MAD Press 1995/4/30
(Mighty Mouseがリリースされたばかりですが10年前の古ネタをだしてみました。)
私はペンだこをつくったことがない。の、ようなものは小学5年生のとき足に出来た魚目くらいで、八王子の仁和会病院でその魚目を切り取ってもらったことがあった。自分の身体にメスを入れたのはその時が最後でこの年になるまで今のところメスには縁がない。なるべくならば、そのような事はこれからも避けて通りたいものである。
私より一つ年令が下だが、同じ学齢のI氏は構造設計をしているが、彼の右手中指には20年物のペンだこが今や身体と不可分な関係にある。構造設計の大部分をコンピュータでするようになっても、それは変わりない。私は自分では筆圧は強いほうだと思っているが、ペンだこが出来るほど筆記仕事をしていないし、ペンを持ったときの中指に掛かる圧力も強くもない。まぁ軟弱な指先と云ってよい。何しろ、たまに事務所の更新手続きの書類を書いただけで腕がだるくなってしまう程の、体たらくである。いまや、完全にキーボード依存症に成り下がってしまった私であるが、古山氏のようにマウスを握るときに小指を意識したことは一度もない。ペンを持つときでさえも、一度も薬指と小指を意識したことはないように、マウスを握るのに薬指や小指を意識したことはない。古山君のイラストを見ても、別に小指が立っているわけでもなさそうだ。
小指が立つと云えば青山に事務所があったころ、双子の×××を売りにしているOとPが事務所の近辺に越してきたらしく、度々、道で擦れ違うようになった。ある日、地下鉄表参道A4出口から事務所に向かって歩いているとき、映画評論をするOが前を歩いていた。彼の歩く速度と僕の歩く速度を換算すると、大体ヨックモックの前辺りで僕が彼を追い越すことが予測できた。彼に近づくにつれて、彼が全身を緊張させて歩いているのが判った。僕の足音を背中に感じてかOの黒いブーツのピッチが早くなってきた。サントリーのカクテルバーのコマーシャルのように夜中ならば、前を歩いている女性が足早に歩き始めることもあろうが、時は真昼間である、ましてや×××である、この自意識過剰は何と表現すべきか。僕が彼を追い越したとき、彼の節榑立った指先全てが緊張して外に反っているのを見て、映画ミスターレディ、ミスターマダムが現実の描写であったことを知った。女性ならば、見られることの自意識で、綺麗になることも考えられるが、やっぱり、、、、、。
私の場合はマウスを操作するのに気にする事と云えば、やはりマウスボールの回転と云うか転がり具合と云うか、マウスのすべりが問題である。今まで三種類、五匹のマウスを飼育したことがあるが、一番扱いにくかったのは、四匹目のマレーシア産のLCIIについていたマウスである。とにかくマウスボールも小さく滑りの悪いものであった。さて、古山君が憤慨しているマウスは僕にとって五匹目のマウスである。これは軽いし握った感じも特別悪くない。(重量はADB Mouse IIが110gで、旧式のADB Mouseが150g、そしてMacPlusまでのMouseが約150g位である。)クリックは人差指でも中指のどちらを使ってでもワンボタンで済むし、その点はマックらしいマウスではないかと思う。このマウスを使ってからIIfxのマウスを握ると、角型デザインのせいか、妙に内側にえぐれているように思えて仕方がない。
思うに、フロッグ・デザインによるADB Mouseに較べてADB Mouse IIが不評なのは、使い勝手の問題よりも、そのデザインの凡庸さにあるのではないかと思う。
箸の握り方やペンの持ち方の様に、正しいマウスの握り方と云うのはどう云うものだろうか、古山君のイラストを見ても、僕がマウスの握った時の指のポジションと違いがある。マウスボタンに掛かる人差指の位置が全く異なる。多分、永い間使ったマウスは万年筆のように持ち主の癖を記憶しているのかもしれない。ADB Mouseのエンボス加工の消え具合を見れば、誰が使ったものか特定出来るかも知れない。そのうち、土曜サスペンスとかで事件をとく鍵がMouseなんてことも。
キーボードにしろマウスにしろ人間工学的に完成されたものは無いと言っても、言い過ぎにはならないと思われる。どうも、我々はその人間工学的に未完成のものに先に慣れてしまい、先入観を与えられ正しい判断が出来ない状況にあるのではないだろうか。また、もっと疑い深く見れば人間工学的デザインにも眉に唾を付けたくなる。果たしてそれ程、人間の行動を分析して得られたものだろうか、予断の介入は皆無なのだろうか。アジャスタブル・キーボードもアイデアだけが先行して、肝心のキータッチがあれでは困る。
それに、人間が直接手に振れる道具にしては小学生も中年のおぢさんもコギャルもオバサンもみんな一緒のマウスにキーボードと云うのも変だ。グラフィック・ユーザー・インターフェースだけがマン・マシン・インターフェースでないのに、ハードウェアが疎かにされ過ぎている。
昔は背広も靴も誂えるのが普通だった。しかし今やそれは一般大衆には叶わぬことである。住宅も然りである。そうした状況で皆が何となく居心地の悪い思いをしながらも、流されて行くのが現実となっている。
「貴方好みの貴方好みの女になりたい」と奥村チヨが唄うとき、それが逆説的戦略だと云うことに気付かなければならない。マインド・コントロールされているのは貴方なのかも知れないのだから。
「うそーぉ」「やだぁ!わぁーかわいーぃ」とこのヴィッラを見た女の子の嬌声が聞こえてきそうである、そのくらい、イオニア式のオーダーにペディメント(三角破風)をもつ神殿風の中央部と両翼のペディメント付きコロンバーラ(鳩小屋)の日時計の装飾とそれを支える四分の一円のバットレスに特徴付けられた、この薄黄色味掛かったストッコ仕上のヴィッラはメルヘン・チックな乙女心を擽るのに充分に優美な外観を備えている。しかしヴェネツィアの北北西50km程離れた交通不便なこのマゼールの地までうら若き乙女が自分探しの旅に遥々とくることもなく、この静かなベネトの田園の地にやってくる日本人は建築か美術を学ぶ者くらいである。(初稿 MADPress 1993/10/31)
ヴィッラ・バルバロ或いはヴィッラ・マゼールと呼ばれるこのヴィッラは建築家アンドレア・パッラーディオの手により、ヴェネツィア貴族である兄ダニエーレ、弟マルカントーニオのバルバロ兄弟の為に1562年に建てられたものである。また、このヴィッラを有名なものにしているもう一つの理由がヴェネツィア派の画家パオロ・ベロネーゼのフレスコ画によるトロンプ・ルイユ(騙し絵)である。アルプス越えをしてドイツからやってくる観光客の目当てはどうやらこのフレスコ画のようでもある。
ディズニーランドのシンデレラ城のモデルになったノイシュヴァンシュタイン城がルードウィッヒ二世の奇想によるものであったように、このヴィッラ・バルバロもメルヘンの国のお姫様が登場するに相応しい外観とは裏腹の人々を幻惑する建物である。それはアンドレア・パッラーディオによるものというよりも、バルバロ兄弟による奇想ではないだろうか。
ガレー船の交易で富を得たヴェネェツィア貴族はラグーナに浮かぶ人工海上都市の生活から、その拠点を大陸へと領地を求めた、それは虚構と幻想に充ちた都市生活から、大地と共に生きる「健全なる生活」(ヴィタ・ソプリア)を実践することでもあった。なかでも時代の知識人であったバルバロ兄弟はその模範となる人物であった筈である。
ヴィッラ・ルスティカ(田園のヴィッラ)であるヴィッラ・バルバロはユソ・ディ・ヴィッラ(農作業の場)でもある、所謂、ヴィッラが別荘ではなく、領地での拠点でありルネッサンスのユマニズムに基づくイディアの表現としての建築、そしてその思想を実践する生活の場でもあったのだ。
緩いスロープになっているアプローチ正面の神殿風のオーダーの中にはこのヴィッラのエントランスを見つけることができない。何故ならばそこは台所となっている。玄関にあたる部分が実は勝手口とは皮肉だ。エントランスへは左右に分かれたバルケッサ(納屋)のロッジアから階段で昇らなければならない。書き割りとしての正面性と機能としての正面性がずらされ、訪問者の印象を惑わす。エントランスのあるピアノ・ノビーレ(上層)の十字形広間には、騙し絵の執事や下女が訪問者を迎え入れる。壁面をフレスコ画で装飾されたこの広間の天井には交差ヴォールトが用いられ、壁のフレスコ画とは対照的にその漆喰の唯一残された白さが印象的である。領地を広く望む十字形広間の脇部屋のグロッタ絵画の表現する、草花であれ、動物であれ、生とし生ける凡ゆる物を等距離で見つめる眼差しの根底はギリシアの宇宙論にあり、四元素が万物を生成している考えに基づくものである。しかし、ダニエーレも参加した反宗教改革において、否定される異教的な思想でもあった。
ピアノ・ノビーレ(上層)は主人の為のフロアである。初層は台所や使用人の為の正にサーバント・スペースである。そして屋内階段は使用人が主人にサービスする為に昇り降りするものであった。主人の用足しも私室に置かれたオマルで事を済せ使用人がそれを処分するといった具合である。当然、主人や奥方が屋内階段を使うこともなく、あるとすれば浮気の現場が見つかりそうなとき愛人をアティック(屋根裏部屋:当時のアティックは穀物倉庫として用いられ、収穫・脱穀されたトウモロコシ等が保存された。)に匿うときくらいなものであった。注 1
主人や訪問者の為のピアノ・ノビーレへ昇る主階段は建物正面やロッジアに設けられるのが普通で、屋内に主階段が設けられたのはミケランジェロのロレンツィオ図書館が最初とされる。吹き抜けの階段室が設けられるようになったのはバロック以降とされている。
ピアノ・ノビーレはエントランスから、公的な広間と私的な部分とに分かれている。領地を望むように位置づけられた公的な広間とは対照的に、私的な部屋はニンフィニアムのある裏庭に面している。この裏庭は傾斜地を利用してピアノ・ノビーレと同じレベルに設けられている。そしてこの私室の壁面には等身大の家族の肖像がヴェロネーゼによってフレスコ画になっている。書き割りであった筈のフレスコ画が主人達を見つめ、見られるものが見る側になり主客が転倒する。
裏庭のニンフィニアム(泉)のアーチ両側の収穫物を背中に担ぐ人物像は顔の異様な大きさから仮面を付けたようでもあり、理想的な肉体美とは程遠い存在と思える。また左右両端の人物像のポーズはまさに男娼のそれである。バルケッサのロッジアのアーチのキーストーンに装飾された男子の顔面はどれも虚ろな表情である。
兄:ダニエーレは英国大使、大司教補佐役、二十年続いたトレント宗教会議のヴェネツィア代表を歴任、そしてヴィトルヴィウスの註釈者でもあった。
弟:マルカントーニオはフランス大使、トルコ大使を歴任し、美術・彫刻を愛し、数学、機械技術にも明るく、薬草等の知識も豊富で薬草園も所有していたと言われる。
「健全なる生活」(ヴィタ・ソプリア)を求めて人工海上都市からやってきた知識人の田園での生活は刺激に充ちた都市生活に較べてどれ程退屈なものであっただろうか。人知れない裏庭のニンフィニアムで何が行われたか知るよしもないが、理想的な「健全なる生活」だけでは充たされることはなかったであろう自我を見つめ、何を思い、バルバロ兄弟はヴィッラでの生活を過ごしたのだろうか。このヴィッラが現代に問いかけるものは何かと考えるとき、私はその直前に見たスカルパのヴリオン・ヴェガの事が脳裏を占める。小雨降るヴリオン・ヴェガで、タルコフスキーの問いかける1+1=1の持つ意味を思いだしていた。そのヴリオン・ヴェガとグロッタとの共通性が妙に気になる。(五十嵐)
建築四書(中央公論社版)の注釈より
以下に示す建物は、トレヴィーゾ郡の城郭、アーゾロの近い領地マゼールにあり、バールバロ家の二兄弟、尊師アクイレーイア選出主教猊下およびマルカントーニオ閣下の所有するところである。建物の幾分か外に突出している部分は、脇部屋が二層にわったており、上層の部屋の床面が、背後の中庭の地盤面と同一平面にある。その中庭には、家と向かい合った丘に泉が堀ぬかれ、ストゥッコ細工と絵画による大量の装飾が施されている。この泉は小さい池となり、これは養魚池として役立っている。そこから溢れ出る水は、台所に流れ込み、それから建物に向かって緩やかに上昇してゆく道路の左右にある庭園を潤し、二つの養魚池を形作り、公道に面して、家畜の水飲み場も設けらている。そこから溢れ出た水は果樹園を潤しているが。この果樹園はひじょうに広大で、極めて良質の果樹や、さまざまの雑木が豊富に植えられている。主人公の館の正面は、四本のイオニア式オーダーの円柱を持ち、隅の円柱の柱頭は、二つの側に渦巻型の前面を形作っている。これらの柱頭をどのようにしてつくるかを、私は「神殿の書」で示すつもりである。左右両方の側にロッジアがあり、それらの端部に鳩小屋がある。そして、その下にはワインを作る部屋、厩舎、その他のヴィッラの用のための部屋がある。
建築四書の木版画による平面図では外構も初層も上層も同一平面上に描かれている。濃いめの網目部分が上層(ピアノ・ノビーレ)の居室部分である。外構に使われている半円のモチーフが公道に面した水飲み場にも使われていた。
注1:ヴィスコンティ監督の「夏の嵐」にパッラディーオによるヴィッラ・ゴーディが舞台として使われている。アリダ・ヴァリ(第三の男のヒロイン役)紛する貴族の夫人がオーストリア軍将校の愛人をアティックに匿うシーンがある。またヴェローナのオーストリア軍司令部の部屋はグロッタ絵画で装飾されている。
The Centro Internazionale di Studi di Architettura Andrea Palladio
Villa Barbaro - Maser - (1554)
MAD Press 1993/7/31 より転載
(10年以上前の文章ですから、当時の世相や風俗を引用している部分や浅草寺の由来など一部認識不足による間違いがありますが、ご勘弁の程を。m(__)m)
「・・ああ、堅えの堅くねえのって、え?堅餅の焼ざましみてえな人間っ。歳が十九んなって、吉原の大門がどっち向いているかわからねえ変わり者!」
八代目 桂文楽の十八番「明烏」は日本橋田所町三丁目の日向屋半兵衛が伜、時次郎の身を案じて、とは言っても堅すぎる伜に女遊びの一つでも教えてもらおうと町内の札付きの源兵衛と太助に吉原で伜の筆下ろしを頼むという艶笑噺のこと。
吉原は日本橋人形町界隈に元和三年(1617年)に公娼制度として幕府の公認を得て庄司甚右衛門によって設けられた。その後、明暦の大火の後、明暦三年(1657年)新吉原として現在の地に移転された。浅草田圃のど真ん中に不夜城が突如として出現するわけだから、さぞかし異様で壮観であったろうと想像する。
そういえば、最近似たような風景を見たことがある。あれは小諸に長老共々行ったとき施主に紹介されて泊まった温泉だった。布引観音温泉と名付けられていたけれど、田圃の真ん中に竜宮城のように健康ランドが忽然と建っていた。翌朝、車を待つあいだ、タイやヒラメのお嬢さん達が所在なげに玄関にたむろしていたっけ、たぶん観音様のお使いで来たのでしょうね。
浅草の浅草寺は江戸城の鬼門にあたる丑寅の方角に位置する。もちろん災難が江戸市中にもたらされないようにと厄除けの為に建立された寺だ。(浅草寺の歴史は628年まで溯り、浅草湊が旧・江戸の中心であった。従って、結果として後から造られた江戸城の鬼門に位置することになった。)そして裏鬼門にあたる未申には増上寺(将軍家の菩提寺)がある。神田明神が鬼門、山王権現(日枝神社)が裏鬼門と神道の厄除けも幕府は忘れていない。どちらも江戸の鎮守様、将軍家が氏子総代でもあった。因みに神田明神は天平2年(730)に現在の大手町付近に創建、元和2年(1616)に江戸城の鬼門にあたる現在地に移設された。一方の山王権現(日枝神社)は太田道灌によって江戸城内に創建され、1657年に裏鬼門にあたる現在地に移された。
大川から山谷堀に沿う日本堤に面して建設された新吉原は幕府の都市計画事業によるものだ。そしてその大門はまさしく鬼門とされた丑寅の方角を見据え、周囲は堀で囲われ郭となった。大正十二年の関東大震災の被害写真を見ると、火災で逃げ場を失った遊女のおはぐろドブに重なり合う山のような死体は南京大虐殺かアウシュビッツかと見紛うばかりである。などと書くとフェミニストと間違えられそうであるが断じてそのような事はない、フツーのオヤジである。フツーの人でも忌み嫌う鬼門に遊廓の大門をもってくるとは、時の権力者の恐ろしさ陰険さを感じてしまう。が、しかし女の魔性で悪霊を追い払い、江戸を守るという、深い考えがあるのかも知れない。お伊勢参りが女郎買いの売春ツアーだったように、信仰と性の深い結び付き、陰喩としての性が神代以来の○○○を象徴するものでしょう。○○○○が伊勢神宮で御祓をうけ○○○の○○と○○○う厳かな儀式を下々の者が有難く吉原辺りであやかるのも○○○に由来するもの。A山K三郎君、ジュリアナのお立ち台で身をくねらせるお嬢さん方は天岩戸の神話を再現して護国安泰を祈願しているのだよ、けっしてブタ女と罵ってはいけません。ラスト・エンペラーが出現しないかぎり、ブタ女もセクハラも皇国から無くなることはないのだよ。
ところで、こんなことを考え付いたのも地図を見ていて吉原のあった台東区千束四丁目と横浜中華街だけは、その周囲と町が作られた曰因縁に違いがあると思ったからだ。周りとの町並に何の脈絡もなく方位のみが町づくりの基本であるかのようだ。吉原は正確に丑寅に主軸を持ち、日本堤から大門までのアクセスが軸をずらされ、クランクと言うかシケインのようになっている。家相を気にする人は多くても、吉原の大門までは気になさらないようで、江戸風俗に関する本はあっても、それについて書かれていないようだ。試しにと方位図と吉原市街図とを重ね合わせてみたのが次頁の図である。巽方が吉とされる訳だが、そちらに大門を設ける事など、絵図を見ても容易いことである。それでも敢て丑寅に大門を設ける意図は何であったのか。
吉原へ往く粋な遊客は大川より山谷堀まで猪牙舟を利用して、後は日本堤を経て吉原に至る。日本堤は大川が蛇行する千住辺りからの氾濫から江戸市中を守る目的で作られた堤であった。日本堤は昭和五年に二十年に亘る工事によって荒川放水路が完成されるまでは、重要な治水施設としての役割を担っていた。遊廓をこの地に選んだのも、遊客で堤を固めるという意図があったのではないか。(庶民の娯楽を度々禁止した幕府でも、大川端等の土手に桜を植え、花見を奨励したのは花見客で土手を固めるという意図があったからだと言われている。)絵図でみても分かる通り日本堤は相当広かったようだ。いまではその名残りとして「土手通り」と名前が残されている。日本堤から下る吉原大門までを衣紋坂、または五十間道とも呼ばれていた。クランクしてみえる道も土手の法面に作られた為、少しでも勾配を緩和する方法なのかも知れない。また「おはぐろどぶ」に囲われた郭の四隅に稲荷が設けられているのは、地霊への配慮か、花魁の願掛けの為か。
京の町にあっては「比叡下ろし」が鬼門、江戸では水害を齎らす大川の蛇行が鬼門とすると。それから江戸を守る日本堤、その土手を一層強固にする為の遊客と郭、差し詰め花魁は身を呈して江戸の町を守ったことになる。
「女郎買い 振られた奴が 起こし番」
朝っぱらから、他人の部屋を覗いて、騒いでいる奴に、昨夜の成績の良い吾人がいる訳ない。「明烏」とは源兵衛と太助のことである。
このテキストはMAD Pressに「神奈川県立音楽堂1994年5月17日」を掲載した、次の号に書いたものです。
音楽のゲニウスロキ・建築のゲニウスロキ 1994/10/31
もう、大分前の事になるが、高橋悠治氏が芸能山城組を批判していたことがあった。芸能山城組は山城祥二氏を組長とする、素人を組員として団体生活を通して音楽芸能活動をする団体で一時期、新宿の三井ビルの広場でケチャを演奏(?)していた。高橋悠治氏の論旨は二つ有り一つは「土地と宗教に根付いたケチャを外国に持ち運ぶことはできない。」というもの、また「ケチャをバリから持ち去った後、彼らはバリに対して何を為しうることができるのか、何もせずにいるならば、植民地主義における搾取行為と何ら変わるものがない。」という二点を問題視していた。それは山城祥二氏に対する批判であると同時に、自分自身或いは日本人への問い掛けの意味もあったであろう。
1960年代は西洋音楽の延長線にある現代音楽も行き詰まりを見せていた時期で、それらの解決の手掛かりを、インドネシアやインドの亜細亜やアフリカに求めていた。ミニマル・ミュージックの教祖となったテリー・ライリーのインドやペルシャ、同じくスティーブ・ライヒのインドネシアやアフリカにモチーフを求めた音楽も、結局のところ西洋のテキストで記述された流通される音楽であった。流通されると言う事は則ち経済活動を意味することでもある。音楽の流通はバロック以降、平均率コードの発明によって、記述可能な音楽としてデジタル化の道を歩むことになる。コンピュータの芸術への応用という意味で西洋音楽がいち早く、それに対応できたのも既に半ばデジタル化していたからであって、デジタルへの収斂も口伝からテキスト記述へと音楽の流通が変化した時点で予測可能なことであった。 イタリア人アルダスによる出版技術の改良はルネッサンス・マニエリズムの建築家パッラーディオの建築四書を世界中に広めることになり、その影響はイギリスのパラディアニズムや合衆国大統領トマス・ジェファーソンによるモンテチェロ、そして遠く日本では大阪中ノ島の図書館にまで及ぼすことになった。国際様式が言われる以前から、建築の流通は行われていた。ゴシックの呪縛から解き放たれたルネッサンス建築のロジックは500年を経てデジタルへと収斂されることになる。
ヴィッラのポーチを神殿風のオーダーとペディメントで装飾し、都市建築を舞台装置に変換し書き割りとするパッラーディオは建築をメディアに変換した情報の建築家であった。パッラーディオを諧謔的な建築家と看破したのは磯崎新氏に背中を押されてパッラーディオを研究することになった福田晴虔氏であった。情報の誇張、操作、編集は笑いの基本である。チャップリンの胡散臭さは情報操作と言う意味でヒットラーと同じレベルの人間だからである。情報化時代と言われる今日、好感度タレントのチャートにランクされるのが、お笑い芸人というのも宣なるかな。
建築の情報化、流通化は土地、場所性との乖離を意味する。差し詰めロトンダの幾何学形態への還元はその最たるものである。
ネグロポンテのソフト・アーキテクチャーマシンに至っては、もはや過去のビルディングエレメントからなる建築の概念では捉えることはできない。究極の情報化は人間の意識の流れとコンピュータとの交流である。しかし、これは意識の肉体からの乖離をも意味する。
情報化、流通化された建築や土地はゲニウスロキの存在を否定する。場所性と乖離し幽体離脱した建築の保存運動ほどナンセンスなものはない。
どうも、情報化時代を生き残るには「お笑い建築芸人」になることなのかも知れない。そう言えばすでにそれらしき人がいるじゃないですか。
神奈川県立音楽堂について使った偶然性という言葉に対して古山氏や川端氏が反応していた。音楽家達が言った「神奈川県立音楽堂の音響効果は偶然の賜物」という言葉のコンテクストについてもう少し考えてみたい。
記述される音楽、つまりはデジタル化され、ロジカルに構築された音楽とそれを演奏する側の肉体的精神的な要素や、それを演奏する空間や、さらに聴衆の質が音楽に与える影響には計り知れないものがある。レコーディングに於ては良いところだけ繋ぎ合わせて一つの曲にする事など、いまや常識である。それでも演奏会に足を運ぶ聴衆は「偶然の賜物」を期待しているのか。
ユリイカの1976年1月号の寺山修司と武満徹の対談で寺山修司がJAZZを「日付のある表現」と言っていた。JAZZは記述されることを拒否することでその生命力を勝ちえた。それは西洋音楽が記述されること(デジタル化)で失われたものでもあった。そしてJAZZの衰退は西洋音楽と同じ記述化の道を辿ることで始まった。
西洋音楽の究極の演奏家はデジタル楽器でありコンピュータである。つまり音楽演奏家の目標は肉体をデジタル化することであり、どれだけコンピュータに近づくことなのである。そういう音楽演奏家に替わってシンセサイザーやコンピュータが音楽を演奏するようになるのは自然の成り行きでもある。しかし、悲しいことに西洋音楽演奏家の多くは、精神を叙情的世界に置いて、肉体と論理はデジタルにあろうとする自己の矛盾に気付いていない。
西洋文明のΩ点というのは記述化されないものを否定する言葉だけで構築された世界の終点ではなかろうか。究極のデジタル化というのも、どうもそういう方向に向かっている気がする。(iGa)
神奈川県立音楽堂は保存運動の成果もあったのか、或いはバブルの破綻なのか取り壊されずに済んでいるようだ。これは1994年5月17日の保存運動を求めるコンサートをネタにMAD Pressに書いたもの、過激な内容もあるけれど、そのまま載せることにする。10年前とは考え方も違っているところもあるが、当時はこのテキストのように考えていた訳で、それを否定するつもりもない。
神奈川県立音楽堂1994年5月17日
このホールに来たのは何年ぶりだろうか、かれこれ15年位は経っていると思う。やはりどうしても東京の人間には馴染みが薄い、余程のことが無い限り桜木町まで足を延ばすこともない。もっとも神川県民の為に造られた施設であるから県外の者があれこれ言う理由も資格もない。15年前にこのホールに来たのはストラスブール・パーカッションアンサンブルが演奏するヤニス・クセナキスを聞くためだった。
クセナキスに興味を持ったのは彼が音楽家に成る前にコルビジュエのところで修業していた建築家であったことや、イギリス軍に死刑宣告されたギリシャのパルチザンだったことよりも、実際に彼の音楽に触れたことが大きい。高橋アキの「季節外れのヴァレンタイン」というケージのアルバム・タイトル曲の他にクセナキス、武満、ドビュシー、サティのピアノ曲が収められたLPは当時の僕の愛聴盤の一つだった。それまでクセナキスは上野の東京文化会館の小ホールで高橋アキによるピアノ曲を聞いたことがあるが、アンサンブルによる楽曲を生で聴くのは神奈川県立音楽堂での演奏会が初めてだった。僕の記憶によればストラスブール・パーカッションアンサンブルの演奏はステージと客席通路に奏者を配し、正にホール全体を楽器に変え、楽曲の響きの中心に聴衆がいるというものだった。音を星雲に変えホールを音楽のプラネタリウムにした演奏会だった。 それから15年経った今、神奈川県立音楽堂は県による大規模開発によって取り壊されるという。建築家、市民、音楽家が夫々の立場で神奈川県立音楽堂の保存を訴えている、しかしその論旨には微妙に擦れと軋みが見られるようだ。尤も、そうした差異を包括した保存運動でない限りゴールに辿り着くことは困難だろう。
この日の収穫は音楽家達の神奈川県立音楽堂に寄せる思いを聞けたこと、それと現代邦楽の演奏にこのホールがとても良く響き心地好かったことを発見したことだ。
音楽家達の論旨は明解だ、神奈川県立音楽堂は音楽専門のホールとして我が国に於いて最も優れた音響効果を持つホールのひとつである。そして、そうした音響効果の優れたホールは現代の技術をもってしても再現することが困難なことを上げ、更に楽器造りに準えて神奈川県立音楽堂の優れた音響効果は全くの偶然の賜物であり論理的に造られた結果によるものではないことを再三にわたり強調していた。
こうした意見を聞いていると心の中に砂漠が拡がり荒涼とした風景を見るようであり、何か此の国の文化的背景の貧しさを見るようでもある。他の分野の人達の仕事を尊敬できなくては、自分達が尊敬されることもない。これでは建築家前川国男と彼のスタッフもこの神奈川県立音楽堂の建設に携わった多くの技術者、職人達の仕事も音楽家には全く評価されていないことになる。彼ら音楽家が神奈川県立音楽堂の取り壊しに反対する理由はその建築的評価にあるのではなく、取り壊された後に造られるであろう音楽ホールが再び同じ音響効果を齎らすと考えられないというのが第一の理由である。(そして第二の理由として当然値上げされるであろうホール使用料が考えられる。)
果たして偶然だけで音響効果の優れた音楽ホールを造る事が可能であろうか、それは素人がストラテバリウスに匹敵するヴァイオリンを造れないように、名匠といわれる釖鍛冶でも失敗するように、卓越した90%の技術力と残りの10%の記述不可能な体験値や或いは感性が必要とされているのではないか、同じことは音楽演奏家にも言えるはずである。5月22日の朝のテレビでピアニストの中村紘子が「努力も才能のうち」と言っていた。著名な音楽家ほど練習を怠らない、それが出来ないのは結局のところそこまでの才能しかないという意味であろう、耳の痛い話だ。
いま、全国で演奏会の行われるホールが1500あり、今年中に30のホールが新たにできるそうである。外国から招致した演奏家の平均的な入場者率が約60%あるが、人口20万規模の地方都市で音楽愛好家の数は1000人位の単位で多くても2000人までと言われている。年々高くなる入場料に加え、聴衆によるブランド志向の結果、ベルリンやウィーンと名の付く俄仕立の外タレ集団が音楽市場に氾濫することになる。ただでさえ、その少ないパイを演奏家は分け合わなければならない、2000人規模の地方都市のホールを満員にするのは至難の技である。若い優秀な才能も海外の音楽コンクールで入賞しただけでは国内でデビューすることは難しく、音楽的才能に付け加えて美貌が伴わなければレコード会社も契約しようとしない。高橋悠治が以前、大衆消費音楽という言葉を使っていたが、消費音楽という意味ではクラシックとポピュラーの間の垣根は既に取り払われた。音楽も建築も消費されるものとしての価値しか此の国では与えられていない。四所帯に一台という世界一のピアノの普及率は毎年スクラップにされるピアノの数でも世界一であることがそれを証明するようだ。
ラックスと聞いてもそれがオーディオ・メーカーと知る人は極く僅かな数にしかすぎないだろう。そのラックスが韓国の三星電機に買収されたという記事がセンセーショナルな扱われかたで新聞やテレビで報じられていた。僕の持っている二台のアンプは両方ともラックス製である、20年以上前のLUXMAN 507Xは一度だけ修理に出したけれど、まだ現役で仕事場のBGMに活躍している。ローズウッドの突き板による外箱とアルミの無垢の削りだしのつまみで構成されたシンプルなデザインは古さを感じないモダンデザインである。もう一つのアンプはアルプス電機が資本参加していたときに作られた真空管とソリッドステートとのハイブリット・アンプだ、これも既に10年は経っている。ラックスは国内メーカーで唯一の組立キットを販売していたオーディオ・メーカーとしてマニアには知られた存在だった。ラックスの真空管アンプを自分で作ることはラヂヲ少年達の夢だった。
CDを聞いて育った世代はCDの音がミュージックであり、PAを通さない生の楽器の音はもうミュージックではなくなっている。今やクラシックもポップスも演奏会の音を如何にCDの音に近付けるかが問題とされている。「自然が人工を模倣する。」そういう時代になるのかもしれない。
ナチュラルな音の再生を志向したラックスの経営が苦しくなるのも時代の成り行きなのだろうか。神奈川県立音楽堂建て替え問題の背景には様々な文脈がある、音楽にしても建築にしても明治政府以降の近代化政策は西洋を規範とし、それらをモデルとした文化政策が行われ、日本の伝統文化芸能は天皇制を堅持するもの以外は、一段も、或いはそれ以上格下のものとみなされていた。
自治体の御為ごかしな保存行政も既に評価の定まった明治、大正期の建築にしか助成金が出ない仕組みである。
以前、JIAの建築MAP作りの為に、助成金を御願いに都庁を訪れコミュニティ文化部振興計画室 文化担当課長という肩書きの人物に会ったことがあったが、「昭和の初期の建築だったら、何とかできるが、戦後の建物を対象にするんだったら、話にならない。」と暖簾に腕押しと言うべきか、取り付く島もなく断られた。その後、私達の手によって纒められた「JIA建築MAPの企画書」は、支部の幹事会、支部長を経て本部の幹事会で当時のJIAの会長であったN設計のH.S.の手によって、握りつぶされてしまった。後で聞いた話であるが、「こーゆーことは新建築のテリトリーを害するもので、JIAがすることではない。」とH.S.が言ったそうである。そんなこともすっかり忘れていたが、この間届いたTOTO通信を見て、はっ!とした。「建築MAP東京」がTOTO出版から発売されるとの折り込み広告が挾まれていた。TOTOは「JIA建築MAP」企画する際に協賛企業として協力要請していた会社で、企画会議にも再三に亘って出席してもらい、当然、企画書や私の作ったダミーにも目を通していた。編集がギャラリー・間となっているところをみると、「JIA建築MAP」の企画に参加していた、フリー・エディターのあの人物もからんでいるんだろうな。でも、彼はH.S.に散々、嫌味を言われたようだし、JIAの馬鹿共に振り回されたから、江戸の敵を長崎でという気持ちもあるだろうな。しかし、このレイアウトは気になるよな。イラストマップを見ると、結局Macを使って、イラストレータで作成したようね。あの頃は俺が何か言っても、誰も理解できなかったけど、Macも「あたりまぇー」になったのね。
まあ、JIAの会長からにして、あの程度の認識しかないわけだから、神奈川県立音楽堂が風前の灯火なのも「あたりまぇー」なのだ。JIAの会長といえば、H.S.の後任のK.A.は、JIAの横浜大会にスタッフとして駆り出された俺達が、その大会が終了してタクシーの順番待ちをして、やっとタクシーに乗ったところ、ドヤドヤと傍若無人に取り巻きの腰巾着と共に俺達のタクシーに乗り込んできた。その腰巾着氏「どうせ、君たち桜木町まで行くんだろう。桜木町まで乗せていってあげるからいいだろう。」まったく、恥を知らない大人である。不承不承、会長達を同乗させた俺達のタクシーは工事中のランドマーク・タワーの脇を通り桜木町へ向かった。タクシーの中でK.A.が大観覧車を見上げ、「こーゆーものが、この場所に相応しいのかねぇー。」と呟いた。俺はランドマーク・タワーを指差して「でも、これよりは、ずうっと益しですよ。第一、見てて楽しい気分にさせてくれる。」と言った。
オーソン・ウェルズ、ジョセフ・コットン、アリダ・ヴァリ出演の「第三の男」は第二次世界大戦後のウィーンが舞台である。ウィーンの街はまだ戦争の爪痕を残し、工事用の石材が街角に積み上げられている。そんな状況の中での大観覧車のシーンは印象的である。他の公共施設の復興に先掛けて、子供や恋人達の為に大観覧車はいち早く修復された。
幼年期は一度だけ、夢見る季節を過ぎて見る夢は悪夢である。貧しい時代でも、子供達は夢を必要としている。野毛の丘の上から見るランドマーク・タワーを表現する言葉を私は知らないし、それから何も連想しない。でも、その隣の大観覧車を見ていると、色々な事を連想する。それが、第三の男であったり、子供の頃に行った後楽園遊園地の記憶だったり、まぁーるい形から色々なものを連想したりする。
結局、現代建築は大観覧車以上のものを創ったのだろうか、そんな疑問が起きる。
現代建築の保存問題が不毛な理由はこういうことではないだろうか。音楽家たちは神奈川県立音楽堂の音響効果を保存したいのであって、建築の保存は音響装置の入れ物であって二の次である。人々に建築から受ける感興が無い限りむりである。専門馬鹿が何百人いようがいまいが、鼻糞程度の存在である。
現代建築の保存問題は環境保存を味方に付ける以外、他に打つ手はなさそうである。
才能のない建築家ほど建築の周囲を緑で覆い誤魔化すとは、H.S.が良く言う手垢に塗れた言葉である。しかし、都市の背後に森林を控え、その成り立ちから異なる西欧の都市と比較するのはナンセンスでもある。シエナ・グラフィカ、書き割りとしての都市は西欧でのみ有効な言語なのだ。
ショーグンの箱庭都市だった江戸東京から建築が人々の共通の理念となり得たことは一度もない、社寺仏閣の人工的箱庭ネットワークが人々の精神的慰めだった。(iGa)
1993年のMAD Press 10に書いた原稿。
図はE.T.ホールの「文化を超えて Beyond Culture」に出ていたものを元にしたが、知覚を伝達に置き換えてProtocol(通信規約・外交儀礼)の概念を加えてみた。情報+コンテクストが伝達されるとき必ずプロトコルが介在しフィルターの役目をする。プロトコルに共通性がなければ、フィルターではなくバリアになってしまう。まさしく伝達不能。
■伝達不能 (MAD Press 10 1993/7/31) おい、I.S.の姪がオーストラリアかどこかで事件に巻き込まれて亡くなった話、知ってる?」「えー知らないなー、本当かよ?」久しぶりにクラス会で会ったK.K.に尋ねてみたがその事件のことは知らなかった。俺はI.S.とは一緒のクラスになったこともなかったし、まともに話をしたのがK.K.の結婚式のときが始めてだったから、K.K.なら知っていると思って確かめたかったのだ。それから数週間して、その話が俺の勘違いによるものだと知った。そして根も葉もない噂の発生源に自分がなるかも知れないと思いぞっとした。話の真相はバトンルージュで殺された服部君が事件当日に会いに行く筈だった日本人の女の子がI.S.の姪だったのだ。人の話を本を読みながら傍で聞いて、「へー、I.S.ならK.K.の結婚式のとき会ったよ、そうだったの。」と脇から口を挟み、かってに勘違いしてしまったのであった。どうして、バトンルージュがオーストラリアになったのかは定かでない。 「ホールドアップの国にコンテクストはない。」とは古山君の弁である。「そう、コンテクストがないからプロトコルから始めなければいけない。」と俺、デスク・トップ・パブリッシングもガンも同じメディアとして位置づけられている国の大統領は人気が凋落すると、気に入らない国にミサイルをぶっぱなすことになっている。プロトコルもコンテクストも糞食らえなのだ。相手の言っていることが理解できないとき、ペンを選ぶかガンを選ぶか、後者を選択した彼らはその相手を抹殺して目の前の悩みから逃れるのだ。バトンルージュの悲劇はそのようにして起きた。
ウィーンの哲学者ウィトゲンシュタインは「全ての事象は言葉によって明確に語らねばならない、語れないものについては人は沈黙しなければならない」と言った。ウィトゲンシュタインが神経衰弱に陥ったとき、治療をかねて姉の家の工事監理をすることになった。設計はアドルフ・ロースとされているが、実態はロースの弟子が設計したと伝えられている。その家の工事監理をしているとき、左官屋のやりとりを聞いてウィトゲンシュタインの哲学的世界観がマグニュチュード7.8の強震にぐらついた。「セメン!」足場の上の親方に応えて、小僧が下からセメント(モルタル)を放り上げる。下層労働者階級の会話にならない断片的言葉でもコミュニケーションが成り立つことを哲学者はそれまで知らなかった。
E.T.ホールは「コンテクスト度が高い程、情報は少なくてすみ、コンテクスト度が低ければ情報が増える。」と述べている。「・・・いかなる情報システムも、情報の意味(情報の受け手に期待されている行動)は、コミュニケーションと、受け手の背景にあるあらかじめプログラミングされた反応と場面から成っている。(このうち受け手のあらかじめプログラミングされている反応を、内在的コンテクストと呼び、場面を外在的コンテクストと呼ぶ)という点で、普遍的であるということがわかる。
したがって、コンテクストの本質を理解するにあたって重要なのは、受け手が実際に何を知覚するかである。生き物が何を知覚するかは、地位、活動、セッティング、経験の四つに左右されると言うことを思い起こしてほしい。だが人間の場合は、これに文化という、もう一つ決定的な次元が加わってくるのである。・・・・・」言葉とはアプリオリに存在するものではなく人間の身体機能の思考・知覚の拡張したものである。そして言葉の拡張したものが書き言葉であるのだが、厳密に言えばそれは西欧的な解釈である。我想うモノローグとしての声すなわち話言葉の写しから書き言葉が発明されたという考え方は、デリダが批判するところの「音声中心主義」と呼ぶもので、つまるところ「形而上学」?世界を言葉でとらえて真理をもとめようする態度?を支えるものとなり、「はじめに言葉ありき」となってしまう。ウィトゲンシュタインのように「形而上学」の枠から抜け出ることが出来ない哲学者は下層労働者階級の言葉を耳にすると目が点となり、その場にフリーズしてしまうのだ。
マクルーハンの言うように「・・・世界中のすべての語をもってしても、バケツといったような対象を描写することができない。もっとも、どうすればバケツを作るることができるかということなら、数語あればできる。ことばは対象について視覚情報を伝えるのに不適切である。
デカルトが十七世紀はじめに哲学の世界を概観したとき、用語の混乱に愕然として、哲学を厳密に数学的な形式に還元しようと努力を開始した。どうでもいいほどの厳密さを求める努力をしてみても、結局は、哲学から哲学の問題の大部分を排除するのに役立っただけであった。そして、あの哲学の大帝国が分割されて、こんにち知られるような、広大な範囲にわたる伝達不能の科学や専門ができたのである。・・・」となってしまう。斯くて我々凡人は哲学を理解するためのプロトコルの段階で睡魔に肉体を奪われてしまうのである。ところで、日本人、朝鮮人、中国人、ベトナム人だけが使っている(使っていた)漢字は話言葉の拡張したものではない。それ自体が直接的に脳内思考のプロセスが抽象化されたものである。したがって、これら東亜細亜の人々の思考は「音声中心主義」には馴染まない。嘗て江戸と呼ばれた時代に多くの大衆が読み書きを憶え、俳句・川柳を嗜み、文化的に成熟したのも、「音声中心主義」とはべつの回路、文字や記号で思考する事が日本語に於いて不可欠だったから他ならない。(注1)現代においては既に文語体、口語体の区別も日常においては明確ではない、それでも、漢字熟語など「音声中心主義」では理解出来ない。昭和30年頃、流行った「イキナクロベイ ミコシノマツニ アデナスガタノ オトミサン」が「粋な黒塀 見越しの松に 艶な姿のお富さん」と知ったのは大人になってからであったように。言葉を聞き取ったとき漢字をイメージできなければ意味が伝わらない。
第二次大戦後、占領軍による漢字廃止の動きがあったと父に聞いたことがあるが、日本語の構造上というよりも、思考そのものを変えねばならないとしたら、それは日本人が日本人でなくなる事を意味したのではないか。日本人が英語は読めるが話せない、(私は両方出来ない、トホホ・・)或いはディベートを苦手としているのも「音声中心主義」と異なる言語体系-思考体系(音声と抽象記号の二重構造をもった言語体系)を持っている事に由来するのではないだろうか。このように考えてみると、Macintoshが東亜細亜の対岸で誕生したのも汎太平洋という視点で捉えれば、地中海文化があるように、亜細亜文化圏の影響によるところではないだろうか。しかし「音声中心主義」のパルテノンを脱構築したMacが先鋭であっても、決して主流になれなかった、そしてこれからも主流になることはないだろう。米国で主流になるには余りにも亜細亜的なマシンだったのかもしれない。「音声中心主義」の王道を歩むマイクロソフトが世界の覇権を手に入れんと欲するのも「形而上学」的世界観からくる当然の帰結である。なんだかんだ言っても米国はWASPとJewが支配している国、やがてスカリーも東海岸に戻り、白人社会で余生を過ごすのである。
伝達の意味を考えていたら、またしても話が脱線してしまった。(iGa chang)
注1:日本人の学習好き、識字率の高さは豊富な和紙があったからだという説もある。しかし、そうであろうか?西欧において大衆が文字を必要としなかったのも、言語構造の違いが大きいのではないだろうか。随分前に、教育テレビで金田一春彦が日本語と外国語の音節の違いを話していたことがあった。数は憶えていないが英語も仏語も日本語の数倍の音節をもっている。それは音節を聞き分ける能力でもある。音声だけで言葉を伝えるのに充分な音節がある。一方、日本は漢字を輸入してから、逆に音節が少なくなってしまったと言われている。金田一博士は「みゅ」と言う音節は大豆生田という珍しい姓の為のみある音節とそのとき言っていた。(EgBridgeに最近人名辞典を入れたら「おおまみゅうだ」が一発で変換された。)そして、永六輔がしきりにいう鼻濁音の美しさなど、我々はもう聴くことが出来ない。
と言う事は、西欧においては言葉を時間空間を越えて保存する以外は文字を必要としていなかった。それに引き換え音節が少なく同音意義の熟語が多い我が国では、言葉の学習は口述だけでは不可能であり、文字による学習が不可欠だった。
音節を聞き分ける能力は6才くらいで固定してしまうと言われている。6才で耳にしたのが「イキナクロベイ ミコシノマツニ アデナスガタノ オトミサン」では、万葉人より音節を聞き分ける能力が低下しているのは明らかである。ましてやRとLの区別など聞き分けられる訳がない。
「おたくたち」
MADPress12(1994/1/31)に書いた古ネタである。何故、この題名を付けたのか正確に思い出せない。マニア的なオタクではなく、たぶんこの頃よく使われていた人称代名詞の「おたくたち」から付けたと考えられる。
■「おたくたち」 MADPress12(1994/1/31) 岩波新書の「英語の感覚」によれば、英語の人称代名詞のI、you、he、she は形而上的な「人格的存在」としての人間をさす。神との契約関係にある人間は自己も他者も対等の同一平面上にいる人格をもつ存在であるという認識を彼らは持っている。一方の日本語の人代名詞は対象となる人間の位置関係を表した言葉に過ぎないという。成る程、言い得て妙である。 常に、日本人は他人との位置関係を気にして生きている。「人格的存在」としての私もあなたも存在しない。古山君の口癖の「御上から下々へ」という言い方も、位置関係を表した言葉である。相対関係によって御上は神や支配者を表す意味へと変化する。グローバル座標の西欧とローカル座標の日本という表現が当て嵌まりそうだ。昨年あたりから漱石ブームの再来だそうであるが、明治に生きた彼らの前にたちはだかった西洋の壁とは物理的なものでなく「遅れてきた青年の近代的自我」だったのであろう。 テレビコマァシャルの世界を眺めれば、広告案文の原理とは「他人との相対的位置関係を意識する見栄の構造の刺激」によるものである。「それじゃー私が可哀相!」と少女が叫ぶカツラのコマァシャルを見るにつけ、「おまえなんかどうでもいい!」とおもう。親父や彼氏の価値判断は人前にだして自分が恥しくないかで決まるのである。 大衆消費住宅の広告案文に至っては、もっと露骨に見栄の構造を刺激する。レレレのお掃除オバサンが「お出掛けですか」と声をかけ、他人の家の塵芥を突くと「人も羨む二所帯住宅」のナレーションが流れる。或いは、新築の家に新しく家具・什器を運び込む度に「○○が淋しくて」と言い訳する主人。と列挙の暇もない。 同窓会に出席したとき、相手を牽制しながら探り出すのが卒業年度だという。後輩と知ったとき態度は豹変し露骨に横柄になる輩等々困った人たち。日本人の「横並び」の性格も組制度に由来するといわれるが、これも「他人との位置関係」に敏感故のことであろう。管理教育・偏差値教育から疎外されたものが作る族、チィム、社会のアウトローであるはずのやくざが、一般社会よりもヒエラルヒーを重んじる組織をつくるのも、些か漫画じみた光景である。族の総長も権現様もたいした差はない。自我の確立を求めるのでなく、他者との相対的位置関係が全てなのだ。近頃、Mac vs Windows という記事が矢鱈と目につく「長いものには巻かれろですよ。」とWindows を推す人は嘯く。
中公新書の"「超」整理法"(野口悠紀雄著)を批評した10年前くらいの文章であるが、何も変更しないで掲載する事にした。 MAD Press Vol.12 (1994/1/31)
この新書によって野口氏はブレイクスルーしたわけである。彼の研究室か書斎を写した写真が何かの雑誌に掲載されていたが、必ずしも「超」整理法だけによって書類を整理している訳ではない事を、本人もそこで述べていた。
■「超」整理法を読む MAD Press Vol.12 (1994/1/31) 中公新書の"「超」整理法"(野口悠紀雄著)が売れているらしい、一週間程で書店から姿を消し、20日余りで増刷し第二版を出しているから、この手の本としては相当なものである。昨年末で約17万部の記録と新聞の書評欄に書かれていた。どうやら、新書で「情報」とか「整理」とか「知的○○」とか名が付くものは、売れ系(すじ)の本である、それだけ「情報難民」の数が多いということであろう。それに「超」が付けばもっと売れると出版社が目論んだか、或いは最近の餓鬼共が使う「超かわいいじゃん。」と同じ程度の「超」なのか、何れにしても「超」に迷わされてはいけません。もっとも、スーパー○○とかハイパー○○とか、広告代理店が付けそうなネーミングは山根一眞が既に使っているので避けたのかも、どちらにしても感心できる名とも思えない。なにか、中公新書というよりは青春出版社が考え付きそうな書名に小生はどうしても胡散臭さを感じてしまう。いったい「超」整理法とは何ぞや、この本で著者が主張していることは、「分類するな。」「時間軸で管理せよ。」「検索はコンピュータにまかせよ。」といったことで、一つ一つに殊更目立つような新鮮さはない。それでも「分類するな。」の一言に物臭な読者は安心するかも知れない。だが、本当に物臭な人間がこの手の本を読むことなど有りえない。多分、これまでも情報整理学などと名のつく本は読み尽くし、電子手帳にシステム手帳と新しいグッズがでると欲しくなり、一度は「MS-DOS入門」という本を買って挫折したこともあるような「情報難民」をターゲットにしてこの本は作られている。
多分、山根一眞の本を読んでも山根式ファイルを実践しなかったように、"「超」整理法"を読んで野口式押し出しファイリングを実践する人も稀な気がする。
野口式押し出しファイリングは山根式ファイルと同じようにA4の封筒を使うことでは似ているが、山根式ファイルが百科事典と同じようにカテゴリーに分類しないで50音別に並べるのにたいして、野口式押し出しファイリングでは、使用したファイルを常に本棚の左側に差し込むということである。自ずと使用頻度の少ないファイルは右側に押し出されることになる。A4の封筒には標題と日付を記入することになっているが、再使用した日付を記入するかどうかについては、この本では記述されていない。ファイルの使用日をスタンプすれば、アリバイを辿うことができ、そのファイルの重要度も自ずと解ると思うのであるが、兎に角、使用頻度の多い書類は左に位置することで、著者は良しとしているのだろう。これらのことから解るように、この"「超」整理法"は極めて私的な個人のための情報整理法である、著者自身の大学教授という肩書きが表すように、大学研究室という閉ざされた世界のみで通ずるものではないだろうか。それは、梅棹忠夫のいうところの「アカデミック・エゴイズム」がこの本全体の文脈を占めてないだろうか。
小生は思うにこの"「超」整理法"を敢て新書で出す必要があるのかと疑いたくなるのであります。それこそマガジンハウスや青春出版社でだしている雑誌の見開き頁で伝えるに充分な程度の中身なのではないかと。その不足分を補うために、著者は、整理のための整理に時間が失われることの無意味さや、死蔵する情報のモルグと化したファイリング・システムについての言及や名刺データベースの失敗談、アイデア製造システム、高度知識社会に向けて等の二番煎じなアカデミック・スパイスを添加している。しかし、だからなんだ????という気がし、却って卑しさを感じてしまう。要するに、小生この本を読んでもあまり関心しなかった。べつにそれが、著者がMS-DOSのUserだったから、ということでもないけど。結局、情報整理に関してなんの解決案も得られないということじゃーないだろうか。著者がやっているようなことは、MacUserであれば日常において殊更意識しないで、デレクトリを日付順にしたり名前に替えたりと、山根式と野口式を使い分けている。
リチャード・ワーマンの言う情報にアクセスする5の方法、カテゴリー、時間、位置、アルファベット、連続量、これら全てをMacintoshのデレクトリ/ファインダーは満たしている。こんなことを書いていると小生が「馬鹿の壁」に突き当たって理解できないので八つ当たりをしてる、と非難を受けるかも知れない、自分でもそうだろうかと疑ってみたが、読書後の満足感とは、作者によって与えられる「ヴィジョン」ではないだろうか、どうもその「ヴィジョン」を小生はこの書物から読み取ることができなかったようだ。
もっとも、読みながら考え付いたこともあるから、あながちこの本を否定することもない。それは単なる思い付きであるが、スタンプ主義による情報カルテというものを作ってみてはどうだろうか、カタログやファイルでも蔵書でも、とにかく利用したら裏扉に日付スタンプを押してしまう。そうすれば、カタログ整理のとき捨てるものかどうかの目安には、なると思うのだが、しかし、こういうことは実行しなければ何の意味もない。
このことで気付いた事がある。それは、最近の図書館の貸出方法がコンピュータによる管理になってから、書物から貸出カードがなくなり、その本がどの位読まれているか、同じ人が数回に渡って借りているか、どの位の期間借りているか等の情報が、コンピュータによってブラックボックス化されてしまったことである。謂わば貸出カードによって書物を共有することの連帯意識のようなものが失われたのではないだろうか。(五十嵐)
まだ、MADPartyを始める前のテキストがハードディスクの片隅からでてきた。ファイルのデータを見ると作成日が1990/2/24、変更日が1990/3/14となっているから、13年前、一昔も前の文章である。MADPartyを立ち上げる魁となった、MiniCADの自主的な勉強会を浜松の榑林くんの事務所で開催したときに配付した資料につかったものである。従って、設計事務所の実情は1990年当時のことである。
その後、このテキストは過激なトーンを押さえ、企業名を削除して、リース制度の減価償却額の表を加えて「Macintosh Desktop Architecture Guide」に「ユーザー不在のリース契約」として掲載した。
1990年代も後半になってようやく国税庁も重い腰を上げ、コンピュータ等情報機器に対する減価償却対象額の切り上げ等を行うようになったが、まだまだ現実と乖離しているとしか思えない。
くたばれ○○商○!! 1990/2/24 設計事務所にコンピューターが導入されたのは何時頃からだろうか考えてみると、まだ10年位前までは構造事務所でもパーソナルコンピューターは使われていなかったのではないかと思う。電電公社の大型電算機に繋げられた端末機を使っていた構造事務所が多いように記憶している。それでも使用料が高いしプログラムに融通性がないからと言って手計算が半分位だったのではないか。その中のいくつかの構造事務所が独自にプログラムを作るようになったのではないか。6、7年前のパソコン雑誌を見ると構造計算専用のパソコンでも大容量64KBなんて書いてある。と ここまではコピューターに対して純粋な動機と言うものが有った筈である。それは技術的な計算、解析、分析や、所謂、情報処理と言う目的で必要とする者が必要に応じて電子計算機を用いていた。 コンピューターが不純な動機で作られ売られる様になったのはいつごろのことからだろうか。それはメインフレームに乗り遅れた○○電気と、利狂人といい勝負のマッチポンプ体質のPC系出版社、何だか得体のしれないヤクザな○○商会、他人の褌で相撲をとる○○信販、それに虚構をアジテートする大N○K達の詐欺師的な企みが有ったのではないだろうか。需要を掘り起こすマーケッティング戦略と言えば聞こえがよいが、要は必要としないものに幻想を与え役に立たないものを売り付ける。ユーザー不在の売り手の論理である。それは建築や土地の不動産までを消耗品としてしまい、スクラップアンドビルドが経済発展に不可欠であるとする我が国資本主義経済と見事にシンクロしている。泣きを見るのは無知なもの弱者である。
メインフレームに乗り遅れた○○電気が子飼いの○○商会等を使って、メインフレームやミニコンがハードだけの販売でなくカスタマイズされたソフトを含めたシステムの販売であり、デバック等のメンテナンスに販売価格の20%を保守契約費として一年間に要するという事実に蓋をして、右も左も解からない零細企業や工務店、商店のおっちゃんに言葉巧みにパソコンで即戦力、全てがうまくゆくと売りまくった。人件費が節約でき、人の2倍3倍の処理能力があると聞いて、昨日までドンブリ勘定だった、おっちゃんが早速ハードと経理部長とやらのソフトを購入して、いそいそとパソコン講習会に出席したものの、商業簿記を知らないこのおっちゃん貸方借方の区別も解からず、自分の娘くらいの年令のインストラクターに軽蔑の視線を受け、もうパソコンはいややと、さっきのインストラクターのボディコンの姉ちゃんのお尻の形を思い浮かべ、いささかマゾヒスティックな気分に浸り自棄酒を煽り向こう5年間のリース料を考えると、憂鬱な気分になるのである。 リース契約等というものは、信販会社と国税局の為にある制度であり、ここに於いてもユーザー不在の一方的な契約条件を押しつける売る為の論理しか存在しない。多くの消費者はリース契約に対して無知でありリース期間が終わればその商品が自分のものになると信じている。また多くのセールスマンがそう言って消費者を欺いてきた。契約書を読めば解かることであるが、消費者側からの契約解除は出来ない様になっている。もし契約解除する場合は残金の全てと商品を信販会社に返却しなければいけないことになっている。結局、金も取られて商品も何も残らないことになる。税法により10万円以上の備品等は原価償却の対象となり、定率法に拠る6年の償却期間が終わっても1/10の残存価格が資産として残り、経費として損金扱いには出来ない。結局ここに目を付けたのがリース制度である。リース契約が終わるとどうなるかと言えば、商品は信販会社の物であるから当然返却しなければならない。信販会社は返却された商品をそのまましていては1/10の価格を償却出来ないので破棄処分にして損金扱いにする。破棄処分を免れた物が闇ルートを通じてジャンクショップや東南アジアへ流れたりするのである。数箇月で契約解除された新品同様の商品等はメーカーの商品倉庫でコンパウンドで磨れカウンターを元に戻して真空包装を施され市場へと復帰するのである。再リース契約を消費者が希望する場合は年間リース料の1/10で一年毎に再契約するか、1/10の残存価格で買い取るか何れかを選択しなければならない。これには新商品を売り付けようとするセールスマンの様々な誘惑に打ち勝たねばならない。
話が横道に逸れたので元に戻る。OA化の波が設計事務所にも波及したとき、設計事務所に対する戦略商品として選ばれたのが、意匠屋の苦手とする、企画業務に於ける資金計画と日影、逆日影シュミレーションであった。地上げという言葉を初めて耳にしたのもこの頃であった。逆日影等というのはスパーコンピューターを駆使して初めて可能なことである。幾万通りの条件の中から一つだけ答えを出す様なものである。16ビット640KBの98、MS-DOSでは無理な世界なのである。結局デベロッパーに対する単なるプレゼンテーションでしかありえず、設計資料としてはなんの役にも立たないものである。○○商○のソフトなどは逆日影で出したデーターで日影図をかけば、全て日影時間を越えてしまう様な代物である。本来、設計条件・建築計画を考えに入れない逆日影等は考えられず。営業屋と化した建築設計屋の話の種にしか過ぎないことである。逆日影等は日照メジャーを用いカンピュータで当たりを付ければよいことである、その位出来なければ設計なんか辞めたほうがいいのである。
設計事務所や工務店に対するOA業界の次なる戦略商品はCADである。どの位のソフトハウスがあるかわからないがピンからキリまでひしめいている。その広告のセンスのなさと言ったらひどいものである。浪速の女社長が経営するソフトハウスの広告くらい酷い物はない。てめーの顔写真とCADにどう言う関係あるのか、本当に鏡を見たことがあるのかと言いたくなる。また2週間に一度必ず葉書でダイレクトメールを送ってくるソフトハウスがある。そこから勝手に送ってきたカタログの立派なこと内容の御粗末なこと価格の馬鹿高いこと、どうなっているのでしょうかね。「単線プランを入力するだけで、平面図から立面、矩計、外観パース、見積書まで自動作成!」等と書いてある。建築の設計等軽く見られたものである。はっきり言って馬鹿にされているんだよね、一般の認識等この程度のもの何だろうね。この間も○○商○から電話があった、はっきりいって俺この会社嫌い何だよね。
「もしもし○○商○ですけれども、建築知識の記事をご覧になりましたでしょうか。」
「ああ、本屋で立ち読みしたよ」
「如何がでしょうか私どものCADは」
「興味ないね」
「優秀なCADであると紹介されていますので是非一度・・・」
「広告主の悪口を言う訳ないだろしタイアップ記事なんか信用できないよ。」
「そんなことありません」
「忙しいから切るよ」
「コンピューターは何か既にお使いですか。」
「おたくには関係ないでしょう」
「そんなこと言わないで教えてくれたっていいじゃないですか。」
「しつこいねあんたも」
「98ですか」
「いいや」
「それじゃ何ですか!」
「怒るなよ」
「教えてくださいよ」
「うるさい」ガシャ!数年前の建築知識の記事にこう言う事が書いてあった。「出力はプロッターで手書きの1/3のスピードである。」どう解釈してよいのか理解に苦しむ。手書きで8時間かかる図面はプロッター2時間半も出力にかかるのかしらと思う。入力については一言も触れていなかった。広告主に好意的な記事しか載せないとなると、リクルートやアスキーと何ら変わらない、建築雑誌も舐められたものである。
98に代表されるMS-DOS系マシンの汎用パソコンCADを使いこなすにはそれ相当の技量を要求されます。メインプログラムだけでは難しく、オプションプログラムを加えないと実務的ではありません。MS-DOSを使いこなすには理論的に思考を積み重ねていくアルゴリズムの明確な垂直的思考のパラノ型の人間でなければ勤まらないと思います。水平的に物を考える建築家に向いているマシンとは思えません。計画から使えるようでなければデザイン思考の建築家にCADが普及することは困難でしょう。建築素人のオペレーターにCADを任せるなどは無責任な事です。誰でも考える実施設計にCADを使おうとするから、CADがあっても実際に使われないで埃を被った唯の箱に成り下がっているのです。まずはプランニングから初めることです。それには誰でも容易に使えるコンピュータでなければいけません。
MacWorld奮戦記 1992/2 先ずはExpoで僕等が販売した「Macintosh Desktop Architecture Guide」の企画から出版までの経過が紆余曲折しながらも、どんな風に進んだのかを今回は執筆者とUG主宰者の目から記してみたいと思う。MAD Press は「書いたもの勝ち」なのね。
この出版の企画が始まったのが昨年('91)の3月で、本が出来上がったのが2月17日だから、およそ一年かけて発行までこぎつけた訳だ。通常、建築関係の単行本が企画から出版まで一年半を費やすのに比較して1/3の時間が節約できたことになる。
MAD Party のガイドラインに記された活動に「チュートリアル・ブックの作成」という項目があった。自費出版で200部くらいのオーダーで出来ないものかと漠然と考えていたものが、出版社がついて、6000部のオーダーと30倍になり、Expo会場で185部売れたことは、当初の考えから言えば飛躍的な事だ
それでも、出版までの過程は決してスムーズなものではなかった。当初は教育産業を母体とする、ある出版社から出版される予定だった。300頁で150のトピック、価格が4000円、一つの建築設計をドキュメントにそのフローと150のトピックをリンクさせるという企画で進行し、3箇月くらい経たところで、企画がペンディングになってしまった。出版社の営業担当はいけると考えていたものが、契約の直前になって社内稟議を通すのが難しい状況になってしまったのだ。その教育産業が母体の出版社(編集はしない)ではPC-98を工務店等に販売する営業も行なっていて、PC-98の本を作るのならよいがMacの本などもってのほかだ!と言うことになり、出版の企画は暗礁に乗り上げてしまったのである。ザッブーン・・(効果音・世間の荒波)んな訳で、責任を感じたその出版社の営業担当者が別な出版社を紹介する形となり、座礁していたMAD Party丸は果てしないDTPの海原に乗り出したのであった。
再開された編集会議は言い様によってはブレインストーミングとも呼ぶ雑談に終始し、我々の編集長であるM氏のイライラが募るばかりである。そのM氏が遂に爆発してしまった。(10年以上に亘って建築雑誌の編集長をしていた彼は時として横暴になり、絶対権力者であることを誇示する態度にでるのである。これは一種の職業病である。)
それは、本の最初に載せる座談会を収録しているときだった。話しが盛り上がり、過激にエスカレートしていくとき、突如立ち上がりカセットを切り「駄目!駄目だ!駄目だよー!こんなの載せられないよ!」とわめき始めたのである。我々はなす術もなく黙って嵐が治まるのを待った。テープから起こした原稿をもって「いやー専門用語が多くてリライトの人が大変だったみたいねー、でも面白いよね、これって、結構良いこと言ってるよね。」と照れ臭そうにニヤニヤするM氏なのだ。
共同執筆というものも大変である。共通の認識としてのガイドラインがなければ成り立たない、それを探るブレーンストーミングに時間をとられるのは仕方のないことであろう。そうやって出来たこの本は民主主義的な作られ方をしていて、ちょっぴり自慢をしても良いのかも知れない。
DTPの海は穏やかな日ばかりは続かない
本の体裁として見開き2頁を一つのトピックにして、長くなっても偶数頁に納め、見開きの原則を守る。これがDTPの約束事の一つだった。原稿の入稿も、それぞれがPageMakerに図版と原稿を割り付けそれをTeleFinderによってホストコンピュータに送るかたちを取った。(ちなみに、このホストコンピュータはAppleの特販プログラムの抽選で当たったSE/30だ。)この方法は最終イメージを執筆者自らがレイアウトして確認する事が出来て、良い方法にも思えるが、結果的にはM氏の仕事を増やすことにもなってしまった。これは僕等が視覚人間であり、テキストだけでモノを考える事をしないからであろう。PageMakerで図版を割り付けてからテキストを考えるという、出版界の常識やぶりを躊躇いもなく実行してしまう僕等に今度はM氏が振り回されることになった。しかし、何だかんだといっても、レイアウトを自分で最終調整しないと気が済まないM氏の職人気質をDTPが呼び覚ましてしまったのだろう。
PageMakerの原稿は最終の「仕上がりイメージ」として考え、別にテキストと図版を入稿するのがベターであると思い付いたのは、作業も相当進んでからだった。そのうえ題割りもなく、ページ割が出来たのも出力センターに持ち込む直前である。JAZZの集団即興演奏のようにして僕等の本は作られたのだ。
忘年会の前に全てを終えたいというM氏の願いも空しく、版下を凸版印刷に持ち込んだのは正月明けの8日だ。「もう、間に合わないよ。」とM氏の泣き言が始まる度に、「お黙り!2月20日は絶対だからね。」とサディスティックな悦びに浸る私であった。
僕等の本の発行先である出版社は編集に係わることは、ほとんど何もしていない。最初の出版社とは制作費の一部の前渡しと執筆者に対して原稿料と印税支払という条件をほぼ合意していたが、実際に発行先となった出版社は規模も小さく、執筆者の条件も芳しくなく、制作費の一部を編集長が肩代わりをしなければいけないほどだった。それならば、自分達で出版すればよいではないかという理屈も成り立つかもしれない、しかしそれでは流通に乗らない事になってしまう。書籍には必ずISBN4-○○○○○とかいうコードがあって、これがないと日販とか東販とかの取次店にいく事がない。そのうえ悪いことに、この出版コードをこれから出版社を設立して得ることは不可能に近いことなんだ。ある企業が出版部門を作る場合は神田辺りにある休眠出版社を買収して出版コードを得るしかなく、ここでも利権が巾を効かし、出版社の地上げまで行われる始末である。
今回の僕等の「Macintosh Desktop Architecture Guide」の出版に関わり、編集者と執筆者の情熱と言うのか意地と呼ぶのか、それがなければ思ったような本が生まれることがないんだ、と極く当たり前の事を痛感した一年だった。
しかし、物を売るって言うことは難しい、Expoで三日間もくたびれた売り子を演じてしまった。まあ、僕等の本は誰でもが買ってくれる訳ではないので、魚屋のおっさんになってもしょうがない。売っていて気がついたことは「買ってくれる人は買ってくれる。買ってくれない人は買ってくれない。」あれ、これじゃ当たり前だ。黙ってすぅーっと近ずいて「これ下さい。」と言って買ってくれる人、だらだらと流れにまかせてきて、立ち止りちょっとペラペラと頁をめくってそのまま行く人。何回も頁をめくり長考して「これ下さい。」と買う人。兄貴が建築をやってるからと買ってくれた人。北京出身南京工科大卒のチャイニーズ、本を買ってくれてシェイシェイ。悪意を持った目で一瞥した人も、、、
なんだかんだ言って、MDA Guideが約180部(勘定がピッタリ合わないのだ)に絵本が85部売れたの成功ではないかと思う。絵本の配本を頼んだときリブロポートの編集の人が「一軒の本屋で30冊売るなんてことは気の遠くなるほど大変なんです。」と話していたことが良くわかった。お釣りを間違えたり、領収証を書くペンがなくて一所懸命探したら胸のポケットにあったりとかドタバタしながらの本屋さんでした。間違えて多くお金を戴いてしまった人、もう時効にしてください。Expoが終了してからの搬出は殆ど戦争だった。ささやかな打ち上げは幕張駅前のテント小屋で取り敢えずビールで乾杯して、「帰りは車を運転しないからね、吉田くんたのむね」と僕が言う。しかしビールの泡も消えないうち、しっかりと躊躇いもなくハンドルを握っていた僕だった。ぼくらはビートルのテールランプが闇ににすいこまれて行くのを追いながら、東京に向かって幕張を後にした。
MAD Pressのアーカイブを公開しなさいという秋山さんのリクエストなので、最初は本人のエッセーを紹介しようと思う。1991年茨城県常陸太田市をメイン会場に開催されたクリストのアンブレラ展を見に行った時の話。
MAD Press 3 (1991/10/31)の表紙と長老のお話(Macとクリストとお魚)
Macとクリストとお魚 秋山東一10月21日、新しいMac達が発表された。黒いポータブルのMac、おどろおどろしいクアドラとかいうMac、もう40の時代なのか。そんな話を22日の夜、吉松、五十嵐、の両氏とビールを飲みながら話していた。その日は次の日23日、クリストのアンブレラを見に行く為の打ち合わせをしていたのだった。
23日午前9時、常磐高速道を北上している。晴天。フォルクスワーゲンのリアエンジンは快調な音を立てて回っている。140Km、やや小さめの前輪だから割引いて考えなければいけない。1600ccのエンジンは余裕をもってミシュランを駆動、路面にピッタリはりついているような走りを見せる。快適とはいいかねる運転席、僕、五十嵐、後席に吉松、仕事に疲れている吉松氏は長々と眠っている。久しぶりの解放感、前方の長い線、とびさる風景、僕の休日、クリストのアンブレラに向かって僕のVWは疾走する。
Macって「道具だ」っていった古山氏の論旨に僕はとても賛成。僕はもっと言ってしまう。Macは「玩具だ。」あるいは「玩具だった。」このVW が玩具であるように。
Macって玩具だった。僕等の仕事が遊びである。あるいは、遊びであったように。あるいは、そんな時代であったように。
そんな幸せな時代を生きてきた。吉松も僕も、パーソナルコンピュータの時代を、もしかすると自分自身で作り出していたという風にも考えているのかも知れない。1979年、今から12年前、パソコンなんて言葉もなく、マイコンなんていっていた。
その年、AppleIIを買った。6502CPU, 32Kのメモリー、ひどく美しい機械。何をしようか、何ができるかなんて考えていなかった。その機械の中に全てがあるような気がしていた。6K BASIC, 10K BASIC, ミニアッセンブラ、何をすることもなく、メモリマップをいじって、ドットを点滅させるだけでも面白かった。すごく幸せな「玩具」の時代。まだ、ディスクドライブはなかったしテープレコーダ300BAU、ハードディスクなんて夢の中。常陸太田、西山荘の御文庫なる建物をみる。知る人ぞ知る、ちょいとモダーンな建物。僕等はアンブレラに向かって走る。国道349号線を北上、19kmにわたって1340本の青い八角形のアンブレラ、直径8,66m、高さ6m。
緑の田園風景の中に、点在するカサ、カサ。山の上に、川の中に、田圃に、農家の庭先に、アンブレラは連なる。
日常的な風景の中に、ある物を付加することにより非日常的な・・・・・・なんていうのかしら。橋の上で、オッサンが叫ぶ、「オーッ、キレイダ。」
アメリカでは同時に黄色いアンブレラ、29km、1760本、たったの21日間、費用34億円あまり、それが全てクリストの負担。
終わった後には、あとかたもなく消えてしまう。128K のMacがでた時、また新しい「玩具」として僕は手に入れた。デスクトップのグラフィカルなインターフェースに夢中になった。何かやるごとに時計がでてたけど、それも面白くてしかたなかった。マックペイント、マックライトしかないけれど、まだまだ幸せだった。・・・オタク、ファン、ユーザーの時代へと世の中変わってゆく。「玩具」「道具」「武器」へと変わってきたのかしら。
アンブレラから海へ、五浦で岡倉天心の六角堂、アジアは一つなり・・・。平潟漁港で魚を食べる。ビールを飲む。やっと三人で宴会だ。ずいぶん北まできてしまった。
帰りに国道沿いの大きな市場みたいな魚屋をのぞく。さんま10匹、500円、大きなアジ5匹、500円を買う。五十嵐氏はイカを買っていった、再び高速、すっかり日が暮れてしまった。もう、早く帰ろう。帰って叉、三人で反省会と称してビールを飲むんだ。後記
1) 28日、アンブレラは全て終わってしまった。アメリカでの事故によって日本のアンブレラも予定より早く終わった。23日、僕等は最終の天気のよい最高のアンブレラを体験したことになる。
2) あのアジを刺身にした五十嵐氏はとてもうまかったといっていた。僕が塩焼きで食した結果は油ののり少なくあまりうまくなかった。サンマはうまかった。近所の魚屋の1/3のコストだということもわかった。
3) アンブレラの最後の里美村のインフォメーションの女の子が、すっごい美形であったそうだ。我々の唯一よらなかったインフォメーションであった。ひどく残念である。かえすがえすも残念である。我等の休日の画竜点睛をかく事になってしまった。
4) 次の日、すっごく疲れた自分を発見した。オジサンは450kmもゴーカートを運転してはいけない。
5) 吉松氏はますますMacからはなれていくようだ。彼にとってのMacはもうもどらない。そのうえ、イジワルオジサンしているという話だ。クリストしか見なかった若人に、魚を食わなかったことについてイジメているというわけだ。
6)最近、会う人ごとに、クリスト以後の僕って、以前の僕じゃないんだといっている。とにかく、僕は変わってしまった。
パンフレットとアンブレラの素材