January 15, 2009

バレンボイム/サイード 音楽と社会

バレンボイム/サイード 音楽と社会
原題は"Parallels and Paradoxes"(相似と相反)
本書はユダヤ人・音楽家のダニエル・バレンボイムとパレスチナ人・人文学者のエドワード・サイード、この二人の越境者によって1995年10月7日から2000年12月15日までの五年間に六回行われた対話(セッション)を記録したものである。尚、対話の進行役には本書編纂者のアラ・グゼリミアン(カーネギーホールのシニア・ディレクター、芸術顧問)が務めている。本書を読むきっかけはkawaさんがガザでも触れているようにウイーン・フィルのNew Year's Concert 2009でのバレンボイムの発言である。どこかで記憶の片隅に引っ掛かっていたのだろう「書籍:エドワード・サイード OUT OF PLACE」を読み返し、バレンボイムとサイードをキーワードにして検索し本書の存在を知った。読み進んでゆくにつれ、帯に書かれた「白熱のセッション」の意味を知る、まさにその通り...。

映画:エドワード・サイード OUT OF PLACE」に併せて刊行された「書籍:エドワード・サイード OUT OF PLACE」に採録されたシナリオによるとサントリーホール公演前のリハーサルの合間を利用したステージ上でのインタビューでバレンボイムはサイードについて次のように語っている。

『...じつのところ音楽家として理解すべき人物です---ピアノを弾いて、音楽評論を書いていたからではありませんよ。
そうではなくて、彼が音楽の本質を理解していたからです。音楽は、ひとつの曲に登場するさまざまな要素を統合しようとします。オーケストラには、あらゆる要素が入っています。バイオリンがどんなに上手でも、オーボエやコントラバスやクラリネットが主旋律を奏でるのを聴こうとしないようでは、バランスがとれません。主旋律はどこにあるのか、どんな応答があるのかがわかっていないとだめなのです。
エドワードが音楽家だったというのは、こういう深い意味でのことです。この世のものすべて、他のものに何かしらの影響を及ぼしており、他から完全に断絶したものなどひとつもないということを彼は知っていました。』
映画ではこの部分だけが使われており、彼がパレスチナやイスラエルについて語っている部分はカットされている。その映画に収録できなかったインタビューは書籍(エドワード・サイード OUT OF PLACE 第六章 音楽家)に採録されている。(因みにサイードはジュリアード音楽院に通い、ピアニストになることを真剣に考えていた時期があった。)

----------------------------------- バレンボイム/サイード 音楽と社会 目次(内容)-----------------------------------
○はじめに アラ・グゼリミアン
○序 エドワード・W・サイード

1(2000年3月8日ニューヨーク)
自分にとって本拠地とは/ワイマール・ワークショップで西と東が出会う/解釈者は「他者」の自我を追求する/アイデンティティの衝突はグローバリズムと分断への対抗である/フルトベングラーとの出会い/リハーサルの目的

2(1998年10月8日ニューヨーク)
パフォーマンスの一回性/サウンドの一過性/楽譜やテキストは作品そのものではない/サウンドの現象学/誰の為に演奏するのか/音楽は社会の発展を反映する/芸術と検閲、現状への挑戦という役割/調性の心理学/過去の作品を解釈すること/現代の作品を取上げること/ディテールへのこだわり、作品への密着/一定の内容には一定の時間が必要である/中東和平プロセスが破綻した理由

3(1998年10月10日ニューヨーク)
大学やオーケストラはどのように社会とかかわれるのか/教師の役割とは/指揮者の権力性、創造行為の弾力性/他者の仕事に刺激や発展がある/模倣はどこまで有益か

4(1995年10月7日ニューヨーク、コロンビア大学・ミラー劇場)
ワーグナーがその後の音楽に与えた決定的な影響/アコースティクスについての理解、テンポの柔軟性、サウンドの色と重量/オープン・ピットとバイロイト/イデオロギーとしてのバイロイト/バイロイトの保守性は芸術家ワーグナーへの裏切り/ワーグナーの反ユダヤ主義/国民社会主義によるワーグナーの利用/『マイスタージンガー』とドイツ芸術の問題/ワーグナーの音楽はその政治利用と切り離せるか/Q&A

5(2000年12月15日ニューヨーク)
いまオーセンティシティ(authenticity:真実性)が意味するもの/テクストの解釈、音楽の解釈/歴史的なオーセンティシティは過去との関係で現在を正当化する/二十世紀における音楽と社会の断絶/モダニズムと近づきにくさ

6(2000年12月14日ニューヨーク)
有機的な一つのまとまりとしてのベートーヴェン/社会領域から純粋に美的な領域へ---後期ベートーヴェン/音楽家の倫理とプロフェッショナリズム、ベルリン国立歌劇場管弦楽団/冷戦後の世界には「他者」との健全なやりとりがない/音楽のメタ-ラショナルな性格/ソナタ形式の完成と一つの時代の終わり

○ドイツ人、ユダヤ人、音楽 ダニエル・バレンボイム
○バレンボイムとワーグナーのタブー エドワード・W・サイード
○あとがき アラ・グゼリミアン
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編纂者・アラ・グゼリミアンの考えによるのであろうが、各章(セッション)の構成は年代順となっていない。最初のセッションで夫々の出自と本拠地について語られ、アラブとイスラエル等の若い音楽家を集めて行われたワイマール・ワークショップ、少年時代のフルトベングラーとの出会い、リハーサルを通して音楽の骨格が築き上げられてゆく様に、読んでいて惹きつけられてしまう...。音楽家と文学者の対話はこれまで何度も読んだことがあるが、ここまでの領域に達しているものは...少ない...と云うよりも...読んだことがなかった。

Posted by S.Igarashi at January 15, 2009 02:16 AM | トラックバック
コメント

Niijimaさん、どうもです。

私もチラ見しただけで、後でビデオをゆっくりです。

ベジャールのボレロは他にマチスの絵画や切絵を連想させますね。

Posted by: iGa at April 4, 2009 07:14 AM

番組表を見たのが22:20ごろ! 今夜はギリギリ間に合いました。いま録画中で、週末ゆっくりと見ようと思っています。

追伸:ベジャール・ガラは楽しかったです。ギエムは以前より肉体や踊りの技術の男声的な面を指摘する声がありましたから、iGaさんが舟越桂氏の作品を想起されて、なるほどと思いましたです。
ありがとうございました。

Posted by: M.Niijima at April 3, 2009 11:41 PM

本日4月3日(金)午後10時30分’からNHK芸術劇場で「バレンボイム 平和への祈り」、「ダニエル・バレンボイム指揮ウェスト・イースタン・ディヴァン・オーケストラ演奏会」、「エルサレム弦楽四重奏団演奏会」があります。
http://www.nhk.or.jp/art/current/music.html

Posted by: iGa at April 3, 2009 04:23 PM

Niijimaさん、どうもです。

そうですね。考えるヒントは沢山散らばってます。

バレンボイムは『音楽についての明白な定義は、私にはたった一つしかない。フェルッチョ・ブゾーニの「音楽とは鳴り響く大気だ」というものだ。』と....。更に『音楽はすべてであると同時に何ものでもないので、ナチがしたように濫用することも簡単だ。...』とも...

自由というものが何ものにも支配隷属されないとするならば、すべての因習、偏見やタブーから精神が開放されない限り、それに続く平等も博愛も得られないと云う考えを彼は持っていると思われます。

Posted by: iGa at January 17, 2009 11:50 AM

バレンボイム氏は、現在もっとも積極的にワーグナーの作品を上演している指揮者のひとりかと思います。
彼の国籍を考えるとそれはたいへん不可解なことでしたが、この書にはその答え、もしくはヒントがありそうですね。

Posted by: M.Niijima at January 16, 2009 11:14 PM