August 17, 2014

獅子頭の言い伝え

本日は八王子城主・北条氏照よりお下渡しされたと伝えられている狭間の獅子舞が奉納される御嶽神社の例祭である。獅子舞保存会のHPには『この獅子舞がどうして八王子城主北条氏照公より狭間部落に拝領になったかということはいまだに不明であるが、武蔵七党の内横山党一党、椚田次郎の居城が峰山城(現在は初沢城址と呼ばれている)であり椚田郷狭間の地にそのつながりがあったのではないだろうかと考えられています。』とある。その初沢城趾は学術的な遺跡調査が行われたことは一度もなく、それどころか城趾の一部に東京都水道局の上水道の配水施設が設けられている有り様である。その建設時に何か出土したかは不明だ。何れにせよ初沢城趾に関してはウィキペディアに書かれている程度の情報しかないが、1590年(天正18年)の八王子城の落城と運命を共にしたことだけは間違いないようである。と云うことで地形図を元に推論すると、北条氏照が豊臣・前田・上杉の連合軍の進攻に備えて初沢城を小田原と八王子城との中継地点として整備する際に荷役の牛馬や普請の為の人足として地元民を現地調達する際、最も近い集落である25戸余りの狭間に白羽の矢があたったのだろう。初沢城の北側の谷に位置する高乗寺(曹洞宗)の1557年(弘治3年)の高乗寺絵図を見ると、初沢城趾には高乗城山と妙義山の書込みがあり平屋の建物が描かれており、現在の浅川中学の校門近く、谷戸の入口に惣門(禅宗寺院の表門)が置かれ、そこから先は高乗寺の領地で本堂伽藍の他に僧侶達が住む数々の庵が点在している。因みに太平洋戦争の戦争遺産である浅川地下壕はこの高乗寺の領地であった山地の地下に建設されている。
地形図を見れば解る通り山地から丘陵へと地形が変わり、その舌状台地の舌先に位置する御嶽神社から丘陵地(縄文住居跡)を抜け、尾根道を行けば山頂まで牛馬と共に普請の資材を運搬することができる。恐らくそうした労働の対価と褒美の意味を含めて獅子頭が与えられたのだろう。因みに山地から丘陵へと地形が変わるこの丘陵を峰開戸(みねげと)と土地の人は呼ぶ、地名としては残っていないが東京都教育委員会の東京都遺跡地図には狭間(峰開戸)遺跡の名が残っている。
此の尾根道は私が小学生の頃、江戸時代の街道に見立て東映が教育映画のロケを行なっていたくらいである。(残念ながら尾根道を街道らしく見せていた松の木は昭和34年の伊勢湾台風で多くが倒木した。)1948年の米軍が撮影した空撮写真を見ると御嶽神社の南側に位置する谷戸にある狭間の住戸数と400年以上昔の天正時代の住戸数と殆ど変わってないようだ。

Posted by S.Igarashi at August 17, 2014 10:05 AM
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