iTMSのBox Set が、や、安い!The Complete Gershwin Songbooksが48曲でこの価格。ダウンロードしてからアカウントから購入履歴で再確認、う〜む確かである。Charlie ParkerのBox Set もあるのだ。
追記:実はこんなものがあったのですがクリックするとこんなことになっていたのです。それで、一時リストから削除されてましたが訂正されて復活しましたが、Today'sトップアルバムの圏外に落ちることは確実でしょう。
MAD Press 1995/4/30
(Mighty Mouseがリリースされたばかりですが10年前の古ネタをだしてみました。)
私はペンだこをつくったことがない。の、ようなものは小学5年生のとき足に出来た魚目くらいで、八王子の仁和会病院でその魚目を切り取ってもらったことがあった。自分の身体にメスを入れたのはその時が最後でこの年になるまで今のところメスには縁がない。なるべくならば、そのような事はこれからも避けて通りたいものである。
私より一つ年令が下だが、同じ学齢のI氏は構造設計をしているが、彼の右手中指には20年物のペンだこが今や身体と不可分な関係にある。構造設計の大部分をコンピュータでするようになっても、それは変わりない。私は自分では筆圧は強いほうだと思っているが、ペンだこが出来るほど筆記仕事をしていないし、ペンを持ったときの中指に掛かる圧力も強くもない。まぁ軟弱な指先と云ってよい。何しろ、たまに事務所の更新手続きの書類を書いただけで腕がだるくなってしまう程の、体たらくである。いまや、完全にキーボード依存症に成り下がってしまった私であるが、古山氏のようにマウスを握るときに小指を意識したことは一度もない。ペンを持つときでさえも、一度も薬指と小指を意識したことはないように、マウスを握るのに薬指や小指を意識したことはない。古山君のイラストを見ても、別に小指が立っているわけでもなさそうだ。
小指が立つと云えば青山に事務所があったころ、双子の×××を売りにしているOとPが事務所の近辺に越してきたらしく、度々、道で擦れ違うようになった。ある日、地下鉄表参道A4出口から事務所に向かって歩いているとき、映画評論をするOが前を歩いていた。彼の歩く速度と僕の歩く速度を換算すると、大体ヨックモックの前辺りで僕が彼を追い越すことが予測できた。彼に近づくにつれて、彼が全身を緊張させて歩いているのが判った。僕の足音を背中に感じてかOの黒いブーツのピッチが早くなってきた。サントリーのカクテルバーのコマーシャルのように夜中ならば、前を歩いている女性が足早に歩き始めることもあろうが、時は真昼間である、ましてや×××である、この自意識過剰は何と表現すべきか。僕が彼を追い越したとき、彼の節榑立った指先全てが緊張して外に反っているのを見て、映画ミスターレディ、ミスターマダムが現実の描写であったことを知った。女性ならば、見られることの自意識で、綺麗になることも考えられるが、やっぱり、、、、、。
私の場合はマウスを操作するのに気にする事と云えば、やはりマウスボールの回転と云うか転がり具合と云うか、マウスのすべりが問題である。今まで三種類、五匹のマウスを飼育したことがあるが、一番扱いにくかったのは、四匹目のマレーシア産のLCIIについていたマウスである。とにかくマウスボールも小さく滑りの悪いものであった。さて、古山君が憤慨しているマウスは僕にとって五匹目のマウスである。これは軽いし握った感じも特別悪くない。(重量はADB Mouse IIが110gで、旧式のADB Mouseが150g、そしてMacPlusまでのMouseが約150g位である。)クリックは人差指でも中指のどちらを使ってでもワンボタンで済むし、その点はマックらしいマウスではないかと思う。このマウスを使ってからIIfxのマウスを握ると、角型デザインのせいか、妙に内側にえぐれているように思えて仕方がない。
思うに、フロッグ・デザインによるADB Mouseに較べてADB Mouse IIが不評なのは、使い勝手の問題よりも、そのデザインの凡庸さにあるのではないかと思う。
箸の握り方やペンの持ち方の様に、正しいマウスの握り方と云うのはどう云うものだろうか、古山君のイラストを見ても、僕がマウスの握った時の指のポジションと違いがある。マウスボタンに掛かる人差指の位置が全く異なる。多分、永い間使ったマウスは万年筆のように持ち主の癖を記憶しているのかもしれない。ADB Mouseのエンボス加工の消え具合を見れば、誰が使ったものか特定出来るかも知れない。そのうち、土曜サスペンスとかで事件をとく鍵がMouseなんてことも。
キーボードにしろマウスにしろ人間工学的に完成されたものは無いと言っても、言い過ぎにはならないと思われる。どうも、我々はその人間工学的に未完成のものに先に慣れてしまい、先入観を与えられ正しい判断が出来ない状況にあるのではないだろうか。また、もっと疑い深く見れば人間工学的デザインにも眉に唾を付けたくなる。果たしてそれ程、人間の行動を分析して得られたものだろうか、予断の介入は皆無なのだろうか。アジャスタブル・キーボードもアイデアだけが先行して、肝心のキータッチがあれでは困る。
それに、人間が直接手に振れる道具にしては小学生も中年のおぢさんもコギャルもオバサンもみんな一緒のマウスにキーボードと云うのも変だ。グラフィック・ユーザー・インターフェースだけがマン・マシン・インターフェースでないのに、ハードウェアが疎かにされ過ぎている。
昔は背広も靴も誂えるのが普通だった。しかし今やそれは一般大衆には叶わぬことである。住宅も然りである。そうした状況で皆が何となく居心地の悪い思いをしながらも、流されて行くのが現実となっている。
「貴方好みの貴方好みの女になりたい」と奥村チヨが唄うとき、それが逆説的戦略だと云うことに気付かなければならない。マインド・コントロールされているのは貴方なのかも知れないのだから。
「うそーぉ」「やだぁ!わぁーかわいーぃ」とこのヴィッラを見た女の子の嬌声が聞こえてきそうである、そのくらい、イオニア式のオーダーにペディメント(三角破風)をもつ神殿風の中央部と両翼のペディメント付きコロンバーラ(鳩小屋)の日時計の装飾とそれを支える四分の一円のバットレスに特徴付けられた、この薄黄色味掛かったストッコ仕上のヴィッラはメルヘン・チックな乙女心を擽るのに充分に優美な外観を備えている。しかしヴェネツィアの北北西50km程離れた交通不便なこのマゼールの地までうら若き乙女が自分探しの旅に遥々とくることもなく、この静かなベネトの田園の地にやってくる日本人は建築か美術を学ぶ者くらいである。(初稿 MADPress 1993/10/31)
ヴィッラ・バルバロ或いはヴィッラ・マゼールと呼ばれるこのヴィッラは建築家アンドレア・パッラーディオの手により、ヴェネツィア貴族である兄ダニエーレ、弟マルカントーニオのバルバロ兄弟の為に1562年に建てられたものである。また、このヴィッラを有名なものにしているもう一つの理由がヴェネツィア派の画家パオロ・ベロネーゼのフレスコ画によるトロンプ・ルイユ(騙し絵)である。アルプス越えをしてドイツからやってくる観光客の目当てはどうやらこのフレスコ画のようでもある。
ディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったノイシュヴァンシュタイン城がルードウィッヒ二世の奇想によるものであったように、このヴィッラ・バルバロもメルヘンの国のお姫様が登場するに相応しい外観とは裏腹の人々を幻惑する建物である。それはアンドレア・パッラーディオによるものというよりも、バルバロ兄弟による奇想ではないだろうか。
ガレー船の交易で富を得たヴェネェツィア貴族はラグーナに浮かぶ人工海上都市の生活から、その拠点を大陸へと領地を求めた、それは虚構と幻想に充ちた都市生活から、大地と共に生きる「健全なる生活」(ヴィタ・ソプリア)を実践することでもあった。なかでも時代の知識人であったバルバロ兄弟はその模範となる人物であった筈である。
ヴィッラ・ルスティカ(田園のヴィッラ)であるヴィッラ・バルバロはユソ・ディ・ヴィッラ(農作業の場)でもある、所謂、ヴィッラが別荘ではなく、領地での拠点でありルネッサンスのユマニズムに基づくイディアの表現としての建築、そしてその思想を実践する生活の場でもあったのだ。
緩いスロープになっているアプローチ正面の神殿風のオーダーの中にはこのヴィッラのエントランスを見つけることができない。何故ならばそこは台所となっている。玄関にあたる部分が実は勝手口とは皮肉だ。エントランスへは左右に分かれたバルケッサ(納屋)のロッジアから階段で昇らなければならない。書き割りとしての正面性と機能としての正面性がずらされ、訪問者の印象を惑わす。エントランスのあるピアノ・ノビーレ(上層)の十字形広間には、騙し絵の執事や下女が訪問者を迎え入れる。壁面をフレスコ画で装飾されたこの広間の天井には交差ヴォールトが用いられ、壁のフレスコ画とは対照的にその漆喰の唯一残された白さが印象的である。領地を広く望む十字形広間の脇部屋のグロッタ絵画の表現する、草花であれ、動物であれ、生とし生ける凡ゆる物を等距離で見つめる眼差しの根底はギリシアの宇宙論にあり、四元素が万物を生成している考えに基づくものである。しかし、ダニエーレも参加した反宗教改革において、否定される異教的な思想でもあった。
ピアノ・ノビーレ(上層)は主人の為のフロアである。初層は台所や使用人の為の正にサーバント・スペースである。そして屋内階段は使用人が主人にサービスする為に昇り降りするものであった。主人の用足しも私室に置かれたオマルで事を済せ使用人がそれを処分するといった具合である。当然、主人や奥方が屋内階段を使うこともなく、あるとすれば浮気の現場が見つかりそうなとき愛人をアティック(屋根裏部屋:当時のアティックは穀物倉庫として用いられ、収穫・脱穀されたトウモロコシ等が保存された。)に匿うときくらいなものであった。注 1
主人や訪問者の為のピアノ・ノビーレへ昇る主階段は建物正面やロッジアに設けられるのが普通で、屋内に主階段が設けられたのはミケランジェロのロレンツィオ図書館が最初とされる。吹き抜けの階段室が設けられるようになったのはバロック以降とされている。
ピアノ・ノビーレはエントランスから、公的な広間と私的な部分とに分かれている。領地を望むように位置づけられた公的な広間とは対照的に、私的な部屋はニンフィニアムのある裏庭に面している。この裏庭は傾斜地を利用してピアノ・ノビーレと同じレベルに設けられている。そしてこの私室の壁面には等身大の家族の肖像がヴェロネーゼによってフレスコ画になっている。書き割りであった筈のフレスコ画が主人達を見つめ、見られるものが見る側になり主客が転倒する。
裏庭のニンフィニアム(泉)のアーチ両側の収穫物を背中に担ぐ人物像は顔の異様な大きさから仮面を付けたようでもあり、理想的な肉体美とは程遠い存在と思える。また左右両端の人物像のポーズはまさに男娼のそれである。バルケッサのロッジアのアーチのキーストーンに装飾された男子の顔面はどれも虚ろな表情である。
兄:ダニエーレは英国大使、大司教補佐役、二十年続いたトレント宗教会議のヴェネツィア代表を歴任、そしてヴィトルヴィウスの註釈者でもあった。
弟:マルカントーニオはフランス大使、トルコ大使を歴任し、美術・彫刻を愛し、数学、機械技術にも明るく、薬草等の知識も豊富で薬草園も所有していたと言われる。
「健全なる生活」(ヴィタ・ソプリア)を求めて人工海上都市からやってきた知識人の田園での生活は刺激に充ちた都市生活に較べてどれ程退屈なものであっただろうか。人知れない裏庭のニンフィニアムで何が行われたか知るよしもないが、理想的な「健全なる生活」だけでは充たされることはなかったであろう自我を見つめ、何を思い、バルバロ兄弟はヴィッラでの生活を過ごしたのだろうか。このヴィッラが現代に問いかけるものは何かと考えるとき、私はその直前に見たスカルパのヴリオン・ヴェガの事が脳裏を占める。小雨降るヴリオン・ヴェガで、タルコフスキーの問いかける1+1=1の持つ意味を思いだしていた。そのヴリオン・ヴェガとグロッタとの共通性が妙に気になる。(五十嵐)
建築四書(中央公論社版)の注釈より
以下に示す建物は、トレヴィーゾ郡の城郭、アーゾロの近い領地マゼールにあり、バールバロ家の二兄弟、尊師アクイレーイア選出主教猊下およびマルカントーニオ閣下の所有するところである。建物の幾分か外に突出している部分は、脇部屋が二層にわったており、上層の部屋の床面が、背後の中庭の地盤面と同一平面にある。その中庭には、家と向かい合った丘に泉が堀ぬかれ、ストゥッコ細工と絵画による大量の装飾が施されている。この泉は小さい池となり、これは養魚池として役立っている。そこから溢れ出る水は、台所に流れ込み、それから建物に向かって緩やかに上昇してゆく道路の左右にある庭園を潤し、二つの養魚池を形作り、公道に面して、家畜の水飲み場も設けらている。そこから溢れ出た水は果樹園を潤しているが。この果樹園はひじょうに広大で、極めて良質の果樹や、さまざまの雑木が豊富に植えられている。主人公の館の正面は、四本のイオニア式オーダーの円柱を持ち、隅の円柱の柱頭は、二つの側に渦巻型の前面を形作っている。これらの柱頭をどのようにしてつくるかを、私は「神殿の書」で示すつもりである。左右両方の側にロッジアがあり、それらの端部に鳩小屋がある。そして、その下にはワインを作る部屋、厩舎、その他のヴィッラの用のための部屋がある。
建築四書の木版画による平面図では外構も初層も上層も同一平面上に描かれている。濃いめの網目部分が上層(ピアノ・ノビーレ)の居室部分である。外構に使われている半円のモチーフが公道に面した水飲み場にも使われていた。
注1:ヴィスコンティ監督の「夏の嵐」にパッラディーオによるヴィッラ・ゴーディが舞台として使われている。アリダ・ヴァリ(第三の男のヒロイン役)紛する貴族の夫人がオーストリア軍将校の愛人をアティックに匿うシーンがある。またヴェローナのオーストリア軍司令部の部屋はグロッタ絵画で装飾されている。
The Centro Internazionale di Studi di Architettura Andrea Palladio
Villa Barbaro - Maser - (1554)
都市のデザイン、エドマンド・ベイコン著、渡辺定夫訳
鹿島出版会 1968年発行・現在絶版
原書・Design of Cities
Amazonを見るかぎり米国ではエドマンド・ベイコンの本書とケビン・リンチの「都市のイメージ」は建築学生の必須図書となっているようだ。
丹下健三による序文には「彼(ベイコン)は、古代ギリシャの都市から現代の都市に至る人類の歴史の中で、都市がいかに大衆の芸術であり、文明の最高の表現であったかを明らかにしている。しかし、それにもまして、彼はこうした文明の形態と人間の意思が、時間と空間の中で、芸術までに転化し、定着しゆく過程に目を注いでいる。そうして、そのなかに都市デザインの意思を見出し、また方法論を学びとっている。」と書かれている。
本書では人間の意思によって造られた都市が時代と共にどのように造られ変化していったかを、豊富な図版などにより分析解説しているのであるが、なかでもローマについて多くの頁が割かれている。GoogleMapでカンピドリオ広場やポポロ広場そしてスペイン広場等を空から眺めると、先人達の都市デザインに対する意思が伝わってくるようである。
その内容の一部を紹介すると、
ミケランジェロの意思行為と題された章、カンピドリオ広場が計画される以前の様子。(カンピドリオ広場の後ろ側にフォロ・ロマーノが広がっている。)
ミケランジェロによって再開発整備されたカンピドリオ広場。広場を囲む両側のパラッツォのファサードデザインは完璧なまでの美しさを持つ。
建築家ヴィニョーラによる教皇ユリウス三世のヴィッラ・ジュリア、地下二階のレベルに設けられたニンファエウムが特異な空間構成。現在は博物館となっている。
GoogleMapでイタリア紀行を楽しんでいたらヴィチェンツァにも詳細な衛星写真があった。ヴィチェンツァは建築家・アンドレア・パッラーディオの活躍した都市としてバシリカ等の建築共々、世界遺産に登録されている。またテアトロ・オリンピコには天正少年使節団来訪を記念するレリーフが残されており、日本とも少なからず縁のある都市である。
パッラーディオの代表作といえばロトンダ(ヴィラ・アルメリコ・カプラ)であるが、それを衛星写真で見ることによってロトンダが如何に「純粋建築」であるかがよく解る。(写真は北東方向から見たもの、左手にトウモロコシ畑が広がる。1989年8月30日午前10時前に撮影)
上図はVectorWorksによる3Dモデルで北西側を見たものである。デザインモチーフにはプリミティブな幾何学図形の丸、十字形、三角、四角(○×△□)が用いられ、ロトンダと云う通称の起源である円形広間が建物の中心となる。ロトンダ上部のクーポラも建築四書に残されている図面では外観も半球であり、実施されたクーポラの外観の形状とは異なっている。正方形平面の各面にはペディメントを戴いた5ベイの列柱のあるポルティコが設けられている。そして写真だけでは解らないのが建物の配置である。このロトンダの衛星写真を見れば一目瞭然であるが建物は子午線に対して45°の傾きを持っているのである。つまりこれによって全ての壁面に対して太陽の日射が得られ、「純粋建築」としての面目を保つのである。
アプローチ右手のバルケッサ(納屋・附属棟)はパッラーディオの死後にヴィチェンツォ・スカモッティの手によって作られたと云われている。(1989年8月30日午前10時過ぎに撮影)入場料:5000リラ(1989年当時)
ゲーテの「君知るやかの家を、いらかは円柱に支えられ、広間や部屋々にはともしび輝き、大理石の像は我を見つめる。」と云う詩は未だ見ぬロトンダをイメージしたものと云われている。しかし、そのゲーテもイタリア紀行でロトンダを訪れた際、その居住性に疑念を抱いている。これも「純粋建築」故の評価であろう。それは他の「純粋建築」であるミースのファンスワース邸や丹下健三の成城の自邸にも云えそうである。
「純粋建築」としての評価を別にして、住宅としてのロトンダの歴史は悲劇そのものであったようだ。施主のパオロ・アルメリコの死後、ロトンダを相続した庶子ヴィルジニオ・バルトロメオは二束三文でオドリコ・カプラに売却、そのオドリコ・カプラからロトンダを相続した孫はならず者でロトンダはマフィアかヤクザのアジトと化し、ロトンダは荒れ放題、幽霊屋敷の相を示していたとも云われている。その後、ならず者カプラの血統は絶え、紆余曲折して20世紀になってからヴァルマラーナ家の所有になっている。
iTunes Music Store で蘇州夜曲を試聴するまでAnn Sallyの名に憶えはなかった。Ann Sallyのサイトを読むと、ニューオリンズに三年間暮らしていたとある。それも音楽修業ではなく医学の海外研修留学だそうだ。ビル・エバンスに楽曲を提供したことのあるデニー・ザイトリンも医者だったから、医者とミュージシャンの二足のわらじはそれほど珍しくもない。そうした多才な彼女であるから唄う曲もジャズ、ボサノバ、日本の古い歌曲とジャンルに捕らわれない。それがたぶん彼女にとって自然な成り行きなのだろう。それでAnn Sallyの唄う蘇州夜曲であるが、僕はこうした頽廃的な薫り漂う音楽は嫌いではない、むしろ好きである。このゆるき脱力系は、やたらと白黒つけたがり絶叫する輩とは対極にあるようだ。
今日の東京新聞朝刊・科学欄に熱電変換の記事があった。いわゆる廃熱利用の発電システムとして以前より着目されていた新技術であるが、実用化には効率的な熱電変換モジュールに必要な材料の開発が鍵となる。そうした関門がクリアされれば、それこそ発電所を身に付けることも可能になるようだ。熱電変換の最大のメリットはスケール効果がないこと、少量の熱エネルギーでも、それに応じた電気エネルギーが得られると云うこと。最終目標は100ワットのエネルギーをもつ人の体温を利用することだそうだ。それが実現すれば携帯電話やノートブックPC、それにiPodの電池切れを心配することもなくなる。
独立行政法人 産業技術総合研究所
棄てる熱から発電.HTML版
棄てる熱から発電.PDF版
東芝熱電モジュール
個人情報保護法の施行以来売れたものの筆頭がシュレッダー であるが、どの程度のものを買ってよいのやら解らぬまま取り敢ずコストコで税込3620円也のアイリスオーヤマ・ペーパーシュレッダー A4クロス(中国製)なる製品を購入した。これで反古にした学生名簿や採点表をシュレッダー に掛けて捨てるわけであるが、シュレッダーの紙屑は資源ゴミとして回収されないのが、なんとも。
CD-ROMやDVDを裁断できるシュレッダー も売られているが、これも裁断したプラスチックチップのリサイクルはどうなっているのだろう。なんとなく、すっきりしないシュレッダーで裁断した後の処分なのである。
GoogleMapでローマの休日です。GoogleMapは画期的な教材になりますね。
ローマ市街
テルミネ
スペイン広場
トレビの泉
パンテオン
カンピドリオ
ポポロ広場
バチカン
フォロ・ロマーノ
コロッセオ
カラカラ
ヴィラ・ジュリア
GPSがないので探すのに苦労したけれど、フィレンツェに到着。
大聖堂からシニョリア広場、ウフィツィ宮から回廊を経てポンテ・ベッキォまで一望です。
ついでにミラノ大聖堂とガレリア
GoogleMapが面白い。ベータ版と云うことだがドラッグ・スクロールもズーム機能も快適で動きはスムーズだ。現在のところ地図が提供されているのは日本、米国、英国だけのようだが衛星写真(サテライト)は地球規模で網羅されている。但し、衛星写真は集落の識別が限界のものから、車が識別できる詳細な写真までと、地域の重要度によって異なる。残念ながら八王子は重要度がないようで詳細な写真は日野までであった。
てことで、先ずはグランドゼロを見ると工事の準備が、次はサンマルコ広場でジェラートなど、ルーブル美術館のピラミッドを見たら、西に向かってデファンス地区の新凱旋門の上空、またUターンしてポンピドーセンターから、亜細亜に戻って台北の中正記念堂だ。なんて、能天気なこと言ってるけど、24時間地球規模で監視されているってことさ。
ロンドン地下鉄テロで考えさせられたことがある。ポストコロニアリズムに書いてあったことであるが、世界で初めて生物化学兵器を使ったのはイギリス、そしてその命令を下したのは植民地大臣であったウィンストン・チャーチルと云われている。後のイギリス首相である。アラビアを支配していたオスマントルコからイギリス軍がアラビアを奪還した話は英国サイドから描かれた「アラビアのロレンス」として有名だが、アラブにとっては支配者がオスマントルコからイギリスに代わっただけのこと。イギリスの目的はオスマントルコからのアラブ開放ではなく石油資源にあったことは言うまでもない。そうしたイギリス支配に不満を持つ部族の反乱に対して用いたのが生物化学兵器だという。ウィンストン・チャーチル曰く
「こいつらには窒息性の爆弾を使うのがいい。この爆弾は人を殺さず不具にするから、、、騒ぎを起こす部族民にまず使ってみるのが最適だ。」、、、「ガスを使うからといっていちいち騒ぐことはない。野蛮な部族民に毒ガスを使うことに私は大賛成だ。」ポストコロニアリズム/ロバート・J・C・ヤング著(本橋哲也・訳)より引用
X-Knowledge HOME 特別編集No.5
昭和住宅メモリー・そして家は生きつづける
昭和の時代に造られた住宅、今も生きつづける家、そして記憶だけに残る家が各執筆者の言葉で語られている。同時代を生きた川合健二と丹下健三、夫々の自邸の極端なまでの差違は何を物語っているのか。「丹下自邸の謎」と題された探偵・F森教授のレポートが戦後モダニズム住宅にせまる。
表紙を飾っている清家清自邸「私の家」の原寸模型が展示されている建築家・清家清展も9月25日まで開催中だ。(日本建築学会建築博物館の「図面に見る清家清の世界」は8月24日まで。)昨年2月にエントリーした風信子ハウスも"さいたま市別所沼公園"内に昨年11月に竣工したようだ。立原道造記念館に竣工した写真や立原道造のスケッチがある。
昭和という時代を客観的に振り返るには今が良い時期なのかも知れない。
追記:幻の"丹下別邸"
F森教授のレポートを読むと丹下自身が自邸に愛着も拘りも抱いていなかったことが判る。丹下が成城の家を出て、新しいパートナーと新居を構えたのが三田の我が国初の超高層集合住宅であることから見ても、彼にとって合理性が最優先事項だったのだろう。成城の自邸は建築家として国内外にその存在と実力を顕示することが目的であるならば、確固たる地位を築いた後では、彼にその存在理由が薄れるのは当然かも知れない。丹下自邸の保存そのものが丹下や前夫人のプライバシーに関わることでもあり、既に建築界のドンであった丹下はアンタッチャブルな存在でも有り、保存運動すら起こることなく成城の自邸は闇に葬られることになってしまったのは建築界にとって不幸であった。
さて幻の"丹下別邸"であるが具体的な建築計画が進められていたかは不明であるが、別荘用地だけは確保されていた。隣接地にはあの東京オリンピックのポスターデザインをされた亀倉雄策の別邸があった。もしも丹下自身の手により別荘がデザインされていたとしたら、どのような建築になったのであろうか、興味深いことである。(この項、敬称省略)
スウェーデンのグローバル企業である家具・インテリアメーカーのイケアが来年春に日本初のイケアストアを船橋(スキードーム・ザウス跡地)にオープンする。イケアストアは他に横浜・港北、神戸・ポートアイランドにも出店、首都圏に4〜6店舗、関西地区に4〜6店舗の店舗展開する構えだ。
イケアが本格的に日本参入するのは今回が初めてということだが、70年代は東急百貨店がイケアを取り扱い、子供部屋向き等のカジュアルな家具を販売していた。その後の80年代はララポート船橋のテナントとして出店していた筈だが、知らぬ間に撤退していた。日本に於ける郊外型大型店舗の定着がイケアにリターンマッチさせる動機付けとなったか定かでないが、グローバル化の流れであることは確かでジェトロも支援している。
スウェーデンの家具と云えば村田合同が取り扱うイノベーターがカジュアルな家具として知られているが、イケアの参入で競争が激化することは必須であろう。果たして三度目の正直となるのであろうか。
子どもたちの8月15日岩波新書編集部編
岩波新書 ISBN4-00-430956-5 定価(700円+税)
国民学校世代の33名、それぞれの戦争体験と1945年8月15日が語られている。
中村敦夫は語る『昔の記憶というものは、あまりあてにならない。他人から聞いた話と混線したり、話を面白くするために粉飾した部分が、いつの間にか既成事実になったりする。』彼のそうしたスタンスは五歳で終戦を迎えた氏にとって当然と思える。何れにせよ公に向けて書かれたものよりも当事者から直に聞いた話の方が多くの真実が含まれているような気がする。
私が直に聞いた国民学校世代の8月15日は次のようなものである。彼は昭和八年生まれ、12歳で竹町(現在の台東区台東)で終戦を迎えた。生家は空襲による焼失を免れ、ただ爆風で窓ガラスが破れ飛んだだけという。12歳の悪ガキにとって8月15日から数日間の政治的空白状態は忘れることの出来ない体験だったそうだ。虚脱状態に陥ってる大人達を尻目に焼け野原となった無政府状態の帝都東京を浅草から上野一帯を冒険して回ったという、どんな悪さをしても叱る大人もなく、生まれて初めての自由と解放感を謳歌したというが、その自由は一週間とは続かなかったそうである。
東京新聞・特集「靖国」を語るが一区切りした。
印象深い言葉をピックアップすると。
俳優・池部良の「今さらできない相談だけど、日本人自身の手で、戦争を指導した戦争責任者を摘出しなくてはいけなかった。五十年前に議論されるべきでした。」
作家・保阪正康の「ポツダム宣言を受諾していることを無視して、「勝者の裁き」と批判するのは、日本が敗戦国であるという認識を欠いている。まるで戦争に勝ったと見間違えるような倒錯した論理が、公然とまかり通っている。」
元女優 山口淑子は「政府の個人への戦後補償の仕方を見ていると、人間の尊厳を傷つけられた人たちの心の痛みを癒やす気持ちが足りない気がします。」
合祀問題
2005年7月15日:公約通り『8・15』参拝して 東條英機元首相の孫 東條由布子
2005年7月16日:『死を喜びに』、許せない ひめゆり学徒の弟 仲里朝治
2005年7月17日:日本人自身で責任追及を 元陸軍中尉 池部良
2005年7月18日:父の魂 いまだに植民地支配 在韓軍人軍属裁判原告 李煕子
小泉参拝
2005年8月2日:戦没者の霊 私物化するな 慶大助教授 小熊英二
2005年8月3日:『A級戦犯』は罪人でない ジャーナリスト 櫻井よしこ
2005年8月4日:中国にはまだ『同時代史』 ノンフィクション作家 保阪正康
60年目の戦後
2005年8月13日:熱狂の危うさ昭和に学べ 作家 半藤一利
2005年8月14日:傷つけた心癒やす努力を 元女優 山口淑子
2005年8月15日:『帝国の遺産』清算が必要 東大教授 高橋哲哉
何ていうかTBSは"筑紫哲也NEWS23"をぶっ飛ばしてまで"2005世界陸上"に拘ってますね。政局が波乱含みの時に報道よりもスポーツを優先するあたりは芸能化するスポーツ番組共々、裏で暗躍する広告代理店を含めてメディアのありかたも問われそうです。陸上オタクの織田クンが失言を繰り返すた度に、TBSに苦情の電話が鳴っているのだろうと見ていたら、もうこんなサイトがありました。昨日のマラソン尾方選手に対する失言はまだ掲載されてないようです。決勝の度に"世界64億の1位"だかのテロップもオバカで呆れてしまいます。それにしても昨日と云うか、本日未明の男子4×100mレースの予告は引っ張り過ぎです。何となくレースを見てから寝ようと思っていたら明け方の4時近くになってました。
ヘルシンキというと建築を学んだ者にとっては建築家・アルバー・アールトの名が頭に浮かび、彼の代表作の一つであるフィンランディアホールのある街ですが、マラソンレースを見ても、都市や街並に触れられていないのが淋しいかぎりです。(今日の女子マラソンの国際映像ではフィンランディアホールの空撮がクローズアップされましたが、テロップもコメントも無しでした。)因みに会場のオリンピックスタジアムは1934〜1940年に建設されたモダニズム建築で、設計はユルヨ・リンデグレン(1900〜1952)という建築家の手によるものです。因みにアルバー・アールトもオリンピックスタジアムのコンペに参加し落選という残念な結果でした。
G4からG5にデータを移動した。Macをファイヤーワイヤー・ケーブルで繋いでG4をディスクモードで起動するだけで事足りる。これで面倒な設定やアプリケーションのインストールをしなくても済むのは有り難い。データの移動と再構築に以前は一日仕事だったが、半日仕事で殆ど何もしなくても済むようになった。しかしデータの量によるが時間はたっぷり掛かる。
幼い頃、週に一度くらい映画を見に連れていかれた。一般家庭にテレビが普及する前の話である。当時は映画の本編を上映する前には必ずニュース映画が上映された。そのニュース映画の記憶は、スエズ運河、エジプト、戦争、という断片しか無いが、今すぐにでも世界大戦になりそうな印象は覚えている。状況から判断すると1956年のスエズ紛争の事だろう。そうすると僕が小学一年生の時の記憶である。
それから暫くして、中学一年の長兄と近くの神社の前を歩いていると、爆音と共に一筋の雲を残しながら飛行機が頭上を飛んでいった。「また、戦争が始まるの。」と僕は兄に尋ねた。「日本には憲法九条があるから、もう戦争はしない。」と兄は言った。僕はそれを聞いて少しだけ安心した憶えがある。
8月2日の東京新聞夕刊「放射線」に尾道の小学校校長・陰山英男氏が現場を忘れた教育論議というテーマでコラムを書いていた。それによれば中学の世界地理で習う国の数はたったの三カ国だけだと云う。ヨーロッパから一カ国、アジアから一カ国、そしてアメリカ、これだけで国際理解もへったくれもない。ニュース番組やら何やらの街頭インタビューの類いで世界の地理を知らない若者をキャスターが呆れている場面があるが、それは知らなくても当然なのかも知れない。
山下洋輔を初めて聴いたのは69年か70年頃のサンケイホールだった。日野皓正のグループに突如乱入してきた山下洋輔一味に会場は騒然、山下を迎え撃つ日野はフリューゲルホーンをポケットトランペットに持ち替え応酬、山下のグガン、グカンとピアノを叩く音を合図に、森山がダバドトーン!とドラムを爆裂、中村はハナモゲラ奏法で山下を援護射撃、日野が目当ての女性達は何事と(・・;)となり、クロネコはタンゴを踊り出すし、赤ん坊は泣くは、坊主は笑うはで、会場はハチャメチャ。
山下は語る「演奏者の悪意の視線を感じることなしにジャズについて何かを語る人間がいるとは思えない。」と、本書は表紙に"my first jazz note"とあるようにジャズピアニスト山下洋輔による最初の著書である。この初版本は1975年に音楽之友社より発行された。その後、徳間書店より文庫化されたが、これも現在は絶版となっている。現在は相倉 久人の編集による新編 風雲ジャズ帖として生まれ変り、平凡社ライブラリーより2004年6月に発行されている。尚、初版本の内容は下記の通りである。
第一部:風雲ジャズ帖 I〜X(1970/1〜1971/12)
第二部:風雲ジャズ雑文篇(1969〜1973)
第三部:風雲ジャズ雑談篇(1970〜1972)
第四部:風雲ジャズ研究篇:ブルーノート研究(1969)
山下は言う「ジャズは音をもって行うボクシングやサッカーのようなものだ。」と、そう即興演奏とスウィングこそジャズの命、そしてジャズプレーヤーこそファンタジスタでなければいけないのだ。退屈な横パスばかり繰り返す予定調和されたジャズなんて聴きたくないのだ。
BUENA VISTA SOCIAL CLUBにも出演したキューバのナットキングコールこと"Ibrahim Ferrer"が8月6日に亡くなったそうだ。享年78歳、合掌。
今晩はDVDでBUENA VISTA SOCIAL CLUBでも見ながらラム酒でも、、、
1966年から1968年までバークレー音楽院に留学していた佐藤允彦の帰国第一作アルバムである。そして1969年のスイングジャーナル主催 第3回 ジャズ・ディスク大賞・日本ジャズ賞を受賞した。メンバーはピアノの佐藤允彦に、ドラムが富樫雅彦、ベースが佐藤より一年早くバークレー音楽院に留学していた荒川康男の三人によるピアノトリオである。そして富樫雅彦のフットワークが聴ける貴重なアルバムでもある。
戦後の日本のジャズは進駐軍キャンプの慰問と云うカタチで始まっている。演奏するのはジャズのスタンダードナンバー、雪村いずみがダイナ・ワシントンのコピーだったように、所詮はアメリカのジャズの紛い物といった評価が大勢を占めていた。そうした日本のジャズシーンに変化の兆しが現れたのが1960年代後半からではないだろうか、それはスタンダードナンバーのコピーではなくオリジナルナンバーの演奏によって成し得たことである。「パラジウム」はピアノトリオによるインプロビゼーションの新しいカタチを創造し始めた三人の記録でもある。オープニングとクロージングは佐藤允彦のプリペアドピアノに荒川康男のアルコ奏法、富樫雅彦のベル、と現代音楽的アプローチを見せている。
iTunes Music Store JapanでNorah Jonesの"Feels Like Home"がJazzアルバムの二位と売れている。これには楽曲以外に売れるだけの理由がある。それは東芝EMIからリリースされている国内盤CDアルバムにはコピープロテクトが掛かっており、コンピュータでは再生できないようになっているからだ。iTunes Music Store Japanのオープンによって、ようやくiPodで"Feels Like Home"を聴けるようになった訳である。
と云うことで午前中に届いたMighty Mouseを使ってみました。Mighty Mouseのフル機能を使うには附属のソフトウェアをインストールする必要があるが、そのままでも右クリックとスクロールはできる。Mighty Mouseのサイズがこれまでの水饅頭マウスよりも若干大きく見えたのでノギスで計測したら同じ大きさで、単なる錯覚でした。
附属のソフトウェアをインストールするとシステム環境設定のキーボードとマウスの設定が図のように変わります。左ボタン、右ボタンの何れも主ボタン、副ボタンに設定できるのでサウスポーの人でも扱いやすいでしょう。
スクロールボタンはスクロールだけでなくクリック機能もついている。スクロールボタンとサイドボタンには左記のオプションが設定でき、キーボードショートカットに頼らずともマウス操作で行える。スクロールボタンのクリックでダッシュボードに切り替わるのは良いですね。サイドボタンのオプションはアプリケーションスィッチャーよりも、よくデスクトップがウィンドウだらけになってしまうのでエクスポーズ-デスクトップにしておこう。
肝腎のVectorWorksは、スクロールボタンによる横スクロールができないことが判明、それに縦スクロールも早すぎる。VectorWorksは従来通りパンカーソルを使うのがベターかな。Adobeの製品Photoshopやillustratorはちゃんと360°スクロールに対応している。
八王子市夢美術館の「たむらしげるの世界」を見るために、車を駅前の地下駐車場にとめて八王子の街を歩いた。いつもは駅前周辺で用事を済ませてしまうので、西放射線通りを歩くのも、八日町を歩くのも久しぶりだ。出掛けたのが水曜日なので定休日の店舗も多かったが、嘗ては八日町商店街が八王子一の繁華街であったとは信じられない。写真中央の荒井呉服店がユーミンの実家、数年前までは家の母にも定期的にDMが届いていたけれど、流石に90歳近い介護老人にDMを出すのが無駄と知ってかDMが来なくなった。
八日町交差点付近から西方向を見る。右側のド派手な建物は昔のイノウエ百貨店、現在はシダックスのカラオケ。
荒井呉服店の先にある八日町の再開発地区、ここに八王子市夢美術館がある。夢美術館という名称も恥ずかしいけれど、この再開発ビルはデザインも何もない。少しでも床面積を確保しようとする利益だけが最優先されたとても恥ずかしい建物。こんなものでも一度、作ってしまったら壊すわけには行かないから始末が悪い。
再開発ビルの前にぽっかりと空き地、その両側に長屋が、今まで人目にふれなかった路地が、、空き地を駐車場にしないで緑化して森にしていったら面白いだろうな。
iPod情報局の予想は本物でした。やっと、業界利権関係のネゴシエーションが成立してか、見切り発車なのかiTunes Music Store Japanがオープンです。これで6日の渋谷はApple一色に染まりそうだ。
アルバムが900〜1500円、一曲150円といったところだが、今のところデジタル家電負組のSONY(ミュージックエンターテイメント)が不参加なのでマイルスのアルバムは7枚だけなのに対してコルトレーンは28枚。さて、リスナー無視の態度を取ったSONYへの風当たりは強まるか否か。
iTunes Music Store はハードを売るのでなく正にソフトを売るということ、正にアトムからビットへの意識改革。
おいおい、高中正義がなんでマイルスやコルトレーンと並ぶんだよ。
オーディオブックには英会話もあるが、落語もある。「え〜い、先に廻って鰻に聞いてくれ!」
Mac誕生から21年目にしてワンボタンマウスからマルチボタン機能を持つMighty Mouseとなった。これでコンテクストメニューの操作と360°自在のスクロールが可能と云うわけだ。さて、6日は渋谷公園通にグランドオープンするApple Store, Shibuya で確かめるか否かと、考える間もなくAppleStoreでクリックしてしまった。
S・ウォズニャックも納得?とか、、、
初めて人を殺す・老日本兵の戦争論
井上俊夫著・岩波現代文庫
ISBN4-00-603105-X (定価1100円+税)
私が子供の頃、大人たちはよく戦争の話をしていた。苦労話や悲惨な体験は内地にいた女性や子供だった人の口から発せられたが、軍人や徴兵された戦争体験者は自慢話をするか、戦争の話を避けるかどちらかだったような気がする。「初めて人を殺す」は1942年に徴兵された著者が初年兵の軍事教練で中国人捕虜を使って行われた銃剣術の刺突訓練の体験を書いたものである。そこには国家権力によって国際法に抵触する非合法な捕虜へのリンチ殺害で、一般人を殺人者に仕立て上げ、共犯者にする様が書かれている。こうした話や軍刀による試し斬り等は耳からは聴いていたが、実際に当事者の書いた文章を読むのは初めてである。
著者の井上俊夫氏は自身のサイトに私が戦争の詩を書いているのはと逆説的に語っているように、自身のレーゾン・デートルについての問いかけのようにも思える。
銃声が聞こえる
戦友よ、黄金の骨壷の中で泣け
本書の中で触れられていた「陸軍刑法」を読むと上官の命令は絶対であることが判る。法律は昭和22年に廃止されたが、こうした軍国主義の残滓は大企業や官僚組織に潜り込み亡霊のようにして新人研修等に姿を現し生き続けているように思えてならない。
陸軍刑法(明治41年法律第46号)昭和22年政令第52号により廃止
第四章 抗命ノ罪
第五十七条 上官ノ命令ニ反抗シ又ハ之ニ服従セサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 敵前ナルトキハ死刑又ハ無期若ハ十年以上ノ禁錮ニ処ス
二 軍中又ハ戒厳地境ナルトキハ一年以上十年以下ノ禁錮ニ処ス
三 其ノ他ノ場合ナルトキハ五年以下ノ禁錮ニ処ス
第五章 暴行脅迫及殺傷ノ罪
第六十条 上官ヲ傷害シ又ハ之ニ対シ暴行若ハ脅迫ヲ為シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 敵前ナルトキハ一年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
二 其ノ他ノ場合ナルトキハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第六章 侮辱ノ罪
第七十三条 上官ヲ其ノ面前ニ於テ侮辱シタル者ハ三年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
2 文書、図画若ハ偶像ヲ公示シ又ハ演説ヲ為シ其ノ他公然ノ方法ヲ以テ上官ヲ侮辱シタル者ハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第七章 逃亡ノ罪
第七十五条 故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス