20日の土曜日は「江戸の崖 東京の崖」重版記念「崖巡り」と云うことで、芳賀さん自らのの案内で武蔵野台地の東端・上野台地の対岸にあたる下総台地は西端の標高差約20mの崖線を巡ったのである。(因みに凸凹地図はGoogle Earthに「東京地形地図」のレイヤーを重ねたものです。)
江戸川河川敷を船着き場に向かうJEDI一行 ...人の後を付いて行くだけというのは...らくちんですね。
対岸の松戸側の河川敷を野菊の里に向かう。(咲いているのは野菊でなくコスモスです。念の為)
野菊のやうな人(右側の人でなく、左の石碑です。念の為)
当日の移動距離・概算(GoogleMapによる)
徒歩:柴又駅〜矢切の渡し・柴又側船着き場:約1.11km+α(個人差)
徒歩:矢切の渡し・矢切側船着き場〜北総線・矢切駅バス停:2.28km+α(個人差)
バス:北総線・矢切駅バス停〜総武線・市川駅前:3.08km
「フーテンの寅」風に云えば『生まれも育ちも(但し7才まで)足立梅田、西新井大師で産湯を浸かり...』となるのだろうが...同じ東京の低湿地、ましてや隣の区であっても...荒川放水路流域と江戸川・下流域ではその風土も似ているようで、だいぶ違うなぁ...と云うのが...歩いてみた印象。柴又帝釈天は70年代の終わり頃、アルバイトで青戸の二所帯住宅を設計したことがあり、そのついでに一度だけ来たことがあるが、参道風景や境内も西新井大師をコンパクトにした感じだったが、メディアの力と云うべきか...30年以上経た今日では...すっかり映画セットの様にテーマパーク化していたのには...なんともである。江戸川を渡った野菊の里の下総台地の崖線と江戸川の氾濫原がつくりだす風景は...記憶している昭和30年代前半まで残っていた...足立の田園風景とは趣が異なっていた。何れにせよ...川と云うか水辺は...狭い国土に残された...貴重なオープンスペースであることを認識させてくれるのである。
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aki's STOCKTAKING:崖巡り
写らなかった戦後 「ヒロシマの嘘」
福島菊次郎・著
90歳になる報道写真家に迫ったドキュメンタリー映画・『ニッポンの嘘』のシナリオの底本となった本だが、これも著者が82歳の時の書き下ろしだ。この「写らなかった戦後」はシリーズ化され、2005年に『写らなかった戦後 2「菊次郎の海 」』が、そして2010年に『写らなかった戦後3「殺すな、殺されるな」 福島菊次郎遺言集』が出版された。そして、その半年後の3.11にメルトダウンが起こり、再び、彼を報道の現場へと向かわせた。
戦後、地方都市で時計屋を営み趣味で写真を撮っていた市井の一個人が42歳にて報道写真家へと変身し、62歳で此の国の有り様に絶望し瀬戸内海の無人島に移り棲む...自身も癌に侵され満身創痍の身ながら、再び...カメラをペンに持ち替えて...此の国の欺瞞と矛盾に満ちた有り様を告発する。このエネルギーは何処から出てくるのだろうか。『見て見ぬフリをすることは主権の放棄へと繋がり、為政者を暴走させる。』...と彼は言う。全く以てそのとおりだ。
孫崎享が自身のツイッターで自署である「戦後史の正体」について肯定的評価を堂々と述べる人に共通している事は「覚悟を決めて生きている人」だと言っているが、福島菊次郎も「覚悟を決めて生きている人」だろう。孫崎享の「戦後史の正体」が米国からの圧力を軸に読み解いたモノならば、福島菊次郎の「写らなかった戦後」は国家から見捨てられた人々に寄り添い、底辺から読み解いた菊次郎による「戦後史の正体」だろう。当然ながら其処に「米国からの圧力」も透けて見えることは言うまでもない。
目次
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240秒しか写さなかったヒロシマ---まえがきに代えて
鵯 ピカドン、ある被爆家庭の崩壊二〇年の記録
鵺 原爆に奪われた青春
ブラジルから来た被爆者、島原邦子さんの死
原爆乙女の怒り「私には強姦してくれる男もいないの」
広島妻の訴え--原爆孤児・野沢靖子さん(仮名)の青春
鶚 四人の小頭症と被曝二世・昭男ちゃんの死
マーちゃんとミーちゃんとチーちゃん
百合子ちゃん
原爆医療の谷間で殺された被曝二世・昭男ちゃん
鶤 被爆二世たちの闘い
親父を哀れな被爆者のまま死なせたくない--徳原兄弟の反逆
被爆二世医師と内蔵逆位の青年たちが支えた病院
鶩 広島取材四〇年
炎と瓦礫の街で
虚構の平和都市誕生
被爆者はそれでも生きていた、三〇人の証言
天皇、慰霊碑「お立ち寄り」
原爆スラム、その差別の構造
ヒロシマの黒い霧、ABCCは何をしたか
四〇万人の葬列
重藤原爆病院長の苦悩
鶲 広島西部第一〇部隊、僕の二等兵物語
鷄 僕と天皇裕仁
軍国主義教育….狂気の青年時代
敗戦と天皇の戦争責任
同級生の南京大虐殺
福島二等兵の反乱
満身創痍の玉砕
鷁 原爆と原発
鶻 カメラは歴史の証言者になれるか
あとがき
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昨日、市ケ谷での午前中の授業を終え地下鉄南北線で六本木に向かった。目的地は映画・ル・コルビュジエの家を上映している「シネマート六本木」だ。映画館は六本木・瀬里奈の隣なので、南北線・六本木一丁目駅で降りて裏道を適当に歩いて行こうと、一番出口から地上に出る。すると、其処にあった筈の建物が姿を消していた。仮設ゲートの隙間から見るとプレキャストコンクリートの柱型と梁型のモジュールがまるでモックアップの様に一つだけ残されていた。1971年11月に竣工されたと云うこのビル、僅か40年で姿を消したことになる。設計時にコンピュータグラフィクスを用いて高速道路からのシークエンスを解析したことでも話題になったが...その当時は最新技術だったワイヤーフレームによるコンピュータグラフィクスも...現在から見れば考えられないほど稚拙なものであった。
空撮写真には残っている日本IBM本社ビルも六本木プリンスホテルも地上から姿を消した。そういえば、赤坂プリンスホテルの解体工事は...何処まで進んでいるのだろうか。
ツインコアの一部とプレキャストコンクリートの柱梁がモックアップの如く残っていた。ガードマン曰く「解体は早い!」そうだ。
1971年の竣工当時は首都高・谷町ジャンクションのランドマーク的存在であった地上22階のビルも付近の再開発ビルの谷間に埋もれてしまい、商業的価値を失い粗大ゴミとして処分されるとは...果たして、我々はいつまで粗大ゴミを再生産し続けるのだろうか。
たむら君の新しい絵本「ニットさん」がイースト・プレスから出版された。
これは彼のファブリック・シリーズとも言うべきもので、2003年の『ごろんこ ゆきだるま』の時は布地を染め付けるところから始めたらしいけれど、今回は「ニットさん」のタイトル通り、編み物を画材にしてしまったのだ。彼は一つの技法だけに拘ることなく、コンピュータでも何でも等しく道具であり、使えそうなものなら画材に変身させてしまう「まほうつかい」なのだ。
7月29日に三原橋の銀座傳八に行ったとき銀座シネパトスのポスターで知ってツイートしたのは良いが、8月、9月と時が過ぎ、新宿のK's cinemaで明日・午前の回で上映終了となるニッポンの嘘を漸く、滑り込みで見てきた。噂に違わず、無理をしても見て良かったと思えるドキュメンタリー映画であった。福島菊次郎が報道写真家として生きる切っ掛けとなった『ピカドン ある原爆被災者の記録』の撮影に於いて、被写体となる原爆被災者に寄り添い、向き合い、シャッターを切る。フィルムに現実を晒し露にする時、写される方も、写す方も互いに精神的に無傷ではいられない。その現実的な重みを押しても表現しなければいけないもの、まさにそれがニッポンの嘘なのだ...。映画は日本の欺瞞に満ちた戦後史を描いているが、それは現在も原発行政、オスプレイへと連鎖している。3.11以降、各地で反原発抗議行動が起きているが、祝島での島民による反原発抗議行動は毎月曜日、27年間も続いていると云う...私たちが知らなければならない事がこの映画に描かれている。
因みに東京ではその後、下高井戸シネマにて12/1(土)〜12/14(金)の日程で公開されるそうである。