February 13, 2008

「名所江戸百景」と江戸地震

edo-jishin.jpg

神奈川大学21世紀COEプログラムによる研究成果の一つ『「名所江戸百景」と江戸地震』がネット上に公開されている。
幕末の安政2年(1855)10月2日に起きた安政江戸地震の翌年、安政3年から5年(1856 - 1858)に掛けて浮世絵師・歌川広重によって制作された「名所江戸百景」に被害状況や復興状況等を関連付け解説を加えている。「名所江戸百景」は震災復興と安政の大獄で揺れていた時代に描かれたものである。吉原を描いた「廓中東雲」の、どこか物寂しげな情景も時代背景を知ると納得させられる。

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December 03, 2007

GoogleMapに地形図が...

いつの間にかGoogleMapに地形図が追加されていたとは...気付かなかった。願わくば等高線の表示オプションがあれば...。

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April 12, 2007

デジタルアトラス

Tokyodigitalatlas.jpg

今朝の東京新聞・TOKYO発は「東京デジタル重ね地図 法大研究所が都市アトラス計画」と称した法政大学・デザイン工学部設立記念「東京エコヒストリー展」の紹介だ。デジタルアトラスは単に重地図を縄文海進期まで拡張するだけでなく、地図に多様なレイヤを可能にする時間軸という次元が新たに加わったものであろう。Earthdiverとしては是非とも見ておかなければいけない、土曜日にはシンポジウムもあるようだ。

<展示>
日時 :2007年4月10日(火)〜16日(月)9:00〜17:00
場所:法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎1Fメディアラウンジ
<シンポジウム>
日時 :2007年4月14日(土)13:00〜15:00
場所: 法政大学市ヶ谷キャンパス 外濠校舎305教室
デザイン工学部設立記念シンポジウム「デジタルアトラスの可能性を探る」
法政大学大学院エコ地域デザイン研究所・コンセプト
※電話で問い合わせたところ、シンポジウムは事前登録の必要はなく、誰でも自由参加できるそうです。

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April 01, 2007

第五回アースダイビング・善福寺川+阿佐ケ谷住宅 報告

と云うことで昨日、善福寺川・調査ミニダイブから数えて5ヶ月が経ちましたが参加者21名で第五回アースダイビング・善福寺川+阿佐ケ谷住宅を無事に実行することができました。気になる天気もどうにか持ちこたえ、桜の花の下を方南町から阿佐ケ谷住宅まで善福寺川沿いに約4.2キロを3時間半近く掛けて散策し、途中でkawaさんから提供された善福寺川今昔を伝える写真撮影の場所も確認、時代による大都市郊外の変貌を改めて実感した次第であります。参加者の皆様お疲れさまでした。
Kai-Wai 散策:第五回アースダイビング (珍編)
aki's STOCKTAKING:第五回アースダイビング・善福寺川+阿佐ケ谷住宅
af_blog:花曇り@第五回アースダイビング大会
Roc写真箱:5th Earth diving
秋葉OLの楽しみ探し : ぜんぷくじ川周辺
N的画譚 : トタン系溶接加工工場
ONE DAY :第五回 アースダイビング<善福寺川+阿佐ケ谷住宅>その1
ONE DAY :第五回 アースダイビング<善福寺川+阿佐ヶ谷住宅>その2
東京クリップ: 善福寺川を歩く
MyPlace:「第五回アースダイビング・善福寺川+阿佐ケ谷住宅」
simple pleasure:桜・さくら・SAKURA
Blog版「環境社会学/地域社会論 琵琶湖畔発」:
第五回アースダイビング-善福寺川と阿佐ヶ谷住宅地の50年を探る。- (その1)-川の『原地形』-
第五回アースダイビング-善福寺川と阿佐ヶ谷住宅地の50年を探る。- (その2)-潰された『クボ』-
第五回アースダイビング-善福寺川と阿佐ヶ谷住宅地の50年を探る。- (その3)-阿佐ヶ谷住宅-
う・らくん家:アースダイビング

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March 31, 2007

善福寺川今昔

zenpukujigawa-5.jpg
写真1(+)
kawaさんから1960年代初頭の善福寺川流域の様子を伝える貴重な写真を送って戴きました。この頃は未だ橋も木造でしたね。
追記:と云うことでkawaさん立会いの元、現地で撮影場所を確認しました。


写真2
いいですねぇ〜長閑ですねぇ。兄弟揃って、お父さんと一緒に散歩するのが楽しくてしょうがない様子が伝わってきますね。(と、勝手に妄想してますが、、)3人とも長靴を履いてるのが良いですね。
善福寺川も未だ護岸工事されてなく川底も浅いことが良く解りますね。
写真に添えられたkawaさんのメールを紹介させて戴きます。

私が小さい頃には、川沿いがずっと河岸段丘になっていて、土手からすぐは、畑や田んぼ、学校のグランド、公園や釣り堀、養豚や資材置き場、廃品回収の置き場になっていました。
もう一段上がった所から住宅が並んでいました。
松の木の縄文遺跡、縦穴式住居も川からは一段あがった丘の上にあります。
田んぼを埋めて、川沿いに建て売り住宅が並びだした時には、こんな所に建てていいのかなと子供心に思いました。
少し大人になって、人口が増えるばかりの時には川沿いに家が建つのも仕様がないと思いました。
しかし、これから人が減る事を考えれば、土手の外も何年かに一度ぐらい川があふれてもいい公園等にしておくのも出来ない話ではないと思い始めました。
区は住宅の並んだ私有地を買い上げて低いグランドやテニスコートを作って増水時に備えているようです。
何年かに一度あふれてもいいと考えれば、コンクリートの土手以外のもっと素敵なウォーターフロントの可能性も出て来ると思います。


撮影場所(クリックで拡大)
写真1は大松橋に立つ3人の子を撮ったもの。
写真2は大松橋下流の善福寺川左岸から川下を撮った写真

下の写真は昨日その「写真2」の撮影場所を検証しているところです。風景は昔とすっかり様変わりしていました。そんな訳で往時を振り返って記念の再現写真を撮りました。


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March 29, 2007

気になる天気

Weather-Report.jpg気になる土曜日の天気ですがMacOSXのウィジェットでは、こんな予想です。週末の天気は偏西風やジェット気流が大陸性移動低気圧にどう影響を与えるかの見解で、予想は異るようですが、わたしはこちらを信用することにします。

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March 20, 2007

第五回アースダイビング・善福寺川+阿佐ケ谷住宅

アナウンスだけで日程が決まっていなかった「第五回アースダイビング・善福寺川と阿佐ケ谷住宅の50年を探る。」+「花見付き」を3月31日午後に開催します。集合地点は地下鉄丸ノ内線・方南町駅、目的地は阿佐ケ谷住宅です。集合時間等のタイムスケジュール等が確定しましたら当ブログにて告知する他、前回参加者の皆様にメール致します。
これが阿佐ケ谷住宅を見る最後の機会かも知れません。散りゆく桜花を愛でながら1950年代のモダニズムに想いをはせるアースダイビングとなりそうです。
追記・更新:アバウトなタイムテーブル等を追加しました。

5th Earth diving. 『善福寺川と阿佐ケ谷住宅の50年を探る。』 

 今回のルートは神田川水系の善福寺川を方南町から南阿佐ケ谷の阿佐ケ谷住宅までです。ゴール地点の阿佐ケ谷住宅は昭和33年(1958)に竣工した日本住宅公団による分譲住宅の団地です。今から約50年前の昭和33年当時の地形図(P-6)を読むと台地部分は宅地化されていますが善福寺川流域には多くの水田が残されていた事が解ります。阿佐ケ谷住宅はそれらの水田を埋め立て宅地造成して建設された住宅公団による団地の一つです。現在の善福寺川流域には既に水田もなく護岸も整備され川底が深く渓谷化されています。それは川底の浅かった善福寺川の流域に沿って窪田が広がっていた嘗ての風景とは異なるものでしょう。昭和22年の航空写真(P-7)を見ても解る通り、当時既に武蔵野台地の薪炭林である雑木林や田畑の殆どは失われ宅地化されています。右のGoogleEarthの航空写真に見られる善福寺川流域の緑地は嘗て水田だった場所を埋め立て整備して緑地化されたものです。これらは古くからある大宮八幡宮と戦前から整備された和田堀公園を除いては未だ50年経っていないものです。逆に言えば50年あれば森を造る事が可能であることを示しています。また嘗ての窪田は豪雨の氾濫に対し調節池の役割も担っていました。今日の様に川幅ぎりぎりに宅地化された河川は豪雨に対する抵抗力を失い、新たな都市水害を招いています。そうした都市水害に備え流域の緑地では運動公園を兼ねた調節池の整備が現在進行中です。それが可能なのは善福寺川流域の元農地を私有地のままに置かず、行政が長年に亘り共有地として確保してきたからでしょう。理想的には英国の様に都市の余白としてヒースを残す事かも知れません。今回のダイビングは阿佐ケ谷住宅と重ね合わせ『コモンの思想』を考えてみる機会になればと思います。因みに善福寺川ではアースダイビングのシンボルである水鳥「カイツブリ」が出迎えます。


・日時 2007年3月31日(土曜)PM1:00〜PM6:00
・内容 距離:約4.2km
・PM1:00〜 方南町に集合し堀之内橋から善福寺川流域を散策
・PM2:00〜 杉並区立郷土資料館見学(入場料¥100)
・PM2:45〜 大宮八幡宮と和田堀公園を散策(休憩)
・PM3:45〜 花見がてら善福寺川を阿佐ケ谷住宅まで散策
・PM4:30〜 阿佐ケ谷住宅及びにトタンギャラリーを見学
   公団阿佐ケ谷住宅・テラスハウス25号棟
・PM6:00〜 阿佐ケ谷界隈にて打上・反省会(場所未定)

・集合場所
2007年3月31日PM1:00
地下鉄丸ノ内線・方南町駅西改札を出る
地下鉄出口1(地上・方南町交差点角)
環状七号線・方南町交差点・北西側角にて。

・参考時刻表(ジョルダン・乗換案内調べ)
・新宿発12:46荻窪行・中野坂上乗換
 方南町12:57着
・荻窪発12:37池袋行・中野坂上乗換
 方南町12:57着
※中野坂上で乗換に注意!
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以上、資料等のダウンロード方法については別途メールにして連絡します。

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March 19, 2007

資料校正中

InDesign001.jpg

てことで、土日のエントリーをサボっていた言い訳です。(^_^;)

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March 11, 2007

木造四階建?

昨日、打合せで杉並校舎に行ったついでに、31日の為の調査ダイブとして方南町から阿佐ケ谷住宅まで歩きました。昨年の10月28日に一度 善福寺川・調査ミニダイブは済ませていますが、調査に漏れた箇所と地下鉄・方南町駅からのルートを確認する為です。そして前回立ち寄らなかった杉並区立郷土博物館で資料の収集、大宮八幡宮ではアースダイビングの無事を願っての神頼みです。と云うことで左の写真は善福寺川の緑地に面した木造四階建?の建物ですが、実際は鉄骨で補強した木造三階+地下一階(擁壁部分を利用)でしょうか。それにしても恐れを知らぬ三階部分のオーバーハングです。

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March 05, 2007

東京人4月号・東京は坂の町

と云うことで今月の東京人は待望の特集「東京は坂の町」である。そういえば作家・冨田均の東京坂道散歩や自称日本坂道学会会長・山野 勝の江戸の坂はエントリーしてあるが、自称日本坂道学会副会長による「タモリのTOKYO坂道美学入門」はエントリーしないままであったが、タモリ推奨の東京坂道ベスト12のなべころ坂(中目黒)のY字路をちょっと見てみたくなった。

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March 03, 2007

半蔵門

日本カメラ博物館JCIIフォトサロンの「幕末・明治の古写真展」を見に行ったついでに半蔵門から日比谷まで三宅坂をミニミニダイブしてみた。別に「土地の文明」を読んだからと云う訳ではありません。以前より武蔵野台地の東端から日比谷の入り江(想像)を望むこのダイナミックな風景は好きです。アースダイビングも本来ならば江戸東京の原点と云うべき此処から始めるのが筋なのかな、なんてことを考えながら三宅坂を下っていたら、同じ有名人に二度もすれ違ってしまいました。

その有名人はレースからは引退したようですが市民ランナーとして活躍している谷川真理さんです。最初は半蔵門に近い坂上ですれ違い、もしかすると、またすれ違うかも知れないと思っていたら、桜田門の手前で再び、すれ違いました。多くのランナーはトラック競技と同じ反時計回りのようですが、谷川さんは三宅坂が長い上り坂になる時計回りで走ってました。それにしても呼吸が全く乱れていない、流石に本物のアスリートは違いました。

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February 25, 2007

東京共同射的會社・射的場跡

先日、銀座の後で根津まで出掛けたついでに、昨年エントリーした「地形に刻まれた旧陸軍の跡」で取り上げた東京共同射的會社の射的場跡周辺を徘徊してみた。射的場は水戸徳川家の中屋敷跡に設けられ、現在の東大キャンパスの本郷地区と浅野地区に挟まれた区画にあった。明治17年発行の古地図によれば射的場は谷戸の地形を利用して人工的に土塁を設け、池ノ端側の射撃場から言問通りの弥生坂に向かって着弾地となっている。左の写真は射的場の略中央から池ノ端方向を写したものである。もしもタイムマシンに乗って明治10年代のこの場所にタイムスリップしたならば池ノ端側から銃撃を受け蜂の巣状態になってしまうだろう。着弾地側の弥生坂は明治27〜28年に造られた新坂で別名・鉄砲坂とも云うらしいが、その名は幕府の鉄砲組の射撃場が坂下にあったことに由来すると書籍・「江戸の坂」には記されている。明治17年発行の古地図には未だ弥生坂(言問通り)らしき道の姿形はなく、鉄砲組の射撃場と東京共同射的會社射的場との関係性も不明である。明治20年には射的場北側の台地(水戸徳川家の中屋敷跡の一部)に浅野公爵が屋敷を設け転居しており、翌年の明治21年には東京共同射的會社射的場は大森に移転している。時代の趨勢からか、此の地に射的場は相応しくないとの判断であろう。明治9年に建設が開始され翌年から演習が始まり僅か10年程度でその役割を終えた訳であるから人々の記憶に残らないのも無理はない。故に明治42年の地図を元にした古地図で東京めぐりには射的場は影も形もない。

明治17年発行の地形図:
東京共同射的會社・射的場の北側の土地には未だ浅野公爵家の屋敷は建っていない。


GoogleEarthによる東京共同射的會社・射的場跡
東大本郷キャンパス裏手の暗闇坂・坂下のこの三差路の家の右手を入ると射的場となる。
ジャバラルックの家


凸凹地図で見る地形に刻まれた射的場跡


凸凹地図で見る地形に刻まれた大森射的場跡
大森に移転した東京共同射的會社は現在の大森駅西側の大田区山王の谷戸に戦前まで小銃射的場として営業していたようである。

GoogleEarthによる大森駅と大森射的場跡周辺
現在、その射的場跡はテニスコートとして利用されている。


参照サイト:東京大学・浅野地区の歴史

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November 05, 2006

地質調査業協会

jiban.jpg

地質調査の業界団体だけに名前は堅い。関東地質調査業協会には上図の大地の解体新書が、そして東京都地質調査業協会には技術ノートのNo.26からNo.38までがPDF書類としてダウンロードできるようになっている。中でも技術ノートNo.29「東京のまちなみ」に掲載の「都電荒川線沿線のあゆみ」は次回「アースダイビングはトラムに乗って」の予習に最適のテキストだ。

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October 18, 2006

土木絵葉書

dobokucard.jpg

音無橋をネット検索して見つけた土木学会図書館の戦前土木絵葉書ライブラリ、土木関連の絵葉書3,600点が収録されている。

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October 09, 2006

図説 江戸・東京の川と水辺の事典

図説 江戸・東京の川と水辺の事典 鈴木 理生 (著)
事典とあるように江戸の川・東京の川の著者・鈴木 理生氏による研究の集大成である。書名の事典故に貸出禁止図書の指定がされていたが「そこをなんとか、m(__)m」と図書館司書にお願いして1週間だけ借りてきた。わきたさんが「東京の元・湿地帯をダイブする(その3)」の中で「江戸の川・東京の川」を取り上げていたので『出版されてから30年近く経っているので、、、云々』とコメントしたところ本書の存在を知らせて戴いた。Amazonで「江戸の川・東京の川」を買っているので、その後Amazonから本書の案内が来たと思うが値段が張る故に無視していたような気もする。

と云うことで「図説 江戸・東京の川と水辺の事典」を借りてきたのは出版されてから30年近く経った『江戸の川 東京の川』に於ける仮説的論考の、その後の研究成果を知りたかったのである。それは本来の石神井川が飛鳥山手前で右手に折れ谷田川(藍染川)と名称を変え不忍池に流れていたのであるが、或る時代から武蔵野台地東端の上野台地を切り裂き隅田川に注ぎ込むようになったのであるが。鈴木理生氏は『江戸の川 東京の川』に於いてはこの様に仮説を断言していた。

さきに渓谷状の石神井川が王子に抜ける形が異例だといったのは、河流がつくる谷の形は徐々に谷幅をひろげる形で発達するのが普通である。滝野川の王子側のわずか一キロたらずの渓谷地形を、自然現象の結果だとしたならば、この部分の地盤だけが局地的に隆起したという理由だけしか考えられない。
、、、中略、、、
正史の『吾妻鏡』には滝野川という地名はでてこない。滝野川が地名として扱われるのは、前述のように頼朝上陸の時点より約一世紀後に成立した『源平盛衰記』以後のことである。
以上のことから、私は石神井川が現在のように石神井川と谷田川に分断されたのは、人為的なものだと断定したい。
と述べている。

それが「図説 江戸・東京の川と水辺の事典」では人為的な土木工事説を捨ててないが、自然現象説の可能性についても述べられている。

最近の東京における自然地理(地形学)の調査・研究の結果では、幾度かあった海進期の海の波の浸蝕力は非常に強く、この辺りの武蔵野台地の海に面した場所は「1000年間に250メートルも削られた」という見解も発表されている。
(『駿台史学』第98号・1996年9月刊の中の(研究ノート)「武蔵野台地東部(本郷台) における石神井川の流路変遷」、筆者は中野守久・増渕和夫・杉原重夫の三氏)
 この研究の結論は、谷田川〜不忍池方向に流れていた石神井川が、「縄文海進最盛期に本郷台の崖端浸蝕に起因した河川争奪を起こし、流路を変更して台地から東京低地へと急勾配で流下した。流路を奪われた谷田川の上流部では沼沢地となり滝野川泥炭層を河床に堆積させ一方、王子方向へと流出した新たな河流は河床を深く掘りこんで峡谷状となり、現在の流路を取るに至った。」とする。つまり、海側からの浸蝕と石神井川側からの双方の浸蝕力で、壁状になった台地の緑(ふち)が崩壊して石神井川が海側に流れ出したというのである。

鈴木理生氏による人為による河流の変更説の根拠となっているのは以下の項目による。
1)滝野川の地名発生の時期
歴史上のことでいえば、鎌倉幕府の正史といわれた『吾妻鏡』の治承四(1180)年十月四日の条(くだり)の解釈に、源頼朝が「隅田宿」から「長井渡」を経て武蔵に最初に上陸した場所として、この石神井川流域の滝野川付近が推定されている。それから約百年後の十三世紀後半に成立したといわれる『源平盛衰記』には、源頼朝の上陸地点を「武蔵国豊島の上、滝野河、松橋」とあるのが文字で見られる限りの最古の例である。

近くの王子神社(王子権現)の起源によると「創立は、この地の領主・豊島氏の紀州熊野権現よりの勧請と伝えらる(元亨二年、1322)。王子村は古くは岸村といったが、紀州熊野三所若一王子が勧請され、若一王子宮(わかいちおうじしゃ)と称した事から、王子村と改められた。」とされている。

2)鎌倉古道の位置づけ

また鎌倉時代の軍用道路(鎌倉古道のうちの「中の道」が後北条時代に受けつがれ、それが江戸時代になると岩槻道(いわつきみち)、別名日光御成道=本郷通りから岩淵(北区)〜川口 (川口市) とつづく道も現在の石神井川を跨ぐ形でつけられている。
 しかし本来の岩槻道は石神井川を跨がずに、台地の縁沿いに通っていたと考えた方が、軍用道路の路線設定の条件を考えた場合、より自然である。
 この点から、あるいは岩槻道が成立した後に、自然的または人為的に石神井川の流路が変わったとも推察できる。
 現地に立てば分かるように岩槻道と今の石神井川との交差の有様は、各時代の状況に応じた社会と川の関係を偲ばせるものが多い。

これらの理由だけで実証もなく人為的な土木工事説と断定するのは難しいと思われるが、江戸時代の土木工事で本郷台地に切り開かれた仙台堀(御茶ノ水・神田川)に架かる聖橋と、滝野川に架かる音無橋がよく似た意匠のアーチ橋と云うのも興味深い。

追記:江戸時代と明治時代の飛鳥山周辺の地図と古墳時代の遺跡分布地図
edoasukayama.jpg
岩槻道が飛鳥山に添って一旦下り谷底で石神井川を渡り、再び武蔵野台地に登っている。
石神井川は谷底で流れが二つに分かれ隅田川に向かう流れと、武蔵野台地の旧海岸線に沿った流れとなる。(この下流は日本堤に流れ、山谷堀から隅田川に注いでいる。)
江戸・東京の地図と景観(正井泰夫・著)より引用。

meiji13asukayama.jpg
明治13年。

kitakuiseki.jpg

王子権現のある場所(半島、岬)は19の十条台遺跡群とされ、縄文、弥生の住居跡はあるが古墳はない。赤丸22は王子稲荷裏古墳、赤丸24は四本木(よもとぎ)稲荷古墳、これも地霊信仰の一つである稲荷が古墳跡にある典型だろう。飛鳥山には赤丸46の飛鳥山古墳群が見られる。中里と西ヶ原に貝塚が見られるのは縄文海進期の海岸線が京浜東北線に沿っていたのであろう。
東京都遺跡地図情報インターネット提供サービスによる北区-遺跡一覧より引用。

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April 21, 2006

ナスカに、、、

石川初氏の東京ナス化計画ではなく、南米はペルーのナスカに新地上絵が発見されたという新聞記事を見て、さっそくGoogle Earthで調べてみたが画像解像度の不足で地上絵までは確認できなかった。地上絵のあるナスカ台地はナスカの西北(およそ南緯:14°42'55.93"、西経:75°09'37.74")に位置すること、そして"Nazca Lines"を確認できた。
追記:TBS『世界遺産 ナスカ展―地上絵の創造者たち』が国立科学博物館で開かれていました。(このサイトに報道資料がPDFで用意されてます。報道資料の地図を見ると、Google Earthでたぶん地上絵だろうと思った部分は、やはりそうでしたね。)そして本日(4/22)のTBS系列『世界ふしぎ発見』はナスカはここから始まった 巨大地上絵の新事実です。

ナスカの地上絵について検索していたら、Mystic Placesのサイトが見つかった。そこで『Compare Nazca lines with Area 51 desert "drawings"』を見つけ、赤道、そして北回帰線も越えてネバダの砂漠地帯に飛んで行った。かの有名な米軍のトップシークレットである"Area 51"も衛星写真でみればこの通りである。これはアメリカ先住民からすれば神への冒涜以外のなにものでもないだろう。
(およそ北緯:37°09'45.87"、西経:116°03'04.49")



(およそ北緯:37°37'42.35"、西経:116°50'51.08")
こうした米軍によるマーキングが沢山あります。



おまけはフロリダのWest Palm Beachです。

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April 18, 2006

地形に刻まれた旧陸軍の跡

凸凹地図の丸で示した場所が青山南町から麻布竜土町にあった陸軍第一師団の射的場のあった場所である。谷戸の地形を利用して人工的な土塁を設け射撃訓練を行なった場所であろう。今では当時を思わせるものは何も残っていないが、地形にはっきりとその痕跡が残っている。

ここは東大病院の裏手にあった東京共同射的会社の射的場の痕跡である。射撃訓練場が民営化されていると云うのも変だが、東大の学内広報の記述から推測すると、射的場は警察隊と陸軍が共有していたように思えるが、なんとなく利権の臭いもしてくる。しかし射的場という名称は温泉場等の娯楽施設を連想させるが明治期は射撃訓練場をそう呼んでいたようである。

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April 16, 2006

根岸競馬場跡

masaさんKai-Wai 散策: 荒木町界隈凸凹地図のコメントで「池が涸れたものやカルスト地形を別にすると、いったい自然にできた真性スリバチって存在するのでしょうか…」という言葉が気に掛かり、そういえば横浜の根岸競馬場跡が緩いスリバチ地形になっていたことを思いだした。尤も、35年前くらいに一度行っただけなので記憶は定かでない。Macの数値地図ビュアーで調べてみたら谷口が高く、やはりスリバチを形成している。たぶん自然の谷戸地形を利用した競馬場だったので、メインスタンドへのアクセスの為、谷口に土手を設けて進入路を確保したのではないだろうか。まぁ勝手な妄想ですが。

追記:「東京の公園と原地形」を調べてみたら8章の「8-2 三渓園」に根岸競馬場についての記述がありました。あながち妄想でもなかったようです。

競馬場は谷戸の谷頭のあたりを利用したものである。谷戸を囲う東、南、西の三方の尾根はそのままコースとなり、北ノ谷を埋めて土手を高く築き上げ、コースを完成させた。コースに上り坂、下り坂があったが他にカーブがきつく危険なコースとして騎手に恐れられていた。すり鉢の縁を走っていたようだともいわれている。
と云うことで、根岸競馬場跡は田中正大氏のお墨付きを頂いたスリバチ地形でした。

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April 15, 2006

東京の地理がわかる事典

東京の地理がわかる事典 鈴木 理生 (編著)日本実業出版社
江戸の川・東京の川の著者・鈴木 理生氏による本書は江戸から東京の地理とそれらに纏る都市の歴史について手軽に読めるように見開き2頁に一つのエピソードがまとめられている。内容的には軽めの蘊蓄系雑学大全にシフトしているが、これ一冊で東京の地理がわかる事典と云える。東京の地理に興味を抱いているが10+1 No.42 特集/グラウンディングの内容では敷居が高いと思われる人はこの一冊を手始めに読むと良いかも知れない。

内容
第1章 江戸以前の東京はどんなだったのか
第2章 東京の地形の基礎知識
第3章 現代につながる江戸のインフラ
第4章 江戸の「町」から東京の「街」へ
第5章 急変していく東京の区画と範囲
第6章 近代東京はこうしてできた
第7章 東京の発展を支えた交通網
第8章 雑学でみる江戸・東京の地理

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April 05, 2006

風景殺し・記憶殺し

Kai-Wai 散策: 高田残景を見て、同じようなことが多摩地区でも起きていると思いGoogleMapで調べてみた。衛星写真の下部中央はJR橋本駅、境川は東京都町田市と神奈川県相模原市の都県境を流れる中小河川である。地図を見ると直ぐに解るが橋本付近から下流は河川改修が済んで河川は直線化し、河川を挟んで行政区域に飛び地現象が起きている。一方の上流側は地形に沿って蛇行しており、流域には深い緑が残されている。こうした河川改修が治水の為に行なわれているのか、区画整理と同じ土地利用の為に行なわれているのか疑問である。何れにせよ、躊躇いもなく自然風景を破壊するのは知恵がなさすぎる気がしてならない。

私が住んでいる八王子市の北野街道に沿って流れる湯殿川と云う名の中小河川があるが、この川も館町付近で河川改修が行われようとしている。しかし、子供の頃の記憶を辿ってみても湯殿川が氾濫したことを聞いたことがない。将来的に都市化が進み雨水の全てが河川に流れ込むと云う想定で河川改修をするのだろうか。田畑や森が安全弁の役割をしていた時代が終わり、余白をもたない都市政策の中で数値だけを根拠に行なう河川改修の後に残されるのは荒廃した風景だけである。こうして風景は殺され、記憶も殺される。

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