水の透視画法
東京新聞をはじめとする地方紙に今年三月まで共同通信から配信されていた辺見庸のエッセーが単行本として上梓された。
私が2008年6月に「六月のテロル」と題したエントリーで紹介した『プレカリアートの憂愁』は秋葉原事件の四日前に東京新聞夕刊に掲載された「水の透視画法」のタイトルである。そして、「水の透視画法」の連載が終了し、3.11の前に編集・印刷され、3.11の後に発行された週刊朝日緊急増刊「朝日ジャーナル・知の逆襲 第2弾」に辺見庸が寄稿した『標なき終わりへの未来論』では「...テクノロジーはまだまだ発展し、言語と思想はどんどん幼稚になってゆくであろう。非常に大きな原発事故があるだろう。労働組合はけんめいに労働者をうらぎりつづけるだろう。おおくの新聞社、テレビ局が倒産するだろう。生き残ったテレビ局はそれでもバカ番組をつくりつづけるだろう...」と...綴っている。
それを説明するかの様に、本書の腰巻にも引用された前書きに代えて書かれた「予感と結末」では『...戦争や大震災など絶大無比の災厄の前には、なにかしらかすかに兆すものがあるにちがいない、というのがわたしの勘にもひとしい考えである。作家はそうした兆しをもとめて街をへめぐり、海山を渉猟し、非難におくせずものを表現するほかないさだめににある。からだの内側にあわだつ予感と外側をそっとかすめる兆しの両様に耳をそばだてなければならない。...』と...
私たちが漠然と抱いている言葉にならない予感を表現する今日では希有な文筆家である。
訂正:引用文が一行抜け落ちてました。m(_ _)m
「テクノロジーはまだまだ発展し、言語と思想はどんどん幼稚になってゆくであろう」という一節を特に興味深く思います。もしそれが、「テクノロジーの発展」が「言語と思想の衰退」と不可分に結びついていると言おうとしているのなら、私はそのペシミスト的現状認識に共感し同意します。この場合それはベンヤミンの最晩年の著作や(「言語と思想」を「建築」または「都市」におきかえれば)埼玉会館の時期以降の前川國男の発言(たとえば「環境の醜悪化の元凶は、技術文明それ自身のうちにひそむといえましょう。実証的な科学精神の昂揚は、その反面に人間の直感的な感受性を恐ろしいほど低下させます」『泥足の達人』)に近いと考えられるからです。しかし逆に「テクノロジーのめざましい発展にもかかわらず、言語と思想はそれに見合った水準に達していないのが問題だ」という意味なら、それは「生産諸力の発展と旧態依然の生産諸関係のあいだの矛盾」が必然的に歴史を進めると信じる楽観的で素朴な単線的進歩主義史観に似ていることになり、ベンヤミンが『歴史哲学テーゼ』のなかで示唆したように、1930年代の大恐慌のさなかのナチズムの台頭を前に無力であったばかりか有害でさえあった「進歩信仰」です。私は辺見氏のことは良く知りませんが、「テクノロジーの発展」と「言語と思想の衰退」のあいだに矛盾というよりはむしろ緊密な連関を見出しているように思えます。
Posted by: Tosi at September 11, 2011 11:06 AM