いちおう、正月のお節料理として「いりとり」(全国的には筑前煮だが、東京では、いりとりと言う)と「八頭の煮付け」「なます」だけを作った。それにしても暮れは生鮮食品の何もかもが値段が高くなる。特に野菜の高騰には呆れる。イトーヨーカドーで柚子が一つで278円とはなんぞや、人生行路のぼやき漫才じゃないけど「しぇきにんしゃでぇてこい!」と言いたくなる。それも新鮮な柚子ならまだしも、ゴミ箱から拾ってきたような柚子が278円、さすがに買う気になれなかった。
年越し蕎麦用の海老のてんぷらが一尾300円、どうみても冷凍モノをバックヤードで揚げたようなものがこの値段、あまりにも消費者をバカにして、足元をみて値段を付けている。イトーヨーカドーも悪徳業者の仲間入りというところかな。小売業の勝ち組と勘違いしているとダイエーへの道を歩むことになりかねない。
と、いうことで生活感のにじんだボヤキで2003年の最後のエントリーとします。
家庭画報2月号の「麗しのヴェネト 北イタリア世界遺産の館を巡る」は現地取材による美しい写真満載の特集であるが、困ったことにテキストに間違いや曖昧な表現が目に付く。中でもヴィチェンツァの紹介には「新古典主義の巨匠パッラーディオが築いた世界遺産の街、ヴィチェンツァ」とサブタイトルがあり、その本文を一部引用すると、、
このバシリカの設計中にローマを旅した建築家が永遠の都で見た古典主義の威風堂々たる建築に大いに影響を受け、独自の新古典主義に発展させたであろうことは想像に難くありません。引用個所には曖昧な表現と間違いがある。先ずは古典主義をどのように定義しているのか定かでない。建築四書にあるように彼が影響を受け、実測したのは古代ローマの遺構や建築である、それは古典と呼ぶべきでものあって、決して古典主義の建物ではない。仮に先達による古典主義のルネッサンス建築を見たとしても、圧倒的な古代ローマの遺構や建築に比べたら影響はいかほどのものであろうか。また、新古典主義はロココの後の時代を示すものであって18世紀半ばから19世紀の半ばに現われた古典主義芸術を云うものである。従って16世紀の建築家であるパッラーディオを「新古典主義の巨匠」としたら間違いなく美術・建築史の成績は落第点となる。100歩譲って18世紀や19世紀のトーマス・ジェファーソンをはじめとする建築家達によってパッラーディオの建築が見直され、多くのパッラーディアンニズム建築を生んだと云う事実があったとしてもパッラーディオを「新古典主義の巨匠」とは言いはしないのである。
初めてイームズが制作した短編映画を見たのは1997年の3月に目黒美術館で企画された「チャールズ&レイ・イームズ 映像の世界」の上映会だった。僕が見た最終日の「ビジュアル・コミュニケーションの方法論」と題された3月28日のプログラムの内容は、その時の資料によると「Tops コマ 1969」「Something About Photography 写真について 1976」「IBM at the Fair 1965」「A Communications Primer 1953」「Clown Face 1971」「Day of the Dead 1957」「National Fisheries Center and Aquarium 1967」「Powers of Ten 10の累乗 1978」となっているが、手書きのメモと記憶によっても「Toccata for Trains 1957」と「House 1955」も上映されたと思う。この上映会は「目からウロコ」の連続だった。マルチメディアとかメディアミックスとかの言葉が生み出される、ずっと前に先駆的な仕事を成し遂げた人がいたことに驚いたし、その人物がチャールズ&レイ・イームズだったということにも感心させられた。
EAMES FILMSについてはレーザーディスクでもリリースされていたが、このDVDは2001年8月に東京都美術館で開催された「イームズ・デザイン展」で買った物である。DVDの内容は「パワーズ・オブ・テン」「パワーズ・オブ・テン・ラフスケッチ」「ブラックトップ」「カレイドスコープ・ジャズ・チェア」「ハウス」「おもちゃの汽車のトッカータ」である。
「パワーズ・オブ・テン」の公園で寝そべる男の手の甲から10の累乗で拡大・展開する映像は宇宙空間まで拡がってゆく。最近何かのコマーシャルでこの「パワーズ・オブ・テン」をパクったのではないかと思われるアイデアをテレビで何度か見たことがある。なんだか、である。
今使っている1993年発行イミダス付録の「最新版 外来語・略語辞典」が10年も経て、決して「最新版」とは言えなくなったので、三省堂のカタカナ類語辞典を買った。コンパクトで値段が1800円と手頃な事と、普通にカタカナ語辞典でなく類語辞典になっていて、面白そうに思えた。やっぱり、その言葉の意味だけでなく関連表現も解ったほうが、成程と腑に落ちるだろうと考えた。
しかし、1800円で538ページ、カタカナ語5000語はイミダス付録「最新版 外来語・略語辞典」の7000語より2000語も少ない。従って当然あってよさそうな言葉がでてない。例えば「シミュレーション」のように新明解国語辞典にさえ出ているようなカタカナ語がなかったりする。ん〜「オフサイド」もないぞ、三省堂編修所のオヤジ達はスポーツやIT分野に弱そうだ。
ところで類語辞典と云えば大修館書店から日本語大シソーラス・類語検索大辞典が今年の9月に出た、値段は15,000円也。新聞書評か何かで著者は未だもう一冊分くらいの類語辞典を作れるくらいのデータがあるとかないとか書いてあったので、どんなものかと八王子の三省堂書店に行ったとき立ち読みをした。成程、一つのキーワードに対しての関連表現の内容が濃い。しかし、いかんせん15,000円の値段と辞書のサイズがハードルだ、後は分類法が好みに合うか、それに横書きも好みが分かれそうな気がする。
実は類語辞典にちょっと興味を持ったのは今年の1月に秋山さんからこんなメールを頂いたことがきっかけだ。
最近、下北の本屋に講談社の「類語大辞典」が平積みになっていた。ぱらぱら見ているうちに、急に欲しくなってきた。
今まで持っていた類語辞典は、創拓社とかいうところの「類語表現活用辞典」というやつで、何か活用したということもないし、どうして買ったのかも記憶がない。とにかく、衝動買いをやめて「類語辞典」なるものはどんなものがあるのかを調べてみることにした。
こんな時、下北にも三省堂があるのは助かる。早速、辞書売り場で各種比較してみることにした。
この手の辞典は欧米では「シソーラス」 [thesaurus]というらしい。そして、角川「類語新辞典」なる黄色い辞典に決定、買い求めた。買い求めた理由は、なんといっても、その語彙分類体系の潔さに感動したからだ。A自然、B人事、C文化の3分類から始まり、10×10のマトリックスに拡げ、その1項目を再び10×10に拡げ、細分化する。その体系表の中に、あらゆる言葉を収める。すごい。
この辞典って大変有名なものであったらしい。やっと私も手に入れました。
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秋山東一 LANDship architects,inc.
女優・中嶋朋子がエッセー「タダシイオコナイ」で怒っている。いわゆるエコ系のイベントの参加者や主催者の独善的な偏見に対してである。「蛍のいかり」に僕も同感、そうなんですエコオヤジとエゴオヤジは紙一重の差なのです。
WALTZ FOR DEBBY+6
Monica Zetterlund / Bill Evans
1964年スウェーデンはストックホルムで録音されたモニカ・セッテルンド(Jazzヴォーカル)のジャズアルバムである。タイトルから解るようにビル・エバンス・トリオとの共演盤となっている。オリジナル・アルバムには10曲が収録されているが2002年に再発売されたCDにはオリジナルの10曲にプラス5曲の別テイクとビル・エバンス(Jazzピアニスト)の鼻歌が一曲追加収録されている。それで、ビル・エバンスの鼻歌は何故か「サンタが街にやってくる」だ。笑いながら唄っているので、たぶん、遊び半分の余興であろう。まさか、ビル・エバンスも草葉の陰で自分の鼻歌がCDになるとは思ってもなかっただろう。生きていたら収録を許可しないだろうし、それに鼻歌だけでなく別テイクを発表されるのも嫌に違いないと思う。
先日の日曜日に録画しておいた新日曜美術館を早送りで再生していたらアートシーンで三鷹の森ジブリ美術館で開催中のロシアのアニメーション作家「ユーリー・ノルシュテイン展」を紹介していた。会場には「霧につつまれたハリネズミ」の絵コンテや原画、ノルシュテイン・アニメーションの秘密を解く切り絵によるキャラクター、点景、背景とマルチプレイン・カメラの撮影方法等が展示されているようだ。「空間が機能していない映画は面白くありません。」「登場人物はそれに相応しい空間を得て、本当の命を宿すのです。」とノルシュテインは語っていた。
レーザーディスクの話の話を見たくなった。もう既にレーザーディスク・プレイヤーはレガシーな映像再生装置になってしまっている。今でも再生できるか不安であったが「話の話」を取り出してレーザーディスク・プレイヤーで再生した。何の問題も無く「話の話」を再生し始めたが最後の方になって針飛び現象を起こしてしまった。レーザーディスクもプレイヤーも1980年代半ばの製品だから17〜8年位は経っている。今更、ハードウェアを買い替える気にもなれない。これも、捨てるに捨てられないモノの仲間入りをするのだろうか。
久しぶりに「話の話」を見て、ノルシュテイン作品には通奏低音のように孤独感が静かに鳴り響き、夢や追憶がその空間の中を漂白しているように思えた。
Amazon.co.jp: で「ユーリー・ノルシュテイン」のDVDがあるか調べてみたら。「ユーリ・ノルシュテイン作品集」が見つかった。LD版「話の話」はタイトルの「話の話」と「ケルジェネツの戦い」「霧につつまれたハリネズミ」「あおさぎと鶴」の4作品だけだが、DVDの「ユーリ・ノルシュテイン作品集」はその4作品に「25日・最初の日」「狐と兎」「Seasons」「My Green Crocodile」を加えた8作品が収録されているようだ。価格は5800円、ん〜「ショッピングカートに入れる」ボタンをクリックするか考え中。
ジブリ美術館の「ユーリー・ノルシュテイン展」は来年の5月5日までだが、入場券が予約制なので、時間がとれて気が向いたときに見に行くと云う訳にはいかないのである。
「NO LOGO」ブランドなんか、いらない ナオミ・クライン著、松島聖子訳(はまの出版 2001年5月)
この本を知ったのは2002年3月のメディア・リテラシー研究報告会「メルプロジェクト・シンポジウム」に於ける報告者であるカナダ・メディア・リテラシー協会のバリー・ダンカン氏の推奨によるものだった。
カナダに留学経験のある友達に聞いた話ではカナダ人ほどアメリカ人を嫌う国民はないと云う、特に欧州を旅行する際には「アホで間抜けなアメリカ白人」と間違えられないように国旗の赤いカエデのタグを身に付ける人もいるという。情報の流入に関してアメリカとカナダには国境はない、止めどなく押し寄せる情報に対して、自らのアイデンティティを保つには情報の行間に隠された文脈を読み解く技術を身に付けることが彼らには求められている。そういえばメディア研究の先駆者マクルーハンもカナダ人であった。
「NO LOGO」はコンテンツを読んで判る通りに、反グローバリズムの立場から多国籍企業の非民主的な企業活動を批判したものである。執筆には4年の歳月を掛け、その内二年間はリサーチに費やしたことからも、単なる思いつきからでも、反対のための反対という動機づけでもない。理想は搾取や支配や隷属のない民主的な企業経営によって成り立つ世界である。
本来、社会や行政は企業が暴走しないように歯止めを掛けなければいかないのだが、米国に習ってか此の国の政府も企業の暴走に力を貸しているようにも思える。先日の文芸春秋の新聞広告で「◎少子高齢化ニッポンの未来 死に物狂いで成長を実現せよ 我々は新しい繁栄の時代の出発点に立っている 奥田碩」とトヨタの会長が吠えていたのを見て、「死に物狂い」の言葉が軍国主義の残像のように思えて仕方ない。
「NO LOGO」ブランドなんか、いらない ・・・・目次
第1部 ノー・スペース【奪われた公共空間】
1) 新しいブランド世界(ブランドの誕生、死、復活)
2) ブランドの拡大戦略(ロゴはいかにして中央舞台に立ったか)
3) クール・マーケティング(狙われた若者市場)
4) ブランドの学校進出(キャンパスに入り込んだ企業広告)
5) 愛国心はファンキーだ(取り込まれたアイデンティティ政治)
第2部 ノー・チョイス【奪われた選択肢】
6) 増殖するスーパーブランド(新・フランチャイズ爆弾)
7) 合併とシナジー(エリートたちのユートピア)
8) 企業による検閲(ブランド村のバリケード)
第3部 ノー・ジョブ【奪われた仕事】
9) 見捨てられた工場(製造なんて、くだらない)
10) 先進国の労働者いじめ(タダ働きから「フリーエージェント」まで)
11) 忠誠心がなくなるとき(怒れる若い労働者)
第4部 ノー・ロゴ【そして反撃は始まった】
12) カルチャー・ジャム(攻撃された広告看板)
13) リクレイム・ザ・ストリート(自由空間を取り戻そう)
14)悪いムードの高まり(企業の悪が暴れるとき)
15) 反撃の嵐(反ブランド運動の戦略)
16) 三つのロゴの物語(ナイキ、シェル、マクドナルド)
17) 地域のボイコット(学生と地方政府の反ブランド戦略)
18) ブランドを超えて(反企業運動の落とし穴)
終章) 市民がつくる新世界(「グローバル・コモン」を目指して)
近くのイトーヨーカドーの屋上から見た今朝の富士山、この辺りが富士山が見える限界、これ以上高尾山に近づくと、近くの山に隠れて見えない。その高尾山は右側の山。今日の夕方、この高尾山の麓で秋爺、松爺と一緒に蕎麦を味わう予定。
と云うわけで、午後四時に高尾山口駅で待ち合わせをして高橋家に直行、とりあえずエビスの生ビールで咽を潤してから蕎麦を注文、秋爺は鴨葱、松爺はトロロのそれぞれ温かい蕎麦、僕は鴨葱せいろの温かいつけ汁で冷たい蕎麦を食す。ころ合いを見計らってそば湯を持ってくるところが宜しい。
腹が満足したところで、せっかくここまで来たのだからとケーブルで高尾山駅まで登ることに、下りのケーブルカーは満員であるが、登りは貸しきり状態、これから山に登るのは余程酔狂か仕事で行く人だけだろう。夏季はビアホールになると云う展望台から下界を眺める。八王子の市街よりも多摩の横山の向こうに広がる橋本(神奈川県相模原市)の市街が明るいのは何故だろうか、きっと街の勢いが違うのだろう。残念ながら福生の横田基地はこの展望台からは森が邪魔して見えず、世界情勢の一端を窺うことはならなかった。ちなみに中央高速の向こう側の元八王子の八王子城趾からは横田基地が眼下に見える。山を下り、京王線と中央線を乗り継いで八王子市街に赴く。霊験あらたかな高尾山から下界に降りて、これから豚カツでビールという組み合わせで二次会。秋爺の案内で甲州街道は横山町駐車場裏のとんかつ・すずもとに行く。秋爺のお奨めはロースカツと生ビール、こんがりと揚がったロースカツは一目でラードを使って揚げたサクサク衣と判る。植物油で揚げた豚カツではこうはならない。お世辞抜きで、久しぶりに旨い豚カツを食べた。衣も肉も脂っこくなく、肉も箸でちぎれるほど柔らかく、胃にも凭れない。
とんかつ屋を出て、未だ時間があるので飲み屋を探す。放射線通りに向かって歩いていると客引きが近づいてくる。それを無視し放射線通りに出て駅に向かって歩き、途中のわき道を入ったところにあったイギリス風?のパブらしき店に入る。二階に通され、テーブル席に落ち着く。店内はビル・エバンスやロリンズ、マイルス等の60年代のモダンジャズがBGMに流れているが、客層は何か怪しげ、この辺りの水商売関係者の御商談の場に使われているようだ。
八王子で飲んだのは10年位前の同窓会以来である。それにしても八王子は随分と変わった、元々上品とは言えないが、それでも以前は客引き等はいなかったし、夜でも安心して歩ける街だった。西放射線通りの三崎町界隈はプチ・歌舞伎町化しているようだ。深夜にはミニスカ金髪のたちんぼもいると云う。そういえば、数年前に暴力団の抗争で発砲事件もあった。高尾山から見た八王子市街が暗く見えたのはそういうことだったのか。
QuickTimeが6.5にアップデートされたと云うので、ソフトウェア・アップデートを開始したらMacOSX Pantherもバージョン10.3.2にアップデートされていた。QuickTime6.5をアップデートするまえに先ずはMacOSXからアップデートをしなければならないようだ。
昨日はA&AからVectorWorks10.5のアップデータが届いたので、いちおうインストールだけはしたが、未だ検証はしていない。インターフェースの見た目は殆ど変わりない、モデリング機能に新しいコマンドが追加されているようだ。3DパワーパックとNURBS機能の強化改善といったところか。AdobeからもCreativeSuiteのアップグレードの案内が届いていた。Photoshop、Illustrator、InDesign、GoLiveがまとめて税込み134,000円は高い。GoLiveはいらないのでアップグレードはバラで行いたい。
QuickTime6.5はウインドウもカスタマイズできるのかしら。しかし、悪趣味だ。
リサイクルとかエコロジーとか言う柄ではないが、多少なりともゴミを減らしたいと思っている。何年か前に東急ハンズで買ったリサイクル・ハサミである。左がペットボトルのキャップを外す為の分別ハサミ、右が牛乳パックを展開図に切り取るハサミである。
しかし、この分別ハサミは使い勝手はあまり良くないし万能でもない。ペットボトルによっては蓋だけがプラスチック樹脂になっているものと、蓋と口金部分もプラスチック樹脂になっているものがある。この口金部分のプラスチック樹脂を分別ハサミで切り取るのは困難である。分別する者にとっては口金部分までペットボトルと同一素材で作られているのが望ましい。
その使い勝手が良くないと思っていた分別ハサミであるが、製造元の関の孫六で有名な岐阜県関市にある長谷川刃物株式会社のサイトを調べてみたら、既に改良された分別ハサミがあった。それだけでなく口金部分に当たるプラキャップを外すプラキャップを取りマウスと云う製品もあった。
もっとも、こうした分別ハサミを用いなくてもプラキャップを取り外せるようになっているペットボトルもある。エコキャップを採用したキッコーマン醤油のペットボトルがそれである。
ペットボトルだけでなく発泡スチロールのトレーもリサイクルするのだが、スーパーマーケットによっては印刷してあったり黒いものはリサイクルを受け付けない所もある。最近になってイトーヨーカドーの鮮魚の発泡スチロール・トレーが表面のフィルムを剥がせるようになり、リサイクル可能になった。
しかし、このトレーは店内でパッケージした商品だけのようで、納入業者によるトレーは相変わらず印刷していたり黒いトレーのままである。
「いばり散らす人」と云えば定例記者会見で「、、殲滅だぁ〜!、、」とか騒いでる人を思い出します。その「いばり散らす人」ですが「いばり」は「ゆばり」が訛ったもので、意味は「ゆばり」と同じ尿、つまり小便の和名ですね。辞書には「ゆまり(湯放)」が転じたものとあります。「湯放」と表現されると放尿後にゾクゾクと身震いする感じが伝わります。「威張り散らす人」も「いばり(小便)散らす人」もどちらも格好良くありません。
洋便器の縁の内側に付着する尿石の黄ばみの責任は「いばり散らす人」にあるそうです。尿石はリン酸カルシウムと炭酸カルシウムがその主な成分で便器内で飛び散った尿がその原因となります。そのメカニズムはこちらのサイトに詳しくでています。で、その真犯人は男性です。まぁ、蛇口のようなものから空気中に放物線を描いて飛び出した「ゆばり」が便器に当たり飛び跳ねて便器の内側に付着する。それが化学変化して尿石になり便器にこびりつく。そう言えば、メーカーは憶えてないけれど、関根勤と子役の男の子が「俺達の責任だもな、、」とか言いながらトイレ掃除しているコマーシャルがありましたね。
どうしたものか、男も「いばり散らさないように」便器に腰掛けてオシッコするか、「いばり散らした」責任をもって毎日トイレ掃除するか、二者択一を迫られているようです。
世界中の言語の中でも日本語ほど変化の激しいものはないと思う。聖徳太子の昔から戦前までの知識人の条件は漢文の素養を身に付け、漢詩を詠み、書に秀でる者を云ったそうだ。その条件に照らして見ると私なんぞは白痴、愚鈍の類いである。高々五六十年前の戦前に書かれた文語体や候文で書かれた文章でも、楷書か活字で書かれていればまだしも、毛筆で草書で書かれていたりすると、もうお手上げである。僕らが日本語を読めるといっても、現代語として確立した明治以降の口語体で書かれたものからである。それ以前は苦手とする外国語となんら変わりない、所々の単語は読めても全体を理解するには辞書をもってしても文脈を理解できないのに似ている。草書では、もはやその辞書も使えない。
亡父が伯父の形見分けに貰ってきた書き物、私にとって、もはや外国語である。嘉永年間と思われるので約150年前のものだが、初めの「其の方」と所々の単語が読める程度だ。年代から考察すると殿様とは京都守護職・松平容保の父、会津八代藩主松平容敬と思われる。凶作によって困窮した村人の訴えに対する返答ではないかと推測するだけである。それらが一巻きにまとめられた書状の最初の文である
これも年代から考察して戊辰戦争の時の会津藩家老・西郷頼母の父ではないかと思われる。
この書き物は我が家にあるよりも郷土史研究家が持っているのが良いのではと思うのだが。
13カ国いうたらあかんディクショナリィ
言ってはいけないことばの本 開高健・企画 講談社+α文庫
声に出して読めない日本語は二つに分類できる、読めるけれど声に出せないタブーに関するものと、全く知識がなくて読めないものだ。タブーに関してはいわゆる四文字言葉の代表「お○○こ」と云った性的な俗語・卑語、つまりスラングの類いがある。他にはかつての不敬罪にあたる天皇制や皇室に関してのタブーや政治的タブー、それに被差別部落、在日朝鮮人、障害者に対する差別意識からくるタブーもある。
「お○○こ」に関しては奈良女子大から東大教授に栄転?した上野千鶴子が「スカートの下の劇場」でそのタブーを破ったことで知られているが、教授が日常的に声に出してまで言ってるかは知らない。
70年代に「四畳半襖の下張り」を雑誌・面白半分に掲載したことで、発行人・佐藤嘉尚と編集人・野坂昭如が猥褻図書販売の咎で起訴されたことがあった。「四畳半襖の下張り」を声に出してスラスラと淀みなく読める日本人がどれ程いるのか、ましてやそれによって情欲をもよおすとしたら、相当な知識人であることは疑いない。雑誌・面白半分は一年毎に作家を編集人に置いて、その作家の好みで雑誌編集するのが売りであった。開高健が編集人のとき付録で「いうたらあかん・ディクショナリィ」を付けた。雑誌から付録を切り抜いて自分で豆本を製本するというものであった。この「いうたらあかん・ディクショナリィ」のメインはやはり四文字言葉である。初代文化庁長官の今日出海がフランスはパリを訪れ自己紹介した際に淑女達の顰蹙をかったという都市伝説もこの「いうたらあかん・ディクショナリィ」でその意味を知った。数年前に文庫本になった面白半分の付録「いうたらあかん・ディクショナリィ」を見つけたのは偶然であるが、もちろん躊躇することなく買い求めた。
喧しいATM
銀行のATMが喧しい、喋りすぎである。もっと寡黙なATMがあってもよい。せめて、顧客がサイレントモードを選択できるようにして欲しい。いちいち、機械如きに指図されるのは腹が立つ。特にATMから振り込みするとき、金額に間違いがないか、相手先の口座番号を間違えてないか確認している時に、次の操作を行えと口うるさく指図する。「喧しいなぁ!分かってるよ。」と文句の一つ言いたいところだが、機械に向かって何か言っても仕方ない。ATMの操作に慣れていれば、まだ腹が立つだけだが、操作に不慣れな人ならば本当に叱られている気持ちになり落ち込んでしまう。お年寄りはオロオロするばかりである。手助けしてあげたくてもお年寄りを騙す詐欺師と勘違いされかねないので、係員を呼んであげるのが限界。そもそも、ATM等と云う代物は顧客へのサービスと云うよりも、顧客が銀行の手間を省くためにサービスしているようなものである。客にサービスさせておいてアレコレと指図するなどは言語道断である。ATMに喋らせるならば、真の意味でエージェント指向のコンピューティングが可能になった後にして欲しい、顧客が何を望んでいるのか理解した上でサポート・ケアするようなシステムでなければ意味ない。
先のエントリー【「JR中央線の復古神道的解釈」に思う】で八王子には霊園が多いと書いたが、私のいる所も地主が高尾山に縁のある真言宗の寺で、北側の窓からその霊園が見える。私が生まれた足立区の家も隣が弘法大師とも縁のある真言宗の遍照院という寺であった。そこの墓所と生家の庭とが裏木戸を介して行き来できようになっていた。昼間は一人で墓所を通り抜けることは厭わないが、暗くなってから一人で墓所に入るのは、落語、講談の怪談噺を思い出し、幼い私には怖くて嫌だった。80年代を過ごした南青山の事務所は、かつての斎藤茂吉の青山脳病院に通じる北坂を挟んで青山霊園・分園の立山墓地に面したマンションの四階だった。事務所の北側の窓からの景色は九条家の墓所の傍らにそびえ立つ花梨の老木を正面に見据えていた。事務所に訪れる人は決まって立山墓地を見て「幽霊がでそう」とか「お墓の側で夜は怖くないの」と言うので、私は決まって「生きている人間の方がずっと恐ろしいです。」と答えることにしていた。
秋山氏から講談社現代新書「鉄道ひとつばなし」が面白い、かくかくしかじか、なんたらかんたらで、これから啓文堂に行って買うようにとのお薦めがあった。その日、夕刻に知人の親族の通夜があり、その帰り京王線高尾駅前の啓文堂に立ち寄ったが「鉄道ひとつばなし」は置いてなかった。その翌日、大学の帰りに啓文堂に立ち寄ると「鉄道ひとつばなし」があった。
その第一章「天皇と鉄道」に「JR中央線の復古神道的解釈」という節がある。JR中央線の起点と終点の何れもが天皇に深く関わっているという話だ。東京駅が天皇の生を、高尾が天皇の死を象徴すると神道的解釈を試みている。私も勤めていた高木滋生建築設計事務所が京橋にあったとき、高尾から東京まで、つまり起点から終点まで中央線をフル活用していた時期があった、その上、私の祖父までは会津の鎮守・伊佐須美神社の神職をしており、本来ならば神道に縁が深いのだが、その祖父は神職の株を売り払い、東京に出て、家族を省みず死ぬまで自分の趣味に生きた人である。その子である父も伯父も既に他界しているが、神道で葬儀を出したのは長男である伯父のときだけで、伯母は戦争にも負け、夫と息子を立て続けに亡くしたことから神道は国も家族を守ってくれはしないと神道を捨てた。父にいたっては基本的に信仰心のない人である。従って私も神道に関する知識は持ち合わせていない。であるから「JR中央線の復古神道的解釈」にも「あっそう」程度の感想しか持ち合わせていない。ちなみに著者は触れていないが高尾駅は新宿御苑で行われた大正天皇の大喪の礼で使用した施設を移築したものである。皇居から見れば多摩御陵のある地は日の沈む西方であるから御陵を造るには最適であろう。荒井呉服店の娘・ユーミンが唄う中央フリーウェーでは黄昏が西に向かう車のフロントグラスを染め、その先の八王子恩方では夕焼け小焼けで日が暮れると山のお寺の鐘が鳴る。山並みに沈む太陽が人を感傷的な気持ちにさせるのか、八王子はやんごとなき御方の御陵から下々の霊園まで、あの世に旅たってから世話になる所も、老人ホームや老人病院等、あの世に旅発つ直前に世話になる所も数多くある。何も「復古神道的解釈」でこじつけなくとも、この地は真言宗高尾山薬王院有喜寺もあり、霊界とは縁のある土地なのである
たむら君から絵本と豆本が送られてきた。福音館書店の月刊予約絵本「こどものとも 0,1,2,」の1月号【ごろんこ ゆきだるま】と豆本はマッチ箱大の「PHANTASMAGORIA museum tour」だ。
「こどものとも 0,1,2,」はゼロ歳児から二歳児までを対象とした子供が初めて出会う絵本だ。製本は見開きが一枚の絵になるように観音開きになっている。観音開きのページは一枚一枚貼り合わせになっているので、子供がちょっと乱暴に扱っても良いように本の造りはとてもしっかりしている。
たむら君はMacintoshを使って絵本からアニメーション映画までつくってしまう人だが、こんどの絵本【ごろんこ ゆきだるま】の下絵はコンピュータを使っていない。下絵はぜんぶ布地を使った手縫いの作品となっている。それも縫うだけでなく、生地の染め付けから自分でやっているのだ。
error bomb pixel MP06/B
銀座松屋・デザインギャラリーの2003ウィンターギフトショーで見つけたマウスバッド。
最近は爆弾に遭遇することも殆どなくなったので、せめてマウスパッドの爆弾で気を引き締めよう。
SyQuestの5.25"Removable Cartridge 44MBとSONYの5.25"MO裏表両面で650MB、両方とも既に使っていない。物置を探せば5.25"のフロッピーディスクも有る筈で、これらの記憶媒体は何となく捨てるに捨てられないモノの筆頭である。こうして見るとSmartMediaでさえも xD-PictureCardと比較すると大きい。記憶媒体はどこまで小さく大容量になるのだろう。それによって捨てるに捨てられないモノの数が増えてくるのだろう。
先日、夜の10時過ぎ所用があって車で出かけた。生活道路から町田街道に出て左折しようと停車して左右を確認、右手から来た一台の車を見送り、後続車のヘッドライトもチャリンコも来てないので左折しようとしたその時、右手暗やみから何か黒い物体が迫ってきた、よくみれば無灯火の車である。薄暮時ならばまだしも夜の10時に無灯火とは唖然とせざるを得ない。夜行性の獣が運転しているのだろうか、恐ろしい。それにしても、最近のドライバーの運転マナーの低下は目を覆う物がある。青信号に変っても直ぐに発進することが適わない、赤信号でも平気で右折する輩が増えている。渋滞でもお構いなく交差点に進入する。手前勝手な下品な輩が増殖している。
「バカの壁」が流行語ベストテン・ランクイン、その上2003年のベストセラーと、その余勢を駆ってか、養老孟司センセーはテレビ出演、コマーシャル主演と大忙しである。ちなみにAmazon.comで「養老孟司」をキーワード検索すると、なんと154冊もある。全てが書き下ろしでなくとも、監修、共著、対談集等を含めてもこの数はたいしたものである。それにしても養老センセー、「バカの壁」の新潮社だけを依怙贔屓するのは不公平と中央公論、光文社、日経サイエンス、 PHP研究所 、集英社、等々、からも新刊を出すなど、他社への気配りも怠らない。全方位外交である。きっと頼まれると断れない性格でしょうね。
ぼくも恥ずかしながらMAD Press Vol.12 (1994/1/31)で養老センセーの「バカの壁」を自嘲的に使っていた。10年後に流行語になると知っていたら使うのを止めていただろうに、若気の至りである。養老センセーの本は対談集も含めて数冊読んだが「バカの壁」が何に出ていたのか「唯脳論」なのか、何なのかどこから引用したのか、そこまでの記憶はない。「バカの壁」もベストセラーになっていたので読むのを躊躇していたが、いちおう賈って読んでみたが、自分の脳内にそびえる「バカの壁」がバリアーとなっているのか、なんだかあまり興味深く読めなかった。ちなみに蛇足を承知でAmazon.comで「バカ」をキーワード検索すると「バカの壁」を筆頭に692冊あった。養老センセーの手を離れ「バカの壁」が独り歩きし、それにつれて誤読・曲解も増えているのではなかろうか。