June 17, 2004

吉原の大門

MAD Press 1993/7/31 より転載
(10年以上前の文章ですから、当時の世相や風俗を引用している部分や浅草寺の由来など一部認識不足による間違いがありますが、ご勘弁の程を。m(__)m)

「・・ああ、堅えの堅くねえのって、え?堅餅の焼ざましみてえな人間っ。歳が十九んなって、吉原の大門がどっち向いているかわからねえ変わり者!」 
 八代目 桂文楽の十八番「明烏」は日本橋田所町三丁目の日向屋半兵衛が伜、時次郎の身を案じて、とは言っても堅すぎる伜に女遊びの一つでも教えてもらおうと町内の札付きの源兵衛と太助に吉原で伜の筆下ろしを頼むという艶笑噺のこと。

 吉原は日本橋人形町界隈に元和三年(1617年)に公娼制度として幕府の公認を得て庄司甚右衛門によって設けられた。その後、明暦の大火の後、明暦三年(1657年)新吉原として現在の地に移転された。浅草田圃のど真ん中に不夜城が突如として出現するわけだから、さぞかし異様で壮観であったろうと想像する。

そういえば、最近似たような風景を見たことがある。あれは小諸に長老共々行ったとき施主に紹介されて泊まった温泉だった。布引観音温泉と名付けられていたけれど、田圃の真ん中に竜宮城のように健康ランドが忽然と建っていた。翌朝、車を待つあいだ、タイやヒラメのお嬢さん達が所在なげに玄関にたむろしていたっけ、たぶん観音様のお使いで来たのでしょうね。

 浅草の浅草寺は江戸城の鬼門にあたる丑寅の方角に位置する。もちろん災難が江戸市中にもたらされないようにと厄除けの為に建立された寺だ。(浅草寺の歴史は628年まで溯り、浅草湊が旧・江戸の中心であった。従って、結果として後から造られた江戸城の鬼門に位置することになった。)そして裏鬼門にあたる未申には増上寺(将軍家の菩提寺)がある。神田明神が鬼門、山王権現(日枝神社)が裏鬼門と神道の厄除けも幕府は忘れていない。どちらも江戸の鎮守様、将軍家が氏子総代でもあった。因みに神田明神は天平2年(730)に現在の大手町付近に創建、元和2年(1616)に江戸城の鬼門にあたる現在地に移設された。一方の山王権現(日枝神社)は太田道灌によって江戸城内に創建され、1657年に裏鬼門にあたる現在地に移された。

 大川から山谷堀に沿う日本堤に面して建設された新吉原は幕府の都市計画事業によるものだ。そしてその大門はまさしく鬼門とされた丑寅の方角を見据え、周囲は堀で囲われ郭となった。大正十二年の関東大震災の被害写真を見ると、火災で逃げ場を失った遊女のおはぐろドブに重なり合う山のような死体は南京大虐殺かアウシュビッツかと見紛うばかりである。などと書くとフェミニストと間違えられそうであるが断じてそのような事はない、フツーのオヤジである。フツーの人でも忌み嫌う鬼門に遊廓の大門をもってくるとは、時の権力者の恐ろしさ陰険さを感じてしまう。が、しかし女の魔性で悪霊を追い払い、江戸を守るという、深い考えがあるのかも知れない。お伊勢参りが女郎買いの売春ツアーだったように、信仰と性の深い結び付き、陰喩としての性が神代以来の○○○を象徴するものでしょう。○○○○が伊勢神宮で御祓をうけ○○○の○○と○○○う厳かな儀式を下々の者が有難く吉原辺りであやかるのも○○○に由来するもの。A山K三郎君、ジュリアナのお立ち台で身をくねらせるお嬢さん方は天岩戸の神話を再現して護国安泰を祈願しているのだよ、けっしてブタ女と罵ってはいけません。ラスト・エンペラーが出現しないかぎり、ブタ女もセクハラも皇国から無くなることはないのだよ。

 ところで、こんなことを考え付いたのも地図を見ていて吉原のあった台東区千束四丁目と横浜中華街だけは、その周囲と町が作られた曰因縁に違いがあると思ったからだ。周りとの町並に何の脈絡もなく方位のみが町づくりの基本であるかのようだ。吉原は正確に丑寅に主軸を持ち、日本堤から大門までのアクセスが軸をずらされ、クランクと言うかシケインのようになっている。家相を気にする人は多くても、吉原の大門までは気になさらないようで、江戸風俗に関する本はあっても、それについて書かれていないようだ。試しにと方位図と吉原市街図とを重ね合わせてみたのが次頁の図である。巽方が吉とされる訳だが、そちらに大門を設ける事など、絵図を見ても容易いことである。それでも敢て丑寅に大門を設ける意図は何であったのか。

Madpress930731b.jpg

吉原へ往く粋な遊客は大川より山谷堀まで猪牙舟を利用して、後は日本堤を経て吉原に至る。日本堤は大川が蛇行する千住辺りからの氾濫から江戸市中を守る目的で作られた堤であった。日本堤は昭和五年に二十年に亘る工事によって荒川放水路が完成されるまでは、重要な治水施設としての役割を担っていた。遊廓をこの地に選んだのも、遊客で堤を固めるという意図があったのではないか。(庶民の娯楽を度々禁止した幕府でも、大川端等の土手に桜を植え、花見を奨励したのは花見客で土手を固めるという意図があったからだと言われている。)絵図でみても分かる通り日本堤は相当広かったようだ。いまではその名残りとして「土手通り」と名前が残されている。日本堤から下る吉原大門までを衣紋坂、または五十間道とも呼ばれていた。クランクしてみえる道も土手の法面に作られた為、少しでも勾配を緩和する方法なのかも知れない。また「おはぐろどぶ」に囲われた郭の四隅に稲荷が設けられているのは、地霊への配慮か、花魁の願掛けの為か。

 京の町にあっては「比叡下ろし」が鬼門、江戸では水害を齎らす大川の蛇行が鬼門とすると。それから江戸を守る日本堤、その土手を一層強固にする為の遊客と郭、差し詰め花魁は身を呈して江戸の町を守ったことになる。

「女郎買い 振られた奴が 起こし番」
 朝っぱらから、他人の部屋を覗いて、騒いでいる奴に、昨夜の成績の良い吾人がいる訳ない。「明烏」とは源兵衛と太助のことである。

Posted by S.Igarashi at June 17, 2004 09:48 AM | トラックバック
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