先日、宇都宮から那須へと遠征した折り、飲み会で被爆のことが話題になった。そう云えば6年前に東京新聞の記事『「原爆の子」片岡脩の生涯』をエントリーしてあったのを思い出し、更にネット検索してみると、その記事を補足すべく内容の、片岡さんが中学時代に書き残した手記が見つかった。「原爆の子」は駅前の古書店で偶々見つけた時に買ってあったのだが、芸大時代の片岡さんの友達だった嘗ての私のボス・高木さんと同年齢だと思い込んでいた。どうりで終戦当時小学3・4年生だった「原爆の子」の頁を探していても見つからない訳だ、片岡さんは中学一年で被爆していたのだ。と云うことで被爆後間もない中学時代に書かれた脱出手記と被爆から6年後に書かれた「原爆の子」とを改めて読み直してみた。
少年から青年への成長は表現力にも表れている。脱出手記の『...爆音が遠くなりかけた瞬間、パッと朱色の色、セルロイドを燃やしたような光、気味の悪い光がしたと思うと...』が「原爆の子」では『パッと鋭い閃光!巨大なセルロイドの塊に一度に火をつけたとでも言おうか、形容しがたい、きついヴァーミリオンのフラッシュに目を射られた時には...』...と...如何にも芸大受験を志している若者らしい絵画的表現へと変わっている。被爆地の惨状を伝える描写は...丸木位里・俊の「原爆の図」を彷彿とさせる。そして最後に...『私はもうこれ以上書けない。私はここまで書いて、もうペンは握れなくなった。この文を私は二度と再び読み返す気にはなれないだろう。未完のまま...』と結んでいる。没後6年を経て2003年に開催された『片岡修 平和ポスター回顧展』のハガキには
『...以来、被爆による病魔との戦いの人生でありながら、体験を語ることは頑なまでに拒み続けていた。しかし、被爆40周年を機に、何かを吹っ切るように原爆を題材に100枚の平和ポスター製作に挑む。しかし、1997年12月末、残念ながら64枚で命脈尽きる。片岡は制作にあたり、「惨状は鮮明に覚えている。しかし、それをそのまま表現するのではなく、それを乗り越えた表現の中で平和と愛を考えたい」と語っていた。』と記されている。