1993年のMAD Press 10に書いた原稿。
図はE.T.ホールの「文化を超えて Beyond Culture」に出ていたものを元にしたが、知覚を伝達に置き換えてProtocol(通信規約・外交儀礼)の概念を加えてみた。情報+コンテクストが伝達されるとき必ずプロトコルが介在しフィルターの役目をする。プロトコルに共通性がなければ、フィルターではなくバリアになってしまう。まさしく伝達不能。
Posted by S.Igarashi at November 1, 2003 08:11 PM | トラックバック
■伝達不能 (MAD Press 10 1993/7/31) おい、I.S.の姪がオーストラリアかどこかで事件に巻き込まれて亡くなった話、知ってる?」「えー知らないなー、本当かよ?」久しぶりにクラス会で会ったK.K.に尋ねてみたがその事件のことは知らなかった。俺はI.S.とは一緒のクラスになったこともなかったし、まともに話をしたのがK.K.の結婚式のときが始めてだったから、K.K.なら知っていると思って確かめたかったのだ。それから数週間して、その話が俺の勘違いによるものだと知った。そして根も葉もない噂の発生源に自分がなるかも知れないと思いぞっとした。話の真相はバトンルージュで殺された服部君が事件当日に会いに行く筈だった日本人の女の子がI.S.の姪だったのだ。人の話を本を読みながら傍で聞いて、「へー、I.S.ならK.K.の結婚式のとき会ったよ、そうだったの。」と脇から口を挟み、かってに勘違いしてしまったのであった。どうして、バトンルージュがオーストラリアになったのかは定かでない。 「ホールドアップの国にコンテクストはない。」とは古山君の弁である。「そう、コンテクストがないからプロトコルから始めなければいけない。」と俺、デスク・トップ・パブリッシングもガンも同じメディアとして位置づけられている国の大統領は人気が凋落すると、気に入らない国にミサイルをぶっぱなすことになっている。プロトコルもコンテクストも糞食らえなのだ。相手の言っていることが理解できないとき、ペンを選ぶかガンを選ぶか、後者を選択した彼らはその相手を抹殺して目の前の悩みから逃れるのだ。バトンルージュの悲劇はそのようにして起きた。
ウィーンの哲学者ウィトゲンシュタインは「全ての事象は言葉によって明確に語らねばならない、語れないものについては人は沈黙しなければならない」と言った。ウィトゲンシュタインが神経衰弱に陥ったとき、治療をかねて姉の家の工事監理をすることになった。設計はアドルフ・ロースとされているが、実態はロースの弟子が設計したと伝えられている。その家の工事監理をしているとき、左官屋のやりとりを聞いてウィトゲンシュタインの哲学的世界観がマグニュチュード7.8の強震にぐらついた。「セメン!」足場の上の親方に応えて、小僧が下からセメント(モルタル)を放り上げる。下層労働者階級の会話にならない断片的言葉でもコミュニケーションが成り立つことを哲学者はそれまで知らなかった。
E.T.ホールは「コンテクスト度が高い程、情報は少なくてすみ、コンテクスト度が低ければ情報が増える。」と述べている。「・・・いかなる情報システムも、情報の意味(情報の受け手に期待されている行動)は、コミュニケーションと、受け手の背景にあるあらかじめプログラミングされた反応と場面から成っている。(このうち受け手のあらかじめプログラミングされている反応を、内在的コンテクストと呼び、場面を外在的コンテクストと呼ぶ)という点で、普遍的であるということがわかる。
したがって、コンテクストの本質を理解するにあたって重要なのは、受け手が実際に何を知覚するかである。生き物が何を知覚するかは、地位、活動、セッティング、経験の四つに左右されると言うことを思い起こしてほしい。だが人間の場合は、これに文化という、もう一つ決定的な次元が加わってくるのである。・・・・・」言葉とはアプリオリに存在するものではなく人間の身体機能の思考・知覚の拡張したものである。そして言葉の拡張したものが書き言葉であるのだが、厳密に言えばそれは西欧的な解釈である。我想うモノローグとしての声すなわち話言葉の写しから書き言葉が発明されたという考え方は、デリダが批判するところの「音声中心主義」と呼ぶもので、つまるところ「形而上学」?世界を言葉でとらえて真理をもとめようする態度?を支えるものとなり、「はじめに言葉ありき」となってしまう。ウィトゲンシュタインのように「形而上学」の枠から抜け出ることが出来ない哲学者は下層労働者階級の言葉を耳にすると目が点となり、その場にフリーズしてしまうのだ。
マクルーハンの言うように「・・・世界中のすべての語をもってしても、バケツといったような対象を描写することができない。もっとも、どうすればバケツを作るることができるかということなら、数語あればできる。ことばは対象について視覚情報を伝えるのに不適切である。
デカルトが十七世紀はじめに哲学の世界を概観したとき、用語の混乱に愕然として、哲学を厳密に数学的な形式に還元しようと努力を開始した。どうでもいいほどの厳密さを求める努力をしてみても、結局は、哲学から哲学の問題の大部分を排除するのに役立っただけであった。そして、あの哲学の大帝国が分割されて、こんにち知られるような、広大な範囲にわたる伝達不能の科学や専門ができたのである。・・・」となってしまう。斯くて我々凡人は哲学を理解するためのプロトコルの段階で睡魔に肉体を奪われてしまうのである。ところで、日本人、朝鮮人、中国人、ベトナム人だけが使っている(使っていた)漢字は話言葉の拡張したものではない。それ自体が直接的に脳内思考のプロセスが抽象化されたものである。したがって、これら東亜細亜の人々の思考は「音声中心主義」には馴染まない。嘗て江戸と呼ばれた時代に多くの大衆が読み書きを憶え、俳句・川柳を嗜み、文化的に成熟したのも、「音声中心主義」とはべつの回路、文字や記号で思考する事が日本語に於いて不可欠だったから他ならない。(注1)現代においては既に文語体、口語体の区別も日常においては明確ではない、それでも、漢字熟語など「音声中心主義」では理解出来ない。昭和30年頃、流行った「イキナクロベイ ミコシノマツニ アデナスガタノ オトミサン」が「粋な黒塀 見越しの松に 艶な姿のお富さん」と知ったのは大人になってからであったように。言葉を聞き取ったとき漢字をイメージできなければ意味が伝わらない。
第二次大戦後、占領軍による漢字廃止の動きがあったと父に聞いたことがあるが、日本語の構造上というよりも、思考そのものを変えねばならないとしたら、それは日本人が日本人でなくなる事を意味したのではないか。日本人が英語は読めるが話せない、(私は両方出来ない、トホホ・・)或いはディベートを苦手としているのも「音声中心主義」と異なる言語体系-思考体系(音声と抽象記号の二重構造をもった言語体系)を持っている事に由来するのではないだろうか。このように考えてみると、Macintoshが東亜細亜の対岸で誕生したのも汎太平洋という視点で捉えれば、地中海文化があるように、亜細亜文化圏の影響によるところではないだろうか。しかし「音声中心主義」のパルテノンを脱構築したMacが先鋭であっても、決して主流になれなかった、そしてこれからも主流になることはないだろう。米国で主流になるには余りにも亜細亜的なマシンだったのかもしれない。「音声中心主義」の王道を歩むマイクロソフトが世界の覇権を手に入れんと欲するのも「形而上学」的世界観からくる当然の帰結である。なんだかんだ言っても米国はWASPとJewが支配している国、やがてスカリーも東海岸に戻り、白人社会で余生を過ごすのである。
伝達の意味を考えていたら、またしても話が脱線してしまった。(iGa chang)
注1:日本人の学習好き、識字率の高さは豊富な和紙があったからだという説もある。しかし、そうであろうか?西欧において大衆が文字を必要としなかったのも、言語構造の違いが大きいのではないだろうか。随分前に、教育テレビで金田一春彦が日本語と外国語の音節の違いを話していたことがあった。数は憶えていないが英語も仏語も日本語の数倍の音節をもっている。それは音節を聞き分ける能力でもある。音声だけで言葉を伝えるのに充分な音節がある。一方、日本は漢字を輸入してから、逆に音節が少なくなってしまったと言われている。金田一博士は「みゅ」と言う音節は大豆生田という珍しい姓の為のみある音節とそのとき言っていた。(EgBridgeに最近人名辞典を入れたら「おおまみゅうだ」が一発で変換された。)そして、永六輔がしきりにいう鼻濁音の美しさなど、我々はもう聴くことが出来ない。
と言う事は、西欧においては言葉を時間空間を越えて保存する以外は文字を必要としていなかった。それに引き換え音節が少なく同音意義の熟語が多い我が国では、言葉の学習は口述だけでは不可能であり、文字による学習が不可欠だった。
音節を聞き分ける能力は6才くらいで固定してしまうと言われている。6才で耳にしたのが「イキナクロベイ ミコシノマツニ アデナスガタノ オトミサン」では、万葉人より音節を聞き分ける能力が低下しているのは明らかである。ましてやRとLの区別など聞き分けられる訳がない。