5月末まで無料ダウンロードできる『こちずぶらり』である。用意されている古地図は世界が三枚、日本が四枚である。左の画面はその一枚で1844年の江戸古地図である。画面の音無川と山谷堀に吉原のスケール感をみれば、GPSとの整合性や地図の正確さを求めるのは土台無理なことは一目瞭然。まぁ...話のネタ程度には...なるかもしれないが...これが350円だったら...う〜ん...。
しかし、もしも...GPS機能に対応したiPhoneAppの三層重ね地図があれば...価格にもよるがお金を払っても欲しいと思うだろう。
追記:関連エントリー・デジタル伊能図
歴史的農業環境閲覧システム
先月、五年毎の更新手続書類を提出、略一月後に登録通知書が届いた。登録通知書もハガキからA4に変更され封書で届くようになり、登録機関も都庁の建政課から設計事務所協会と大幅に変更された。自動車運転免許証なら誕生日の前後一ヶ月の二ヶ月間に更新手続きをすれば良いのだが、建築士事務所の更新手続きは前倒しが原則、登録期限の二ヶ月前から一ヶ月前の一月間に済ませなければいけない。しかも、身一つで済む自動車運転免許証更新と違い、事前に揃えておかなければいけない書類も多く、その為に都税事務所や法務局に行けなければならない。姉歯以前はそれだけで済んだのが、偽装事件以後、建築士法が改正され、定期講習が義務付けされ、それも建築士と管理建築士、その両方の講習を受け修了考査をパスして修了証を貰わなければならない等々...時間もお金も...三倍以上掛かるようになってしまったのである。こんな更新手続きでさえも代書屋からDMの案内が届くようになっているのだが...何がなんだか...。唯一の改善点は申請書式をダウンロードできること、それに申請窓口が意地の悪い役人ではないこと...くらいか...。
川の地図辞典 多摩東部編
私は『川の地図辞典 多摩東部編』の333頁の圏外に住んでいる。と云うことで『川の地図辞典 多摩東部編』出版記念ウォークの前日に以前より気になっていた湯殿川の上流域を歩いてみた。子供のころ川遊びした淵は館ケ丘団地の建設に伴う町田街道の付け替えで、遠の昔に無くなってしまっている。また現在は圏央道八王子南I.Cに繋がる八王子南バイパスのトンネル工事やら、更に湯殿川上流域の河川整備も工事に着手する等、既に往時の山里の風景を偲ぶものは何一つ残されてない、と言っても言い過ぎではないだろう。尤もガキの頃は川の名も知らず、ましてや川の名の由来が出羽三山の湯殿山にあった等とは知る筈もない...。
さて、1947年の米軍による空撮写真とGoogleMapの空撮写真を比べるとこの半世紀の間にどれだけ地形を痛めつけてきたか一目瞭然である。GoogleMapの空撮写真も未だ八王子南バイパスのトンネル工事等が撮影されてなく最新の物ではない。1947年の湯殿川の上流域の谷戸に見られる建造物は恐らく旧日本陸軍浅川地下壕の工事関連施設の様だが、既に資材運搬用のトロッコ線路は撤去されていると思われる。私の家族が八王子の山里に越してきたのはこの空撮写真の10年後1957年のことであるが、未だ町田街道に沿ってトロッコ線路跡のような窪みがあったのは憶えている。湯殿川上流域の谷戸は拓殖大学八王子キャンパスによって地形の原形を留めることなく無残にも埋められ、現在では旧町田街道に湯殿川上流域を示す標識が立っているだけである。(1947空撮写真の左下丸印)子供の頃、この谷戸に探検と称して一二度分け入ったことがあるが、人家もなく、小学生だけでは些か心細いものがあった。当時の町田街道は舗装もされておらず、浅川駅(現高尾駅)から相原へ行くバスが一時間に一回程度通るだけで、田舎道を西部劇の駅馬車の如く砂塵を巻き上げて走ってくる姿は遠くからも目に付き、中村メイコ唄う『田舎のバス』そのままに、デコボコ道をガタゴト走ってきたものであった。1947年空撮写真の二つの丸印の間が私が子供の頃に遊びに行った湯殿川の流域である。遊び半分で鮠(ハヤ)釣に行っても、釣れるのはオババドジョウか、赤黒金魚と面白がって呼んでいたイモリくらい。夏休みにイチドンブチとか言っていた淵で川遊びをしたのは、せいぜい中学生位までだろう。
GoogleMapにGoogle Earthと同じ3D機能が附加されたので拓殖大学八王子キャンパスによって立ち入ることができない湯殿川上流域を想定してみた。旧町田街道から入った湯殿川の谷戸は造成工事で潰され谷口に調整池が設けられ、キャンパス内の湯殿川は暗渠化されていると思われる。谷頭となる沢の上流には入れないが、湯殿川の分水嶺は八王子と町田市相原地区との市境となる、町田市相原地区と神奈川との県境には境川が流れ下流は片瀬川と名前を変えて江ノ島付近で相模湾に注いでいる。分水嶺によって東京湾に注ぐ多摩川流域とに分かれ、その違いは大きい。
上の空撮写真より下流の北野街道に沿って蛇行して流れていた湯殿川は河川整備によって真直ぐに付け替えられた。多くの動植物が犠牲になったであろうが、羽を持つ生き物は生き長らえたようである。それにしても、元の川跡はどう利用されるのだろうか。
京王片倉駅ホームから湯殿川下流域の谷地を望む。この風景から人家を消すと、多摩の横山と詠んだ万葉の古人の心にふれられるような気がする。1967年に京王高尾線が開通した当時は人家も少なく谷地に水田も広がり、ここから眺める富士は私の好きな景観の一つだった。その頃から多摩丘陵にブルドーザーが入り込み、赤土の山肌にクレーンや杭打ち機が林立する異様な光景が見られるようになった。田中角栄が日本列島改造論を発表する五年前である。
App Store:角川類語新辞典
物書堂の大辞林のインデックスに表れるマトリックスを見た時からiPhoneで使える角川の類語新辞典が...欲しいと思っていたのであるが、その物書堂からiPhone App.のシソーラス「角川類語新辞典」がリリースされた。数年前、AKiさんのaki's STOCKTAKINGで話題に取上げられた類語辞典のiPhone App版である。私も同じ角川で判型の小振りな類語辞典やカタカナ類語辞典を買ったが、Macのdesktopで使う辞典に慣れてしまうと紙の辞書や辞典を開くの億劫になっていけない。iPhone OS4.0になってマルチタスクがサポートされると...益々、iPhoneで辞書の類いは手が放せない道具になりそうだ。それに類語事典こそハイパーリンクなiPhone Appに相応しいだろう。
と云うことで、マルチタスクをサポートしたiPhone OS4.0はまだリリースされていないが、類語新辞典と大辞林とのリンクは上図のように、類語新辞典から大辞林へジャンプして、また類語新辞典に戻れるようになっている。それに...大辞林から類語新辞典へリンクする機能も既に組込み済みで...大辞林の機能強化と云う意味でも宜しいようです。
VectorworksではじめるCAD 2010/2009/2008対応
と云うことで前書・VectorWorks12ではじめるCADから略三年半ぶりに改訂版を上梓致しました。2008年1月のVectorWorks2008の発表から一年毎のアップデートが決まりVectorworks2009の発表会も同じ年の12月に行われ、一年後の昨年12月にVectorworks2010の発表会があり、今年1月に製品がリリースされると云うように慌ただしい限りで、出版もそれに振り回された感があります。それで何が変わったかと申しますと、パッケージの見た目で云えば『VectorWorks』が『Vectorworks』に変わっていると云うことでしょうか。Version2008の頃からCEOであるショーンのスピーチによれば、これからはBIMを標榜するらしく、と云うことで全て変数によって情報を支配制御する方向に向かって製品開発がシフトしていることは確かで、異なるパッケージによる製品の差別化にもそれは反映しているようです。一方、未だにプレゼンのドローイングをAdobeのillustratorで描くと云う極端な人もいて、今更...化石のような図面を描いても...と思いますが...かと言ってデザインプロセスのアルゴリズムも確立しないで、いきなりBIMもないでしょうね。
それからVersion2010からはIntelMacだけの対応となりPowerMac G5は切り捨てられ...お蔭でハードウェアやらAdobeのCS4やらにも...でした。
既にmasaさんとakiさんによって既に詳しく紹介されている之潮主催の「『川の地図辞典 多摩東部編』出版記念ウォーク」であるが、一週間遅れのエントリーである。中央線のそれも始発駅から始発駅まで利用する沿線住民の私であるが国分寺はこれまで片手で数えられる位しか利用したことはない。それでも印象に残る場所として記憶に刻まれているのは都心で呑んで中央線で帰ると、寝込んだ場合でも必ず国分寺で寒くて一旦目が覚めるからであろう。それは恋ケ窪の谷戸から吹き上げる冷気が車内に入り込む所為か、西武線に乗り換える乗客が多く車内が空く所為かは定かでないが...そうした気温の変化だけでなく風景も国分寺から変わるのである。鉄路も国分寺から台地を切り裂く切り通しと谷戸を横断する土手の上を走るようになる。そして国分寺と云えば崖線、崖線と云えば国分寺なのである。
新宿駅を出た中央線が進路を北北西から西に向かって曲がり、神田川の谷を越えて東中野から真直ぐ立川まで西へ一直線に延びている事は誰でも知っていることである。その間、中央線が跨いでいる谷戸は善福寺川の谷戸がある荻窪と野川源流の谷戸である恋ケ窪の二ヶ所で何れも地名に窪が付いている。他にクボの付く地名は新宿の「大久保」、武蔵野市と云うよりも三鷹駅の北西、尾根を流れる玉川上水の北に位置する「西久保」、それに田無(現・西東京市)の「芝久保」は石神井川の上流域となる。どうも、同じ読みのクボでも窪は谷戸を形成している場所のようだが、久保はなだらかな低地を示しているようだ。
1947/10/24の米軍空撮と2004/8の地形図を比較すると、恋ケ窪にある「姿見の池」に南面する台地の舌状部分の端を中央線が切り裂いているだけでなく、西武国分寺線にまで切り裂きさかれている。
現在では鋭角状に残された僅かな台地にまで住宅が建てられ、その先端部分はさぞかし鉄ちゃん格好の観測ポイントと思われるが、伝えによれば嘗て村上春樹夫妻が住んでいた旧居跡だそうだ。そして野川源流の湧水がある日立中央研究所は今村銀行頭取別荘地を戦時中の1942年に日立が取得したものであるが、戦後二年経った1947年には未だ谷戸には池が出来ていない。しかし、何故か敷地内に正円が描かれているようにも見える。この時代のこうした環状工作物は通信アンテナである場合が多いが、この環状に見えるものは何だろう。写真左下のもみじ橋(野川)の北側に水田があるのが良く分かる。
明治期の地形図を見ると国分寺の集落はハケの下に点在しており、台地の上には集落はない。また、鎌倉道(現・府中街道付近)が恋ケ窪に掛かる付近にも集落が見られるが、宿場として栄えた時代の名残であろう。
今回、国分寺界隈を歩いてみて武蔵野台地と云ってもハケの上と下では、その様相が違うことが実感できたのが収穫である。また、多摩川の左岸にあたる武蔵野台地と多摩川右岸の多摩丘陵との違いも大きく、中央線も立川を越え多摩川を渡るとその風景も激変するのである...。
追記:関連エントリー
東京クリップ:『川の地図辞典 多摩東部編』出版記念ウォーク
たんぽぽ 【蒲公英】(a dandelion)の花言葉は「思わせぶり」とか...。
国分寺市教育委員会発行の武蔵国分寺跡の遺構地図によると、どうやらこのタンポポハウスの敷地には昔々その昔、竪穴住居があったそうだ。流石...縄文人と言われるだけのことはあります。ところでGoogleMapを見ると前面道路まで進入してない様なのでStreetviewはこんな角度で見るしかないようです...が....
やっぱり、GoogleのStreetview撮影隊の面々は好奇心旺盛のようで...行き止まりの道にも関わらず闖入してきたようです。が...しかし...個人住宅への配慮からか...タンポポハウスの前面道路にはStreetviewは無いことになっているようです。そんな訳ですから興味持たれた方は、御自身で探してみてください。因みにタンポポハウスの壁面にタンポポは咲いてませんでしたが...種子が飛んできたのか前面道路の向かいに咲いてましたです。
てことで3D版のタンポポハウスです。
追記:関連エントリー
Kai-Wai 散策:国分寺縄文風'景
aki's STOCKTAKING: 『川の地図辞典 多摩東部編』出版記念ウォーク