客の足下につけ込むのか通常の三倍の価格付けをしている。まったく阿漕な商売をするようになったものだ。
先日放送されたNHKスペシャル・貧困子どもの未来を救え〜貧困の連鎖を断ち切るために〜を見てたら、ある母子家庭の一日の食費が300円だとか…あたしも350円のかき揚げはとても無理…野菜の直販場で買った山芋が残っているので、それでトロロ蕎麦で年越しかな...
グアバの香り――ガルシア=マルケスとの対話
今年四月に亡くなったガブリエル・ホセ・ガルシア=マルケス(Gabriel José García Márquez)の対話集である。本書(原書)が刊行されたのが1982年、翻訳版の刊行は昨年(2013)と実に31年もの開きがある。中南米文学が国内で話題になったのは1970年代後半からだろうか…「百年の孤独」の新潮社版が刊行されたのが1972年の様だから、そんなものだろう。「一章 生い立ち」と「二章 家族」を読むと、両親から離れ母方の祖父母の許で育てられた環境が小説の原点となっている様だ。著者名ではG・ガルシア=マルケスと要約されている名前もフルネームは「ガブリエル・ホセ・ガルシア=マルケス」であり、「父:ガブリエル・エリヒオ・ガルシア」と「母:ルイサ・マルケス」の双方のファミリーネームから付けられていることが分った。更に母方の「祖父:ニコラス・リカルド=マルケス=メヒーア大佐」なんて名前を見ると、そのままマコンドにタイムトリップしそうである。漢字文化の日本では漢字を組み合せ名前を創作できるが、スペイン系でカソリックの彼の地では姓名の選択は限られている。「百年の孤独」を初めて読んだ時、同じ名を繰り返し使われる登場人物達に戸惑ったが、彼の地ではそれが当たり前で、更にガルシア=マルケスが育ったラテンアメリカの家ではこんなことも日常の事のようだ。…と云うことで、もう一度読み返してみようかなと思う今日この頃である...。
目次
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一章 生い立ち
二章 家族
三章 仕事
四章 自己形成
五章 読書と影響
六章 作品
七章 待機
八章 『百年の孤独』
九章 『族長の秋』
十章 現在
十一章 政治
十二章 女性
十三章 迷信、こだわり、嗜好
十四章 名声と著名人
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この年末年始にEテレで「ニッポン戦後サブカルチャー史」が再放送される。もちろん時間帯は深夜枠である。私は第5回「雑誌ワンダーランド 70年代(2)」から観たので、それ以前の回は見逃している。今年は雑誌・ガロの創刊五十年とか、そのガロにも寄稿していた赤瀬川原平が赤瀬川原平の芸術原論展を目前にして他界したり、ATG新宿文化の裏、「どん底」の隣にも支店のあった「でん八」50年のパーティがあったりと、何かと戦後サブカルチャーを再考する場が多かった。そんな訳で、年末には見逃した一〜四回を要チェックである。
aki's STOCKTAKING:NHK ニッポン戦後サブカルチャー史
映画・Furyを観た。ストーリー性は薄く、唯々、戦闘シーンが続き破壊と殺戮がくり返される戦場をライブ感覚で映像化している。キャタピラの壊れたシャーマン戦車で300人のドイツ軍相手に玉砕した四人の兵士と一人生き残った兵士に自己投影することもなく、傍観者としてスクリーンを見つめていた。映像と音だけだからまだしも、これに臭いと温度湿度が加わったら映画館の中は観客の吐瀉物で汚されてしまうだろう。
子供の頃、銭湯で聴いた老人の戦争自慢話に軍刀で捕虜を試し斬りする話があったが、何処の戦場でも似たようなことが行なわれていたようだ。人を兵士に仕立て上げ残忍性を与え殺人に向かわせる為に憎悪と差別の感情を植え付けている。
辺見庸が通信社にいた頃、戦場取材の体験を書いたエッセーの中で銃弾で吹き飛んだ肉片を赤い薔薇の花に喩えていたが…似たような映像を見て、成程…こう云うことかと…妙に納得してしまった。生きるも地獄、死ぬも地獄、生還しても生涯、心の傷は治ることはないだろう。
aki's STOCKTAKING:F U R Y
追記 プラモデルでも人気のあったのは独軍Tiger戦車で米軍シャーマン戦車は人気薄…そんな映像が...『フューリー』メイキング映像(ティーガー戦車:INTO THE TIGER'S JAW)
投票日翌日は常にブルーマンデーだ。14日の日曜日、為政者の思惑通りヤマトンチュは寝たままであったのに対して、ウチナーンチュが目覚めていたのが、せめてもの慰め…というのも情けない。
そういえば、選挙権を得た45年前くらいだろうか、アルベール・カミュの『シシュポスの神話』を読んだのは…。まぁ…それでも不条理と諦めて棄権することもなく、白票を入れることもなく、鼻をつまんで投票しているのであるが...。
新宿でん八物語
Amazonの内容紹介には『語り明かされる「でん八」50年の歴史と新宿酒場の青春! 「でん八」の歴史を振り返ると、60・70年代の新宿酒場文化がよみがえる! 60年代・70年代の動乱期、80年代・90年代のバブル期を経て、現在にいたるまで、新宿の居酒屋「でん八」には、それぞれの青春が刻まれている。 いまは亡き、あの梨元勝レポーターや、いかりや長(介)さん、安岡力也さん、井上大(輔)ちゃんなど……みんな「でん八」仲間だった。』とある。ふ〜ん、そうだったのか…と知らないことが多い。
11月30日は「でん八」の五十周年の記念パーティに行ってきたのだ。と云うことで、その引き出物が本書である。
僕が「でん八」に初めて行ったのは四十年前くらいだろう、「その1」でも「その3」でもなく「でん八・その2」と云って新宿末広亭の裏、「どん底」の隣の建物、階段を昇った2階の店主曰く・中華スナックであった。其処は当時、僕が勤めていた高木滋生建築設計事務所の行付けの呑屋で、仕事が一段落しての打上とか、何か理由があるなしに関わらず利用していた店だ。「でん八」との関わり合いは高木事務所OBでもあった平瀬さんのエバンジェリストとしての影響が強いようで、先輩、同期、後輩を次々と「でん八」ワールドに誘い込み、高木さんもその例にもれない。僕が勤めたころ、平瀬さんは既に高木事務所を離れ、高木さんの同級生の曽根さんの事務所で働いていた。僕が平瀬さんに会ったのは三度だけ、最初が「でん八・その2」で、次が「でん八・青山店」、最後が北朝鮮旅行報告会が行われた目黒のメゾネット・アパートにあったOM研究所であった。その次はなく…平瀬さんの写真を携え、湯河原の山中や海岸をウロウロと…
もう一人、記念パーティに現れなかった人物がいる。傳八、青山店と銀座店の内装工事を請け負った簗田さんだ。彼は高木事務所に出入りしていた内装業者で、彼は酒は呑めなかったけれど、「でん八・その2」にもしばしば付きあうようになった。…そこでマスターのアキちゃんから「簗ちゃん頼むよ」と長イスのシートの貼替えを頼まれたのが、最初の仕事ではなかろうか。アキちゃんが見本帳から選んだビニールレザーの色はグリーン、それまでのオレンジから一転となった。
僕が「でん八」に行くとアキちゃんの挨拶の言葉は「高木さんはどうしてる?」だった。その高木さんは昨年暮に亡くなったが、生きていれば今年、事務所開設五十周年記念パーティをするつもりだったようだが。その替わりに「でん八」の五十周年の記念パーティと云う訳かもしれない。
二次会は歌舞伎町の「でん八」で…
高木事務所に務めていた頃、平瀬さんに紹介された山中湖の丸格建築で社長から「秋山さんって知ってる。?」と聞かれたり、傳八銀座店のオープニングの時、アキちゃんから、奥のテーブルを指さし…「あそこに永田や秋山が居るよ。」と言われたり、もう一人の「akiちゃん」に出あう前から…なにかとニアミスをしていたのである。
「新宿でん八物語」発行元のBlog・大槌の風 2014年1〜3月のアーカイブに本書の原稿が多数…
追記
aki's STOCKTAKING:「でん八」50周年
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