September 30, 2003

iNTERNET magazine

iNTERNET magazineが「レンタルサーバーの選びの極意」と「プロが教えるMovable Typeの構造デザイン」の二つの特集を組んでます。なんか随分久しぶりに買ったけれど、すごく専門的になってますね。巻末のプロバイダーの一覧表なんか字が小さすぎて、裸眼では明るいところで45センチくらい遠ざけ眼力を込めて、やっと判読できる程度です。1995年の創刊当時は巻末にプロバイダーのネットワーク相関図みたいのがありましたね。あのころはプロバイダーもまだ図解できる程度の数しかなかったですね。

Posted by S.Igarashi at 05:59 PM | コメント (0) | トラックバック

September 29, 2003

ロナウドのヘアスタイル

昨年のサッカーワールドカップ・ブラジル代表ロナウドの意表を突くヘアスタイルは未だ記憶に新しい。日本中の誰もがあのヘアスタイルは子連れ狼の大五郎カットだと思い込んでいた。しかし先週の土曜日に放送されたNHK教育放送「ETVスペシャル」沢木耕太郎アマゾン思索紀行”森の奥・森の声”を見てそれが間違いかも知れないと思った。あのヘアスタイルはアマゾン奥地の先住民「イゾラド」の人々にも多く見られるものだった。
以前、ポストコロニアリズムとクリオール文化をテーマにした番組か何かで、ブラジルの人種別人口構成比を取り上げていた。ブラジルはポルトガル系移民、アフリカ系強制移民、先住民族等が複雑に入り交じり国民を構成している。ロナウドの風貌を見ると、彼にはそれら全ての血が流れているようにも思える。そう考えると、ロナウドがブラジル先住民族の誇りをもって、あのヘアスタイルで決勝トーナメントに出場したとしても不自然でない。

Posted by S.Igarashi at 11:30 PM

September 28, 2003

MAD Press5 MacWorld奮戦記 1992

MacWorld奮戦記 1992/2 先ずはExpoで僕等が販売した「Macintosh Desktop Architecture Guide」の企画から出版までの経過が紆余曲折しながらも、どんな風に進んだのかを今回は執筆者とUG主宰者の目から記してみたいと思う。MAD Press は「書いたもの勝ち」なのね。

MDAG.GIF
この出版の企画が始まったのが昨年('91)の3月で、本が出来上がったのが2月17日だから、およそ一年かけて発行までこぎつけた訳だ。通常、建築関係の単行本が企画から出版まで一年半を費やすのに比較して1/3の時間が節約できたことになる。
 MAD Party のガイドラインに記された活動に「チュートリアル・ブックの作成」という項目があった。自費出版で200部くらいのオーダーで出来ないものかと漠然と考えていたものが、出版社がついて、6000部のオーダーと30倍になり、Expo会場で185部売れたことは、当初の考えから言えば飛躍的な事だ

 それでも、出版までの過程は決してスムーズなものではなかった。当初は教育産業を母体とする、ある出版社から出版される予定だった。300頁で150のトピック、価格が4000円、一つの建築設計をドキュメントにそのフローと150のトピックをリンクさせるという企画で進行し、3箇月くらい経たところで、企画がペンディングになってしまった。出版社の営業担当はいけると考えていたものが、契約の直前になって社内稟議を通すのが難しい状況になってしまったのだ。その教育産業が母体の出版社(編集はしない)ではPC-98を工務店等に販売する営業も行なっていて、PC-98の本を作るのならよいがMacの本などもってのほかだ!と言うことになり、出版の企画は暗礁に乗り上げてしまったのである。ザッブーン・・(効果音・世間の荒波)

 んな訳で、責任を感じたその出版社の営業担当者が別な出版社を紹介する形となり、座礁していたMAD Party丸は果てしないDTPの海原に乗り出したのであった。

 再開された編集会議は言い様によってはブレインストーミングとも呼ぶ雑談に終始し、我々の編集長であるM氏のイライラが募るばかりである。そのM氏が遂に爆発してしまった。(10年以上に亘って建築雑誌の編集長をしていた彼は時として横暴になり、絶対権力者であることを誇示する態度にでるのである。これは一種の職業病である。)
それは、本の最初に載せる座談会を収録しているときだった。話しが盛り上がり、過激にエスカレートしていくとき、突如立ち上がりカセットを切り「駄目!駄目だ!駄目だよー!こんなの載せられないよ!」とわめき始めたのである。我々はなす術もなく黙って嵐が治まるのを待った。

 テープから起こした原稿をもって「いやー専門用語が多くてリライトの人が大変だったみたいねー、でも面白いよね、これって、結構良いこと言ってるよね。」と照れ臭そうにニヤニヤするM氏なのだ。

 共同執筆というものも大変である。共通の認識としてのガイドラインがなければ成り立たない、それを探るブレーンストーミングに時間をとられるのは仕方のないことであろう。そうやって出来たこの本は民主主義的な作られ方をしていて、ちょっぴり自慢をしても良いのかも知れない。

DTPの海は穏やかな日ばかりは続かない

 本の体裁として見開き2頁を一つのトピックにして、長くなっても偶数頁に納め、見開きの原則を守る。これがDTPの約束事の一つだった。原稿の入稿も、それぞれがPageMakerに図版と原稿を割り付けそれをTeleFinderによってホストコンピュータに送るかたちを取った。(ちなみに、このホストコンピュータはAppleの特販プログラムの抽選で当たったSE/30だ。)この方法は最終イメージを執筆者自らがレイアウトして確認する事が出来て、良い方法にも思えるが、結果的にはM氏の仕事を増やすことにもなってしまった。これは僕等が視覚人間であり、テキストだけでモノを考える事をしないからであろう。PageMakerで図版を割り付けてからテキストを考えるという、出版界の常識やぶりを躊躇いもなく実行してしまう僕等に今度はM氏が振り回されることになった。しかし、何だかんだといっても、レイアウトを自分で最終調整しないと気が済まないM氏の職人気質をDTPが呼び覚ましてしまったのだろう。

 PageMakerの原稿は最終の「仕上がりイメージ」として考え、別にテキストと図版を入稿するのがベターであると思い付いたのは、作業も相当進んでからだった。そのうえ題割りもなく、ページ割が出来たのも出力センターに持ち込む直前である。JAZZの集団即興演奏のようにして僕等の本は作られたのだ。

 忘年会の前に全てを終えたいというM氏の願いも空しく、版下を凸版印刷に持ち込んだのは正月明けの8日だ。「もう、間に合わないよ。」とM氏の泣き言が始まる度に、「お黙り!2月20日は絶対だからね。」とサディスティックな悦びに浸る私であった。

 僕等の本の発行先である出版社は編集に係わることは、ほとんど何もしていない。最初の出版社とは制作費の一部の前渡しと執筆者に対して原稿料と印税支払という条件をほぼ合意していたが、実際に発行先となった出版社は規模も小さく、執筆者の条件も芳しくなく、制作費の一部を編集長が肩代わりをしなければいけないほどだった。それならば、自分達で出版すればよいではないかという理屈も成り立つかもしれない、しかしそれでは流通に乗らない事になってしまう。書籍には必ずISBN4-○○○○○とかいうコードがあって、これがないと日販とか東販とかの取次店にいく事がない。そのうえ悪いことに、この出版コードをこれから出版社を設立して得ることは不可能に近いことなんだ。ある企業が出版部門を作る場合は神田辺りにある休眠出版社を買収して出版コードを得るしかなく、ここでも利権が巾を効かし、出版社の地上げまで行われる始末である。

 今回の僕等の「Macintosh Desktop Architecture Guide」の出版に関わり、編集者と執筆者の情熱と言うのか意地と呼ぶのか、それがなければ思ったような本が生まれることがないんだ、と極く当たり前の事を痛感した一年だった。

しかし、物を売るって言うことは難しい、Expoで三日間もくたびれた売り子を演じてしまった。まあ、僕等の本は誰でもが買ってくれる訳ではないので、魚屋のおっさんになってもしょうがない。売っていて気がついたことは「買ってくれる人は買ってくれる。買ってくれない人は買ってくれない。」あれ、これじゃ当たり前だ。黙ってすぅーっと近ずいて「これ下さい。」と言って買ってくれる人、だらだらと流れにまかせてきて、立ち止りちょっとペラペラと頁をめくってそのまま行く人。何回も頁をめくり長考して「これ下さい。」と買う人。兄貴が建築をやってるからと買ってくれた人。北京出身南京工科大卒のチャイニーズ、本を買ってくれてシェイシェイ。悪意を持った目で一瞥した人も、、、
なんだかんだ言って、MDA Guideが約180部(勘定がピッタリ合わないのだ)に絵本が85部売れたの成功ではないかと思う。絵本の配本を頼んだときリブロポートの編集の人が「一軒の本屋で30冊売るなんてことは気の遠くなるほど大変なんです。」と話していたことが良くわかった。お釣りを間違えたり、領収証を書くペンがなくて一所懸命探したら胸のポケットにあったりとかドタバタしながらの本屋さんでした。間違えて多くお金を戴いてしまった人、もう時効にしてください。

Expoが終了してからの搬出は殆ど戦争だった。ささやかな打ち上げは幕張駅前のテント小屋で取り敢えずビールで乾杯して、「帰りは車を運転しないからね、吉田くんたのむね」と僕が言う。しかしビールの泡も消えないうち、しっかりと躊躇いもなくハンドルを握っていた僕だった。ぼくらはビートルのテールランプが闇ににすいこまれて行くのを追いながら、東京に向かって幕張を後にした。

Posted by S.Igarashi at 08:51 PM | コメント (1) | トラックバック

September 27, 2003

iBlog

とうとうAppleJapanの.MacでもBlogのサービスが始まる。その名は
iBlogで、.Macのメンバーなら無料でダウンロードできます。

ダウンロードしたばかりのiBlog

Posted by S.Igarashi at 10:31 PM | コメント (4) | トラックバック

MAD Press 3 長老のお話

MAD Pressのアーカイブを公開しなさいという秋山さんのリクエストなので、最初は本人のエッセーを紹介しようと思う。1991年茨城県常陸太田市をメイン会場に開催されたクリストのアンブレラ展を見に行った時の話。

MAD Press 3 (1991/10/31)の表紙と長老のお話(Macとクリストとお魚)

Macとクリストとお魚 秋山東一

10月21日、新しいMac達が発表された。黒いポータブルのMac、おどろおどろしいクアドラとかいうMac、もう40の時代なのか。そんな話を22日の夜、吉松、五十嵐、の両氏とビールを飲みながら話していた。その日は次の日23日、クリストのアンブレラを見に行く為の打ち合わせをしていたのだった。

23日午前9時、常磐高速道を北上している。晴天。フォルクスワーゲンのリアエンジンは快調な音を立てて回っている。140Km、やや小さめの前輪だから割引いて考えなければいけない。1600ccのエンジンは余裕をもってミシュランを駆動、路面にピッタリはりついているような走りを見せる。快適とはいいかねる運転席、僕、五十嵐、後席に吉松、仕事に疲れている吉松氏は長々と眠っている。久しぶりの解放感、前方の長い線、とびさる風景、僕の休日、クリストのアンブレラに向かって僕のVWは疾走する。

Macって「道具だ」っていった古山氏の論旨に僕はとても賛成。僕はもっと言ってしまう。Macは「玩具だ。」あるいは「玩具だった。」このVW が玩具であるように。
Macって玩具だった。僕等の仕事が遊びである。あるいは、遊びであったように。あるいは、そんな時代であったように。
そんな幸せな時代を生きてきた。吉松も僕も、パーソナルコンピュータの時代を、もしかすると自分自身で作り出していたという風にも考えているのかも知れない。1979年、今から12年前、パソコンなんて言葉もなく、マイコンなんていっていた。
その年、AppleIIを買った。6502CPU, 32Kのメモリー、ひどく美しい機械。何をしようか、何ができるかなんて考えていなかった。その機械の中に全てがあるような気がしていた。6K BASIC, 10K BASIC, ミニアッセンブラ、何をすることもなく、メモリマップをいじって、ドットを点滅させるだけでも面白かった。すごく幸せな「玩具」の時代。まだ、ディスクドライブはなかったしテープレコーダ300BAU、ハードディスクなんて夢の中。

常陸太田、西山荘の御文庫なる建物をみる。知る人ぞ知る、ちょいとモダーンな建物。僕等はアンブレラに向かって走る。国道349号線を北上、19kmにわたって1340本の青い八角形のアンブレラ、直径8,66m、高さ6m。
緑の田園風景の中に、点在するカサ、カサ。山の上に、川の中に、田圃に、農家の庭先に、アンブレラは連なる。
日常的な風景の中に、ある物を付加することにより非日常的な・・・・・・なんていうのかしら。橋の上で、オッサンが叫ぶ、「オーッ、キレイダ。」
アメリカでは同時に黄色いアンブレラ、29km、1760本、たったの21日間、費用34億円あまり、それが全てクリストの負担。
終わった後には、あとかたもなく消えてしまう。

128K のMacがでた時、また新しい「玩具」として僕は手に入れた。デスクトップのグラフィカルなインターフェースに夢中になった。何かやるごとに時計がでてたけど、それも面白くてしかたなかった。マックペイント、マックライトしかないけれど、まだまだ幸せだった。・・・オタク、ファン、ユーザーの時代へと世の中変わってゆく。「玩具」「道具」「武器」へと変わってきたのかしら。

アンブレラから海へ、五浦で岡倉天心の六角堂、アジアは一つなり・・・。平潟漁港で魚を食べる。ビールを飲む。やっと三人で宴会だ。ずいぶん北まできてしまった。
帰りに国道沿いの大きな市場みたいな魚屋をのぞく。さんま10匹、500円、大きなアジ5匹、500円を買う。五十嵐氏はイカを買っていった、再び高速、すっかり日が暮れてしまった。もう、早く帰ろう。帰って叉、三人で反省会と称してビールを飲むんだ。

後記

1) 28日、アンブレラは全て終わってしまった。アメリカでの事故によって日本のアンブレラも予定より早く終わった。23日、僕等は最終の天気のよい最高のアンブレラを体験したことになる。
2) あのアジを刺身にした五十嵐氏はとてもうまかったといっていた。僕が塩焼きで食した結果は油ののり少なくあまりうまくなかった。サンマはうまかった。近所の魚屋の1/3のコストだということもわかった。
3) アンブレラの最後の里美村のインフォメーションの女の子が、すっごい美形であったそうだ。我々の唯一よらなかったインフォメーションであった。ひどく残念である。かえすがえすも残念である。我等の休日の画竜点睛をかく事になってしまった。
4) 次の日、すっごく疲れた自分を発見した。オジサンは450kmもゴーカートを運転してはいけない。
5) 吉松氏はますますMacからはなれていくようだ。彼にとってのMacはもうもどらない。そのうえ、イジワルオジサンしているという話だ。クリストしか見なかった若人に、魚を食わなかったことについてイジメているというわけだ。
6)最近、会う人ごとに、クリスト以後の僕って、以前の僕じゃないんだといっている。とにかく、僕は変わってしまった。

パンフレットとアンブレラの素材


MAP
五浦から平潟漁港、その先はもう福島県。

Posted by S.Igarashi at 05:38 PM | コメント (2)

森の奥・森の声

先週の土曜日に放送されたNHK教育放送「ETVスペシャル」沢木耕太郎アマゾン思索紀行”森の奥・森の声”を見た。
アマゾン奥地の先住民「イゾラド」(隔絶された人々)の保護区を武力を持って守るFUNAI(国立インディオ基金)の前線基地のシドニー・ポスエロの言葉は重い。ブラジルの歴史はイゾラドへの残虐行為の歴史だと言う。「自分に与えられた時間は、私たち社会が自らの罪を知り、行動を改めるための時間だ。」
「イゾラドはそれぞれの部族が一つの文化・言葉・神話を持っている。いくら小さくても、それは何千、何万の国家と同様一つの国なのだ。そうした国が滅びれば、世界は一層平準化し貧しくなっていくのだ。」
「たとえ、どれ程、私たちと異なるものであれ、それが地球上から消えるということは、私たち自身の豊かさを失うことになる。」

昨日の夕刊にE・サイードが24日深夜、白血病で亡くなったという記事があった。またアメリカはマイノリティからの声を失った。

Posted by S.Igarashi at 03:28 PM | コメント (0) | トラックバック

September 26, 2003

台北蘋果紀行(Taipei Apple Tour)

台北蘋果紀行(Taipei Apple Tour)1996
「私は嘘吐きである、それも正直な嘘吐きである。」フェデリコ・フェリーニのこの言葉が好きだ。そして、私も嘘吐きである。友達から講釈師と言われるくらいだから多分本物だろう。でも本人はそれ程自覚していない。
 私が思うに全てのノンフィクションはフィクションである。そういう意味でこの台北蘋果紀行(Taipei Apple Tour)は嘘八百を並べたものと言って差し支えない。よって文中に登場する人物は実在するものではありません。CIAもKGBもそこを誤解しないように。(iGa-chang)
AcrobatTaipei.jpg

Download file 「台北蘋果紀行」PDF 624kb A4-12p

Posted by S.Igarashi at 11:35 AM | コメント (1)

September 25, 2003

iPhoto2 + MacOSX

自分の持っているマクセルのカードリーダーUA3はMacOSXに対応する予定がなく、MacOSXのClassic環境でも使えないので、デジタルカメラから画像を取り込むには、その度にMacOS9.2に起動システムを変更再起動しなければいけない。AppleJapanのiPhoto2のページにあるサポートしているデジタルカメラを見ても僕の持っているOLYMPUSのC-1Zoomは動作確認済みのデバイス一覧に掲載されていない。専らカードリーダーを使っていたのでC-1Zoomを買ってから一度もUSBケーブルでMacと接続したこともなく、ものは試しとMacOSX環境でUSBケーブル経由でC-1Zoomを接続してみた。すると、どうだろうiPhoto2が立ち上がり、デスクトップにはC-1Zoomのスマートメディアがストレージ・メディアとしてマウントするではないか。駄目元で試したが結果オーライとなった。取りあえずデジタルカメラからの画像入力は問題解決したが、後はMacOSXに未対応のスキャナーが問題だ。これもClassic環境でPhotoShopの6.0からスキャナーを起動しようと試みたがやっぱり失敗、もっともメーカーサイトにも非対応となっているので仕方ないのだが、、

Posted by S.Igarashi at 04:09 PM | コメント (0) | トラックバック

September 24, 2003

紀の国屋の粟大福

近くのイトーヨーカドー・テナントの和菓子屋・紀の国屋の粟大福

塩味のきいた粟餅のもっちりした食感と甘さを押さえた粒餡が、どこか懐かしさを感じる味わいを覚える。昔はお彼岸の季節ともなると、母親の手作りの御萩だけでなく、近くの農家とか近所からも、それぞれ味わいの異なる御萩の御裾分けをよく戴いていた。僕は母親の作る御萩よりも、戴き物の田舎風の御萩が好きだった。この粟大福もそんな田舎風で素朴な味わいがある。
ちなみに、新宿京王駅ビルのコンコース上の中地階の通路にも紀の国屋がある。

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September 23, 2003

Louis I Khanの映画

Louis I Khanの息子が父の足跡を辿るドキュメンタリー映画MY ARCHITECT A Son's Journeyを創ったという。
Louis I Khanが亡くなったのがイランがまだパーレビ政権下にあるときで、首都テヘランの都市計画を日本の丹下健三と協同で設計しているときだから1970年代の後半だろう。
今になって考えるとLouis I Khanの死因はいわゆる俗に言う「エコノミークラス症候群」ではないだろうか。イランからの帰路、N.Y.のペンシルベニア駅で行き倒れ、そのまま身元不明の遺体として三日の間、モルグに安置されていたという。長時間のフライトで血液がドロドロになり、それによって生じた血栓で肺血栓による呼吸器障害による心不全、或いは心筋梗塞か脳梗塞を起こしたとも考えられる。これは全くの想像であるが考えられないこともない。

Posted by S.Igarashi at 07:26 PM | コメント (8)

図書館の冬

今日の東京新聞朝刊に読書の秋、図書館は冬という特集記事があった。
都立図書館の新刊購入等の資料費が1999年度から比較すると今年度は六割近く予算が削られているという。G7の中、日本は図書館の人口比数が最下位だ。

Posted by S.Igarashi at 11:46 AM | コメント (0) | トラックバック

September 22, 2003

バラック・ビルダーの味方?

先週、相模原方面に出かけたとき途中で大きなホームセンターが見えたので帰りに立ち寄ってみた。

CAINZ HOMEの折り込みチラシは週に一度入っているので名前は知っていたけど、入るのは初めてだ。八王子では地元ムラウチボビーが地元民ご用達のホームセンターだが、それよりもずっと大きく通路も広く、建材の種類も多く、コンパネの三六が680円と格安、30年以上前のラワン合板5.5ミリと大差ない。ここの城山店は秋山さんちの御近所のムラウチボビーに行くよりも僕のところから近い。バラック・ビルダーならここで資材の殆どは調達できそう。

Posted by S.Igarashi at 10:22 PM | コメント (4) | トラックバック

September 21, 2003

昭和看板建築

府中の甲州街道旧道と新道の間の裏道にあった昭和看板建築の床屋。

画像をクリックすると拡大。
昔の面影を壊さないように修復している。

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September 20, 2003

街路樹

ある政令指定都市に勤める造園設計技術者から聞いた話しである。近年、街路樹にケヤキ等の落葉広葉樹を植えるのが困難になっているという。それは排気ガスによる大気汚染等の環境問題でなく、毎年、秋になると訪れる落葉が問題になるという。車道は道路清掃車で夜間清掃すれば良いが、歩道は機械任せにできず、人手に頼るしかない。自治体による清掃が行き届かなければ住民からの苦情も多くなる。
かっては、自分の家の前の道は家主が清掃するという不文律があった。長屋の住民は路地を掃除、大店の主は小僧に店先の掃除をさせる。店先や門前が散らかったり汚れているのは家主の恥でもあった。
そう、昔は住民の誰もが「レレレのオジサン」であり「レレレのオバサン」だったのだ。掃除をしながらでも、通行人に「お〜出かけですかレレレのレ」と声を掛ける。このような町は当然の如く犯罪の発生率も少ない。

ケヤキを街路樹に植えられなくなった公園課は住民の同意を得やすい常緑広葉樹を街路樹に選ぶようになった。何のことはない落葉の季節が秋から春に変わっただけのことである。

原宿の表参道からケヤキ並木がなくなったらどうだろう、とたんに土地の価値も下がるだろう。結局は自分の暮らしている土地の価値を高めるのは住民の意識の向上しかないと思う。

Posted by S.Igarashi at 09:59 PM | コメント (1) | トラックバック

September 19, 2003

街路樹はどこへ?

10年以上前の南青山5丁目のFrom-1stの前の写真である。道の先にコレッツォーネも既に建っているから、From-1stが完成してからも10年位は経っている時の写真かも知れない。

From-1stの設計は先日もトリビアの泉に出演した建築家の山下和正氏、施工は確か竹中工務店と記憶している。From-1stが建つ前ここには木造瓦葺きの日本家屋の屋敷があった。この道は高木滋生建築設計事務所に勤めているときにも、毎日通っていたし、事務所を辞めて5年ほど経ってから、再び近くに事務所を借り、10年近くいたので、裏道から、地形がどうなって、どこに関東ロームの地山があるか、或いは埋め立て盛り土された所とか地盤の状況まで結構詳しい。
表参道から根津美術館北門までの通りを「みゆき通り」と言われていたのは地元のそれも年配の人しか知らないと思う。僕も地元商店会発行のタウン誌でその事を知ったくらいである。その「みゆき通り」には街路樹として豆科のニセアカシア(和名:槐--えんじゅ)が植えられている。もちろんFrom-1stの前の何も植えられてなく地面が露出している場所にもニセアカシアが植えられていた。
工事に先立ち、工事車両の進入のため歩道が切り下げられ街路樹が撤去され、その部分にゲートが設けられ現場周囲は仮囲いが設けられた。それは役所に道路使用許可等の申請手続きをしたうえで行うことなので何の問題もない。
工事が終わり、歩道が切り下げられた個所も原状復帰し、低木のツツジが植えられガードフェンスも設けられたが、撤去されたニセアカシアの街路樹が再びこの場所に植えられることはなかった。

これも法律的にはたぶん何の問題はないのだろう、例えば国立公園内の敷地で仮に高木を30本伐採して建物を建設して、後から低木30本植えれば、数の帳じりが合うので、そのように指導された体験もあるので、街路樹の原状復帰も高木と低木の区別をしていないのかも知れない。

しかし、歩行者にとって街路樹が消えてしまうのは寂しい限りである。

Posted by S.Igarashi at 11:13 AM

September 18, 2003

八王子の言葉

数年前、NHKの深夜に横浜・神奈川の方言を特集した番組があった。(メモの日付は2000年10月22日となっているが、再放送かも知れないし放送日は確かでない)
その時のメモがあったので掲載してみる。但しテレビを見ながらのメモなので正確さに欠けることが多少はあるかもしれない。


メモ・横浜言葉・神奈川の方言

じゃあんかよ(じゃんの原形らしい)
じゃんか
じゃん
よー
でよー
そうだんべ
ひゃっけー(冷たいこと)
ちっちゃかね(大きい)・本牧の逆さ言葉(アクセントの置き方で意味が変わるのかも?)
ちゃぶ(食事)
ちゃーふー(テーブルクロス)
ほい助(ウィスキー)
ドロンケン(よっぱらい)
おっぺす(押す)
きっかり
ね、さ、よ、(語尾につく、ねさよ言葉)

津久井青根地区
べーよー
やっこかった(柔らかい)
あんで
おやけねぇ(可哀想)

こうしてみると、八王子の方言と殆ど共通しているように思える。もっとも八王子は明治の中頃までは神奈川県に属していたのだから、当たり前かも知れない。戦国の昔から八王子は相模と武蔵の間で二股膏薬の如き、あっちについたり、こっちについたりと、あまり自立性のある地域とは思えない。江戸時代は幕府直轄地となり甲斐の国から武田の残党を八王子千人同心として仕えさせたことから、山梨との交流も多く、山梨言葉の影響も強い。

小学二年生の時、足立区の下町から八王子に引っ越してきた当時は八王子の方言に面食らいカルチャーショックを受けたものだった。
何しろ、当時の子供の代表的な遊びである「メンコ」が通じなかったのである。八王子の西南に位置する浅川・横山地区あたりでは「メンコ」は「パース」乃至は「パァス」と呼ばれていた。
それと代表的な八王子言葉は「じゃんか」である。それに加えて語尾に「よー」が付くこともある。
例として「そうじゃんかよー」とか「いいじゃんかよー」もよく使われる。
引っ越してから数ヶ月の間は頭の中で、じゃんか、じゃんか、じゃんか、と鳴り響いていた。

足立では悪ガキの一人称は「おれ」か「おいら」(北野武はいまだにおいら)だったが、八王子では「おれ」の他に「おん」という言い方があった。だから「おれなんか」が「おんなんか」になる。これには「女かよー」と呆れたものだが、いつしか自分でも「おんなんかよー」と八王子言葉に染まり、母親の顰蹙をかっていた。
他によく使われた八王子言葉は「ちょろい」(ふざけた、可笑しい)、「きつがってる」(生意気な)とかが子供の間で使われていた。

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September 17, 2003

フジヤマ

1993年8月末に八ケ岳で開催したMADParty#14の時、見学に行ったリゾナーレ小淵沢のコンクリート打ち放し壁面に浮き出たフジヤマ。

偶然なのか意図したことか定かでないが、コンクリート打設時の生コン供給のタイムラグのなせる技?

Posted by S.Igarashi at 09:49 PM

September 16, 2003

Happy-Go-Lucky

Mine君のBLOG"Happy-Go-Lucky" が何から命名したのか、その経緯は知らない。
しかし、そのテーマソングは既にある。
大貫妙子のCDアルバム「Lucy」に収録されている「Happy-Go-Lucky」だ。作詞作曲は大貫妙子、プロデュースは坂本龍一、N.Y.録音で1997年にリリースされている。

Posted by S.Igarashi at 05:21 PM | コメント (0) | トラックバック

September 15, 2003

敬老の日

さっそく、八王子市からよまいのネタを頂戴した。
敬老の日、町会の老人会の人達が来訪され、米寿を迎える母に八王子市の老人クラブ連合会から届いた贈り物と、町会の老人会からも記念の贈り物を戴いた。町会からの贈り物はダウンの肩掛で、これからの季節に気の利いたもので母も喜んでいた。しかし、八王子市の老人クラブ連合会から戴いたものは齢八十八の老人にどうして?と首を傾げたくなるものだった。

実は、敬老の日の前に市内の知り合いに「なんでも八王子市から米寿の記念品が届くらしい」という話をしたことがあった。そのとき、「すっごく、下らないもので、父も呆れていた。」という話を伺っていたので、期待はしてなかったけど、これは酷すぎる。粗大ごみを送り付けられたようなものだ。
なんだか、ラブホテルの枕元に置いて引き出しに避妊具でも入れるような代物を、よりに因って88歳のバアサンが貰っても仕方なかろう。

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建築家-その1

建築家という言葉に対して一つの側面としてのイメージが固定されたのは高校二年生の頃、トルストイの復活を読んでのことだった。
小説の中の建築家像はパトロンである貴族(放蕩者の主人公ネフリュードフの父親)の元に度々現れ媚びへつらい、金銭を無心する下劣な太鼓持ちのような人間として書かれていた。トルストイ自身が貴族階級の放蕩者であったことからも自分の体験も重ね合わせていると思えるが、小説とは言え、現実もそうだったのか検証することもできず、半信半疑のまま腑に落ちず消化不良のままでいた

それが、強ち作り話ではないことが判ったのは「パッラーディオ-世界の建築家」福田晴虔著(鹿島出版会1979年刊・絶版)を読んでのことだった。パッラーディオは16世紀、ベネチア共和国(現在の北イタリア・ヴェネト地方)を中心に活躍した建築家であり、公共建築の他、多くの住宅も手掛け、世界初の住宅建築家と言っても差し支えない。パッラーディオによる理想的な建築は彼の著書「建築四書」に記されているが、現実は決して理想通りに事が進まないのは、今も昔も変わらない。常に再三にわたる設計計画の見直し、工事金額の予算オーバーと工事費カットと工事の中断、設計料支払いの滞り、等々により経済的に豊かではなかったらしく。やはり時として、クライアントであるパトロンに窮状を訴え金銭を無心することもあったようである。パトロンと芸術家という支配と隷属の関係は16世紀の建築家からトルストイの生きた19世紀までも、そして今日でも、社会システムが変わっても亡霊のようにまとわりついている気がしないでもない。

参考文献:東海大学出版会「復活」あとがき 北御門二郎
Centro Internazionale di Studi di Architettura Andrea Palladio

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September 14, 2003

ハクビシン

二階の窓から何気なく戸外を見ると茶褐色の小動物が道路を横断、側溝に隠れた。ハクビシンだ、その姿格好は下半身デブだが頭部は鼻先が尖って流線型、こんな真っ昼間にのこのこと姿を見せるのは珍しい。直ぐにデジカメを持って、後を追ったが、側溝から暗渠に入ったらしく、姿が消えた。ハクビシンを見るのはこれで四度目、夜半に二度、夕方に一度、そして今日の昼間の12時ころ。
ハクビシンを白鼻心と書くと知ったのは、ごく最近のこと、耳だけで覚えた言葉は勘違いもまた多い。ハクビシンでなく、ずっとハクビジンと思い込んでいた。漢字でどう書くのか、白眉神、それとも美人薄命で幸薄い薄美人、或いは白木屋火災の教訓から穿く美人と、ずいぶんつまらんことを考えていた。

Posted by S.Igarashi at 06:48 PM | コメント (1) | トラックバック

Aldus PageMaker

僕がMacintoshのUserになって衝撃を受けたソフトウェアはMacPaintでもMacDrawでもMiniCADでもなく、確か1988年にキャノン販売の手によって日本語化されたDTP(DeskTop Publishing)ソフトウェアのAldus PageMakerだった。それは誰もがパブリッシャーになれるという可能性を感じたからだろう。既に日本語DTPソフトにはエルゴソフトのEG-Bookがあったが、リドロウが遅く、全くと言ってい良いほど使い物にならない代物であった。EG-Bookに比較するとPageMakerは遥かに操作性に優れ、リドロウも早く快適であった。晴海のビジネスショー(或いはデータショー)でPageMakerのデモを見て、すぐにキャノン系のゼロワンショップに注文したことは言うまでもない。

浜松在住の古山君にもPageMakerを奨めると、彼はにべもなく「そんなもの何に使うの」と否定した。彼はその舌の根も乾かぬ間に、PageMakerで「MiniCADしんぶん」を発行しMAD Partyの魁をつくった。その頃、僕は僕でMacPerspectiveの日本語マニュアルを勝手に作ったりしていた。

翌年の1989年にリリースされた日本語ポストスクリプトプリンタ・Apple NTX-JとPageMakerはMAD PartyとMAD Pressにとって最強のツールであった。確かに道具が人の行動を変える、そんな時代に僕らはいた。

その後、PageMakerは後発のQuarkXpressにシェアを奪われ、AldusはAdobeに売り渡され、そのAdobeによるInDesign によって引導を渡され、メインステージから引き下がることになった。今年7月に出版した「VectorWorks10で始めるCAD」も編集作業をInDesignで作業するか検討したが未だ印刷所がInDesignに対するノウハウの蓄積がなく、結局はPageMakerですることになった。たぶんこれがPageMakerする最後の仕事であろう。

Posted by S.Igarashi at 03:07 PM | コメント (0)

September 12, 2003

BLOG事始め

BLOGのサイトaki's STOCKTAKINGの主宰者である秋山東一氏による再三の、かつ執拗な折伏に根負け、とうとう私めもBLOGなるものを立ち上げることに相成った。いざ、BLOGを始めるにも、そうした新技術の知識は皆無、周りの誰よりも早くHTMLを覚えてサイトを立ち上げた事など、今となっては昔話にしかすぎない。ともかく、BLOGが可能なレンタルサーバーを見つけなければ何事も始まらない。人伝てによるレンタルサーバーにするも好かろうが、新規開拓するのも好かろうと、見つけたのがSHIFTWEB、オリジナル・ドメイン名にも対応して月額1000円で300Mbyteと高からず安からず手頃な価格、それに肝心なBLOGもMovabletypeをサポートし、導入の為の簡単なオンラインマニュアルも用意してある。それに一週間のお試し期間もあり、気に入らなければキャンセル可能と「特定商取引に関する法律に基づく表示」もあり、なかなか良心的なレンタルサーバーに思える。長考の末、重い腰を上げSHIFTWEBのサイトから申し込む、申し込み受理の自動返信メールの、約3時間後に仮設定のメールが届き、レンタルサーバーの利用が可能になった。仮設定のアドレスにアクセスして取りあえずメールの転送手続きだけを済ませ、買っておいたウェッブログ入門の本に目を通し、肝心のMovabletypeと日本語パッチをダウンロードする。
いちおう、Windows-PCもあるのだが、これはインターネットには接続していない、これが究極の安全対策と自負している。そういえばまたWindowsXPのセキュリティホールが見つかったというニュースがあったので、今朝、M$のサイトにアクセスすると、新しいパッチファイルが二つもあった。パッチファイルをMacOSXでダウンロード、これをWindows-PCに転送、WindowsXPにツギ当てすることにする。インターネットには接続してなくても念のためにセキュリティホールを潰しておくに越したことはない。

話を元に戻し、せっかくWindows-PCがあるのだからMovabletypeへの日本語パッチはWindowsで行うことにした。Movabletypeの日本語化が済んでから、再びMacOSX上でJedit4を用いてmt.cfgを開きConfigurationの設定をするが、入門書とSHIFTWEBのオンラインマニュアルとでデレクトリの設定に違いがあり、どちらが正しいのかよく分からず、最初に入門書に従ってサーバーにファイルをアップしたが、エラーが発生、あれこれいぢくっても直らず、サーバーのファイルを削除する。
次に、SHIFTWEBのオンラインマニュアルに従い基本を設定、不明な点は入門書を参考にしてデレクトリを設定、再びFetchを使ってサーバーにファイルをアップする。またもやエラーが発生、Fetchでファイルとフォルダーのパーミッション(ファイル権限)を確認、まったくアクセス不可のフォルダーがあり、これのパーミッションを変更して、再度チェック、今度は成功!やれやれである。
Movabletypeの設定に成功してみれば、デレクトリ(フォルダ)の設定、Configurationの設定、ファイルやフォルダへのアクセス権の設定(パーミッション)がこの三つが正しければ問題ないのだが、初心者には、残念ながらそれが見えていないのだ。

と云うことで、ようやくMovabletypeの設定にコマを進め、ウェブログを作成、名称を「MADCONNECTION」とする。エントリーのテストをしていると、入門書にあるはずのフォントボタンやURLのボタンがないことに気づいた。あれ、インストールに失敗したのか、それともボタンのイメージファイルが置かれたデレクトリへのルートに支障があるのだろうか、しかしその下の階層にある日本語化されたボタンのイメージへのルートは確保されているのだから問題ないはずだろう。あれこれ考えても仕方ない、バカの壁に突き当たったらBLOGの先輩、秋山さんの事務所に電話するのが手っ取り早い方法だ。電話をするとスタッフのMine君がでた、Mine君はaki's STOCKTAKINGのBLOGを構築した本人である。自身でもHAPPY-GO-LUCKYというBLOGを持っている。本来ならばBLOGを始める前に「Mine詣」をして、お伺いを立てなければいけないところである。気安く電話で相談するのも身の程知らずとお恐れながら尋ねると「MacOSではボタンは表示されません。」との御神託を受け、問題がないことが分かり、これで一安心する。

そんな訳でぐだぐだと最初のエントリーを書くことになってしまった。オヤジには夏の終わりのミッション・インポッシブルな体験であったのだ。

Posted by S.Igarashi at 05:16 PM | コメント (5) | トラックバック