格差社会と差別の表象である原発を永年にわたって追い続けているフリー報道写真家 樋口健二氏へのインタビューである原子力資料情報室・映像アーカイブ:「 原発被ばく労働について」を見て、早速、Amazonに注文し、届いたのが本書である。本書は1981年の「三一書房」版と、2002年の「御茶ノ水書房」版があるが、それらが絶版となり「八月書房」より「増補新版」の発行が進められている段階で「3.11」の大惨事が起こった。
嘗てメタボリズムと云う建築思潮が1960年代から70年代に我国の建築家を中心に起きた。平たく云えば新陳代謝する建築を意匠的に表象する試みである。海外ではアーキグラムがそれに近く、そうした影響を受けて建築された代表がパリのポンピドーセンターであろう。それまで天井裏等に隠されていた建築設備の配管やダクトが外部に露出され表わにされた。それは建築を構成する各エレメントの耐用年数に対応した交換可能なデザインでもある。建築を生業にしていなくても、多くの負荷の掛かる設備機器や配管類の寿命が建築本体に較べて短いことは常識の範疇だろう。
樋口健二氏は発表されている事故の起きた原発建屋内の写真は稼働している原発建屋内と異なり、原子炉を取り巻く冷却装置等の配管類が全て爆発で吹き飛んでおり、通常と異なると云う。原子炉の寿命が35年とも40年とも云うが、原子炉冷却槽から発電用蒸気タービンに送る配管や、冷却等の配管の寿命は更に短く、定期的に交換しないと内圧に耐えられなくなるだろう。それらを点検、補修、交換するには、原発建屋内の被爆する可能性の強い放射線管理区域内に入らなければならない。原発事故を未然に防ぐには必要なルーティンである。それを誰が行うか...闇に消される原発労働者だけとしたら...。
-------------------------------------------------------------------------------------
闇に消される原発労働者(増補新版)目次
・原発大惨事に思う--まえがきにかえて
第1章 原発被爆裁判
国を相手の孤独な戦い
科学を無視し、完全犯罪に手をかす判決
第2章 筑豊の原発被爆者
元炭坑に生きた人の被爆証言
第3章 被爆、そして死
倦怠感に悩まされる原発被爆者
開拓集落の被爆者
被爆死者と遺族の証言
第4章 労組委員長と敦賀原発内部
原子力時代が必ずくる
定期検査中の敦賀原発内部へ
第5章 被爆労働者とJCO東海事故
下請け親方も原発内で被爆す
高校生が原発内労働のアルバイト
慢性骨髄性白血病の青年の死
劣悪な原発労働でも労災認定を勝ち取った故・長尾光明さんと故・喜友名正さん
「悪性リンパ腫」で絶望的な死をとげた故・喜友名正さん
「臨界事故」翌日からの東海村
第6章 核燃料輸送と核燃料サイクル基地
核燃料輸送隊を追って
巨大原子力半島と化す下北半島
-------------------------------------------------------------------------------------
追記:五十嵐先生はジャズがお好きなようですから、平岡正明をお読みになったことはあるでしょう。彼のような筆者は、エンゲルスの『ユートピアから科学へ』をもじって『科学からユートピアへ』などととしばしば言っていたものです。このような考えに影響を与えたのがベンヤミンの『歴史哲学テーゼ』、とくにテーゼXIです。馬鹿馬鹿しいと思われるかも知れないが一度お読みになることをおすすめします。
Posted by: Tosi at September 14, 2011 12:35 AMしかし現実には残念ながら五十嵐先生が「科学的ではない」とおっしゃるものが制度的に「科学」を代表してしまっているのであって、逆に五十嵐先生がおっしゃる警鐘を鳴らし続ける勇気ある科学者たちは冷遇される少数派なのです。この図式は日本では水俣病のころからほとんど変わっていません。「科学や技術が経済に隷属している」ということは、現実には科学や技術が資本や国家から独立した中立的なものではまったくないということを意味しますが、それは私も繰り返してきたことです。
「人類全滅の可能性をも考え出した現代人は、前代未聞の「自由」、前代未聞の「不安」、そして前代未聞の「進歩」をかちとったといえるのではないか」と前川國男は1964年に書いていますが、「人類全滅の可能性」とは、この文脈においてはおそらく軍事核のことです。その開発には言うまでもなく当時の世界最高水準の科学者たちが動員されたのです。ここには科学技術に関連する倫理の問題があります。私はいわゆる「科学的知識」が必要ないといっているのではありません。倫理や責任が優先されるべきであって、それらは純粋に科学的な知識の外部に存在するものだと言いたいのです。たとえば、ある研究がゆるされるかどうかを判断するさいに、仮に討議に参加しているすべてのひとが全く同一の科学的データ(与件)から出発し、全く同一の科学的知見にもとづく予測なり影響評価なりを前提にしているとしても(こんなことは現実にはほとんどありえませんが)、その場合でさえも、倫理や責任を優先するか否かでは、それらから引き出されうる結論は大きく異なるでしょう。これは「非科学的態度」でもなければ宗教保守主義・原理主義の立場から遺伝子医療に全面的に反対する人々を支持することでもありません。超えてはならない一線がどこにあるかを決めることは、倫理や責任の原理にもとづく、非常に困難な判断であるはずだと思えるのです。
前川國男は「進歩」という語をかぎ括弧にいれており、私も前のコメントではそういう配慮をしたつもりです。五十嵐先生が、科学や技術はあくまで中立であり、それらが資本や国家によって歪められていることが問題で、「歪められた科学」と「正しい科学」のあいだで正確な峻別がなされ得るし、前者から後者、つまりかぎ括弧にはいらない本当の科学や技術を救い出すことができるというお考えをおもちであることは尊重します。
なお、核エネルギーの利用は(その非人間性における「程度の差」はかなりあるにしても)日本以外でも下請け労働者の被曝を前提にしたものになっていることは否めません(たとえばクレ=マルヴィルの高速増殖炉の解体作業はそのことが顕在化した例といえるでしょう)。
メタボリズムやアーキグラムについてていえば、それらのうちに建築と都市における持続可能性の探求の萌芽のようなものがあったことは本当でしょう。しかし他方で、大量消費社会の表象や欲動のようなものも、これらの運動から払拭することは難しいように思えます。
問題は科学や技術が経済に隷属していることでしょう。確率論的な視点からは百分率や千分率で表わされる小数点以下の数値は無視され、無いものとされ、科学者による警鐘は無視され続けてきていることでしょう。
核廃棄物の処理もできない、維持管理に高度な職人技や被爆する労働者を必要とする。これは...どう考えても科学的ではない。科学は信じるものではなく、今、起こっていることを理性的に理解する為のものでしょう。
Posted by: iGa at September 13, 2011 09:27 AMたまたま樋口健二さんの「原発被曝列島」を図書館から借りて読んでいるところでした。こちらは1987年12月に第1版がでています。内容はやはり原発で働く人々へのインタビューですが、ほぼ四半期経った現在でもその運用の実態は変わっていないのではと感じました。事故のあるなしにかかわらず被曝しながらの労働が必要とされる原発は常に人を蝕んでいく殺人マシンであると思います。
Posted by: マスクマンすずめ at September 13, 2011 01:25 AM私は前のコメントで「テクノロジーの発展」そのものが「言語と思想(における批判的精神)」を衰退させているという意味のことを言いたかったのですが、もし「化石燃料を燃やすこと」から「核分裂反応を利用すること」への移行が「科学技術の進歩」だとしたら、この「進歩」は(すくなくとも日本においては)その実現のためにすさまじい社会的退歩と犠牲を恒常的に強要するものだということが解ります。それはまさに長く続くカタストロフです。
Posted by: Tosi at September 11, 2011 10:45 PM