April 24, 2010

『川の地図辞典 多摩東部編』圏外

川の地図辞典 多摩東部編
私は『川の地図辞典 多摩東部編』の333頁の圏外に住んでいる。と云うことで『川の地図辞典 多摩東部編』出版記念ウォークの前日に以前より気になっていた湯殿川の上流域を歩いてみた。子供のころ川遊びした淵は館ケ丘団地の建設に伴う町田街道の付け替えで、遠の昔に無くなってしまっている。また現在は圏央道八王子南I.Cに繋がる八王子南バイパスのトンネル工事やら、更に湯殿川上流域の河川整備工事に着手する等、既に往時の山里の風景を偲ぶものは何一つ残されてない、と言っても言い過ぎではないだろう。尤もガキの頃は川の名も知らず、ましてや川の名の由来が出羽三山の湯殿山にあった等とは知る筈もない...。

さて、1947年の米軍による空撮写真とGoogleMapの空撮写真を比べるとこの半世紀の間にどれだけ地形を痛めつけてきたか一目瞭然である。GoogleMapの空撮写真も未だ八王子南バイパスのトンネル工事等が撮影されてなく最新の物ではない。1947年の湯殿川の上流域の谷戸に見られる建造物は恐らく旧日本陸軍浅川地下壕の工事関連施設の様だが、既に資材運搬用のトロッコ線路は撤去されていると思われる。私の家族が八王子の山里に越してきたのはこの空撮写真の10年後1957年のことであるが、未だ町田街道に沿ってトロッコ線路跡のような窪みがあったのは憶えている。湯殿川上流域の谷戸は拓殖大学八王子キャンパスによって地形の原形を留めることなく無残にも埋められ、現在では旧町田街道に湯殿川上流域を示す標識が立っているだけである。(1947空撮写真の左下丸印)子供の頃、この谷戸に探検と称して一二度分け入ったことがあるが、人家もなく、小学生だけでは些か心細いものがあった。当時の町田街道は舗装もされておらず、浅川駅(現高尾駅)から相原へ行くバスが一時間に一回程度通るだけで、田舎道を西部劇の駅馬車の如く砂塵を巻き上げて走ってくる姿は遠くからも目に付き、中村メイコ唄う『田舎のバス』そのままに、デコボコ道をガタゴト走ってきたものであった。1947年空撮写真の二つの丸印の間が私が子供の頃に遊びに行った湯殿川の流域である。遊び半分で鮠(ハヤ)釣に行っても、釣れるのはオババドジョウか、赤黒金魚と面白がって呼んでいたイモリくらい。夏休みにイチドンブチとか言っていた淵で川遊びをしたのは、せいぜい中学生位までだろう。


GoogleMapにGoogle Earthと同じ3D機能が附加されたので拓殖大学八王子キャンパスによって立ち入ることができない湯殿川上流域を想定してみた。旧町田街道から入った湯殿川の谷戸は造成工事で潰され谷口に調整池が設けられ、キャンパス内の湯殿川は暗渠化されていると思われる。谷頭となる沢の上流には入れないが、湯殿川の分水嶺は八王子と町田市相原地区との市境となる、町田市相原地区と神奈川との県境には境川が流れ下流は片瀬川と名前を変えて江ノ島付近で相模湾に注いでいる。分水嶺によって東京湾に注ぐ多摩川流域とに分かれ、その違いは大きい。

上の空撮写真より下流の北野街道に沿って蛇行して流れていた湯殿川は河川整備によって真直ぐに付け替えられた。多くの動植物が犠牲になったであろうが、羽を持つ生き物は生き長らえたようである。それにしても、元の川跡はどう利用されるのだろうか。

京王片倉駅ホームから湯殿川下流域の谷地を望む。この風景から人家を消すと、多摩の横山と詠んだ万葉の古人の心にふれられるような気がする。1967年に京王高尾線が開通した当時は人家も少なく谷地に水田も広がり、ここから眺める富士は私の好きな景観の一つだった。その頃から多摩丘陵にブルドーザーが入り込み、赤土の山肌にクレーンや杭打ち機が林立する異様な光景が見られるようになった。田中角栄が日本列島改造論を発表する五年前である。

Posted by S.Igarashi at April 24, 2010 06:51 PM
コメント

はい、ソフトバンクは室内に居ると曇り時々圏外なのですが...『川の地図辞典 多摩東部編』は完全圏外なのであります。願わくば分水嶺と流水域までは...と思う...今日この頃であります。

そうか...5月10日はiPadの予約もあるし...

Posted by: iGa at April 26, 2010 09:13 AM

やぁ、ソフトバンク以外にも「圏外」とは困ったものですね。
まぁ、5月10日申し込みのフェムトセルなる機械で……ソフトバンク問題は解決でありましょう。

Posted by: AKi at April 26, 2010 07:48 AM