April 12, 2010

『川の地図辞典 多摩東部編』出版記念ウォーク

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既にmasaさんakiさんによって既に詳しく紹介されている之潮主催の「『川の地図辞典 多摩東部編』出版記念ウォーク」であるが、一週間遅れのエントリーである。中央線のそれも始発駅から始発駅まで利用する沿線住民の私であるが国分寺はこれまで片手で数えられる位しか利用したことはない。それでも印象に残る場所として記憶に刻まれているのは都心で呑んで中央線で帰ると、寝込んだ場合でも必ず国分寺で寒くて一旦目が覚めるからであろう。それは恋ケ窪の谷戸から吹き上げる冷気が車内に入り込む所為か、西武線に乗り換える乗客が多く車内が空く所為かは定かでないが...そうした気温の変化だけでなく風景も国分寺から変わるのである。鉄路も国分寺から台地を切り裂く切り通しと谷戸を横断する土手の上を走るようになる。そして国分寺と云えば崖線、崖線と云えば国分寺なのである。


新宿駅を出た中央線が進路を北北西から西に向かって曲がり、神田川の谷を越えて東中野から真直ぐ立川まで西へ一直線に延びている事は誰でも知っていることである。その間、中央線が跨いでいる谷戸は善福寺川の谷戸がある荻窪と野川源流の谷戸である恋ケ窪の二ヶ所で何れも地名に窪が付いている。他にクボの付く地名は新宿の「大久保」、武蔵野市と云うよりも三鷹駅の北西、尾根を流れる玉川上水の北に位置する「西久保」、それに田無(現・西東京市)の「芝久保」は石神井川の上流域となる。どうも、同じ読みのクボでも窪は谷戸を形成している場所のようだが、久保はなだらかな低地を示しているようだ。

1947/10/24の米軍空撮と2004/8の地形図を比較すると、恋ケ窪にある「姿見の池」に南面する台地の舌状部分の端を中央線が切り裂いているだけでなく、西武国分寺線にまで切り裂きさかれている。
現在では鋭角状に残された僅かな台地にまで住宅が建てられ、その先端部分はさぞかし鉄ちゃん格好の観測ポイントと思われるが、伝えによれば嘗て村上春樹夫妻が住んでいた旧居跡だそうだ。そして野川源流の湧水がある日立中央研究所は今村銀行頭取別荘地を戦時中の1942年に日立が取得したものであるが、戦後二年経った1947年には未だ谷戸には池が出来ていない。しかし、何故か敷地内に正円が描かれているようにも見える。この時代のこうした環状工作物は通信アンテナである場合が多いが、この環状に見えるものは何だろう。写真左下のもみじ橋(野川)の北側に水田があるのが良く分かる。

明治期の地形図を見ると国分寺の集落はハケの下に点在しており、台地の上には集落はない。また、鎌倉道(現・府中街道付近)が恋ケ窪に掛かる付近にも集落が見られるが、宿場として栄えた時代の名残であろう。

今回、国分寺界隈を歩いてみて武蔵野台地と云ってもハケの上と下では、その様相が違うことが実感できたのが収穫である。また、多摩川の左岸にあたる武蔵野台地と多摩川右岸の多摩丘陵との違いも大きく、中央線も立川を越え多摩川を渡るとその風景も激変するのである...。
追記:関連エントリー
東京クリップ:『川の地図辞典 多摩東部編』出版記念ウォーク

Posted by S.Igarashi at April 12, 2010 09:34 AM | トラックバック
コメント

masaさん、どうもです。

『川の地図辞典 多摩東部編』が出版されたのですから、『5mメッシュ標高「多摩東部」』があれば、良いのになぁ〜...と思う今日この頃、国土地理院になんとか...して欲しいですね。

もう一度、はけを踏破するべくはげまねば...ですね。(^_^;)

Posted by: iGa at April 13, 2010 08:47 AM

さすがに、こうして、適切な地図・地形図・航空写真などを同じ縮尺で対応させて解説していただくと分かりやすいですね〜。このコースは、iGaさんテキスト持参でもういちど...という感じをもっています。そのせつにはまた宜しくお願いいたします(^^;

Posted by: masa at April 13, 2010 04:01 AM