April 05, 2009

姥ヶ橋跡と上流を探る

Ubagabashi-2.jpg

と云うことで先週のJEDI・春だから荒ぶる川の桜と水門...で見損なった北耕地川(別名:稲付川、根村用水、中用水)の姥ヶ橋周辺(赤丸部分)を検証してきました。


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1909年(明治42年)の地図を見ると姥ヶ橋から東の環状七号線は既存の道路を利用して拡幅されたことが分かります。稲付川の跡に面する家にお住まいの御婦人に伺ったところ昭和46年(1971)に環状七号線姥ヶ橋立体交差の工事に伴い暗渠化されたと云うことで、それまで御自宅の前に木造の橋が架かっていてそれを渡って家に出入りしていたそうです。
姥ヶ橋から南西に向かった所には橋の跡がまだ残っています。そこから上流部分は台地の尾根を切り通し用水を流していることが、地図の用水両側の崖を示す表記からも分かります。
石神井川も所々に堰が設けられ工場を示す記号がみられますが、何故か下半分が切れている。

Ubagabashi-3.jpg
凸凹地図を見ると地形に根村用水・切り通しの跡が残っています。

姥ヶ橋交差点の歩道から上流方向を見ると川跡と橋の跡が残っていました。

尾根部分の根村用水・切り通しがあったと思われる場所から上流方向をみる。上流方向が下っている訳ですから、昔を知らなければここに用水があった等とは解らないでしょう。道幅の広さは用水両側の切り通し法面を含んだものと思われます。


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中央の横断歩道が『日暮里橋』があった場所と思われる。きっと、高台にあるこの橋の上から日の暮れるのを眺めていたのでしょう。

Posted by S.Igarashi at April 5, 2009 09:09 AM
コメント

早速のお返事ありがとうございます。

谷田川の源流は本妙寺の湧水というのは以前より聞いていました。
でも、
・王子から古河庭園までの本郷通りからの名もない下り坂、
・都電滝野川1丁目への下り坂、
などなど、小さい時より母の実家に行く時に感じていた急坂がどうしても頭をよぎります。

地図好きには「デジタル5mメッシュ地図」は想像を駆り立てられて困ったものです。 
お付き合いありがとうございました。

Posted by: kiton at May 23, 2009 05:07 PM

昨年3月に「川の地図辞典・出版記念ウォークと懇親会」で谷田川跡をあるきました。谷田川の源流谷頭は染井墓地近くの豊島市場脇辺り、中山道が分水嶺の尾根道になっているようです。
『谷田川跡をあるく』
http://madconnection.uohp.com/mt/archives/001474.html

それから帝都地形図の王子には滝野川の堰で分流された谷田川上流域(旧石神井川)が地図に残されています。
之潮の「帝都地形図-地図見本」から確認できます。
http://collegio.jp/?page_id=85

Posted by: iGa at May 23, 2009 02:56 PM

勝手な想像に付き合っていただきコメントまでいただきありがとうございます。
私も石神井川・王子の河川争奪戦は自然現象だと思います。
飛鳥山の崖の上から見ても石神井川が氾濫したり、崖が地震などで崩壊したら谷田川には水は流れなくなってしまうのは想像がつきます。

 私の母親の実家が古河庭園の裏(北区西ヶ原1丁目)に有り、目の前に谷田川が流れています。
以前、下流の千駄木・根津を経由して不忍池まで歩きましたが、上流はどこ?、という疑問にぶつかりました。
 父親が戦前、西巣鴨の親戚の家によく遊びに行っていたので聞いてみました。
「千川上水は西巣鴨の掘割で遮断して地中に何本もに分水した」と言っていました。(近くの公園には六義園行きのバルブが今でもあります)。
 千川上水は大山周辺でも大雨が降っても増水することはなく、だからと言ってチョロチョロではなく、「子供が落ちてよく死んだ」と言っていました。
「川の地図辞典」P307では西巣鴨から石神井川へ流れていると描かれてありますが、上水を一方的に一般河川に流すことなど考えられない。
谷田川は石神井川・千川上水の余水ではないでしょうか?
取り留めのない話ですみません。

Posted by: kiton at May 23, 2009 02:19 PM

kitonさん、はじめまして、コメントありがとうございます。
私も姥ヶ橋はラジオの交通情報で「環七の姥ヶ橋交差点で外回り渋滞」とかで聴いて知っていただけでした。
北耕地川の開削は将軍家綱の頃にされたといわれてますから、350年も昔のことですね。
北耕地川は根村用水とも言われていたそうですから、おっしゃる通り最初は石神井川流域板橋根村の農業用水だったのかも知れませんね。それを下流域の名主達が政治手腕で御上の後ろ楯を借り、拡幅整備、尾根を切り通して稲付谷の谷頭に繋げたのでしょう。工事には下流域の農民だけでなく上流の根村の農民も駆り出されたのかも....まぁ水利権を巡る争い事はいつの世も同じですね。堰のあった板橋区のホームページにはその件に関して何も書かれていないのも....まぁ余計なことは...でしょうね。

石神井川下流の滝野川(音無川)と谷田川の河川争奪戦、これも人工説と自然説がありますが、人工説とすると、水利権を巡る争い事があった筈で、そういう争いは歴史的に記録されていると考えられますから、それがないのは...音無川の谷頭浸食で台地が崩落した自然説と考える方に合理性があるでしょうね。
図説 江戸・東京の川と水辺の事典
http://madconnection.uohp.com/mt/archives/001111.html

Posted by: iGa at May 23, 2009 08:43 AM

はじめまして、板橋大山地区の住人です。

姥ヶ橋と言う地名は板橋の住人にはあまり馴染みがありません。
実は北耕地川と言うのも初めて聞きました。
「川の辞典」で石神井川(中板橋周辺)の写真が出ていましたので父親(大正生まれ、板橋生まれ)に聞きましたら「ああ!あんなもんだ、良く泳ぎに行った」と言っていましたので、今より相当多い水量だったことと思われます。
石神井川は私が子供(私1952年生まれ)の頃も良く氾濫していましたので、当時は相当の氾濫であった事が想像されます。

これからは私の想像ですが、水量の多い石神井川は帝京高校のグラウンド位までは農業用水を引いていたのを、谷頭の姥ヶ橋からの湧水に頼っていた姥ヶ橋・北東部の農民が悲願で切り通しを作ったのではないでしょうか?
北区のホームページには北耕地川の水争奪の事が書かれていますが、板橋区のホームページにはその様ことは一切書かれていません。

Posted by: kiton at May 23, 2009 12:13 AM

masaさん、どうもです。
アラカワまでアラカン二人がよく歩いたもんですね、GoogleMap上で約14Kmありました。(^_^;)
講談社創立者・野間清治別邸跡の稲付公園の裏手(北側崖下)にあった寺も谷に囲まれた様子を見ようと思っていたのに....見逃しました。あの複雑な谷の出入りは一朝一夕では理解できません。常盤台辺りから石神井川〜根村用水〜姥ヶ橋〜稲付谷ラフティングもありますね。

Posted by: iGa at April 6, 2009 07:42 AM

長い距離&時間、ご一緒させていただき、ありがとうございました。それにしても、姥ヶ橋交差点に残っていた川と橋のミイラ(^^;には参りました。いやもうコーフンでした(^^; その後の旧川筋に沿っての景観も、妄想力を発揮せずとも、通常の想像力だけで原景が見える秀逸ぶり…。
あの一帯は、台と谷の出入り具合をいまいちどしっかりと頭にたたき込んだ後に、もういちどチャレンジしたいですね。

Posted by: masa at April 6, 2009 03:06 AM