数ヶ月前のことだが『添田唖蝉坊の長歌を演歌する』を聴きに行った時、FreeJazz・percussionのplayerで演歌師の土取利行が静岡にある大杉栄と伊藤野枝の墓を詣でた話をしたとき、そういえば...川の地図辞典・出版記念ウォーク「谷田川跡をあるく」で辻潤の墓所を訪れていたことを思い出した。翌日、ブログで調べると墓に行ったのは2008年3月16日、もう7年も前のことだが、東日本大震災と原発事故の3年前、当時と比べると社会情勢も様変わりしている。改めて青空文庫で辻潤の「ふれもすく」(フランス語: Humoresques, チェコ語: Humoresky、ドイツ語: Humoreske/「奇想曲」)を読み直した。書かれたのは1923年11月四国Y港、関東大震災から2ヶ月後のことである。この時代は宮崎駿の『風立ちぬ』でも描かれているが、別な視点から書かれた「ふれもすく」を読むことで時代を構成する様々なレイヤーが表れ奥行きを増すのではないだろうか。
その日(1923年9月1日)風呂屋で大震災に遭遇した辻潤は、慌ててK町の自宅に戻り老母と息子の無事を確認する。家は庭木と平屋建ての小屋が支えとなり全壊は免れたもの住める状態ではなく10日ほどの野天生活の後、老母と息子を隣のB町の妹の所に預け、お腹がフクレタリアな同棲相手を里に送り届ける為に名古屋へと向かう、自分は金策の為に大阪へ…道頓堀で号外を見て…事件を知る。四国のY港に渡ると…九州の新聞社が待ち受け「大杉他二名」の取材を受けるも断り…事件の二ヶ月後...出版社から改めて「野枝さんの思い出」の執筆依頼を受けて書いたのがダダイストを自称する辻潤による「ふれもすく」である。
と云うことで青空文庫のテキストデータをiPadで「ふれもすく」のさわりを...
と、野枝さんとの染井での生活を語っている。
『野枝さんや大杉君の死について僕はなんにもいいたくない』と言っているが、甘粕のことは『マメカス』と揶揄し、僕も彼女を「よき人なりし」野枝さんといいたい。僕には野枝さんの悪口をいう資格はない。と語っている。
辻潤の母が伊藤野枝に三味線の手ほどきをしていたようで、大杉栄のもとに行ってからも、度々、三味線のおさらいに来ていたそうで…伊藤野枝の三味線で大杉栄が演歌…なんてことがあったら愉快だが…。
花柳界のあった柳橋から目と鼻の先にあった下町浅草橋生れの辻潤にとってアナーキストにシンパシーを感じても、上昇志向の強い人間や教条主義的振る舞いは粋に思えず、故に斜に構えダダイストを自称していたのかも…。因みに私はユーモレスクの旋律を聴くと何故か自分が生れた足立区梅田界隈の夕景が思い出されるのだが...
Posted by S.Igarashi at May 5, 2015 10:37 AM