「地形と歴史で読み解く 鉄道と街道の深い関係 東京周辺」内田宗治 著
『東京人 2021年8月号 特集「保存リノベ建築」歴史と記憶をつなぐ』の頁を捲っていたら特集とは関係ない川本三郎の東京つれづれ日誌「台湾で懐かしむ、日本の鉄道風景」に目が止まった。ここでも話題は台湾を離れて「地形と歴史で読み解く 鉄道と街道の深い関係 東京周辺」に、中でも川本三郎はコロナ禍で遠出が出来なくなってから、時折「絹の道」を歩き鑓水と云う地名を知り、第2章-6の「絹の道」と横浜線・外貨獲得に貢献した街道と、沿線の軍事施設に魅かれたようだ。私は最近、南大沢の法務局に用事があって、横浜街道の御殿峠から、今では裏道となった絹の道の鑓水に抜ける道を通ったが、此処にも産廃業者の借り囲いが周囲の環境にそぐわない姿を晒している...川本三郎は「絹の道」から明治の毒婦・高橋お伝を連想しているが、鑓水と云えば昭和の時代に立教大学助教授による女子大生不倫殺人事件の現場として全国に名が知られてしまったことがあった。そんな事が産廃業者に目をつけられ買い叩かれたのかもと考えると...ベアトにも愛された谷戸の風景も心なしか哀しそうに見える。
内容
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鉄道には、旧来の街道に沿った時代と、沿わない時代があった。
その違いを生んだ社会的背景とは?
鉄道も街道も、ある地点とある地点を結ぶために作られる。副次的に沿線が発達する。
ならば、江戸時代の五街道も鉄道も似たようなルートとなって然るべきだ。
しかし、いまの地図を見ると、そうはなっていない。
京王線は甲州街道に、田園都市線は大山道に沿っている。
一方、同じ西に向かう青梅街道に沿った路線はない。
こうした点について鉄道路線はそれぞれのルーツから語られることはあるが、
一定の時代で区切って考えてみると、その時代時代で鉄道に課せられた社会の意識が見えてくる。
●主な内容
第1章 鉄道開業〜明治時代後半
鉄道忌避伝説が生じた街道との関係 私鉄による幹線(現JR)建設の時代
・馬車鉄道(新橋―浅草)の誕生
・幹線鉄道は東西南北に一路線ずつ
・鉄道が宿場町に立ち寄らない東海道・中山道・日光街道
・甲州街道と中央線の微妙な関係
・後の大手私鉄に先駆けて、なぜ川越鉄道と青梅鉄道が開業したのか
・幹線のターミナルは船着き場
第2章 明治時代後半〜関東大震災
街道にぴったり沿っての鉄道敷設 現・大手私鉄、第一世代の本格的登場
・東海道と甲州街道の集落へ、やっと鉄道がやってきた時代
・山岳信仰の大山街道に敷かれた多摩川の砂利目当ての路面電車
・新河岸川、川越街道と東武東上線
・京成電気軌道と佐倉街道 広大な軍隊の施設と戦後の大規模団地
・「絹の道」と横浜線・沿線の軍事施設
・震災からの帝都復興で放射線と環状線の道路網 環七・環八も計画
第3章 昭和初期前後〜現代
環状道路、首都高と私鉄新線 郊外電車の誕生から現代まで
・田園調布・洗足・大岡山の住宅地開発と大学誘致
・目白文化村・大泉・小平学園都市 東急とは対照的な堤康次郎による開発
・各私鉄沿線の住宅地開発
・尾根筋を通る甲州街道沿いの京王線、丘も谷も突っ切り郊外へ向かう小田急線
・西武多摩川線などの砂利鉄道
・未成線――東京山手急行電鉄/京浜電気鉄道は白金を経て青山へ/
新宿・渋谷から西に向かう郊外鉄道
・通称オリンピック道路
・多摩田園都市VS多摩ニュータウン 対照的な鉄道・高速道路構想
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内田宗治氏は第2章の「絹の道」と横浜線・沿線の軍事施設で境川を東京都と神奈川県の境界と記述しているが、其処まで書くなら、嘗ては武蔵と相模の境だったと書いて欲しい。元より八王子も横浜も同じ武蔵国、明治維新後は武蔵国多摩郡の一部は神奈川県に編入されていた訳だが、その後1893年(明治26年)に東京府に移管されている。明治維新後の鑓水商人が栄えていた時代は、この地は神奈川県であった。従って、絹の道や浜街道とよばれていた道は全て神奈川県内で、それ以前は同じ武蔵国だから、八王子の言葉と横浜の言葉には共通点も多く見られる。
当時の記憶を留めるつもりなのか、相武CCとか、武相荘とか、武蔵、相模の両国を名に記す施設等も少なくない。