小学二年生のとき八王子市に籍がありながら隣の浅川町の小学校に編入した私は越境入学者だった。足立区から八王子に越してきた理由は私たち兄弟四人のうち私を含めて三人が小児結核を患ったことによる。幸いにも結核の特効薬であるパスが普及したこともあって越してくる前年の夏休み期間を安静にしていたくらいで直ぐに回復したのだが、母は戦前に姉と妹の姉妹三人を結核で亡くしているので、もう空気の汚れた東京には住みたくないと考えた。浅川町の小学校に編入したのは通学距離が短いこと、それに浅川町が八王子市に合併編入されることが決まっていたので越境入学も問題にされることもなかった。しかし、それは建前だけで、義務教育の残りの八年間を私は越境者としての差別を時折味わうことになった。
「おまえ達の居場所はここにはない。」そう宣告されたのは、年に数回行われる地域ごとの児童集会のことだった。越境入学者の児童は一の部屋に押し込められ、そしてドアが閉められた。それが中学三年まで続いた。差別されたのは児童・生徒だけでなく、父兄会も同様であったそうだ。私が中学三年の時、父兄会の席上で教師・Aが「狭間・廿里地区の人は発言権がありません。」と言ったそうである。母はこの理不尽な発言に猛烈抗議したそうだが、その余波はその後、私自身に降り掛かり、理不尽な扱いを教師・Aから受けることになった。時は既に八王子市に編入してから6年は経っていた。
或る時、自分の居場所がないことを思い知らされる、それが越境者である。私にとって高校への進学は越境者からの解放であった。
中学の時は、相模湖、藤野、上野原、等の県外からの越境入学者もいました。彼らにとっても小仏トンネルを抜けると東京だったみたいです。
そういえば藤野は津久井との合併協議が進行しているようですが、相模湖町は八王子市と合併して東京都に編入されたいらしい、神奈川県にとって相模湖町は水源地なので絶対それは許されない。八王子も明治初期は神奈川県だったこともあり、廿里には何故か今でも平塚営林署の分所が残されています。八王子は北条氏の治める相模の国だったこともあり、その前は武蔵七党は横山党の領地だったりして、戦国時代の国境の争いごとが、未だに微妙に尾を引いているように見えます。八王子にある国土交通省の国道事務所はその両者をとって相武国道事務所、武相荘と同じように武相としなかったのは歩合に聴こえるから談合対策?んなことない。
そんなことがあったのですね。
八王子といっても、時代も違うし場所も違うわけですが、僕も越境者でした。
僕が0才の時に八王子に引越してきたのですから、最初からそんなつもりはなかったのでしょうが、大和田町の家から通った第四小学校・第五中学校の義務教育の9年間は、ずっと越境者であったわけです。中学校の時、数ヶ月間、親元を離れて寄留先に実際に住んでいた(取締りが厳しく)こともありましたが、別に差別を受けることもなく過ごしました。
これは唯々、大和田町の学区で決まっている第八小学校、第一中学校では高校進学に難ありという母の判断であったのです。
Posted by: AKi at June 18, 2005 08:58 PM