January 03, 2007

吉原と佃

左の図は吉原の大門のエントリーに使った14年前に描いた方位図のMiniCadのファイルをPICT形式で保存してあったので、VecterWorksで開きフォント形式を直してEPS形式で保存、それをAdobe Illustrator CS2で開いてPhotoShopのEPS形式に直してからJEPGにて保存。なんて七面倒くさいことをしていたら、もしかすると「吉原御免状」のヒントになったのは佃島じゃないのかと、ふと妄想が膨らんできた。佃島の経緯については東京都の都史紀要「佃島と白魚漁業」に詳しく記されている通り、家康が摂州佃村の漁民に与えた「お墨付き」によって江戸前での白魚漁の漁業権を得たものである。これも表向きは漁民だが特殊な能力を持った一団とする説もある。吉原も佃も現在の場所に定着するまでは日本橋界隈で営業、その後は幕府の庇護の元、人工的な廓や島に移住している。吉原と佃の違いは方位にある。吉原は江戸城の丑寅の鬼門に位置し、は辰巳の吉相に位置している。どちらもミニダイブしているだけに、たんなる妄想による思いつきかも知れないが江戸の異界としての共通点が気になる。因みに吉原のモデルとなった京都島原大門は東向きである。

Posted by S.Igarashi at January 3, 2007 03:22 PM
コメント

わきたさん、どうもです。
吉原の町割は基本的に日本堤に合わせたものでしょうが、「北枕」問題との因果関係は、ん〜どうでしょう。
一般大衆が「北枕」を気にする様になったのは、いつの時代から何でしょうかね、江戸の昔、九尺二間の長屋住いで「北枕」を気にしてた人が、どれほどいたのかも知りたいですね。

Posted by: iGa at October 13, 2007 03:43 AM

iGaさん、こんばんは。ずいぶん前のエントリーではありますが、コメントさせてください。最近読んだ本のなかに吉原の話しが出てきました。そのさい、大門の向きではなく、敷地の「傾き」に関する説明が出ていました。狭い敷地にびっちり並ぶどの妓楼の、どの部屋であっても「北枕」にならないようにするための配慮だとのことでした。でも、この「北枕」問題と、大門の向きは、また別の問題ですよね〜。

Posted by: わきた・けんいち at October 13, 2007 12:14 AM

吉原のモデルとなった京都島原をみるとここでは大門は東を向いていますね。大門へのアプローチはシケインというかクランク状になって外から見通せない構造は吉原と同じですね。公儀はさし置いても、世間の目をはばかり通う悪所ということでしょうか。

Posted by: iGa at January 8, 2007 10:20 AM

こうやって見ると、お城の鬼門におかれた吉原の
その大門も鬼門を向いてるんですね

遊女遊びは公儀の目をはばかりながらってことだったのでしょうか

Posted by: かん at January 7, 2007 12:26 PM

それは力不足ですが、(^_^;)
「中世の非人と遊女」にもありましたが、非人(河原者)→庭師→お庭番(隠密)なんて進化系もありますからね。
江戸前で海上のお庭番的な役目を担っていたと考えられないこともないですね。

Posted by: iGa at January 4, 2007 04:32 PM

そう言われてみると、佃漁師にもう一痛の御免状が出ていた…なんてことが無いとは限りませんね〜。操船はお手のもの。いざとなれば、隠密的性格の水軍に変身して…とか…。この際、妄想力を肥大させて、小説をお書きになりません?(^^;

Posted by: masa at January 4, 2007 03:12 PM