October 21, 2005

音、沈黙と測りあえるほどに

「音、沈黙と測りあえるほどに」とは武満徹の初期エッセー集のタイトルである。20日に行われた「Keith Jarrett Solo 2005」に於いて、異例ともいえるチラシが入場者に配布された。 そこには10月14日のコンサートで起こった出来事に加えキースからの言葉と招聘元の鯉沼利成氏の願いが込められていた。

「こうやって演奏するのは、大変ハードな仕事だけれど、静かにしていることは、難しいことではないでしょう?皆さん、どうかWesternize(西洋化)しないで下さい。日本には昔から、瞑想(Meditation)という伝統があります。 アメリカには伝統がありません。」
キースは、ずっと前から日本の聴衆は静かに自分の音楽を聴いてくれるので、日本で演奏するのが大好きだと言っています。最後の余韻まで聴いたあとに大きな拍手をくれるからです。今回の日本公演でもそのように余韻を楽しんでくれることをキースは望んでいます。

演奏会が終わってからロビーにいたfuruさんに感想を求められた僕は「聴衆の質が落ちている。」とだけ述べた。キースの即興演奏は二度と聴くことが不可能なものである。使い古した言葉であるが、それこそ一期一会である。昨夜のコンサートホールの空間も時間も取り戻すことは出来ない。その中で、音楽と共に、その余韻や沈黙を味わうことが何故出来ないのだろう。20日の演奏会では騒音こそなかったが、余韻に浸る暇も刹那さえも与えず拍手をする一部の白痴同然の輩によって、音楽の大切な部分が台無しにされてしまったと感じているのは私だけではないだろう。

キースの即興演奏の場合は曲間の静寂が必要欠くべからざる条件である。それは曲間のブリッジでもあるし、一つの組曲の大切なパートでもある。拍手はキースがピアノから立ち上がってからすれば充分である。
キースがこれからも演奏活動を続けてゆくかは誰にもわからない、それは彼が決定すべきことである。唯、私はキースの日本に対する思いや鯉沼利成氏との信頼関係は14日の件で崩れるようなものではないと信じている。
演奏会で配られたブックレットに武満徹とキース・ジャレットが対談した時のエピソードが語られていた。後にキース自身が武満徹のインタビューがベストだったと言わしめているものだ。そのキースとの対談が収められた武満徹・対談集「すべての因襲から逃れるために」(現在絶版)の中でキースはこう語っている。

、、、私の言いたかったのは、過去の一点から現在へとレベルが深まってきたということだったわけです。大変深まって音楽が必要なくなってしまう時もあるくらいで、そういう時がコンサートの最中で面白い瞬間なんです。というのも、そういう時には、私は何も弾いてないのにもっと多くの音楽があふれている。
キースの音楽を理解している者ならば彼の言うことは理解できるはずである。その絶妙な間を楽しむ機会を心ない拍手で私たちは奪われてしまったのだ。
そして、キースとの対談を終えた武満はこのような言葉で章を締めくくっている。
キース・ジャレットの感性は、訓練された筋肉のように、しなやかで、そこに余分な、曖昧な感情というものは無い。ダイレクトに事物の核心を狙う豹のようなすばやさで、把握する。音楽的未熟児が多いジャズの領域で、かれは、停まることのない成長を続ける幼児(イノセント)のように見える。彼は、いつでも、最小限の音で、世界の全体を顕してしまう。

キース・ジャレットがその人間性ゆえに選んだトリオのパートナーであるゲーリー・ピーコックはPrivate Lifeを“沈黙を聴く”のに充てていると云う。
思いだされるのは昨年書いた記憶に残る演奏会での"TASHI"の演奏会を共有した聴衆である。そういえばキース・ジャレットも"TASHI"のメンバーであるクラリネットのリチャード・ストルツマンとも共演していた。自分がそれぞれ個別に聴いてきた音楽家が何かの機会で共演する。それこそ音楽を愛しているものにとって喜びでも有る。スタンダードトリオのキースとゲーリー・ピーコックの関係もそうだ。

Posted by S.Igarashi at October 21, 2005 12:07 PM | トラックバック
コメント

古井戸さん、初めまして。

クラシック演奏会の「ブラボー!」にも、何て言うか...です。

Posted by: iGa at February 2, 2008 01:21 AM

わたしも、拍手大嫌い派、です。
だもんで、音楽鑑賞はCD、と決めています。

クラシックの演奏会では終わるか終わらないか。。のときに うぉ〜(おれたち野蛮人〜)と、拍手が巻き起こりますね。

Posted by: 古井戸 at February 1, 2008 06:49 PM

演奏者にとっての拍手タイミングを考えるのは難しいですね。キースの演奏を聴かれたのは素晴らしいです。私も神戸コンサートの録音、楽譜を10年ほど前に入手しましたが、キースの曲はキースが弾かないと綺麗でない、とても難しい哲学的な音楽だと思いました。

Posted by: kj at October 26, 2005 10:56 AM

キースジャレットファンの層は幅広いですよね。
裏のおじさんも言ってました
「う〜ん、いいねぇ、やっぱ、キースじゃねぇっと....」
お体ご自愛下さい。

プライベート(DIYなど)用にMTのblog、店用にどこかの無料レンタルblog、と分けて、また始めることにしました。今までのエントリーのファイルは一応アックアップしたのですが・・・。
まずはプライベート用がなんとかここまでできました。
http://karakara.pepper.jp/life/

Posted by: nOz at October 25, 2005 04:19 PM

まぁ、拍手するというのは感情表現として世界共通ですから、自然に湧き上がるものまで否定することはありませんよね。クラシックコンサートと比較すればジャズコンサートの方が拍手は自然ですね。何となくクラシックコンサートにいるようなブラボーを連発する空気を読めない連中が紛れこみ不自然な拍手をしているようにも思えましたね。
「優しさにあふれた沈黙の時間」が世の中から失われているということではないでしょうか。
karakara-blogが見られなくて淋しいです。

Posted by: iGa at October 25, 2005 08:31 AM

<拍手はキースがピアノから立ち上がってからすれば充分である。

なるほど!いっそのこと、こう決めてしまえばいいのに!
そうすれば「お、このまま第2楽章(?)に展開していくのか?」と、いうような間さえも1/2000の判断で終わらされてしまうこともない。
演奏者が気を使ってしまうくらいの緊張した静かさではなく、自然にリラックスしながら音に嵌っていくことのできる静けさを演出できたら良いな。
せめて静かな曲の終わりだけでも、アルバム"The Melody At Night, With You"の中での曲間くらい、美しい景色を見たあとの余韻に浸れる時間を残してくれてたらな、とも思います。

iGaさんのエントリーでもっと濃密な時間があったのを知ってしまったから、次の機会には・・と、思うのですが、今回初めてコンサートに行った俄キースファンの私は、付いて行けないくらいの創造性の豊かさに興奮し、曲間での切り替えの早さにも驚きました。
私も、また日本公演がある事を信じています。

Posted by: nOz at October 25, 2005 03:33 AM