApril 03, 2006にミツカン水の文化センターを紹介。
March 17, 2008の谷田川跡をあるくの資料としてミツカン水の文化センターの機関誌「水の文化」第15号「里川の構想」を紹介してました。
昨年、バスで甲州街道を通り掛かった時から気になっていたが、八王子の追分まで来る用事もなく、昨日、八王子夢美術館で開かれた「坂本一成 住宅めぐり」のトークショーの前に西八王子から水無瀬、追分と歩いた時に撮影、この空き地の両側は店舗が建っているから、恐らくこの空き地にも店舗併用住宅のような建物が建っていたのだろう。もう少し、時間を待てば45°勾配の屋根と影の傾きを合わせる事が出来たかも...。
本日5月17日から八王子夢美術館で開かれる『坂本一成 住宅めぐり』であるが、JEDIの仲間に氏の教え子も居ることからギャラリートークの日程に合わせ、5月18日の午後から西八王子に集合し、千人町から、追分、八日町と歩いて美術館へ乱入?...その後...田町、中町、旭町と歩き...居酒屋にて直会の予定としている。
そう云えば「水無瀬の町屋」について6年前に氏の教え子を巻き込んでこんな事もありました。
そして7年前の「昭和モダニズムとバウハウス〜建築家土浦亀城を中心に〜」展のエントリーに掲載した都市住宅7109住宅第1集・表紙の左端の写真が「水無瀬の町屋」で右端の写真はakiさんが東孝光建築研究所時代に担当された別荘建築と...masaに奇しくもである。
より大きな地図で JEDI坂本一成住宅めぐり を表示
追記・aki's STOCKTAKING:坂本一成住宅めぐり
会場は写真撮影OK 但しインターネット公開が目的の撮影やフラッシュ・三脚の使用はNG
布地にインクジェットプリントされた建築写真のタペストリーによる展示は必見。
ブログを始めて今年の9月で10年目となるのだが、その間多摩森林科学園の桜保存林を既にエントリーしていたと思い込んでいたが未だであった。...と云うことは、桜保存林に行ってから少なくとも10年以上は経っているのだろう。そんな訳で久々に好天に恵まれた一昨昨日の4月4日、桜保存林まで散策してきた。山桜が咲き始め、落葉樹が芽吹き、そのなか常緑樹が落ち着きを与えている山里の風景はこの季節限りの自然の贈り物だ。
東京新聞:【望 〜都の空から】多摩森林科学園 楽園守る 美と心
上の写真は高尾街道を多摩森林科学園に向かう坂道、1964年の東京オリンピック・自転車ロードレースの時はこの坂を高尾駅前交差点に向かって一気に下る難所でもあった。
私の家からは往復で8km弱、高尾駅から高低差50mほどの山を散策して4〜6km位、手頃なウォーキングといったところだろう。
杖も借りられるので...御安心を...猪に遭遇できたら...或る意味幸運かも...
開花から一週間経ちましたが...ここ二三日と気温が低めで...枝垂れ桜も見頃が続いているようですが、そろそろ散り始めでしょうか...リュウノヒゲに花が咲いたように見えます。
一昨日は蕾だった枝垂れ桜は翌日には開花...本日は概ね満開でしょうか...昨年よりも二週間程度早い模様です。
昨日はお彼岸の中日、お墓参りとお花見が同時にであります。
こちらのお宅はミモザが満開。
梅は咲いたので桜は..と云うことで、昼過ぎに高楽寺の前を通りかかると枝垂れ桜の手入れを行なっていました。昨年は4月に入ってから咲き始めましたが...蕾の様子を見ると開花は早そうです。
高楽寺の枝垂れ桜 2012
高楽寺の枝垂れ桜 2011
GPS-Trk 2の機能を確認する目的もあって、昨日、裏高尾の木下沢梅林(こげさわばいりん・上記写真:中央高速の向う側)までの散歩、往復で12.25kmである。尤も家を出て暫くしてから計測するのに気付いて記録開始したから往復12.5km位だろう。平均して歩行速度5km/h程度で2.5時間のウォーキング、舗装してある道よりも舗装してない川沿いの山道の方が足への負担が少なく歩きやすい。と云うことでiPhoneで記録した「.kmz」のファイルをiMacに転送、GoogleMapにインポートして、往路(赤)と復路(青)を色分け。まぁGPSの誤差は最大で20m程度だろうか。
圏央道の真下にも...梅が
嘗て高尾山の標高はこの地図(帝国書院・中学校社会科地図・昭和36年12月20日発行)に示されているように600mであった。そして現在の標高は599mとなっている。つまり高さ634mの地デジ対応電波塔よりも35m低いのであるが...いつから国土地理院が高尾山の標高を改めたのかwikipediaにも記載がなく、他にも情報が乏しく不明である。国土地理院から改訂の案内が届かなかったのか、或いは伝統を重んじるのか、四捨五入でザックリとなのか、高尾山薬王院公式ホームぺージでは昔通りに600mを標高にしているようだ。
こんなことを思い出したのも、高尾山の麓に在った1964年の東京オリンピックの時に選手宿舎としても使われたユースホステルと高尾自然科学博物館の跡地に造るハコモノが「TAKAO 599 MUSEUM」となるらしいことを知ったからなのだが...それにしてもこのハコモノは基本計画から較べると平凡なカタチになったようである。
3月18日のこの日、八王子JCTから見た市内方面の曇天の空です。何となく雲が龍の尾の様に見えたのでデジカメに撮って、後から妄想力を働かせて映像を見ると右端の雲が振向いている竜頭に見えないこともないようです。もしかすると、これは国立博物館で20日から開催された『ボストン美術館 日本美術の至宝』で初公開される曽我蕭白の雲龍図のパブリシティーなのかも...。
と云うことで、こちらは翌日の19日、京王線高尾駅からiPhone4Sで撮影した雲龍図?その1
こちらは初沢城趾の上にかかる雲龍図?その2
それとも、ネバーエンディングストーリーのファルコンでしょうか?
四年前の2008年2月21日にエントリーした南浅川町に今月の25日に開通する高尾山ICと八王子JCT間の高尾山トンネルを見てきました。印象として、政治的にも土木工事的にも力づくで、住民や自然をねじ伏せて既成事実を作り上げてしまう様は、原発行政と似たものがあるようです。それにしても大垂水峠へ向かう街道上に唐突に現れる高尾山ICの出入口ですが、国道20号線と八王子南バイパスとは信号による平面交差となります。杞憂でしょうが出入口付近の事故や渋滞の発生が気になります。御為ごかしか、ガードレールに使われている防腐処理された間伐材?らしき削り丸太は何を意味するのでしょう。
接続道路との高低差を解消するにはランプはより大きくなります。
2008年2月に工事事務所に置いて有った高尾山ICの完成模型と国土交通省関東地方整備局・相武国道事務所・発行の高尾山IC開通プレスリリースに掲載されている高尾山IC付近の航空写真を比較すると、城山八王子トンネル入り口の崩落現場が工事中断し、下り線の南浅川トンネルと高尾山トンネルの間にシェルターが新たに設けられたことが分かる。
3.11東日本大震災による仮称・城山八王子トンネル上り車線入り口部分の崩落現場、法面の改修工事が終り、来月からトンネル工事を再開するらしい。ここは確か2008年夏の集中豪雨でも崩落したと伝え聞いている。(此の時は京王高尾線のトンネル出口付近で山肌が崩落し、トンネル出口を塞いだ。)
国道20号線より城山八王子トンネル入り口付近を見る。(2008年2月)
恐らく、トンネル上部のこの植樹された針葉樹林が2008年夏の集中豪雨で滑落し、3.11で再び緩んでいた地盤が崩落したのではないでしょうか、広葉樹林と違って針葉樹林は下草も生えず、保水力も弱く表土が崩れやすいですからね...。
国道20号線より工事中断している城山八王子トンネル入り口付近を見る。(2012年3月)
因みに城山八王子トンネル以南の圏央道の神奈川県内は城山ダムと津久井湖を避けて、相模川の河岸段丘に沿って南下し海老名JCTで東名に接続し、茅ヶ崎で新湘南バイパスに繋がるようです。
昨日、確定申告を提出に八王子税務署に行った帰り、八王子駅に見馴れない車両が停まっていた。念の為にiPhone4Sを取り出し写真を撮ろうとすると動き出した。何かの試験車両だとは思っていたが肉眼では識別できず、画像をiMacに取込み車両に描かれたロゴを拡大し、Google検索した結果『East i-E』だと判明。税務署への近道でもある南口再開発ビル2階通路は鉄ちゃん向きかも...。
と云うことで『川の地図辞典 多摩東部編』・336頁地図(梅の木沢の上辺り)の市境となっている尾根道(七国峠付近)の分水嶺である。因みに左側が八王子市宇津貫町で多摩川水系浅川の支流湯殿川のそのまた支流兵衛川の流水域、右側が町田市相原町で境川の支流陽田川の流水域となる。つまりこの付近に降った雨は尾根を隔てて東京湾に注ぐ多摩川と、相模湾は江ノ島近くの片瀬川(境川の下流河口付近の名称)になって海に注ぐ訳である。また、この尾根は武蔵と相模とを分ける国境でもあり、尾根の続きにはその名も相武C.C.なるゴルフ場がある。尤も国境は支配者の勢力つまりは力関係によって決まる訳で、その辺りも微妙で...明治初期は八王子も町田も神奈川であったが、現在は境川が県境となっている。
左写真の手前にあるのが八王子市の標識杭、中央が町田市の標識杭となる。この尾根道(古道)を先に行くと東京造形大近くにでる。逆に踵を返して七国峠(※)を通り、鎌倉古道を外れて大日堂を抜けて、東京家政学院の向かい側の谷戸にも降りられる。そこまで行けばここも近い。
※正しくは「しちこくとうげ」である。「ななくに」は八王子みなみ野の開発によって新たに区画整理された町名である。
[+]:PanoramaPhoto by iPhone3GS+AutoStitch
パノラマはこの四月に拡張整備が済みリニューアル開園した片倉つどいの森公園の外れから見た風景、その正面に見える森は片倉城趾でなく片倉城跡である。この付近も一般的には多摩丘陵(古くは多摩の横山)と大きな括りで呼ばれるが、場所を特定すると小比企丘陵となり、現在は八王子の地産農作物の供給地の一つとなっている。湯殿川を挟んだ対岸の北側は椚田丘陵となり、その丘陵の外れ、低山から山脈が始まる位置に初沢城跡があり、この小比企丘陵からも初沢城は遠望できる位置にある。嘗ては初沢城を下った町田街道から東側一帯の椚田丘陵も農地が続き、昭和30年代中頃までは田園風景が広がっていた。
1947年に進駐軍が空撮した写真が片倉城の空堀がよく分かる。南北に走る道路が国道16号線(通称・横浜街道、但し横浜では八王子街道と云う。)右上から左下に斜めに走る線路はJR横浜線(当時は単線)、東西に蛇行して流れるのは湯殿川、横浜線の南側に沿って流れるのは湯殿川の支流・兵衛川である。
GoogleMapによる空撮写真であるが「片倉つどいの森公園」は未だ災害避難場所として公園整備されてなく人家が残っている。また八王子南バイパスの一部となる公園西側の道路も延長工事がされていない。八王子みなみ野の開発に伴って造られ公園の一部となった調整池は1947年の進駐軍空撮写真を見ると兵衛川の支流が流れる谷戸であったことが解る。
片倉つどいの森公園・芝生広場から高尾山を望む。手前には初沢城も見える。
芝生広場にはピクニックにきた人のテントが張られているが、ここが難民キャンプ村になることは想像したくない。因みに、良く晴れていればここから富士山もみえるしキューピー山も良く見える。子供の頃、椚田丘陵の畑で凧揚げをしたが、この芝生広場も凧揚げには良さそうだ。
片倉城跡公園の二の丸広場、此処もピクニックに良さそう。公園北斜面の谷戸のカタクリの花は季節が終ったが、今は山吹草が盛りである。
川の地図辞典 多摩東部編
私は『川の地図辞典 多摩東部編』の333頁の圏外に住んでいる。と云うことで『川の地図辞典 多摩東部編』出版記念ウォークの前日に以前より気になっていた湯殿川の上流域を歩いてみた。子供のころ川遊びした淵は館ケ丘団地の建設に伴う町田街道の付け替えで、遠の昔に無くなってしまっている。また現在は圏央道八王子南I.Cに繋がる八王子南バイパスのトンネル工事やら、更に湯殿川上流域の河川整備も工事に着手する等、既に往時の山里の風景を偲ぶものは何一つ残されてない、と言っても言い過ぎではないだろう。尤もガキの頃は川の名も知らず、ましてや川の名の由来が出羽三山の湯殿山にあった等とは知る筈もない...。
さて、1947年の米軍による空撮写真とGoogleMapの空撮写真を比べるとこの半世紀の間にどれだけ地形を痛めつけてきたか一目瞭然である。GoogleMapの空撮写真も未だ八王子南バイパスのトンネル工事等が撮影されてなく最新の物ではない。1947年の湯殿川の上流域の谷戸に見られる建造物は恐らく旧日本陸軍浅川地下壕の工事関連施設の様だが、既に資材運搬用のトロッコ線路は撤去されていると思われる。私の家族が八王子の山里に越してきたのはこの空撮写真の10年後1957年のことであるが、未だ町田街道に沿ってトロッコ線路跡のような窪みがあったのは憶えている。湯殿川上流域の谷戸は拓殖大学八王子キャンパスによって地形の原形を留めることなく無残にも埋められ、現在では旧町田街道に湯殿川上流域を示す標識が立っているだけである。(1947空撮写真の左下丸印)子供の頃、この谷戸に探検と称して一二度分け入ったことがあるが、人家もなく、小学生だけでは些か心細いものがあった。当時の町田街道は舗装もされておらず、浅川駅(現高尾駅)から相原へ行くバスが一時間に一回程度通るだけで、田舎道を西部劇の駅馬車の如く砂塵を巻き上げて走ってくる姿は遠くからも目に付き、中村メイコ唄う『田舎のバス』そのままに、デコボコ道をガタゴト走ってきたものであった。1947年空撮写真の二つの丸印の間が私が子供の頃に遊びに行った湯殿川の流域である。遊び半分で鮠(ハヤ)釣に行っても、釣れるのはオババドジョウか、赤黒金魚と面白がって呼んでいたイモリくらい。夏休みにイチドンブチとか言っていた淵で川遊びをしたのは、せいぜい中学生位までだろう。
GoogleMapにGoogle Earthと同じ3D機能が附加されたので拓殖大学八王子キャンパスによって立ち入ることができない湯殿川上流域を想定してみた。旧町田街道から入った湯殿川の谷戸は造成工事で潰され谷口に調整池が設けられ、キャンパス内の湯殿川は暗渠化されていると思われる。谷頭となる沢の上流には入れないが、湯殿川の分水嶺は八王子と町田市相原地区との市境となる、町田市相原地区と神奈川との県境には境川が流れ下流は片瀬川と名前を変えて江ノ島付近で相模湾に注いでいる。分水嶺によって東京湾に注ぐ多摩川流域とに分かれ、その違いは大きい。
上の空撮写真より下流の北野街道に沿って蛇行して流れていた湯殿川は河川整備によって真直ぐに付け替えられた。多くの動植物が犠牲になったであろうが、羽を持つ生き物は生き長らえたようである。それにしても、元の川跡はどう利用されるのだろうか。
京王片倉駅ホームから湯殿川下流域の谷地を望む。この風景から人家を消すと、多摩の横山と詠んだ万葉の古人の心にふれられるような気がする。1967年に京王高尾線が開通した当時は人家も少なく谷地に水田も広がり、ここから眺める富士は私の好きな景観の一つだった。その頃から多摩丘陵にブルドーザーが入り込み、赤土の山肌にクレーンや杭打ち機が林立する異様な光景が見られるようになった。田中角栄が日本列島改造論を発表する五年前である。
そんな訳で、正月二日の今朝はAppleStoreの福袋に行列することは止めて、八王子みなみ野・栃谷戸公園展望台の富士見ポイントで同じアングルの写真を撮ってきた。
ついでにiPhoneAppのVideoからパノラマ写真を抽出するVideo Panoramaも試した。
小比企町付近の八王子みなみ野に続く台地にある畑から富士山、高尾山、キューピー山を望む。
ん〜楽で良いけど...ダイブ...ピンボケ(^_^;)
因みに家と同じ町内にあるスーパーの屋上から見ると、左端に頂上が僅かにみえるだけです。
正面左側が初沢城趾、その向こうに高尾山。
2009年の大晦日...山里では昼ごろに風花が舞い、そして晴れわたり...凩が...。
皆様良いお年を...そして来年も宜しく...m(__)m
aki's STOCKTAKING:富士山夕景_091231
天気が良かったので今日の午後、久しぶりに裏高尾の旧甲州街道は摺指まで散歩した。この時間帯、流石に歩いて小仏峠方面に行く人はなく、峠の麓まで行く回送のバスと満員の乗客を載せた帰りの高尾駅行きバスが時折行き交うくらい...。都心より若干早い紅葉を愛で、その散歩のついでにするさしのとうふを買って帰った。
5年前は工事中だった中央高速から圏央道に通じるランプも完成し、高尾山を貫通するトンネル工事に着手するのも秒読みか...
そのジャンクション近く中央本線の湯の花トンネル列車銃撃事件の慰霊碑と彫像が左側写真の高速道路ランプ橋脚の下に人目に触れることなく佇んでいる...。盗難防止の為か彫像が檻に閉じこめられているのが余計に物悲しい。高尾駅の弾痕と云い、その存在すら気付かない多くの人々が何事もなく空中を通過している。
以下の文は四年前、JEDI最初のEarthdivingの記事に寄せたものである。『私が現在住んでいる八王子に縄文後期の竪穴住居群が点在していた丘陵地を越える切り通しを地元の人は「みねげと」と呼んでいる。子供の頃はその意味を知らなかったが、大人になって漢字で「峰開戸」と書くと知り、成程と合点した。尾根道を歩いていると気付かない景観の変化が坂道や切り通しにはある。小学生の頃、「峰開戸」を越え自分の住んでいる集落に戻る時、異次元に迷い込むことを心のどこかで密かに期待していた。丘を越えると景色が一変し冒険が始まることもなく、いつもと変わらない風景に落胆しつつも、どこかでホッとしていた自分がいた。...』
今では子供の頃は苦にならなかった高低差を避けるように、半島状の丘陵の縁を迂回して駅まで行くようになった。『空撮1961』、『空撮2005』
高尾駅1・2番線ホーム上屋支柱方杖部分に残された1945年7月8日米軍艦載機(P-51)機銃掃射による弾痕。それから略一ヶ月後の1945年8月2日に八王子市内に焼夷弾を投下、そして8月5日の広島に原爆が投下される前日に裏高尾で湯の花トンネル列車銃撃事件が起きている。この鉄骨は原爆ドームの様にインパクトはないが、当時の状況を残すため塗装もされず保存されている。ところで昨年、高尾駅南北自由通路等の八王子市の当初建設予算が付いたようで、コンサル会社によって調査設計が進められているようだが、現在の駅舎を解体撤去して移築するだの、様々な利権に政治屋諸氏は色めき立っているようであるが、64年間静かに現状保存されていたこの鉄骨の運命や如何に...便利さと引き換えに記憶は殺されるのか...。
と云うことで、正月二日の午前中に両親と兄妹の墓参りを済ませた。今年も昨年同様、好天に恵まれ霊園から筑波山を見ることができた。東京の低湿地帯に生まれた者として、同じ東京でも西の外れの山里から筑波山のツインピークスが見えると何か得した、清々しい気持ちになれるのである。[ + ]
ところで、筑波山と云えば広重の「江戸百」...
つまり『名所江戸百景』の遠景に富士山の次ぎに数多く描かれており、云わば構図の方向性を示す記号、ランドマークでもある。
『深川洲崎十万坪』左図
『隅田川水神の森真崎』
『真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図』
『墨田河橋場の渡かわら窯』
『王子稲荷の社 』
『飛鳥山北の眺望』
『日暮里諏訪の台』
『南品川鮫洲海岸』
『柳しま』
『浅草川大川端宮戸川』
『謎解き広重「江戸百」』でも謎の多いとされている『浅草川大川端宮戸川』であるが森川和夫:廣重の風景版画の研究ー(1)古写真で読み解く広重の江戸名所でも解説されている様に大山詣の一行が出発に先立ち、両国橋の袂で水垢離を取ると云う風習に基づいた絵である。構図的には両国橋の上から描いたものかも知れないが、近景に欄干も描かれていない。左手に見えるは神田川の河口、柳橋の料亭とすると、遠くに見えるは蔵前橋だろうか、梵天を立てた船は神田川を遡上して何処まで行くのだろうか。そして画面中央下三分の一に配置された「大川上流の彼方に見える筑波山」を「大山」に見立てたのかについては言及されていない...何故か...。
ついでに、この霊園の峰続きの初沢城趾から見た大山・丹沢を...。
昨夜の雷を伴う集中豪雨は烈しいものでした。先日の雷で電話回線に被害を受けたこともあり、昨日は早々にコンピュータの電源を落とし、電話やモデムも回線を切り離しました。その上、大雨と雷の所為か携帯電話も圏外となってしまいました。
と云うことで、ニュースでも伝えている通り、本日は私の居る八王子の西外れ高尾近辺は中央線も京王線も不通となり陸の孤島となりました。JR高尾駅に土砂が流れ込んだ場所はこの24日のエントリー・保線作業を行なっている踏切部分です。この道路に沿って流れる初沢川が氾濫したということですが、写真を見て分かる通り、工事用の仮囲いのパネルがあり、これから道幅を広げ整備する予定地域となっています...が...。
そんな訳で、月末支払いで銀行に行くついでに高尾駅周辺の被害状況を見てきました。
JR中央線・初沢踏切、上が京王・高尾線、この左手トンネル出口付近で京王線車両が脱線。
JR中央線・初沢踏切内から京王・高尾線の脱線現場を見る。上と下、鉄道会社と被害状況は異なるがそれぞれ復旧作業に懸命...如何に烈しい集中豪雨だったかという証ですね。
初沢川の右手は初沢町の住民が避難した八王子市立浅川中学校。この付近も道路が冠水していた模様である。この上流にある高尾霊園の手前の地域で土砂崩れが発生している。
私の住む町内でも土砂崩れがありました。川に蓋をして暗渠化されていたので、流れを堰き止めることもなかったようです。手前の砂利敷き部分(駐車場)は昭和40年代までは田んぼ、崖の上のプレハブは拓大ラグビー部の寮。写真で見ると崖の直ぐ上に見えますが、実はこれだけ離れている。
踏切内で止まっているレッカー車は事故でも故障でもなく、レールの上も走れる云わば鉄陸両用レッカー車である。と云うことで運悪く踏切で保線作業に引っ掛かってしまったので、JED-iPhoneを取り出し写真に収めることにした。
レッカー車のシャシーに組込まれている台車を降ろし、レールにセットしてから油圧でレッカー車を持ち上げ、90°回転させる。
切り替え作業が終了したら安全を確認。
バックオーライ!とレッカー車は線路の上を左手に視界から消えていった。やれやれ、お疲れさま。と云うことで保線作業は深夜行なわれるので、コアなマニア以外は鉄陸両用レッカー車を昼間見ても気がつくことはないだろう。
甲州街道の旧道との分岐点に立つ、この彫像は東京オリンピック記念として地元の中学生が制作したそうです。その当時、地元の中学生だった私から一言『聞いてない!』。まぁよくある話で、ほとんどが美術教師の指導という名の自作自演(て言うか、誰もやらないから、自分でするしかないのだろうが...)、骨組みに白セメントを塗ったり、彫像を設置する際に報道向けに手伝わされた生徒はいた...と思うが...。
ところで、昨日、女子柔道52キロ級で銅メダルの中村選手のお爺ちゃんの家も柔道を憶えた高尾警察署もここからそう遠くないが、幼かった中村選手がこの彫像をみて「オリンピック選手になりたいと思った」なんて事はないでしょう。
小中高が夏休みに入った最初の日曜日は朝から町会の町内一斉清掃です。清掃と云っても目立つほどゴミが落ちている訳でもないので、道端の草むしりと川の清掃が主です。
半ばジャングルと化した庭までは手が回らず途中リタイア、夏場の戸外での作業は二時間が限界、残りは今週末に持ち越し。
ガソリン再値上げとなった昨日は遺品整理や何やらで生じた粗大ゴミを市の戸吹清掃工場に持込み処分した帰りに「道の駅八王子滝山」に寄って、八王子ラーメンを食べ、地元で採れた筍を買って帰った。ラーメン一杯650円は高いが、筍は安かった。しかし、野菜など地元産の直売だけと云う訳でもなく、どちらかと云えば地元産は少なく、他県から仕入れたものが多い。これも道路特定財源で建設されたものだろうが、全てが中途半端な印象を持った。まぁ、再び「道の駅八王子滝山」に行くことはないだろうな。帰りは、これまた道路特定財源で建設されたものだろう元・ひよどり山有料道路を初めて通って市内に出たが、既に料金所は撤去されカゲもカタチもなかった。
明日明後日と天気は崩れるのを見越してか、今日を限りと山桜の花弁が蝶のように風に舞っていました。日本で一番有名な一本桜は小岩井農場の一本桜のようですが、左の写真は私の住む谷戸に下りるころころ坂の一本桜です。住民か霊園の参拝客か町田街道の抜け道として生活道路に進入してくる輩の目に留まる位ですが、車で帰ってくるときに迎えてくれる「一本桜」には心が和みます。
因みに写真の小高い山は初沢城跡、こちらの桜の樹...は霊園の尾根道から撮ったものです。
福楽会とは地元町会の老人会の名称である。最近そのいわれを知ったのだが、何れお世話になるであろう町内にある寺、真福寺と高楽寺から一文字ずつ戴いて命名したと云うことだから、彼岸に達しても老人会は続けるつもりなのだろう。どちらも真言宗智山派の本山である高尾山薬王院有喜寺の末寺だから、経典も同じで互いに戸惑うこともなさそうだ。と云うことで、この桜は高楽寺の枝垂れ桜である。未だ三分咲きくらいだから、見頃になるのは今週末であろう。因みに、その福楽会に入っていた母は家から歩いて三分程の真福寺の墓地にお世話になった。
圏央道・八王子南I.C.の工事現場の先、梅ノ木平で見た規格品の廃材で作られたメタモルフォーゼするバラック小屋。
(←クリックで拡大)
梅ノ木平と云えば中学の時、秋の遠足で学校から徒歩で町田街道を南下し、大戸から山に分け入り、当時工事中の城山湖の本沢ダム(ロックヒルダム)を見学し、峰の薬師で休憩昼食、尾根づたいから谷を下り梅ノ木平に出たことがある。
Google Earthで距離を測ると約14キロ、今この距儀を歩くと途中で道に迷い遭難して行き倒れるかも。考えてみれば中学の遠足でも浅川中の前を流れる初沢川にそって沢を登り、尾根づたいに峰の薬師まで行くことも可能だった訳だが、低山でも山が深くて道に迷ったら危険なので安全なコースを選んだのだろう。
写真は車載カメラでなくタクシーの助手席で手持ちで撮影。母の四十九日法要の壇払いでうかい竹亭に向かう途中の甲州街道である。以前この辺りの甲州街道を通ったのは6年前、父の十七回忌の法事でうかい鳥山に行った時である。それ以来、南浅川町や大垂水峠の先には用事もなく、圏央道の八王子南インターチェンジの工事の進捗状況等を知る由もなかった。と云うことで、どうせなら高尾山の冬そばを食べに高橋屋に行こう、そしてついでに南浅川町まで足をのばしてみようと、思い立ったのである。(南浅川町とは八王子市の西端、高尾山の南側、この圏央道の八王子南I.C.から神奈川との県境の大垂水峠までの一帯、面積の殆どを山林が占める。)
と云うことで先ずは圏央道八王子南インターチェンジ模型(この模型は現場に隣接する相武国道事務所の圏央道インフォメーションルームに置いてある。)とGoogle Earthの3Dモデルを並列し比較してみると、甲州街道を跨いで架橋工事中の高架橋は津久井方面から甲州街道に降りるランプウェイである。山の中腹に穿かれたトンネルから谷間の甲州街道まで下りるには、その高低差と狭い谷間故に逆S字を描いて甲州街道を三度跨いで下りてくることになる。
人間の欲望がコンクリートの塊に込められているからだろうか、工事中にも関わらず、こうしたものを見ると近代産業遺跡に見えてしまうのである。何れにせよ、こうして既成事実を積み重ね、道理でなく無理を通すのが道路行政なのだろう。圏央道八王子南I.C.に繋がる八王子南バイパスの工事決定までの紆余曲折も机上で事の計画を進める行政の支離滅裂ぶりと、その利権に群がるハイエナ達が見え隠れしていた。元々は東八道路とめじろ台の南側を東西に走る椚田通りの八王子斎場東・交差点が結ばれ、椚田通りと町田街道の狭間町・交差点から西行きを延長して圏央道八王子南I.C.に繋げる予定であったのだが、このルートは高楽寺、御嶽神社、御衣公園、浅川中学、高尾霊園をブルトーザーで潰さない限り道路は出来ないことから断念、それでもルート上の浅川中学を廃校にすると云う風説が数年おきに聴こえてくるのだが、これも利権絡みの邪悪な輩の仕業なのか。(何しろ浅川中学は隣接する栗山を学校林として保有しているのである。)更に不可解なのは道路予定地となる八王子斎場東の土地を押さえていた某法人が計画道路の変更が決定されると、法人名の記された工事用の仮囲いを取り払い、元の農地に戻したことである。そんな人間の欲望を知ってか知らぬか、件の農地では牧草の上で乳牛がのんびりと草を食んでいる姿が見られるようになり、ここだけ昭和の風景が復活している。
参考:相武国道事務所
蛇足:観光地の食堂は不味いと云うのが定説だが、高尾山ケーブルカーの清滝駅の広場に面した高橋屋はそんな定説を覆す店で、美味い蕎麦を食べさせてくれる。今回は高尾山の定番、トロロ蕎麦を高橋屋で食したが、次は地元の人も奨める竹之家支店で天ざるでも食べてみよう。
akiさんがMICHELIN Voyager Pratique Japonに引き続き高尾山をエントリーされた。京王電鉄が今年10月の高尾線開業40周年記念に発行した小冊子「高尾」にミシュランの仏語版の高尾山紹介記事の抜き刷りとその日本語訳が掲載されていたので、akiさんにそのスキャニングデータを送ろうとしたのだが「それは地元民がエントリーしなければいけないでしょう」と云うことで、写真は12月5日に撮ったイトーヨーカドー八王子店の屋上駐車場からの高尾山(左端)の日没風景である。その高尾山薬王院からは月報も届けられている。我が家の墓所のある檀那寺も元々は高尾山の末寺にあたり、高尾山に登らずとも、その墓所の尾根からは新宿を遠望できる。まぁ「How Addicted to Apple Are You?」のみならず、高尾度もそれなりに高いのである。
食後の腹ごなしに裏山の城跡を散歩してきた。昔は東京タワーだけがランドマークだったが、新宿に超高層が建ち始めて、山里から新宿が少しだけ近く感じられるようになった。
と云うことで望遠側で撮影し拡大すると西新宿の都庁が見える。右側の初台のオペラシティタワーと多摩丘陵に立つ高圧線の鉄塔が同じ大きさ....な、訳ない。
伊東豊雄氏の設計になる多摩美術大学図書館を見学してきた。この10年くらいの間、多摩美・八王子キャンパス前の谷道を車で通ると、いつも工事中のシートや足場が見えていたが、それもこの図書館の完成で終止符を迎えたようだ。多摩美には10年一昔前くらいに行った事があるが、それ以来の訪問である。兎に角、キャンパスが広くなった。と云うよりも多摩ニュータウンが東側の道路を挟んで多摩美の隣まで押し寄せてきたと云うのが実感。(Google Earthの○が図書館の位置)
多摩丘陵の傾斜に合わせて1階・アーケードギャラリーの床も傾斜が付けられている。
建物廻りのグレーチングは免震構造により設けられた緩衝帯。傾斜している床に置かれた傘立ての水平調整が微妙です。閲覧室と開架書庫の撮影は禁止されているので写真はありませんが、閲覧室の窓から眺める八王子は鑓水の里山風景は心が和みます。
昨年末、吉原御免状ミニダイブを行なったばかりですが、遊廓つながりと云うことでakiさんに間借りエントリー(030709)していた八王子遊廓をこちらに移しました。写真の日付によれば2001年10月13日に撮影したものです。この時点で既に遊廓の面影を残す建物は殆ど残ってなく、現在はこれらの建物も残されているものは少ないようです。
2年前(2003年の時点で)に撮った八王子遊廓跡です。もう、殆ど昔の建物は残ってなく、僅かに それらしき面影の建物が二三件あるだけです。これも斜陽の街、八王子を象徴 しているのか も知れません。 八王子遊廓は八王子・横山町の北、浅川を背にした「田町」にありました。明 治30年頃に、元々、甲州街道沿いの宿場町・横山町や八日町などにあった女郎 屋を一括して移転させたのは浅草吉原に習ってのことでしょうか。(大火の後 の都市計画的配慮らしいですが?)八王子が経済的に栄えたのは生糸が日本の輸出産業の花形であった時代です。 16号線(八王子横浜街道・八王子日光街道)と20号線(甲州街道)の結線点に ある八王子は、武州、上州や甲州から集められた生糸の相場を決める市場を形 成し、遠く桐生や伊勢崎の商人や甲州商人と八王子商人が夜の接待に利用した のが八王子遊廓だと云われてます。 遊廓のあった田町の町名の由来は無知で判りませんが、地図を見ると街路が田 の字に見えないことはありません。浅草の吉原も日本橋人形町界隈から移転し たときは周囲は田圃だったから、八王子遊廓の浅川沿いのこの場所も、田圃に 囲われていたのかも知れません。たぶん、お手本通りに繁華街から離れた場所 に八王子遊廓をつくったのでしょう。
その八王子遊廓に隣り合わせて、八王子斜陽産業の象徴である機屋(はたや) の工場跡が事務用品のディスカウントストアになっているのが皮肉です。 斜陽産業とは云ってもネクタイ生産量は未だに八王子が日本一だそうで、それ でもブランド品の下請工場では高が知れているということでしょう。この建物もakiさんによれば、既に解体撤去されているようです。
以下はaki's STOCKTAKINGのエントリーに寄せられたコメントです。
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そうです、私は下町生まれの山の手育ちと言いたいところですが、下町生まれの山ん中育ちです。
7月15日のテレビ東京・出張なんでも鑑定団は内容に乏しいものでした。千人同心縁のお宝とか期待してましたのでがっかり。尤も、今日この頃、世の中物騒になっているので、お宝を公開して窃盗団に狙われる恐れもありますからね。賢い人は、決してお宝自慢はしないですよね。
Posted by: 五十嵐進 @ July 22, 2003 04:41 PM
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小野さん、コメントありがとうございました。
私は、生まれは違いますが八王子市大和田で育ちました。学校は四小、五中で、最近、八王子市大和田の家にもどってきました。
この話を送ってくれた五十嵐氏も、生まれはちがいますが八王子在住です。
そんな訳で、八王子の話もこれからちょくちょくでてくると思います。
Posted by: 秋山東一 @ July 21, 2003 07:35 PM
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今宇都宮へ仕事の関係で居りますが、生まれも育ちも八王子です。田町の旧遊郭街は、私の中学時代まで柳小路として残って
いたことよく覚えてます。またローラースケート場とか夏場は
プールになる場所が田町にありよくいっていました。写真を
見て何となく懐かしくなりました。ちなみに私は万町の出です。
また、多くを大和田町で過ごしました。写真有難う御座いました。
Posted by: 小野吉則 @ July 21, 2003 05:50 PM
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Google で「八王子 遊廓」で検索してみた。
いくつかヒットしたが、「旧道行脚」と題した古地図と現地探索のページがあった。「甲州街道の遊廓」「羽衣町の幻流をたどる」とかあり、多摩、遊廓に強いサイトと思う。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Ocean/9371/koushu/kyuudouangya.htm
Posted by: 秋山東一 @ July 13, 2003 05:52 PM
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前のコメントが文字化けしました。
これが八王子遊郭跡の地図です。
http://www.mapion.co.jp/c/f?el=139/20/20.058&scl=10000&pnf=1&uc=1&grp=all&nl=35/39/45.291&size=500,500
地図を見ると幼い秋山少年の目に広い広場に映ったのが良く分かります。今でも通過交通がないぶん、その異常な広さだけが目立ちます。
明後日(7/15)のテレビ東京・出張なんでも鑑定団は八王子大会だそうです。何がでるのかな。
Posted by: 五十嵐進 @ July 13, 2003 03:18 PM
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私はこの遊廓に登楼したことはありませんが、昔の記憶があります。
広い広場に近い両側に建物が並んでいるのですが、一つの建物にアメリカ兵が行列しているのを望遠したという記憶があります。きっと1950年のはじめ朝鮮戦争の頃だったのでしょう。もう昔の姿はかろうじてというところですね。
Posted by: 秋山東一 @ July 10, 2003 08:47 PM
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週に一度、東京造形大(35°36'55.00"N 139°20'3.41"E)に行く通り道にある宇津貫(うつぬき)熊野神社(35°37'33.82"N 139°19'52.76"E)に、昨日初めてコストコの帰りに立ち寄り狛犬を見てきた。どこに狛犬が居るかって?基壇の左右にちょこんと何か見える、それが狛犬です。
宇津貫熊野神社のある周辺はUR都市機構 みなみ野シティの開発区域にあり、半年も経つと道路が付け替えられたり、いつの間にか建売り住宅が建ち並んだり、このGoogleEarthの航空写真も既に過去の姿しか捉えていない。これが宇津貫熊野神社の由来で、これ以上の詳しい史実は不明のようですが、牛頭天王を合祀しているところは、如何にも八王子の神社らしい、境内にある神仏混淆を物語る菩薩像等のどれも明治期の廃仏毀釈によるものか損傷が甚だしい。因みに宇津貫熊野神社の狛犬はこんな姿のせいか「のり巻き狛犬」と呼ばれているそうだ。宇津貫熊野神社にはもう一つ珍しいモノがある。それはGoogle検索で初めて知ったラッパイチョウである。昨日、銀杏を拾っているように見えた御老人は、実はラッパイチョウの葉を拾っていたのであるが、それに気付かなかったのが残念。
と云う事で地元ネタの掲載されている雑誌(ムック)二冊。東京(消費?)生活はマーケティング志向のこじゃれた雑誌、普段なら買わないが八王子特集なので買ってみた。まぁ、通り一遍の八王子紹介、目新しいものは特にないが、映画監督・斎藤耕一が八王子城を舞台に映画を作るらしいと云う話が気になる。浅川地下壕についてはこちらの雑誌が詳しい。
散歩の達人・エリア版ムック「京王線完全案内」こちらは多摩丘陵尾根ハイウェイと称して戦車道路の写真まで紹介している。どちらかと云えば「ぶらり途中下車の旅」か「出没!アド街ック天国」のノリで作られた庶民派と云ったところ。八王子は都心に出るのに京王線と中央線の二つの選択肢がある。京王帝都電鉄はバブル期に見栄を張らず、浮かれる事なく堅実経営を続け施設改善の借入金の償還も早くに済ませ、運賃値下げを実行した優良企業だが、失敗は姉歯物件のビジネスホテルを掴まされたこと。
先月の「コストコ & 馬 TOUR」のルーツを調べるべく絹の道資料館に行ってきた。まぁ、多摩ニュータウンに行ったついでなのですが、、、これを見ると八王子から峠を越えて原町田辺りまで来ると、、、馬丁も馬も草臥れて休息が必要だったことでしょうね。それでも、言うことをきかなくなった馬は、、、
パルテノン多摩の歴史ミュージアムで見た多摩丘陵の軍事施設跡をGoogleMapで調べてみた。戦車道路はコストコの向かい側、ニュータウン南大沢地区と町田市(旧境村)との境界の尾根道にあったようだ。そして戦車の操車場は現在米軍の通信施設がある場所だろう。ニュータウンの東の外れには多摩弾薬庫がある。相模原の米陸軍総合補給廠も嘗ての旧陸軍施設、そして多摩丘陵の上空はアメリカの空、日本の主権が及ばない空域である。今日も、また南大沢の首都大学東京の真上を横田基地に向かう米軍機が飛んでいる。
先日、aKiさんを菅公さんまで案内するときに通り過ぎた初沢曲がり道のバラックの昔の姿、現在は新建材(サイディング)とアルミサッシュでリニューアルされてしまったが、コンパネや工事用仮囲いネットを用いたりと、かなりの不良ぶりを発揮していた。
昨日、アバウトな草むしりに飽きて母屋に戻ると、aKiさんより着信、初沢城址まで来て家の前を通り過ぎ、僕の車の前から電話を掛けているとのこと。車は御衣公園に置いたままと云うことで、散歩がてら御衣公園まで案内。ここは菅原道真の銅像があるので、地元民は「菅公さん」とよんでいる。aKiさんも小学1年生の時、遠足で訪れたという場所だ。今では国籍不明の慰霊塔が建ち、すっかり様変わりしているが、ここは僕の子供の頃の遊び場の一つだった。
摘まれて天麩羅にされることなく生き延びた自生のタラの芽です。足下も不安定な場所なので繁みに入って、タラの芽の幹のトゲに気をつけて採集するのは山に慣れていないと難しいでしょうね。
それから1週間で、これだけ成長。
こんなに沢山の天麩羅にされなかったタラの芽が。
散歩ついでに裏山の初沢城趾まで足を延ばし丹沢連峰の写真を撮ってみました。
左にぽつんとあるのが大山(1252m)、ちょっと空いて、丹沢(1567m)、棚沢ノ頭(1604m)、蛭ヶ岳(1673m)、そして袖平山(1432m)、と云うことで此の地に城を構えた理由が解ります。
aKiさんがVirtual 大山・丹沢をエントリー、Google Earth と比較。
数値地図で初沢城趾から南西方向を見る。
八王子城趾が「日本100名城」に選ばれたと云う記事が朝刊に掲載されていましたが、この写真は初沢城趾です。2年前の同じ日と比べると、今年の春は遅いことが解ります。庭の花水木はやっと蕾が膨らみかけたところです。
昔の養生シートはグリーンが主流だったが、最近は白の養生シートが主流のようだ。そこで夜景はどうかなと10時過ぎに高尾駅南口まで写真を撮りに行ったのだが、件の集合住宅は明かりのついている住戸が少なくて被写体としては今一つである。そのうえデジカメのレリーズがないのでタイマーでスローシャッターを切っている間にカメラの前をバスが通りすぎた。
八王子市夢美術館の「たむらしげるの世界」を見るために、車を駅前の地下駐車場にとめて八王子の街を歩いた。いつもは駅前周辺で用事を済ませてしまうので、西放射線通りを歩くのも、八日町を歩くのも久しぶりだ。出掛けたのが水曜日なので定休日の店舗も多かったが、嘗ては八日町商店街が八王子一の繁華街であったとは信じられない。写真中央の荒井呉服店がユーミンの実家、数年前までは家の母にも定期的にDMが届いていたけれど、流石に90歳近い介護老人にDMを出すのが無駄と知ってかDMが来なくなった。
八日町交差点付近から西方向を見る。右側のド派手な建物は昔のイノウエ百貨店、現在はシダックスのカラオケ。
荒井呉服店の先にある八日町の再開発地区、ここに八王子市夢美術館がある。夢美術館という名称も恥ずかしいけれど、この再開発ビルはデザインも何もない。少しでも床面積を確保しようとする利益だけが最優先されたとても恥ずかしい建物。こんなものでも一度、作ってしまったら壊すわけには行かないから始末が悪い。
再開発ビルの前にぽっかりと空き地、その両側に長屋が、今まで人目にふれなかった路地が、、空き地を駐車場にしないで緑化して森にしていったら面白いだろうな。
るるぶ情報誌・八王子市 JTB出版(定価880円)
どこか、とらえどころのない八王子を特集した"るるぶ情報誌"である。
八王子に越してきたのは小学二年生の時だった。中央線の終点・高尾駅が未だ浅川駅と言っていた頃である。家の住所は八王子市だが通った小学校は南多摩郡浅川町にあった。当時の浅川町は林業と観光が主な産業であった。現在の高尾駅北口はどこか寂れている印象があるが、越してきた当時の浅川駅は観光地の駅前そのものであった。
まぁ"るるぶ情報誌"を見ても八王子ラーメンを食べたいとも思わないが、、、八王子のとらえどころのなさは、一層増幅された。
赤瀬川原平氏の自邸・ニラハウスのように特別に植えた訳でもないのに、いつのまにか春先になると薄紫の可憐な花が咲くようになった。インターネットで調べるとメキシコ原産の外来種とある。そう云えば、在来種のスミレもあまり見掛けなくなった。タンポポも外来種が幅を利かせている。野草も外来種に席巻されそうだ。じきにハルジオンも咲きはじめるだろう。がびちょう、小綬鶏、ハクビシン、アライグマと野草だけでなく野鳥や小動物も外来種が増えている。たぶん昆虫にも外来種が混ざっているのだろう。
午前中に用事で高尾駅近くまで行ったが、生活道路は所々アイスバーン状態、前を歩く親子連れが滑りそうになりながら歩いている。安全な所まで歩き付くまで、カメの歩みで運転する。昼過ぎに元日に行けなかった亡父の墓参り、なんたらと正月行事を済ませて、明日はフツーの休み。
写真をPhotoShopで繋ぎ合わせると空に継ぎ目ができる。パノラマ写真はAppleのQuickTime VR Authoring Studioの方が仕上がりが良いが、どうもOSX対応版がでそうにもない。
昔読んだ、エドワード・ホールの著作「隠れた次元」で隣家の眺望を奪う目的だけの為に作られた家の写真を見た事がある。これは半分に切り分けられた庄屋様のアプローチと門(木の影に隠れて見えにくい)と悪意の縁石に悪意の擁壁である。こうして土地を金に換えることによって多くのものが失われてゆく。
11月3日にエントリーした八王子みなみ野の宅地造成現場付近の仮設道路が本設に付け替えられた。昔は車がまともにすれ違えない道だったので便利にはなったが、それにしてもこの擁壁の高さは異様である。今度は仮設道路だったところを盛り土して宅地に造成している。(写真の右側にJR横浜線・線路がある。)
陣馬街道は夕焼け小焼けの里に行く手前にあった古木(欅?かな)、道路が拡張されてはみ出してしまったのでしょう。根元を痛めないように配慮して塀を設けているのがなんともいえない。でも、恩方村と呼ばれていた昔は塀なんて無粋なものは無かったでしょうね。地味ながらも観光地化してゆくと、心無い訪問者から我が身を守らざるを得ないのでしょう。
追記:写真になって気付いたけれど下屋に掛かる樋が気になるなぁ。
古木の向かいの農家、越屋根は付いてないけれど真鍋さんが11/20のエントリーで紹介していた今和次郎『日本の民家』の恩方村の養蚕農家の系列のようです。
夕焼け小焼けふれあいの里の近くの民家です。
八王子は都市機構(旧住宅都市整備公団)によるみなみ野シティ内の横浜線(左手)に面する宅地造成の現場風景。この道路は仮設道路、コンクリート擁壁の辺りに昔の道があった。最近の宅地造成は、何もない所にいきなりコンクリートの壁が立ち並ぶ。その後にダンプで土砂を運び、重機で土を盛ってゆく。コンクリートの壁も現場打ちとは限らず、プレキャストコンクリートも多い。何れにせよ、近い将来ここに住まいを求める人は昔の風景や地形を知る由もない。
父はロバート・キャパと同じ1913年生まれ、共通点はそれだけ。方や歴史に名を残す世界的な報道写真家、方や無名の素人、その名も四郎という。その父が隠居後にバカチョン・カメラで撮った写真がフルエルアルバムとして残されている。
1980年7月の八王子駅北口風景。
父の写真の特徴は「ピンぼけ」「ミステリーな被写体(何を撮ろうとしたのか不明)」「水平線の無視」「フレーミングの無視」等々である。
1980年7月の八王子駅北口、駅ビルは未だないが、駅の側には丸井がある。今年一月で丸井八王子店は閉店、その後、大手流通関係が入居するの、しないの、どうなってるの、との噂だけはある。
いまでは、地方都市の鄙びた駅前風景は何も残されていない。
昨日の東京新聞書評に取り上げられた松山巌氏の住み家殺人事件−建築論ノートの刊行に対する著者のコメント。
「建築を新たにつくることは、近代に入ってテロリズムの色彩を強めている。なぜなら、それ以前の時代とくらべれば驚くほどの短時間に周辺環境を変え、人間関係を変えてしまうからだ」ん〜八王子駅前の無様な変貌もテロだったのか。
一見すると地中海の都市集落のようであるが、都市整備公団、改め、独立行政法人・都市再生機構によって開発された八王子みなみ野シティの住宅地に建てられた民間デベロッパーの建売り住宅。
ハウスメーカーや電鉄系不動産会社の建て売りが多い中、独立系?の不動産会社による建て売り住宅も増えている。他の業者の建て売りとの差別化を計るための手段としてのテーマパーク的デザインなのだろうか。憂鬱なアースカラーの建て売り住宅の中では目立つが、、
遠くから見ると、 かなり密集している。
こちらはパームツリーが植えられているところを見ると、カルフォルニアのリゾートを意識しているのかしら?。こちらはデザイナー住宅風?、ニューハウスの表紙のようだ。他にもスパニッシュ風やら、ハーフティンバー・モドキやら、なんでもあり。
地元、八王子は狭間町の御嶽神社に奉納される獅子舞は16世紀、天正年間から伝えられているもので、八王子の無形文化財に指定されている。二匹の雄と一匹の雌の獅子による舞い、内容は見ての通り。お〜しゃ〜しゃ、お〜しゃ〜しゃ、のメロディーによる御囃子にあわせて舞われる。と、云うことで本日は町内会のお祭りでした。
造成地のフェンスに絡みつく葛。
葛はJR中央線の四谷から市谷にかけての土手にも見られるし、どこにでも自生している植物である。繁殖力も旺盛で、どちらかといえば厄介者にされているが、その姿から名前や用途まで知っている人は案外少ない。食品から薬品、衣類にもできるという、とても優れ物なのであって、雑草ではなく実は資源なのである。
葛から健康食品
葛工房の葛正
熊川くず生産組合 寒晒熊川葛
葛布(くずふ、くずぬの、かっぷ)今でも静岡県掛川市を中心に生産されている。
aki's STOCKTAKINGの浅川・大和田橋からに写っていたキューピー山(中央)。
しかし、地元に住みながら子供の頃はこの山のことは知らなかった。何故なら、山の麓に住んでいると遠くの山は視界には入らないのである。
望遠で近づくと、こう見える。
数年前に地元生まれの友達に「あれがキューピー山!」と言われ、それまで人の横顔に見立てていた山がキューピー山だったと知った。
撮影場所 八王子みなみ野
OLYMPUS C-5060 WZ 広角側27ミリ、望遠側110ミリ(何れも35ミリフィルム換算)
大岳山地図
大岳山再訪「東京の山」
別な場所から見たキューピー山。撮影場所地図
この地図は未だ改訂されていませんが、国立高専前の交差点から交通公園入り口までの道路が撮影地点で真直ぐに繋がっています。目白台方面からは下りになるので視界が開けて景色がパノラマのように広がり気持ちの良い眺めです。手前左側の丘陵が多摩御陵になります。
先週くらいから姿を見せるようになった尾長である。その翼と尾のブルーグレーに色分けされた姿形は美しいが、鳴き声がギャーギャーと真に汚くて喧しい。それもその筈でスズメ目カラス科の鳥なのだ。
薮の中に潜んでいる尾長。
この辺りは朝から晩まで、夜中もコノハズクが鳴いている時があるので、本当に一日中、鳥の鳴き声が聞える。ん〜蝉もなきはじめたな。
ジャングルと化した庭に【ほたるぶくろ】が咲いていた。傍らにはドクダミの可憐な白い花も咲いている。後ろに見える大きな葉は葛、この蔦の部分を晒した繊維で織ったものが葛布、建築では和風の内装クロスとして用いられている。根っ子は葛根湯になると云うことだけど、試したことはない。
先日、京王線高尾駅のプラットホームから裏高尾方面を見ると、中央高速と圏央道のジャンクション工事がかなり進んでいたのに驚いた。あきる野ICの問題も土地収用が解決しないのにイケイケドンドンで手を付けたモノ勝ちでは、どこか軟派のコンパとレベルが同じ。と云うわけで午前中にちょっと裏高尾まで足を延ばして写真を撮ってきた。
八王子ジャンクションの中央高速下り線ランプウェイの工事
八王子ジャンクション付近
工事はこのランプウェイだけで終わらない。圏央道の本線はランプウェイの間を左手から右手へ谷を越えて高尾山の中腹に突き刺さる。
集落の遥か頭上を走るランプウェイ。長閑な山里に見えるが、夜間はJR中央線や中央高速道路の暗騒音は絶えることはない。周りが静かなだけに余計に音が目立つのである。
道路行政が出鱈目なのは圏央道だけではない。高尾山を貫通した圏央道が甲州街道(国道20号線)と接続するインターチェンジに結ばれる八王子南バイパスの存在も紆余曲折している。これも元々は東八道路(高井戸と八王子間の都市計画道路、細切れ状態、いつ完成するか誰も予測できない。)がめじろ台南側の椚田遺跡公園通りに繋がり高尾山南側まで延長される予定であったが。高楽寺や浅川地下壕に掛かるために計画が変更され、片倉から八王子みなみ野へ、それから八王子医療センター前の道路から紅葉台団地と拓大の間を通る案に変更された。これも途中の寺田地区に住宅地があり一筋縄ではいかないだろう。
笑ってしまうのが、この八王子南バイパスのルート変更が決定された途端に椚田遺跡公園通りに繋がる途中の道路用地を押さえていた或る学校法人がその土地を手放したことだ。それまで学校名の書かれた工事用スチールフェンスで囲われていた用地は、普通のメッシュフェンスに変わり、そこに牛が放牧されるようになった。暗躍するブローカーや政治家の影よりも牛が草を食む姿の方が遥かに心和む。
帰りに寄った峰尾豆腐店はBe-eaterに「するさしのとうふ」のタイトルでエントリーを書いた。
30年以上前でこのタイトルならグループサウンズを指していたけれど、ガソリンスタンドの話です。
先月のこと、いつものように給油しようとガソリンスタンドに立ち寄ろうとしたら閉まっていた。その日はそのまま給油しないで家にそのまま戻った。翌日、再び立ち寄ったら、工事用の仮設フェンスで入り口がふさがれ、工事業者が電飾看板を取り外していた。高尾周辺の甲州街道と町田街道に面するガソリンスタンドで閉店したのはこれで何件目だろう。
先月閉鎖された町田街道に面したJOMO、家から歩いて行けて一番近いGS、給油するのに歩いては行かないけどね。前面道路の朝の渋滞は甲州街道まで続く。向かい側には佐藤製薬八王子事業所がある。
知らない間に閉店になっていたシェルのGS、紅葉台入り口交差点近くの町田街道に面してる。朝は甲州街道から舘ケ丘団地入り口まで渋滞する。
甲州街道に面して、最近までエッソのGSがあったところ。町田街道があきる野市に抜ける高尾街道と繋がったことで、それまで甲州街道を迂回していた車の流れが、潮が引くように少なくなってしまった。ここは跡地利用計画があるようだ。
ここが高尾駅に一番近い出光のGSだったところ。高尾周辺では最も古くから営業していた、昔は家でも専用カードの月末払いでここで給油していた。この辺りの交通量のピークは中央高速が開通するまでの時代であろうか、このGSが一番先に廃業した。
景気が回復傾向にあるという報道はどの国の事だろうか、しかしGSも乱立されて過当競争もあるし、交通量の変化とか立地条件も時代ととも変わりますね。写真を撮ってみて気付いたのはGSが廃業すると一番先にすることは石油会社のロゴを外すことなんですね、それでもコンクリート塀のテーマカラーで解ってしまうメーカもありますね。JOMOはテーマカラーまで塗りつぶすという徹底ぶりです。企業イメージが問題なのでしょう。
麗かな春の山里です。日一日毎に若葉が萌え、山肌が淡い彩りに塗り替えられる季節です。山桜が緑の中にあってアクセントになっています。手前の山が初沢城趾、奥が高尾山。高尾山の向こう側は富士山でも蜃気楼でもなく、ただの雲です。
クラウン・モデルと云う店名が一般的なようであるが、子供の頃はただクラウンとだけ言っていたような気がする。小学生から高校生くらいまではよく通った八王子市内の八日町交差点の近くにある模型屋。
高校生くらいのとき、模型自動車によるスロットレーシングが流行っていて八王子でも西放射線通りにスロットレーシングのサーキットがあった。その時分は模型雑誌を参考にしては、エンジンチューナップならぬ、モーターを分解、エナメル線を巻き変えるなどの改良を施しトルクを稼いだりして走らせていた。ときどき、オーバーヒートでモーターが焼け焦げたり、火を吹いたりもしたが、見つからなかったのかサーキットの店主に叱られたことがなかった。
子供の頃、下(しも)のお寺と呼んでいた高楽寺の枝垂れ桜、今年はお彼岸に雪が降ったりしたので例年よりも開花が遅い気がする。高尾には多摩森林科学園のサクラ保存林が有名であるが、高尾駅南口から徒歩5分程度で歩いてこられる高楽寺(地図)にも毎年、枝垂れ桜を見物に来る人で狭い境内が一時賑わう。
僕らが子供の頃、下のお寺と呼んでいた高楽寺は今のように本堂も庫裡もなければ住職もいない寺だった。ちなみに春の彼岸で書いた、家の墓地がある真福寺は上のお寺と呼んでいた。看板にあるようにこの高楽寺も真言宗智山派で真福寺と同じ、高尾山薬王院の末寺である。
この高楽寺は横穴石仏群でも知られており、本堂の裏手には洞窟が有り、石仏が安置されている。
小学生の頃、この横穴石仏群に、度胸試しの探検と称して松明やらカンテラを用意して洞窟の中に入ったことが、何度かあった。しかし、子供の頃の記憶に枝垂れ桜はインプットされていなかった。花より団子の時代。
翌日(3月27日午後7時30分)の夜桜、午後9時までライトアップしている。満開になるのは月曜日くらいでしょうか、見頃は来週の前半まででしょう。
馬鹿のフェンス、カーブした道路の見通しを悪くするだけで全く意味のない代物、税金の無駄使いの見本でもある。
何故、馬鹿のフェンスが設けられたのか一応の理由はある。それは、ある不幸な出来事と役人の事なかれ主義によってなされたことだが、馬鹿のフェンスによってそれが交通障害になることを予測できないのが役所の馬鹿の壁ということである。
馬鹿のフェンスが設けられことになった、ある不幸な出来事とは住民の一人(中高年男性)が家で酒を飲んでいて、わざわざ表に出て河川(水路)に向かって立ち小便をしていて、誤って転んで、その勢いでガードレールを越えて河川に落ち、翌日発見された時には息絶えていたという事故である。こうした事故が度々起こるとは考えにくい、極めて稀なケースである。それでも河川に落ちないようにするならば成人男性の重心よりも高い位置に手すりがあればよく、鋼管パイプをガードレールの上に設けるだけでよいことである。それだけならば道路の見通しに支障をきたすこともない。
水路側から見るとこうなっている。昔は夏になると蛍が飛び交っていたが、コンクリートで固められ、蛍もトンボのヤゴもサワガニも全て絶滅した。
暑さ寒さも彼岸までと云うけれど、昨日は雪が降りやんだ頃合いを見て墓参を済ませました。何しろ墓地まで3分足らずの距離なのでそれが可能です。今朝は打って変わって好天に恵まれています。私の住む八王子は霊園銀座と呼んでも良いくらい、やんごとなきお方の御陵から下々の墓地から犬猫霊園まで、ありとあらゆる霊園が沢山あります。
家の墓地がある水澤山真福寺は真言宗の寺ですが、その檀家の墓地の隣には宗派を問わない霊園(やすらぎ霊園)となっています。何しろ急な斜面にある霊園なので墓参者の為にラックカーと云うケーブルカーと昇降機を掛け合わせたような乗り物が用意されています。このラックカーは完成当初は物珍しさもあってかフォーカス誌にも掲載されたことがありました。
ラックカーの内部です。
山頂からの眺めです。この尾根の北側は御衣公園があり、尾根づたいに歩くと初沢城趾に至ります。
遠く右手に見えるのが公団の館ケ丘団地、その左手が東京医大の八王子医療センターです。
昨日、確定申告書類を提出に八王子税務署に行ってきました。八王子税務署は南口にあるのですが、車を八王子北口駅前の地下駐車場に停めて、八王子の歌舞伎町といった感じで夜は妖しい雰囲気に包まれる三崎町を通り抜けて行きました。もちろん午前中ですから、金髪のたちんぼ(街娼)なんかはおりません。三崎町界隈はいわゆるソシアルビルとか飲食店ビルやマンション、ホテル等の雑多な建物が混在した地域ですが、そのなかでポッカリと空いた谷間のように見える八百屋さんがありました。継ぎ接ぎだらけの看板を見る限り、あまり繁盛しているように見えませんが、見栄をはらずに無理してないところが良いですね。平屋だけに地に足がついてます。
それで、店の裏は生活感の溢れる、こんな感じですが、見ようによってはポケットパークのようにも見えますね。
同じ通りに、こんな名前の飲み屋がありました。マスターの名前が気になります。
東京人2月号の特集は「中央線人による文化人類学 中央線の魔力」だ。
よく言われるのが「中央線文化圏」と言うやつだ。この特集では、それを国立までと定義しているようだ。終点の高尾までにしろと異論を唱えるつもりはない。立川を含めない事にも異議を挟む事もしない、概ね納得できる範囲だろう。もう少し、範囲を狭くして、コアな「中央線文化圏」は土日祭日の中央線快速が停車しない駅の範囲ではないかと思う。つまり、高円寺、阿佐谷、西荻窪である。快速が通過する事によって、目的もなく「各駅停車の旅」をする酔狂な輩は訪れない。山の手でもなく、下町とも言えない、どこか屈折したエリート意識にも支えられた、都会に隷属することで成り立つ、かっての郊外の成れの果てが「中央線文化圏」なのだろう。
特集の中でも、興味を引かれたのが「旧日本軍関係施設・中島飛行機の都市伝説を追う。」中央線沿線の旧日本軍軍事施設に焦点を当てている。米軍の偵察機が1944年11月に撮影した中島飛行機武蔵製作所の航空写真と翌年1945年4月7日の空爆の写真が並列されている。つまり既に終戦の前年に帝都の制空権が脅かされていたのである。それから60年を経た今日に至るまで横田基地を抱える多摩地区の制空権は米国が掌握していると云う事である。中島飛行機武蔵製作所は現在の武蔵野市緑町、都営と公団の団地にNTTの電気通信研究所、それに武蔵野市役所のある地域である。昔から疑問に思っていた武蔵境と三鷹間にあった北に延びる軌道跡は中島飛行機武蔵製作所に続いていたのだった。中央線を挟んで南側には中島飛行機三鷹研究所があり、そこは空爆を免れていたようである。三鷹研究所の跡地は現在では国際基督教大学(ICU)と富士重工三鷹工場となっている。さて、本題の都市伝説であるが中島飛行機が終戦間際に米国本土への爆撃を企てるために開発した大型長距離爆撃機の「富嶽」が国際基督教大学にある地下壕に隠されている、と云うものであるが、その結末は東京人2月号を読んで下さい。
中島飛行機武蔵製作所が米軍の空爆によって殲滅された後「、、浅川地下壕に移転して、細々とエンジン生産を続け、、」と云う記述がある。浅川地下壕についてはそれだけで詳しい記述は省かれているので、地元民として補足しておく。浅川地下壕は中央線終点高尾駅(旧浅川駅)の南西、現在の三和団地から高乗寺にかけての地下一帯に張り巡らされている地下壕である。浅川地下壕の当初の目的は大本営の避難先として建設されている。建設に従事した労働者の多くは朝鮮半島から徴用で強制的に連れてこられた人びとである。小学校のクラスメートの約一割が彼らの息子や娘であったことが其の事を証明していた。大本営の避難先はその後、長野の松代に計画された為、浅川地下壕は地下の軍需工場として終戦を迎える事になる。浅川地下壕への入り口は現在では一ヵ所だけ京王高尾線の高尾と高尾山口間の線路脇に残されている。浅川中学の体育館の裏にも地下壕への縦穴の跡があったが、それは子供の頃には既に埋め戻されていた。浅川地下壕には公開されたときに一度だけ入った事がある、X座標とY座標の碁盤目状に規則正しく隧道が掘られている。迷宮のようなヴァーチャルな空間はそのままコンピュータゲームのサイバースペースに紛れ込んだようでもある。第二次世界大戦が歪んだファンタジーの暗黒面によってもたらされたとするならば、浅川地下壕のヴァーチャルな空間は悪夢による遺構であろう。
たぶん、浅川地下壕の一般公開は今でも年に一度くらいは行われているのではないだろうか。
近くのイトーヨーカドーの屋上から見た今朝の富士山、この辺りが富士山が見える限界、これ以上高尾山に近づくと、近くの山に隠れて見えない。その高尾山は右側の山。今日の夕方、この高尾山の麓で秋爺、松爺と一緒に蕎麦を味わう予定。
と云うわけで、午後四時に高尾山口駅で待ち合わせをして高橋家に直行、とりあえずエビスの生ビールで咽を潤してから蕎麦を注文、秋爺は鴨葱、松爺はトロロのそれぞれ温かい蕎麦、僕は鴨葱せいろの温かいつけ汁で冷たい蕎麦を食す。ころ合いを見計らってそば湯を持ってくるところが宜しい。
腹が満足したところで、せっかくここまで来たのだからとケーブルで高尾山駅まで登ることに、下りのケーブルカーは満員であるが、登りは貸しきり状態、これから山に登るのは余程酔狂か仕事で行く人だけだろう。夏季はビアホールになると云う展望台から下界を眺める。八王子の市街よりも多摩の横山の向こうに広がる橋本(神奈川県相模原市)の市街が明るいのは何故だろうか、きっと街の勢いが違うのだろう。残念ながら福生の横田基地はこの展望台からは森が邪魔して見えず、世界情勢の一端を窺うことはならなかった。ちなみに中央高速の向こう側の元八王子の八王子城趾からは横田基地が眼下に見える。山を下り、京王線と中央線を乗り継いで八王子市街に赴く。霊験あらたかな高尾山から下界に降りて、これから豚カツでビールという組み合わせで二次会。秋爺の案内で甲州街道は横山町駐車場裏のとんかつ・すずもとに行く。秋爺のお奨めはロースカツと生ビール、こんがりと揚がったロースカツは一目でラードを使って揚げたサクサク衣と判る。植物油で揚げた豚カツではこうはならない。お世辞抜きで、久しぶりに旨い豚カツを食べた。衣も肉も脂っこくなく、肉も箸でちぎれるほど柔らかく、胃にも凭れない。
とんかつ屋を出て、未だ時間があるので飲み屋を探す。放射線通りに向かって歩いていると客引きが近づいてくる。それを無視し放射線通りに出て駅に向かって歩き、途中のわき道を入ったところにあったイギリス風?のパブらしき店に入る。二階に通され、テーブル席に落ち着く。店内はビル・エバンスやロリンズ、マイルス等の60年代のモダンジャズがBGMに流れているが、客層は何か怪しげ、この辺りの水商売関係者の御商談の場に使われているようだ。
八王子で飲んだのは10年位前の同窓会以来である。それにしても八王子は随分と変わった、元々上品とは言えないが、それでも以前は客引き等はいなかったし、夜でも安心して歩ける街だった。西放射線通りの三崎町界隈はプチ・歌舞伎町化しているようだ。深夜にはミニスカ金髪のたちんぼもいると云う。そういえば、数年前に暴力団の抗争で発砲事件もあった。高尾山から見た八王子市街が暗く見えたのはそういうことだったのか。
八王子みなみ野の栃谷戸公園から高尾方面を遠望。
左側半分を占めるのが高尾山、右側の山が八王子城趾に続く山並み、その間に景信から陣馬へと続く尾根が見える。高尾山右側の山裾手前にある低い山が初沢城趾、その右手の金色のパコダの頂部が見える辺りが御衣公園、かって東一少年も遠足にきた場所。この写真で私の居る場所は、初沢城趾の左下の麓辺りになる。こうして見ると、本当に山の中にしか見えないけれど、いちおう上下水道は完備しているのだ。
数年前、NHKの深夜に横浜・神奈川の方言を特集した番組があった。(メモの日付は2000年10月22日となっているが、再放送かも知れないし放送日は確かでない)
その時のメモがあったので掲載してみる。但しテレビを見ながらのメモなので正確さに欠けることが多少はあるかもしれない。
メモ・横浜言葉・神奈川の方言じゃあんかよ(じゃんの原形らしい)
じゃんか
じゃん
よー
でよー
そうだんべ
ひゃっけー(冷たいこと)
ちっちゃかね(大きい)・本牧の逆さ言葉(アクセントの置き方で意味が変わるのかも?)
ちゃぶ(食事)
ちゃーふー(テーブルクロス)
ほい助(ウィスキー)
ドロンケン(よっぱらい)
おっぺす(押す)
きっかり
ね、さ、よ、(語尾につく、ねさよ言葉)津久井青根地区
べーよー
やっこかった(柔らかい)
あんで
おやけねぇ(可哀想)
こうしてみると、八王子の方言と殆ど共通しているように思える。もっとも八王子は明治の中頃までは神奈川県に属していたのだから、当たり前かも知れない。戦国の昔から八王子は相模と武蔵の間で二股膏薬の如き、あっちについたり、こっちについたりと、あまり自立性のある地域とは思えない。江戸時代は幕府直轄地となり甲斐の国から武田の残党を八王子千人同心として仕えさせたことから、山梨との交流も多く、山梨言葉の影響も強い。
小学二年生の時、足立区の下町から八王子に引っ越してきた当時は八王子の方言に面食らいカルチャーショックを受けたものだった。
何しろ、当時の子供の代表的な遊びである「メンコ」が通じなかったのである。八王子の西南に位置する浅川・横山地区あたりでは「メンコ」は「パース」乃至は「パァス」と呼ばれていた。
それと代表的な八王子言葉は「じゃんか」である。それに加えて語尾に「よー」が付くこともある。
例として「そうじゃんかよー」とか「いいじゃんかよー」もよく使われる。
引っ越してから数ヶ月の間は頭の中で、じゃんか、じゃんか、じゃんか、と鳴り響いていた。
足立では悪ガキの一人称は「おれ」か「おいら」(北野武はいまだにおいら)だったが、八王子では「おれ」の他に「おん」という言い方があった。だから「おれなんか」が「おんなんか」になる。これには「女かよー」と呆れたものだが、いつしか自分でも「おんなんかよー」と八王子言葉に染まり、母親の顰蹙をかっていた。
他によく使われた八王子言葉は「ちょろい」(ふざけた、可笑しい)、「きつがってる」(生意気な)とかが子供の間で使われていた。