東京人2月号の特集は「中央線人による文化人類学 中央線の魔力」だ。
よく言われるのが「中央線文化圏」と言うやつだ。この特集では、それを国立までと定義しているようだ。終点の高尾までにしろと異論を唱えるつもりはない。立川を含めない事にも異議を挟む事もしない、概ね納得できる範囲だろう。もう少し、範囲を狭くして、コアな「中央線文化圏」は土日祭日の中央線快速が停車しない駅の範囲ではないかと思う。つまり、高円寺、阿佐谷、西荻窪である。快速が通過する事によって、目的もなく「各駅停車の旅」をする酔狂な輩は訪れない。山の手でもなく、下町とも言えない、どこか屈折したエリート意識にも支えられた、都会に隷属することで成り立つ、かっての郊外の成れの果てが「中央線文化圏」なのだろう。
特集の中でも、興味を引かれたのが「旧日本軍関係施設・中島飛行機の都市伝説を追う。」中央線沿線の旧日本軍軍事施設に焦点を当てている。米軍の偵察機が1944年11月に撮影した中島飛行機武蔵製作所の航空写真と翌年1945年4月7日の空爆の写真が並列されている。つまり既に終戦の前年に帝都の制空権が脅かされていたのである。それから60年を経た今日に至るまで横田基地を抱える多摩地区の制空権は米国が掌握していると云う事である。中島飛行機武蔵製作所は現在の武蔵野市緑町、都営と公団の団地にNTTの電気通信研究所、それに武蔵野市役所のある地域である。昔から疑問に思っていた武蔵境と三鷹間にあった北に延びる軌道跡は中島飛行機武蔵製作所に続いていたのだった。中央線を挟んで南側には中島飛行機三鷹研究所があり、そこは空爆を免れていたようである。三鷹研究所の跡地は現在では国際基督教大学(ICU)と富士重工三鷹工場となっている。さて、本題の都市伝説であるが中島飛行機が終戦間際に米国本土への爆撃を企てるために開発した大型長距離爆撃機の「富嶽」が国際基督教大学にある地下壕に隠されている、と云うものであるが、その結末は東京人2月号を読んで下さい。
中島飛行機武蔵製作所が米軍の空爆によって殲滅された後「、、浅川地下壕に移転して、細々とエンジン生産を続け、、」と云う記述がある。浅川地下壕についてはそれだけで詳しい記述は省かれているので、地元民として補足しておく。浅川地下壕は中央線終点高尾駅(旧浅川駅)の南西、現在の三和団地から高乗寺にかけての地下一帯に張り巡らされている地下壕である。浅川地下壕の当初の目的は大本営の避難先として建設されている。建設に従事した労働者の多くは朝鮮半島から徴用で強制的に連れてこられた人びとである。小学校のクラスメートの約一割が彼らの息子や娘であったことが其の事を証明していた。大本営の避難先はその後、長野の松代に計画された為、浅川地下壕は地下の軍需工場として終戦を迎える事になる。浅川地下壕への入り口は現在では一ヵ所だけ京王高尾線の高尾と高尾山口間の線路脇に残されている。浅川中学の体育館の裏にも地下壕への縦穴の跡があったが、それは子供の頃には既に埋め戻されていた。浅川地下壕には公開されたときに一度だけ入った事がある、X座標とY座標の碁盤目状に規則正しく隧道が掘られている。迷宮のようなヴァーチャルな空間はそのままコンピュータゲームのサイバースペースに紛れ込んだようでもある。第二次世界大戦が歪んだファンタジーの暗黒面によってもたらされたとするならば、浅川地下壕のヴァーチャルな空間は悪夢による遺構であろう。
たぶん、浅川地下壕の一般公開は今でも年に一度くらいは行われているのではないだろうか。