August 29, 2012

ハカルワカル広場

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昨日は八王子夢美術館で開催中の「桑沢学園のアート&デザイン展」を見た、そのついでに、八幡町まで足を延ばし八王子市民放射能測定室・ハカルワカル広場を見学、早川マップも戴いてきた。此処は一検体当りの料金も1000円と安く、測定結果も情報公開し、だれでも見られるようにしてある処は...何処かの電力会社とは大違い。
ついでのついでに八幡町まで歩いて来たからには、甲州街道を車で荒物加島屋の前を通り過ぎる度に店先に掛かっていた箒が気になっていたのだが...その念願の箒(別名:元気掃除機)をようやく手に入れる。やっぱり荒物屋でないと...。

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August 24, 2012

嘗てiPhoneと...

嘗てiPhone3GSと呼ばれていた物体であるが、Pocket Geiger Type-1で線量を計測中に液晶の左上にバックライトの光漏れが生じ...暫くするとブラックアウト...液晶パネルが反り返り、上部1/3程が筐体から外れてしまった。乱暴に扱った覚えはないが、ん〜...機種変更で iPhone4Sにして御役御免となってから、あまり構って上げなかったのがいけなかったかな。それにしても液晶パネルと基盤を繋ぐソケットの小さいこと...

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August 20, 2012

Pocket Geiger T4


Pocket Geiger Counter KITのType-1はバッテリーケースの分だけかさばり携帯性がいま一つなので、バッテリー不要で携帯性も良く2分で計測できると云うType-4を注文した。お盆開けに発送と云うことで、昨日...代金引換えで郵便配達された。

と云うことで本日の測定結果であるが、左から2分、10分、20分と云う結果である。まぁ一応、誤差の範囲内と云うことでしょうか...。Type-1でも計測をと...試みたが...昨日使ってからバッテリーケースのスイッチを入れたまま忘れていた。再びスイッチ入れると...電圧不足の所為か異常値を示したのでバッテリーを交換してから試すことにしよう。

Posted by S.Igarashi at 11:24 AM | コメント (0)

August 16, 2012

原爆の子

先日、宇都宮から那須へと遠征した折り、飲み会で被爆のことが話題になった。そう云えば6年前に東京新聞の記事『「原爆の子」片岡脩の生涯』をエントリーしてあったのを思い出し、更にネット検索してみると、その記事を補足すべく内容の、片岡さんが中学時代に書き残した手記が見つかった。「原爆の子」は駅前の古書店で偶々見つけた時に買ってあったのだが、芸大時代の片岡さんの友達だった嘗ての私のボス・高木さんと同年齢だと思い込んでいた。どうりで終戦当時小学3・4年生だった「原爆の子」の頁を探していても見つからない訳だ、片岡さんは中学一年で被爆していたのだ。と云うことで被爆後間もない中学時代に書かれた脱出手記と被爆から6年後に書かれた「原爆の子」とを改めて読み直してみた。

少年から青年への成長は表現力にも表れている。脱出手記の『...爆音が遠くなりかけた瞬間、パッと朱色の色、セルロイドを燃やしたような光、気味の悪い光がしたと思うと...』が「原爆の子」では『パッと鋭い閃光!巨大なセルロイドの塊に一度に火をつけたとでも言おうか、形容しがたい、きついヴァーミリオンのフラッシュに目を射られた時には...』...と...如何にも芸大受験を志している若者らしい絵画的表現へと変わっている。被爆地の惨状を伝える描写は...丸木位里・俊の「原爆の図」を彷彿とさせる。そして最後に...『私はもうこれ以上書けない。私はここまで書いて、もうペンは握れなくなった。この文を私は二度と再び読み返す気にはなれないだろう。未完のまま...』と結んでいる。没後6年を経て2003年に開催された『片岡修 平和ポスター回顧展』のハガキには

『...以来、被爆による病魔との戦いの人生でありながら、体験を語ることは頑なまでに拒み続けていた。しかし、被爆40周年を機に、何かを吹っ切るように原爆を題材に100枚の平和ポスター製作に挑む。しかし、1997年12月末、残念ながら64枚で命脈尽きる。片岡は制作にあたり、「惨状は鮮明に覚えている。しかし、それをそのまま表現するのではなく、それを乗り越えた表現の中で平和と愛を考えたい」と語っていた。』
と記されている。
リンク:被爆した中学同級生関係のサイト
核のない平和な21世紀を!被爆体験を通じて
被爆者・ ヒロシマからのメッセージ

Posted by S.Igarashi at 10:04 AM | コメント (0) | トラックバック

August 15, 2012

戦場体験史料館

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8月14日付東京新聞夕刊一面に『戦争の記憶「今残さないと」』の記事が、公開は8月15日から。

東京MX-TV(8月14日):終戦から67年? 八王子空襲を語り継ぐ2人の思い
高尾駅1・2番線ホーム上屋支柱の弾痕とか大和田橋の焼夷弾・弾痕の映像も...

Posted by S.Igarashi at 09:00 AM

August 13, 2012

Flipboad


と云うことで...私がiPadでFacebookやTwitterをブラウズするのに補助的に用いている Flipboadです。キャッチコピーに「あなたのソーシャルニュースマガジン」とあるようにFacebookのニュースフィードやTwitterのタイムラインを雑誌風なレイアウトで画像を含めて表示してくれるので、それらをザックリと見るのに重宝している。カテゴリー毎に分類され最新のトピックを探してくるので思わぬ発見もあったりするのである。


Posted by S.Igarashi at 11:06 AM

August 11, 2012

フィンランドのくらしとデザイン

昨日は2004年のリートフェルト展以来、8年ぶりに宇都宮美術館を訪れ「開館15周年記念 フィンランドのくらしとデザイン ムーミンが住む森の生活」を見てきました。今回の展覧会を企画された主任学芸員の橋本さんとはリートフェルト展の時はブログによるコンタクト、今回はFacebookを通じて案内を戴き、所謂ソーシャル・ネットワークを巡るこの8年間のIT技術の革新に応じたコミュニケーション方法の変化を思うと感慨深いものがあります。
「フィンランドのくらしとデザイン」と云うテーマも「リートフェルト展」と同様に宇都宮美術館・運営の三つの柱である地域・生活・環境に則し、地に足の着いた展示内容となっています。宇都宮美術館での展覧会は8月26日まで、その後は東京をスルーして9月から静岡市美術館で開かれますが、「...ムーミンが住む森の生活」に相応しい会場は森の中に建つ宇都宮美術館しかないでしょう。
関連
aki's STOCKTAKING:フィンランドのくらしとデザイン
Things that I used to do.:フィンランドの暮らしとデザイン

今回の展覧会ではアールトの作品は建築ではなく家具や照明器具等の暮らしに寄り添うデザインにフォーカスして展示されています。アールトと云えば1996年のN.Y.MOMAの企画によるアールトの回顧展は世界を巡回し、1998年に西武系のセゾン美術館で開催され、確か閉館された池袋・セゾン美術館、最後の展覧会だったと記憶しています。1996年当時、私は日本でも開催されるとは露知らず、Amazon.USAから初めて購入した本がアールト展の図録(英語版)でした。その図録に掲載されていた写真と外形寸法から作成したのが、左のパイミオ・チェアーとアームチェアーです。右側は"artek"のサイトから.dwgのデータをダウンロードしてVectorworksに取り込んだものです。見た目には大差ないように見えますが、外形寸法の表記を"W×H×D"と思い込んでいましたが、.dwgのデータを検証すると"H×W×D"だったようで、当たり前と思っていた寸法表記も国やカテゴリーが異なると、そうではないようです。因みにパイミオ・チェアーはVectorworksの3Dパス図形のスキルアップを目的とした課題の事例として選んだものです。

Link
artek
iittalaイッタラ SHOP JP
marimekko(マリメッコ)表参道吉祥寺

Posted by S.Igarashi at 04:17 PM

August 05, 2012

67年前の8月5日

67年前の8月5日のここ「湯の花トンネル」は今日と同じように暑い夏の日だったそうだ。
東京新聞「太平洋戦争末期 列車銃撃事件 風化させない

Posted by S.Igarashi at 07:00 PM

August 01, 2012

"underground" or "underpass" or "underbridge"

銀座シネパトスのある三原橋地下街は"underground"と云うよりも"underpass"或いは"underbridge"と呼ぶのが相応しいかも知れない。「明日のジョー」の丹下ジムは思川に架かる泪橋の橋の下を想定しているが、いつの時代でも橋の下は流れ者のイメージが付きまとう。三原橋地下街は三十間堀川の三原橋の橋下に敗戦後の瓦礫処理による埋め立て工事に併せて地下街が建設されている。晴海通りの"underpass"にもなっている三原橋地下街通路は嘗ての堀川...紛れもなく低湿地そのものの通路にへばり付く店舗が漂着物に見えるのは幻想ではなく...現実そのものだ。三十間堀川の河川敷地内利権を巡っては当時の衆議院でも問題となったようだ。
第019回国会 地方行政委員会 第83号 昭和二十九年十月三十一日(木曜日)
そんな経緯をまとめて元地図屋さんによる「ハマちゃんのがらくた箱・三原橋地下街の謎」と云う良く調べられた記事がネット上にあります。

『川の地図辞典 江戸・東京/23区編』と『川の地図辞典 多摩東部編』を執筆した菅原健二氏の「川跡からたどる江戸・東京案内」の「第三部 水の都・江戸の面影を求めて」「第五章:水路が張りめぐらされていた街をたどる」「三原橋が架かる三十間堀川」によると...

三十間堀川は、家康が江戸入りした当時の江戸前島東側の海岸線で、この沖合に護岸を設けて東側に埋立地を造成したのだが、その際、海岸線際を埋め残して作られた水路だ。
と書かれている。そうすると当時は下図の様になっていたのだろう。

嘗ての海岸線に造られた三原橋地下街は新しい耐震基準に合わない耐震不適格建造物として解体撤去される運命となった訳だが、地権者である東京都にとって...また貸しされたテナントを追い出すこれ以上の口実は考えられないだろう。
そういえば、高木滋生建築事務所に在籍していた時に映画興行主の物件(映画館跡地利用)を数件計画したことがあったが、いやはやどうして...若手事務所(当時)が対等に渡り合える相手ではありませんでした。


1980年代に傳八が開店した当時、三原橋地下街の映画館は、いわゆるエロ映画専門で、傳八の入口付近にエロ映画の看板があると云う状況でしたが、銀座の街並を眺めながら呑める居酒屋として客足が増えた所為か...三原橋地下街の映画館も名画座となり...入口付近の如何わしさが払拭された。これを傳八効果と云う。
関連:aki's STOCKTAKING・三原橋・銀座/傳八

Posted by S.Igarashi at 04:43 PM | コメント (2)