志ん生の右手-落語は物語を捨てられるか 矢野 誠一 (著)
この文庫本は1973年から1987年に新聞雑誌に書かれた文章を纏め1991年に出版された「落語は物語を捨てられるか」を底本にしている。それは『ストーリーの面白さだけでなく、話者の語り口、ひいてはその個性こそに落語の面白さがあるのではないか』という視点に立って綴られた文章を、第1章が志ん生を中心とした落語に関して、第2章は演芸について、そして第3章は新聞芸能欄の連載コラムを纏めたものとなっている。1973年は五代目・古今亭志ん生が亡くなった年でもある。志ん生、最後の高座は1968年10月9日、イイノホールの精選落語会での「王子の狐」となった。このホール落語会の草分けとも云える精選落語会を1962年に立ち上げプロデュースしたのが著者の矢野 誠一である。それは1961年に志ん生が脳溢血で倒れてから、奇跡的に復帰した年でもある。脳溢血により「しぐさ」を封じ込められた「志ん生の右手」に、志ん生自身が『、、、まったく動ずることなく落語家として生きられたのは、「手の藝」をうわまわる、豊かな語り口と、すぐれた諧謔精神の持主だったからである。』と著者は述べている。
母の話によると、或るとき夕方、家に帰ってきたら明かりの付いてない部屋から子供の笑い声がしていたそうである。薄気味悪く、躊躇いがちにそっと襖を開けると、暗い部屋の中で一人で座って、ラジオを聴いてヘラヘラ笑っている私がいたそうである。ラジオからは落語が聴こえていたそうだが、年端も行かない子供に落語が解るのかと疑問に思い、何が可笑しいのか聞くと、「らくごだよ」と答えたそうである。私にはその出来事の記憶はないが、物心付いた頃には落語は身近に自然にある存在であり、さして特別なものではなかった。家の地所の隣にあった梅田稲荷の社務所の座敷で寄席が開かれたこともあったし、ラジオからは落語だけでなく、浪曲、講談もよく放送されていた。夏となれば講談は怪談噺オンリーであった。縄文人・F森教授によれば「昔の下町では、銭湯と床屋と寄席の三つが下町三羽ガラスとでもいうべき建物だった。」そうである。嘗て寄席は日常的な庶民の娯楽の中心だったのだろうが、ラジオというメディアによって定席は衰退していったのだろう、それは江戸落語が外連味を拝し、聴かせる話芸として発展したことにも起因するのではないだろうか。
志ん生より二年早く亡くなった八代目・桂文楽は寄席や名人会で聴くことが出来たが、1968年で高座を去った志ん生を生で聴くことは叶わなかったが、メディアを通してでもリアルタイムで名人芸に接することができた事は今思えば幸いである。
最後の名人六代目・三遊亭圓生が世を去ってから、寄席や名人会に行くこともなくなり、そうかと云って五代目・柳家小さんの飄々とした好々爺の噺では物足りなく、寄席に足を向ける気にはなれなかった。
育った環境にもよるだろうが、私より少し年齢が下の友達では文庫本になった落語全集を読んでも面白くも何ともないと云う。しかしながら、僕にとってそうした落語全集は記憶の再生装置でもある。読み始めると、記憶が再生され名人達の語り口が頭の中に聴こえてくるのである。
Posted by S.Igarashi at January 26, 2007 10:29 PM笑点のテーマは「チャンチャカチャカチャカ、チャンチャン」ではなく実は「ん、チャンチャカチャカチャカ、ん、チャンチャン」が正しいのではないだろうか?そんなことどうでもいいってか。
笑点は私が高校生の時に談志の司会で始まった番組で、やはり俄・落語ブームを起し、どこの学校の文化祭でも素人芸の下手くそな大喜利が行われてましたね。
六代目・三遊亭圓生さんはテレビで見ました。
もちろん田舎では高座に行くなんてことはなかったですが、今でもその感じは覚えていますから一フアンであったのだと思います。
私が小さい頃はかろうじて笑点でも落語をやっていたしNHKなどでも、ちゃんとやってくれていました。わりと、田舎にいても落語の音は身近にあったのだと思います。
それが最近はめっきりと減ってしまいました。
しかし、今日も行っていた浅草演芸ホールには若い女性のフアンが目立ちまして、立ち見もでる大入り満員。
もちろん一月だと言うこともあるのでしょうが、昨年くらいから落語の人気が沸々とわき上がっているのでしょうか。
いま私は図書館に行って、圓生のCDを借りてこようと思っています。