深海魚・勝又進 著
東京人7月号の「特集・ガロとCOMの時代」を読んでいて気になった作家がいた。掲載作家のリストにはあったが、作品は紹介されておらず、無視されていたから余計に気になった。そういえば数年前に死亡記事を見たような気がしたので取り敢えずGoogleで検索してみた。勝又進が「ガロ」に描き始めた頃は確か未だ理系の大学院生か研究生か助手か何かだったと記憶していたが、大学院で原子核物理学を専攻していたとは知らなかった。最初は4コマ漫画が長くても8コマ位の短編しか描いていなかったが、後に民話の世界に着想を得た短編を書き始めたこと位までは知っていたが、30年前の1984年に福島第一原発を取材し原発で働く被爆労働者を扱った漫画を書いていたことは知らなかった。
本書は勝又進 の死の四年後に起きた3.11を踏まえて新たに編纂された遺作集である。腰巻きの勝又進の言葉。
Amazonから届いた本書を最後の解説まで読んでみて、何故「東京人」が勝又進を無視と云うか排除したのか、「東京人7月号」奥付の編集後記の文脈に隠されている様な気がしたが、考え過ぎだろうか。
本書を読んで初めて勝又進 の出自を知った。彼は戦時中、宮城県桃生郡河北町(現・石巻市)で私生児として生れ、幼くして実母を亡くしている。4コマ漫画には見られなかった勝又進の短編作品に通奏低音の様に流れる孤独感や疎外感の源流は其処にあったのかも知れない。純文学的な私小説的漫画表現から、民話に主題を求めたファンタジー、科学知識に基づいた児童向けの理科系の図書、反原発や冤罪をテーマにした作品と、その作品の幅は広かった。彼が生きていたら故郷を襲った津波被害や原発事故で棄民とされた寄る辺なき人々に寄り添った問題作を描いていただろう。
内容(掲載作品)
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・深海魚 (COMICバク 1984年12月)
・デビルフィッシュ(蛸)(季刊リトルボーイ 1989年4月)
・かっぱ郎 (ガロ増刊・勝又進特集 1969年10月)
・半兵衛 (ガロ 1973年8月)
・わら草紙 (ガロ 1970年5月)
・木の葉経 (ガロ 1970年11月)
・冬の虫 (COM 1971年3月)
・冬の海 (ガロ 1971年4月)
・春の霊 (ガロ 1972年3月)
・収録作品解題 斧田小
・解説 阿部幸弘
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関連
金平茂紀:勝又進「深海魚」のこと
闇に消される原発労働者
東京人7月号は丁度半世紀前の1964年に創刊された「月刊漫画・ガロ」と、その3年後に創刊された「月刊コミックマガジンCOM」の特集である。僕が未だ中学生の頃だったと思う、忍者武芸帳の白土三平が新しい雑誌に漫画を連載し始めたと云う話を耳にした。「月刊漫画・ガロ」にカムイ伝が創刊された年の12月号から連載された訳だから、多分、1964年12月から1965年3月の間だと思う、高尾に一軒だけあった本屋の小沢書店に兄と共に行ったのは。小沢書店の小父さんは「月刊漫画・ガロ」なんて雑誌があることを知らなかったので、店頭に置いてある筈もなく、月極めで注文し、毎月配達してくれることになった。「月刊コミックマガジンCOM」は誰かが買っていたので手塚治虫の火の鳥だけを見ていたが、雑誌としての記憶は希薄である。それに較べると「ガロ」の最初の10年間の中身は濃かった。毎号、問題作に溢れていた。まぁ、なんと云っても本号で川本三郎がインタビューしている「つげ義春」は「ガロ」に寄稿したのが僅か5年だけだが、作品は単行本や文庫本となり未だに売れ続けているし、本の体裁が変わったりすると、つい買ってしまうのである。
因みに特集記事とは離れるが、本号124頁には槇文彦氏による『これからの東京。その中で「新国立競技場」を考える』が八頁に亘って掲載されている。
特攻隊振武寮──証言:帰還兵は地獄を見た──
大貫 健一郎・渡辺 考 共著
本書は二本のテレビドキュメンタリー『ETV特集「許されなかった帰還〜福岡・陸軍振武寮〜」』と『NHKスペシャル「学徒兵 許されざる帰還〜陸軍特攻隊の悲劇〜」』の取材をベースに元陸軍少尉・大貫健一郎氏の証言と、その時代背景等を検証・解説する渡辺 考氏(NHKデレクター)によって一冊の書籍にまとめられたものである。本書の帯にも書かれているように歌手・大貫妙子さんは大貫健一郎氏の長女であり、本書の後書きは大貫妙子さんと渡辺 考氏の対談に換えられている。私が本書について知ったのも大貫妙子著『私の暮らしかた』からである。
元より整備状態も悪く機関砲も外され250kgの爆弾を抱え戦闘機の体を成していない隼に乗り、連合軍艦隊の位置情報も気象状況も与えられぬまま無謀な特攻出撃任務に就き、徳之島上空でグラマン機に迎撃され、オイルタンクを損傷した隼は墜落を辛くも免れ徳之島に不時着、機体を離れた直後にグラマン機の機銃掃射を受け隼は炎上、奇跡的に生き延びる。
振武寮に帰還すると上官から『なんで貴様ら、帰ってきたんだ。貴様らは人間のクズだ。』と罵倒の言葉。
『人間のクズ』この言葉、最近、何処かで聴いたことがあるなと思ったら、特攻隊を礼賛する映画の原作者で現首相のお友達で日本放送狂会の経営委員になった輩で、矢鱈と意図的に問題発言を繰り返す男が発した言葉と同じ。まぁ『人でなし』に『人間のクズ』と言われても、まだ『人間だもの』….『人でなし』よりマシだ…。
軍需工場の現場責任者だった私の父は徴兵されることはなかったが、度々、深夜うめき声を上げ、脂汗をかき目が覚めることがあった。呑気そうに見えた近所の小父さんも、同じように悪夢で魘されていたようで、他の人に聞いてみても、我々の父の世代、戦地に行った者も、内地に居た者も、戦争体験者は悪夢で魘されることが多い。忘れたいけど、忘れられない。悲惨な体験をした人ほど戦争体験を封印してしまうことが多い中、自己の体験を語り継ぐことの勇気は尊い。
『喜び勇んで笑顔で出撃したなんて真っ赤な嘘。特攻隊の精神こそが戦後日本の隆盛の原動力だ、なんて言う馬鹿なやつがいますが、そういう発言を聞くとはらわたがちぎれる思いがします。陸海軍合わせておよそ4000人の特攻パイロットが死んでいますが、私に言わせれば無駄死にです。特攻は外道の作戦なのです。
言い尽くせない思いがあります。我々は普通の若者だったし、みないろんな夢を持ってました。あの時代にぶちあたって運が悪かったと思うことや、青春を謳歌しているいまの若者たちを見てうらやましく思うことがあります。でもいまの若者も不幸にして戦争に直面すればやむをえず特攻隊員になってしまうかもしれない。そんな時代が二度とやってこないようにするためにも、私は自分が見た悲惨をしっかりと後世に語り継ぎたいのです。
特攻に対しては、いろんな考え方があるでしょうけれど、帰するところは、あんな無茶な作戦二度とごめんだということ。これは生き残った者、死んだ者、みんな同じ思いだと思いますよ。戦後六〇年、特攻のことをひとときだって私は忘れていません。』
第一章「特殊任務を熱望する」
特別操縦見習士官
大刀洗から北支、そして明野へ
敵を殲滅する任務
フィリピンに散った仲間たち
〈解説〉
太平洋戦争と特攻作戦
陸軍は大陸、海軍は太平洋/絶対国防圏の危機/
マリアナの七面鳥撃ち/跳飛爆撃/台湾沖航空戦/
神風特別攻撃隊/「万朶隊」と「富嶽隊」/
学徒パイロットたちの「大戦果」/
フィリピン戦線からの敗退
第二章 第二二振武隊
黒マフラーの飛行隊
任務は本土防衛
初めて気づいた特攻の困難
知覧へ
〈解説〉
沖縄戦前夜
驚愕の「ウルトラ文書」/張り巡らされたレーダー網/
駆逐艦ラッフェイ号/六〇冊の「菅原軍司令官日記」/
「天号作戦」と「決号作戦」/沖縄戦準備の混乱/
焦燥の菅原中将
第三章 知覧
菅原中将との再会
エンジントラブル
仲間たちの出撃
夢か現実か
「困難を排し突入するのみ」
〈解説〉
陸海軍の不協和音
アメリカ軍の沖縄上陸/海軍主導の特攻作戦
第四章 友は死に、自らは生き残った
再出撃
グラマン機との遭遇
徳之島での再開
喜界島の困窮生活
内地への生還
〈解説〉
陸軍第六航空軍司令官の絶望
菅原中将の嘆き/義烈空挺隊
第五章 振武寮
「死んだ仲間に恥ずかしくないのか」
台中に届いた戦死公報
倉澤参謀への反発
本土決戦への特攻要員
〈解説〉
軍神たちの運命
靖部隊編成表/倉澤参謀最後の証言/沖縄決戦から本土防衛へ
第六章 敗戦、そして慰霊の旅
菰野陸軍飛行基地
八月十五日
新橋マーケットの「用心棒」
母の死から始まった私の戦後
「特操一期生会名簿」
仲間たちの墓参
なぜ俺だけが
〈解説〉
上官たちの戦後
「父は自決すべきでした」/いつも拳銃を携行していた倉澤参謀
終章 知覧再訪
あとがきにかえて
主要参考文献
謝辞
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『音楽で世界が平和になるとは思ってないし、そんなに甘いものではないとわかっています。でも、音楽は時代を映す鏡だと思うし、過去においてもすべての芸術がそうだったように、音楽家には表現することの自由が与えられています。マスという顔の見えないところに向かって歌うのではなく、身近な人へのメッセージこそが、まっすぐに届く言葉であり共感へと結びついていくはずです。そういう姿勢は、これからも貫いていきたいですね。』