June 30, 2005

Podcastingを試す

と云うことでiTunes4.9のPodcastingを試すべく、ホリエモンのlivedoor ネットラジオ/ねとらじのポッドキャスティングβ版にアクセスしてiBUNKOの夏目漱石の草枕を登録してみた。

Podcasting02.jpgiTunes4.9のメニューバー「詳細設定」から「ポッドキャストを登録...」


Podcasting03.jpg"RSS"対応のURLをコピー&ペーストする。


Podcasting01.jpg
iTunes Music Store に登録されている日本のポッドキャストは今のところ二件だけ。iPodで朗読を聴くにはInterNetから自分で探さないといけない。そのうち英会話教室なんかもポッドキャストを始めるだろうな。

山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
この「草枕」の一節は社会にでたとき、母に言われた言葉だった。

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June 29, 2005

Podcasting & iTunes4.9


WWDCでPodcastingへの対応を表明したiTunes4.9がリリースされた。後は"iTunes Music Store Japan"のオープンだけか。

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Come Rain or Come Shine


と云うことで殻々工房のエントリーにさりげなく映っていたiTunesの曲目"Come Rain or Come Shine"はHarold Arlen(1905〜1986)の作曲、Johnny Mercer(1909〜1976)の作詞で、邦題は"降っても晴れても"、ジャズのスタンダードナンバーとなっているが、元はミュージカル"セントルイス・ウーマン"の挿入歌。AccuWeateer.comから天候を英語でどう表現するか見るのも面白い。因みに八王子は現在"cloudy"今晩は"A couple of t-storms early"そして明日は"A morning shower or two"だそうです。たぶん"nOz"さんはモニカ・セッテルンドとビル・エバンスの"降っても晴れても"を聴いていたのだろう。

しかし、ミュージカルナンバーだけあって詩の表現はそうとう臭いですね。

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June 28, 2005

Partly Sunny

hachiojiWeather.jpgAccuWeateer.com
今日の八王子の天気は"Partly Sunny"だそうで"所により晴れ"それとも"薄曇り"と云うことでしょうか、それにしても暑いですね。

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リサイクル

処分に困っていたCRTモニタを近くに出来たリサイクルショップに持っていった。その買い取り価格は200円だった。他にミニコンポやパイオニアのスピーカー、どれも一律200円。要するに減価償却期限を過ぎたものは二束三文の値打ちしかないと云うことである。ただ一つボーズの小型スピーカーだけが買い取り価格が5000円で引き取られた。これは人気商品らしい。まぁ、粗大ゴミにするよりは良いだろう。

Posted by S.Igarashi at 10:17 AM

June 27, 2005

たむらしげる作品集 二冊

象の思い出アノニマ・スタジオ発行(1600円+税)
記憶の中に潜むパラレルワールドへの扉、それは月だったり、機関車だったり、象だったり。失われた時を求めて扉を開けると、、、。モノトーンの水彩画による絵本。


水晶山脈アノニマ・スタジオ発行(1600円+税)
これも数年前、トムズボックスで開かれた個展で展示された絵に物語を付けて絵本に仕立てたもの。水晶を透して見る不思議な宇宙的風景の世界。
ちなみに今までの絵本原画等を集めて7月29日より9月19日まで八王子夢美術館で「たむらしげるの世界展」が開かれます。

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June 26, 2005

チョムスキー9.11 Power and terror

チョムスキー9.11 Power and terror
チョムスキーは楽天家なのだ。9.11以後のインタビューと講演が収録されたこのDVDを見てそう思った。それは彼の言語学者としての研究と思索から生まれたものだろう。人の言語能力は先天的に備わったものだとするチョムスキーは人種・民族・文化の壁を超えて人々はコミュニケーションできると信じている。「世界は悪い方向に向かっているのではないか?」との聴講者の質問にも「そんなことはない」と言い切る。ベトナム戦争批判に立ち上がった当時に比べれば言論の風通しは少しずつ良くなっている。「サッコとバンゼッティの悲劇」も「奇妙な果実」も「マッカーシー旋風」も過去の出来事となりつつある。チョムスキーが職を失い国外追放されないこともアメリカの民主化が以前より良くなっていることの証なのだろう。物事に悲観せず諦めず継続することの大切さと可能性を信じる勇気を与えてくれるDVDである。

チョムスキーは東京裁判についても語っている。日本のA級戦犯は紛れもなく戦争犯罪人であるが、東京裁判そのものについては茶番と切り捨てる。何故なら、連合国側の戦争犯罪行為が問われなかったからである。更にニュールンベルグ裁判に於いて何が戦争犯罪に該当するか定める会議において、その根拠になったものは、ナチスドイツが行った戦争行為の方が多く、連合国側が行わなかったもの(或いは少なかった行為)が戦争犯罪と見なされた。その逆に連合国側が行った戦争行為の方が多く、ナチスドイツが行った戦争行為の方が少なかったものは戦争犯罪と見なされなかった。その典型的なものが市街地空爆である。第二次世界大戦末期、既に空軍の戦闘力を失っていたドイツ空軍に対して連合軍側は市街地空爆を断行し降伏へと追いつめた。それは日本においても同様である。1945年3月10日の東京空爆に始まり、日本の主要都市を空爆、最後にヒロシマ、ナガサキに原爆を投下、明らかに、女性、子供、民間の非戦闘員を巻き込んだ無差別殺人の戦争犯罪行為であるが、ドイツも日本も連合軍を上回る空爆を行わなかったので、空爆は戦争犯罪と認定されずに今日に至っている。それ故、アメリカはベトナム戦争北爆、アフガン空爆、イラク空爆と反省もせず無差別殺人を繰り返すのである。

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June 25, 2005

モービー・ディック航海記

モービー・ディック航海記
たむらしげる・著 
ソニー・マガジンズ発行 ISBN4-7897-2544-8
たむらしげるの新刊・SFファンタジーである。
彼は以前より"誰のために絵本を書くのか"の問いに対して"少年時代の自分のために書いている"と答えている。当然この"モービー・ディック航海記"も少年だった頃のたむら君に向けて書かれたものであることは間違いない。彼の分身でもある主人公Qや、96歳の叔父は空想世界の中で時間や空間を超えてパラレルワールドへと冒険する。その時間と空間が入れ子になった小宇宙は彼が少年の頃に見た世界なのだろう。

tamurakujira.jpg

そんな、たむらしげるの世界が絵本の作家たち (2) 別冊太陽に22頁に亘って紹介されている。そして"モービー・ディック航海記"のクジラ型潜水艇のモチーフは既に30年前くらいにはそのイメージが出来上がっていた。(写真右上はシルクスクリーンによるモービー・ディック、1970年代の後半くらいの作品。)
彼は その別冊太陽に自らその半生を語っている、彼の才能の兆しが垣間見えた高校生の頃、僕らは三年間を同じクラスで過ごした。なんとなくいつも斜め後ろくらいに彼の席があり、授業中は教師に見つからないよう教科書の端にパラパラ漫画を描いて彼は過ごしていた。彼の漫画に対する非凡なところはその眼差しが海外に向いていたことである。八王子は丘陵地の峠に住んでいた少年が今は無き銀座イエナ書店に通い原書を求め、雑誌ニューヨーカーを月極購読していたのである。彼は確実に同世代の少年よりもワンラップオーバーしていた。

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June 23, 2005

靖国問題

靖国問題 高橋哲哉・著
ちくま新書・ISBN4-480-06232-7 定価(720+税)
著者の高橋哲哉氏はリベラリズムの人だろう。その著者がプラグマティズムな観点から冷静に靖国問題を、感情の問題、歴史認識の問題、宗教の問題、文化の問題、そして国立追悼施設の問題と分析し、最後に極めて現実的な解決の方向を提示している。それは「政教分離」の徹底により国家と神社の癒着を断つこと、次に神社の信教の自由を保証すると共に遺族側の信教の自由も保証することである。それは合祀を望まない遺族に対して神社側が応じることであるとしている。要するに、そこに祀られたいと遺族が望む戦死者だけを祀る一つの宗教法人として自立することが現実的選択としている。しかし、この新書の最も重要な個所は最終章の石橋湛山について触れた部分にあるのではないだろうか。

戦争直後のまだ憲法が公布される前に石橋湛山(自民党総裁・元首相)が靖国神社の廃止を提言している。その内容は現実的解決策を提示している高橋哲哉氏より遥かに先鋭的である。石橋湛山は保守リベラリズムの立場から戦前より植民地政策批判、軍国主義批判を通してきた人である。「靖国神社の存続はいつまでも屈辱と怨念の記念として永く陰惨の跡を留むるのではないか。」と述べている。怨念がいつの日か正義の仮面を装い復活することを石橋湛山は危惧していたのだろう。そして更に石橋湛山は憲法九条を暗示する「真に無武装の平和日本を実現する。」との言葉を残している。

日本敗戦のシナリオは既に明治維新に書かれていたと言って良いだろう。行き過ぎたナショナリズムはいつかファシズムへと変容する。尊王攘夷思想を近代国民国家に投影しドイツ帝国憲法を礎に立憲君主国家となった明治政府体制はファシズム体制の基本理念と矛盾なく合致している。
それは、国の成り立ちを神話に求める建国の虚構性、全体主義的な国家権力の元に個を国家に溶解し、社会的階級的矛盾を解消し偽るものである。戦前の国家神道の名の元に天皇に命を捧げたもののみを合祀する靖国神社は国家に個を溶解する装置であり、全体主義のアイコンと成り得たのである。

先日も日本軍兵士として戦死した台湾の遺族が合祀の取り下げを要求したが、神社側は門前払いをしている。信教の自由を盾に首相が行動するなら、一個人として行動すべきであろうし、異なる宗教を持つ彼ら台湾の遺族の要求も聞き入れねばならない。

Posted by S.Igarashi at 11:18 PM

June 22, 2005

想定内

昨日、住友VISAカードから保険がどーたらこーたと云う電話セールスを受けた。そんなことより、問題のカード情報流失問題はどうなっているのだと、切り返すと電話セールス係、その件の質問は想定内とばかりマニュアル通りに現在被害情報をホームページ上でお知らせしていますとの答え。
「米国における約4,000万枚のクレジットカード顧客情報の漏洩」
2004年9月から本年6月上旬まで米国内で買物、米国内サイトで通販、ネットショッピングした場合に可能性があるということだ。Amazon等は日本国内での利用だけに留めていたが、シェアウェアSnapz ProXの支払いをどうするか考えていた矢先のできごとだけに、これからのシェアウェアの支払いにも影響を与えそうだ。

それにしても支払いがクレジットカード以外に選択肢がない場合も多く、国内でもこうしたケースが発生する可能性は否定できない。振込め詐欺やフィッシング詐欺等の新たな犯罪、何れにしてもこうした確信犯は無期懲役刑くらいの重罰が必要だろう。

Posted by S.Igarashi at 11:21 PM

June 21, 2005

NOW HE SINGS,NOW HE SOBS

NOW HE SINGS,NOW HE SOBS/CHICK COREA
1968年3月録音のピアノトリオによるチック・コリアの出世作である。同じ1968年にはビル・エバンスがモントゥルー・ジャズ・フェスティバルのライブ盤を残しており、何れも当時話題になったピアノトリオのアルバムである。ジャズの定番となっていた4ビートのハードバップと一線を画しながらも、グルーヴでドライブ感溢れるチック・コリア・トリオの演奏スタイルは耳に新鮮に聴こえたものである。ドラムにベテランのロイ・へインズ、ベースに新鋭のミロスラフ・ヴィトウスを加えたこのトリオがジャズピアニストとしてのチック・コリアの原点なのだろう、その後1981年にトリオを再結成し1984年にECMにレコーディングを残している。そこにはCIRCLEで見られた緊張感は微塵も感じられないが、、。

TRIO MUSIC, LIVE IN EUROPE1984年9月録音
"NOW HE SINGS,NOW HE SOBS"から実に16年を経てのチック・コリア・トリオによるアルバムである。その間、チックは"CIRCLE"や"return to forever"、はたまたエレクトリックバンドやクラシックへの傾倒と良く言えば多才な活動、悪く言えばあれもこれもと焦点の定まらない活動期間を過ごし、ミロスラフ・ヴィトウスはあのウェザーリポートの第1期のメンバーとして世間に注目されていた。ロイ・へインズはコルトレーン・カルテットのサイドメンとしても活躍していたベテランである。
このアルバムもチックの多才?ぶりが反映してか焦点は定まらず、その分だけ印象は散漫となる。スタンダードナンバーではキース・ジャレットを意識した演奏内容となり、スパニッシュモードでは通俗性がチラホラ、揚げ句はフリージャズだってできるとの演奏は蛇足に感じられる。


CHICK COREA/RENDEZVOUS IN NEW YORK
2001年12月のN.Y.ブルーノートでのスペシャルセッションのライブ盤である。いわゆる同窓会アルバムの類いである。この一夜だけ"MATRIX"の演奏にロイ・へインズ、ミロスラフ・ヴィトウスとのトリオが再結成された。しかし"CIRCLE"は封印されたまま、再結成されることはなかった。チックにとって"CIRCLE"は忘れたい過去なのだろうか。
1970年前後、雑誌"Jazz"でプーさんこと菊池雅章がチック・コリアの演奏スタイルをどう思うかの質問に答えて言った。「ん〜、どこかタンゴのオブリガートを聴いているようで、、」言い得て妙である。プーさんはチック・コリアの通俗性を見抜いていたのである。

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June 20, 2005

パリは燃えているか Circle Paris-Concert

Circle Paris-Concert1971年2月21日録音。
1970年から1971年のほんの僅かな期間、ジャズシーンを疾風の如く駆け抜けたCIRCLEのライブアルバムである。ジャズの場合、どんなにパーマネントなグループであろうと、その演奏は常に一期一会である。CIRCLEはチック・コリアのピアノ・トリオ(チック・コリア、ディブ・ホランド、バリー・アルトシュル)に単にアンソニー・ブラクストンが加わったカルテットとは意味が異なる。チック・コリアは「このパリの特別な夜に、この夢は実現した。」との言葉を残してCIRCLEを解散してしまう。そして二度とCIRCLEの他のメンバーとセッションすることすらしなくなった。確執があっての解散と云うよりも、チック・コリア自身が燃え尽きてしまったのだろう。このままCIRCLEを維持し演奏を続けることは自らの命を縮めることに気付いたのではないだろうか。同じメンバーによるピアノ・トリオによる演奏と比べてみても、チック・コリアの緊張の度合いも演奏の密度も異なる。タイトでスリリングなイマジネーション溢れる演奏はフリージャズのフアンにとって醍醐味であるが、少なくともチックにとって骨身を削る行為だったのだろう。既にチックの"return to forever"は懐メロとなってしまったが、34年前、チック・コリアが燃え尽きたパリの夜の演奏は未だに新鮮味が失われていない。

1971年1月11〜13日ミュンヘンにて録音、Circleからアンソニー・ブラクストンのいないホーン・レスのピアノ・トリオ(チック・コリア、ディブ・ホランド、バリー・アルトシュル)による演奏である。同じトリオによる1970年4月録音の"ザ・ソング・オブ・シンギング"が2006年3月に東芝EMIよりBLUENOTE決定版1500シリーズとして廉価版が発売される予定である。そして三つのアルバムに共通で演奏されるのがウェイン・ショーターがマイルスのアルバムに提供した"ネフェルティティ"である。iTuneでマイルスによる演奏も含めて聴き比べるのも一興であろう。

Posted by S.Igarashi at 02:59 PM

June 19, 2005

世界遺産・シュロイダー邸

Schroder.jpgSchroder House QuickTime movie 192kb
TBS・世界遺産の来週(6/26)放送予定はG.T.Rietveldのシュロイダー邸ですね。TBS・世界遺産でモダン・ハウスを取り上げるのはミースのトゥーゲントハット邸以来のことかな。先日のテレビ東京"美の巨人たち"のコルビュジェの小さな家に引き続き見逃せない放送ですね。
10年近く前にもNHKで世界遺産に指定された住宅としてシュロイダー邸を放送したことがありました。確かビデオがある筈なのだが、、、、トゥーゲントハット邸のビデオも、、、どこかに(^_^;)

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June 18, 2005

越境者

小学二年生のとき八王子市に籍がありながら隣の浅川町の小学校に編入した私は越境入学者だった。足立区から八王子に越してきた理由は私たち兄弟四人のうち私を含めて三人が小児結核を患ったことによる。幸いにも結核の特効薬であるパスが普及したこともあって越してくる前年の夏休み期間を安静にしていたくらいで直ぐに回復したのだが、母は戦前に姉と妹の姉妹三人を結核で亡くしているので、もう空気の汚れた東京には住みたくないと考えた。浅川町の小学校に編入したのは通学距離が短いこと、それに浅川町が八王子市に合併編入されることが決まっていたので越境入学も問題にされることもなかった。しかし、それは建前だけで、義務教育の残りの八年間を私は越境者としての差別を時折味わうことになった。

「おまえ達の居場所はここにはない。」そう宣告されたのは、年に数回行われる地域ごとの児童集会のことだった。越境入学者の児童は一の部屋に押し込められ、そしてドアが閉められた。それが中学三年まで続いた。差別されたのは児童・生徒だけでなく、父兄会も同様であったそうだ。私が中学三年の時、父兄会の席上で教師・Aが「狭間・廿里地区の人は発言権がありません。」と言ったそうである。母はこの理不尽な発言に猛烈抗議したそうだが、その余波はその後、私自身に降り掛かり、理不尽な扱いを教師・Aから受けることになった。時は既に八王子市に編入してから6年は経っていた。
或る時、自分の居場所がないことを思い知らされる、それが越境者である。私にとって高校への進学は越境者からの解放であった。

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June 17, 2005

るるぶ・八王子市

るるぶ情報誌・八王子市 JTB出版(定価880円)
どこか、とらえどころのない八王子を特集した"るるぶ情報誌"である。
八王子に越してきたのは小学二年生の時だった。中央線の終点・高尾駅が未だ浅川駅と言っていた頃である。家の住所は八王子市だが通った小学校は南多摩郡浅川町にあった。当時の浅川町は林業と観光が主な産業であった。現在の高尾駅北口はどこか寂れている印象があるが、越してきた当時の浅川駅は観光地の駅前そのものであった。
まぁ"るるぶ情報誌"を見ても八王子ラーメンを食べたいとも思わないが、、、八王子のとらえどころのなさは、一層増幅された。

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June 16, 2005

ダイエー再建問題

昨日の東京新聞に産業再生機構の支援によってダイエー再建を推し進める樋口社長の談話が掲載されていた。内容はこれまでの一括大量発注を改め、地域ごとに地元市場との取引を拡大し、食品の鮮度向上を目指すと云うものである。何故、これほどまで当たり前のことが旧経営陣が出来ずにいたのか不思議でもある。私の住む八王子では地元スーパーの忠実屋が拡大路線を続けるダイエーと秀和による株の買占によって乗っ取りに会い消滅、忠実屋の店舗はダイエーとなりそのまま営業が続けられたが、出入りの納入業者は切られ、全てダイエー関連企業に取って代わった。それによって生鮮食品の鮮度品質がガタ落ちし、鮮魚に関して云えば鰆(サワラ)は臭いが残り、普通なら安くて旨いものの代名詞でもある塩鯖に至っては、生臭く油気もなくパサパサしてとても人間が食べる代物ではなかった。これでは消費者のダイエー離れは当然、駅前のダイエー高尾店を利用する人の多くはマイカーを運転できない老人やごく近所の人だけとなっていった。利益の独占を追求し消費者を裏切り続けた結果が今日のダイエーの惨状である。既にダイエーにバリューは存在しない、あるのは負の遺産だけである。雇用安定や地域社会の為に再建するならば、名前を含めて全てリセットして普通のスーパーとして出直すのが道理だろう。

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June 15, 2005

テレビの嘘を見破る

テレビの嘘を見破る
今野勉著 新潮新書
ISBN4-10-610088-6 定価735円(税込み)
いわゆる製作者サイドのメディアリテラシー系本である。もしも10年前に出版されていたならば意義があっただろうが、1993年のNHKムスタン事件を一としたドキュメンタリー番組の演出にフォーカスした内容は遅きに期した感がある。今更、「テレビの嘘を見破る」なんてこと言われても鼻白むだけである。「おいおい、それはテレビが真実を伝えるものという文脈で成り立つ言葉でしょうが、誰もそんなこと思っていないよ。」と突っ込みたくなる。やらせ擁護派の田原総一朗は演出なくしてテレビは成り立たないと言い切っているし、多くの視聴者はテレビメディアの虚構性をとっくの昔に見抜いている。使われなかった言葉や映像、フレームの外側の世界、その対価は何か。問題は虚構性の中に隠された真実を視聴者が如何に見抜くかであろう。

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June 14, 2005

CDは生の演奏に遠く及ばないか

週刊文春6月9日号に【読者に贈る・こころに残るナンバー1「小説」「映画」「音楽」小誌連載陣大アンケート】という趣向の企画ネタがあった。つまり週刊文春に連載している執筆者達に「私が感動した小説ナンバー1」「私が感動した映画ナンバー1」「私が感動した音楽ナンバー1」を答えてもらおうという企画なのだが、一人、HMだけが「私が感動した音楽ナンバー1」の質問に対して「特になし:CD、LPからすごい感動を受けたことはない。生の演奏に遠く及ばないと思ってます。」と答えている。まるで特権階級のお抱え宮廷音楽家を従えている人のような発言である。

質問内容を正しく理解しての回答なのか不明だが、世界中の音楽愛好家を敵に回すような尊大な答えである。別にCD、LPに特定している訳ではないのだから、CD、LPからすごい感動を受けたことがなければ、自分が感動した生演奏、コンサートやライブ、路上パフォーマンス、先住民の唄う民謡等々、記憶に残る演奏会について答えれば良いのである。それがなければCD、LPから云々は言う必要はない。CD、LPが生の演奏に遠く及ばないという発想は、逆説的に言えば内容ではなく音響をプライオリティにするオーディオマニアと大差ない。尤も、最近で生の演奏会をどれだけCDに近づけることができるか、それが問題となっているくらいである。生の演奏だからといってCDよりも内容が優れているとは限らないのである。
何れにせよ音楽は耳で捉えた音を脳内で連続した時間軸に基づいて再構築することによって成り立つ極めてアナログ的なモノである。もしも、脳内で連続した時間軸を構築できなければ音楽も言葉も我々は失ってしまう。音楽は耳で聴いているのではなく脳で聴いているのである。CDやLPは時間や空間の制約から我々音楽愛好家を解放してくれた。更にiPodとiTunesはそれを極限にまで高めた。さぁ、脳をリフレッシュするためにiTunesで音楽を聴こう。

Posted by S.Igarashi at 10:55 AM

June 11, 2005

コルビュジェの小さな家・une petite maison

今晩、10時からテレビ東京の"美の巨人たち"は「18坪の奇跡・コルビュジェの極限住宅」です。内容は湖畔に建つ「小さな家」ですね。要チェック(Gコード・5966)
このコルビュジェの小さな家(母の家)は他にも雑誌・都市と建築(a+u)2000年3月臨時増刊号「20世紀のモダン・ハウス:理想の実現1」に現状の姿が詳しく紹介されています。
Le Corbusier une petite maison 1文字化け注意
ARCHITECT STUDIO ROOM335によるUne Petite Maison CG

Posted by S.Igarashi at 08:41 AM | コメント (1)

June 10, 2005

LIBERATION MUSIC ORCHESTRA

チャーリー・ヘイデンのリベレィション・ミュージック・オーケストラは1969年スイングジャーナル主催 第3回 ジャズ・ディスク大賞金賞を受賞しているアルバムだ。1967年から発足したジャズ・ディスク大賞は第1回金賞「ゴールデン・サークルのオーネット・コールマンVol.1」、第2回金賞「クロイドン・コンサート/オーネット・コールマン」、そしてこの「リベレィション・ミュージック・オーケストラ」と続き3回連続してフリージャズが金賞を受賞している。その意味でも「リベレィション・ミュージック・オーケストラ」は1960年代を総括する時代の精神が色濃く反映したアルバムとなっている。そして僕がジャズを聴き始めたのもこの時代である。

「リベレィション・ミュージック・オーケストラ」に参加した多くのミュージシャンはフリージャズのムーブメントであった1964年の「ジャズの10月革命」を経て結成されたJCOA(ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ・アソシエーション)のメンバーが核となっている。
アルバム制作についてチャーリー・ヘイデンはフランコ独裁政権に対抗するスペイン市民戦争の歌に触発され、1967年のチェ・ゲバラの死、1968年の民主党大会でのヴェトナム戦争反対討議の否決、等が動機付けとなったとライナーノーツで述べている。
チャーリー・ヘイデンのベースソロで始まり、カルロス・ブエブラの唄がコラージュされた後で、ドン・チェリー、デューイ・レッドマンのソロと続く"Song For Che"はチェ・ゲバラに捧げられた曲である。
アルバム全体に、マーチやフラメンコ・ギター、そしてノスタルジックなスパニッシュメロディ等がコラージュされ、哀愁が伴う。何故かスパニッシュメロディの持つ漂泊感、喪失感は南北アメリカ大陸でより増幅される気がしてならない。
このアルバムの翌年1970年には「ビッチェズ・ブリュー/マイルス・デイビス」が金賞を取り、変革の時代を迎えることになる。そして政治性のあるテーマがジャズのアルバムに反映されることも少なくなってくる。ユリイカの1976年1月号のジャズは燃えつきたかはベトナム終戦翌年に刊行されている。これもまた時代の喪失感がタイトルに反映されているのであろう、ジャズの替わりに違う言葉を当て嵌めても良かろう。
蛇足であるがキース・ジャレットのインパルス時代のカルテットのメンバーであった、デューイ・レッドマン、チャーリー・ヘイデン、ポール・モチアン、の三人全てがこのアルバムに参加している。現在のキース・ジャレット・トリオのベーシスト、ゲーリー・ピーコックもそのルーツはフリージャズの人である。

Posted by S.Igarashi at 09:30 AM | コメント (1)

June 08, 2005

BLUE NOTE

BLUE NOTE 1500シリーズの第二期が始まった。今回のリリースは1970年代初めの頃まで含まれているようなので、昔、リアルタイムで聴いていたアルバムも多い。ということで"THE REAL McCOY"を買ってしまった。
ブルーノート決定盤1500シリーズ

東芝EMIからのメール。

第1期100タイトルを発売したブルーノート決定盤1500シリーズですが、おかげ様で大好評をいただき、トータルセールスは100万枚に届く勢いになりました。
今年度は第2期として6月8日から発売開始!毎月20タイトルづつ来年3月まで、計200タイトルの連続リリースになります。
さらにご好評をいただいております3:1キャンペーンも第2期として実施いたします。
第1期3:1キャンペーンの応募シールは第2期でも引き続き有効となっておりますので、お手持ちの応募シールは有効にお使いください。

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裏番組

今日はサッカーワールドカップの最終予選・対北朝鮮戦だが、その裏番組が凄い。民放他局はもう視聴率は諦めていると云うか、ある意味で番組を捨てている。TBSはお涙ちょうだい再会モノ、フジTVはあの人は今?に出てきそうな歌手による歌謡ショー、圧巻は12チャンネル・テレビ東京の巨人戦中継。

追記:大黒様の御蔭でサッカーワールドカップ出場決定ですね。

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June 07, 2005

Intel Blue

噂どおり、MacにIntelが採用されることになった。IBM BlueからIntel Blueへのスィッチである。今や嘗ての僚友モトローラの姿はどこにもない。尤もMacOSXは初めからIntelのCPUで動くように設計されていたということだ。そもそもMacOSXの元になったNeXT StepがIntelのCPUで動いていたわけだから驚くにあたらない。(ジョブズはNeXT時代に既にモトローラを見限っていたのである。)逆にPowerPCに合わせてNeXT StepからMacOSXを作る方が難しかったに違いない。たぶん、このシナリオは5年前から書かれていたのだろう。直ぐに実行に移せなかった最大のネックはMacOS9のクラシック環境だったのであろう。大方のユーザーがMacOSXへ移行できればIntelへの移行もスムーズに行えると云うことなのだろう。どうやらIntelMacでのクラシック環境のサポートは望めないようだ、尤もMacOS9を必要とすることは年に数えるくらいしかなくなっている。
ニュースサイトではコアなMacfanからの批判を問題視しているが、それは心配するにあたらない、何故なら嘗ての彼らにとってダークサイドのアイコンであったIBM Blueを受け入れた過去があるからだ。問題はユーザーが望む道具を提供できるか、否かなのである。
WWDC 2005 Keynote

WWDC2005Woz.jpg
"A Silicon Valley Story"の主役の一人"Woz"も会場に。

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June 06, 2005

冤罪を生むもの

70年代の小劇場ブームの火付け役となった"つかこうへい"の「熱海殺人事件」は警察の取調室を舞台にした演劇である。テーマとなっているのは「事件は現場で起きているものではなく、取調室で刑事によって作られるものである。」というものである。アイロニカルな笑いを生む屈折した演出は観客に自虐的なカタルシスを残し幕となる。しかし密室で行われる警察の取調の様子を"つかこうへい"は一度も見たことがない筈である。取調室に弁護士が同席することも、公正な取調が行われることを検証するためのビデオ撮影、即ち「取調べの可視化」も行われていない。数年前に日韓の弁護士団体が共同で「取調べの可視化」を求める運動を起こし、韓国では「取調べの可視化」が実現されることになったようだが、日本では民主党による議員立法も与党により否決廃案になっている。先進国と云われている国で「取調べの可視化」が行われていないのは日本だけであり、あきらかに基本的人権を無視した憲法違反でもある。今年、再び民主党によって議員立法されているが、このメディアも積極的に取り上げない法案の推移を見守りたい。
中村正三郎のホットコーナー・テレビ版噂の眞相「日本のタブー・検察ファシズムの闇 」
「取調べの可視化」についての意見書 日本弁護士連合会
民主党議員立法「刑事訴訟法の一部を改正する法律案(弁護人立会権、取調べ可視化)

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June 05, 2005

ポストコロニアリズム

一冊でわかる ポストコロニアリズム
ロバート・J・C・ヤング著、本橋哲也・訳、岩波書店
東西冷戦時代の幕引きの後にあらわにされた南北問題、つまり植民地以降の世界を見つめ直すテキストである。著者は中近東、カリブ、インド、アルジェリア、ブラジル、アフリカ等、様々な情景をモンタージュ的に提示し読者に世界の現実を問いただし、植民地の独立後も植民問題が終わっていないことを明らかにしている。その一つでもある旧宗主国間によって分割された国境問題は未だに紛争の火種として燻っている。西欧社会の国民国家という虚構を旧植民地に押し付け独立させた後も利権を保持し搾取し続けるという構図は植民地時代と差違はない。
ポストコロニアリズムはリアルタイムで動いている世界史つまり現実世界を連続した時間軸と空間の中で捉えようとする考え方ではないだろうか。ポストコロニアリズム的な見かたはサッカーワールドカップや英国を中心としたロック・ミュージックやレゲエ、大英帝国博物館、ベルリン博物館、ルーブル美術館、等々を批評する道具にもなりえるだろう。もちろん、イラク戦争やパレスチナ問題のルーツが大英帝国によるアラブ社会の支配にあったことは言うまでもない。

ポストコロニアリズム 岩波新書 
本橋哲也・著、岩波書店
翻訳者による著書もある。

アメリカ独立戦争もポストコロニアリズムという視点で見ると歪んで見えます。植民者が宗主国に上納金を支払うの嫌で戦争を仕掛けたというのは、どこかヤクザの内部抗争に通じるものがあるような気もします。先住民や奴隷から見れば搾取する者の親分が入れ替わっただけです。
J.F.Kのニューフロンティア精神もポストコロニアリズムという視点で見ると、身勝手な論理です。中学生の時にJ.F.Kを偉いと思っていた僕はほんとにバカでした。

Posted by S.Igarashi at 11:21 AM | コメント (0)

June 04, 2005

What's new


インターネットの世界で"What's new"といえば"新着情報"のことだが、Jazzで"What's new"といえばスタンダードナンバーのことである。私のもっているCDのヴォーカル盤ではヘレン・メリルとリタ・ライスによるヴォーカルがある。そういえば笠井紀美子もよく"What's new"を唄っていた。"What's new" 偶然、街角で昔別れた恋人に出会い語りかける、切ない恋心の唄である。
コンボスタイルのジャズではコルトレーンによる"What's new"の演奏が有名だが、ビル・エバンスとジェレミー・ステイグの共演盤も捨て難い、激しいフルート演奏で知られているジェレミー・ステイグも"What's new"では切々と感情を押えて演奏している。

Posted by S.Igarashi at 01:34 PM | コメント (6)

June 03, 2005

iPod効果

去年の今頃はiPodminiがリリースされ、こぞってキャンペーンの賞品にiPodminiが採用されたりして、一般的にiPodが認知されてきた頃だったと思う。
先週の"Newsweek 2005.6.1"にiPodにハマっているオハイオ州の43歳の主婦の話が出ていた。iPodによって10代、20代の頃によく聴いていた曲を再び聴くようになったという話である。iPodとiTunes、そしてパーソナルコンピュータがあれば、誰でも自分自身のデジタルアーカイブを簡単に作れてしまう。そして、そのデジタルアーカイブを連れ出しどこでも行け、瞬時にどの曲にもアクセスができる。時間軸と空間、そして記憶力に支配されないで音楽に接することが可能になった。もう、聴こうと思ったCDコレクションが見つからなくてイライラしたり諦めたりすることもない。そのことに普通の人達が気付き始めた。iPod効果はデジタル家電業界や音楽産業への経済効果よりも音楽愛好家に意識改革をもたらしたことに意義がある。

iPod情報局
ipod Style
フォーカルポイントコンピュータ株式会社

Posted by S.Igarashi at 10:00 AM | コメント (6) | トラックバック

June 02, 2005

ジャズは燃えつきたか

センセーショナルなタイトルが付けられたユリイカの1976年1月号である。ユリイカは翌年の1977年1月号でも「ジャズの彼方へ」を特集している。そしてカイエ(冬樹社)の1979年1月号では「ジャズの死と再生」と既にジャズは死んだものとして特集を組んでいる。そしてこの三冊全てのセッションに参加しているのは山下洋輔と評論家の清水俊彦、油井正一の三名である。
K君がどこかのエントリーに息子がNYに行ったけれどJazzなんかどこにもなかったとコメントしていたけれど、Jazzがダンス音楽であることを止めて地下に潜ったときから、それは当たり前のことであろう。1950年代の映画「真夏の夜のジャズ」はセレブでスノッブな白人を相手にしたニューポートジャズ・フェステバルの記録であるが、いみじくも聴衆の中の白人女性が「ジャズなんて嫌いよ」と語っている。所詮、アメリカでは一部のスノッブな白人の知性と寛容さを証明するためのアクセサリーか踏み絵くらいの存在でしかなかったのだろう。ジャズはアメリカが生んだ最高の芸術の一つであるといわれているが、そこには私生児を認知したくないけど認めざるを得ない植民者の複雑な思いが隠されているようにも思える。結局のところ、ジャズの理解者がヨーロッパや日本のジレッタントであったことを考えると、アメリカのマジョリティにとってジャズは存在しないも同然だろう。

ユリイカ1977年1月号

カイエ1979年1月号

Posted by S.Igarashi at 09:11 AM | コメント (3) | トラックバック