October 21, 2003

「超」整理法を読む

中公新書の"「超」整理法"(野口悠紀雄著)を批評した10年前くらいの文章であるが、何も変更しないで掲載する事にした。  MAD Press Vol.12 (1994/1/31)
この新書によって野口氏はブレイクスルーしたわけである。彼の研究室か書斎を写した写真が何かの雑誌に掲載されていたが、必ずしも「超」整理法だけによって書類を整理している訳ではない事を、本人もそこで述べていた。

「超」整理法を読む MAD Press Vol.12 (1994/1/31)  中公新書の"「超」整理法"(野口悠紀雄著)が売れているらしい、一週間程で書店から姿を消し、20日余りで増刷し第二版を出しているから、この手の本としては相当なものである。昨年末で約17万部の記録と新聞の書評欄に書かれていた。どうやら、新書で「情報」とか「整理」とか「知的○○」とか名が付くものは、売れ系(すじ)の本である、それだけ「情報難民」の数が多いということであろう。それに「超」が付けばもっと売れると出版社が目論んだか、或いは最近の餓鬼共が使う「超かわいいじゃん。」と同じ程度の「超」なのか、何れにしても「超」に迷わされてはいけません。もっとも、スーパー○○とかハイパー○○とか、広告代理店が付けそうなネーミングは山根一眞が既に使っているので避けたのかも、どちらにしても感心できる名とも思えない。なにか、中公新書というよりは青春出版社が考え付きそうな書名に小生はどうしても胡散臭さを感じてしまう。

 いったい「超」整理法とは何ぞや、この本で著者が主張していることは、「分類するな。」「時間軸で管理せよ。」「検索はコンピュータにまかせよ。」といったことで、一つ一つに殊更目立つような新鮮さはない。それでも「分類するな。」の一言に物臭な読者は安心するかも知れない。だが、本当に物臭な人間がこの手の本を読むことなど有りえない。多分、これまでも情報整理学などと名のつく本は読み尽くし、電子手帳にシステム手帳と新しいグッズがでると欲しくなり、一度は「MS-DOS入門」という本を買って挫折したこともあるような「情報難民」をターゲットにしてこの本は作られている。
 多分、山根一眞の本を読んでも山根式ファイルを実践しなかったように、"「超」整理法"を読んで野口式押し出しファイリングを実践する人も稀な気がする。
 野口式押し出しファイリングは山根式ファイルと同じようにA4の封筒を使うことでは似ているが、山根式ファイルが百科事典と同じようにカテゴリーに分類しないで50音別に並べるのにたいして、野口式押し出しファイリングでは、使用したファイルを常に本棚の左側に差し込むということである。自ずと使用頻度の少ないファイルは右側に押し出されることになる。A4の封筒には標題と日付を記入することになっているが、再使用した日付を記入するかどうかについては、この本では記述されていない。ファイルの使用日をスタンプすれば、アリバイを辿うことができ、そのファイルの重要度も自ずと解ると思うのであるが、兎に角、使用頻度の多い書類は左に位置することで、著者は良しとしているのだろう。

 これらのことから解るように、この"「超」整理法"は極めて私的な個人のための情報整理法である、著者自身の大学教授という肩書きが表すように、大学研究室という閉ざされた世界のみで通ずるものではないだろうか。それは、梅棹忠夫のいうところの「アカデミック・エゴイズム」がこの本全体の文脈を占めてないだろうか。
 小生は思うにこの"「超」整理法"を敢て新書で出す必要があるのかと疑いたくなるのであります。それこそマガジンハウスや青春出版社でだしている雑誌の見開き頁で伝えるに充分な程度の中身なのではないかと。その不足分を補うために、著者は、整理のための整理に時間が失われることの無意味さや、死蔵する情報のモルグと化したファイリング・システムについての言及や名刺データベースの失敗談、アイデア製造システム、高度知識社会に向けて等の二番煎じなアカデミック・スパイスを添加している。しかし、だからなんだ????という気がし、却って卑しさを感じてしまう。

 要するに、小生この本を読んでもあまり関心しなかった。べつにそれが、著者がMS-DOSのUserだったから、ということでもないけど。結局、情報整理に関してなんの解決案も得られないということじゃーないだろうか。著者がやっているようなことは、MacUserであれば日常において殊更意識しないで、デレクトリを日付順にしたり名前に替えたりと、山根式と野口式を使い分けている。
 リチャード・ワーマンの言う情報にアクセスする5の方法、カテゴリー、時間、位置、アルファベット、連続量、これら全てをMacintoshのデレクトリ/ファインダーは満たしている。

 こんなことを書いていると小生が「馬鹿の壁」に突き当たって理解できないので八つ当たりをしてる、と非難を受けるかも知れない、自分でもそうだろうかと疑ってみたが、読書後の満足感とは、作者によって与えられる「ヴィジョン」ではないだろうか、どうもその「ヴィジョン」を小生はこの書物から読み取ることができなかったようだ。

 もっとも、読みながら考え付いたこともあるから、あながちこの本を否定することもない。それは単なる思い付きであるが、スタンプ主義による情報カルテというものを作ってみてはどうだろうか、カタログやファイルでも蔵書でも、とにかく利用したら裏扉に日付スタンプを押してしまう。そうすれば、カタログ整理のとき捨てるものかどうかの目安には、なると思うのだが、しかし、こういうことは実行しなければ何の意味もない。
 このことで気付いた事がある。それは、最近の図書館の貸出方法がコンピュータによる管理になってから、書物から貸出カードがなくなり、その本がどの位読まれているか、同じ人が数回に渡って借りているか、どの位の期間借りているか等の情報が、コンピュータによってブラックボックス化されてしまったことである。謂わば貸出カードによって書物を共有することの連帯意識のようなものが失われたのではないだろうか。(五十嵐)


Posted by S.Igarashi at October 21, 2003 01:06 PM | トラックバック
コメント