December 14, 2003

声に出して読めない日本語 其二

世界中の言語の中でも日本語ほど変化の激しいものはないと思う。聖徳太子の昔から戦前までの知識人の条件は漢文の素養を身に付け、漢詩を詠み、書に秀でる者を云ったそうだ。その条件に照らして見ると私なんぞは白痴、愚鈍の類いである。高々五六十年前の戦前に書かれた文語体や候文で書かれた文章でも、楷書か活字で書かれていればまだしも、毛筆で草書で書かれていたりすると、もうお手上げである。僕らが日本語を読めるといっても、現代語として確立した明治以降の口語体で書かれたものからである。それ以前は苦手とする外国語となんら変わりない、所々の単語は読めても全体を理解するには辞書をもってしても文脈を理解できないのに似ている。草書では、もはやその辞書も使えない。

亡父が伯父の形見分けに貰ってきた書き物、私にとって、もはや外国語である。嘉永年間と思われるので約150年前のものだが、初めの「其の方」と所々の単語が読める程度だ。年代から考察すると殿様とは京都守護職・松平容保の父、会津八代藩主松平容敬と思われる。凶作によって困窮した村人の訴えに対する返答ではないかと推測するだけである。それらが一巻きにまとめられた書状の最初の文である


これも年代から考察して戊辰戦争の時の会津藩家老・西郷頼母の父ではないかと思われる。
この書き物は我が家にあるよりも郷土史研究家が持っているのが良いのではと思うのだが。

Posted by S.Igarashi at December 14, 2003 05:02 PM | トラックバック
コメント

土屋様
書状に関心をお寄せ下さり有り難うございます。
譲渡に関して、兄弟と相談しなければならなく、私だけの判断では決めかねますので、暫くの猶予を戴きたいと存じます。
この書状は先祖が会津国鎮守・伊佐須美神社の神職を勤めていた関係で祖父が所持していたものと思います。ご存じでしょうが、伊佐須美神社の氏子総代は会津藩主が勤めることになっており、現在も松平家の当主が氏子総代を勤めていると思います。
大正時代に祖父はその神職の株を他人に譲渡して家族とともに東京に移住し、それ以来、神職とも縁がなくなっております。戦前までは亡父の長兄の家には甲冑や刀剣類もあったそうですが、それらは戦時中に軍部の命令で供出し散逸してしまい、残ったものは紙類だけと云うことのようです。

Posted by: S.Igarashi at March 2, 2004 11:55 AM

私は、発展途上ながら会津藩の近世期を勉強しております。それと、松平容敬差出、大久保加賀守(老中)宛の将軍徳川家斎に対する披露状を1通所持しております。もちろん、花押付き(お墨付き)です。それは、拝見の書状と筆致がそっくりなので同時期、同じ人物(右筆)が書いたのではとおもわれます。
ご先祖の形見とのことですが是非、私にお譲りいただけないかと想います。出来ればあなた様の条件を提示していただきたいとお願い申し上げます。

Posted by: 土屋 定敏 at March 1, 2004 06:32 PM