死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う
僕が二十歳の誕生日を迎える略一月前、連続ピストル射殺事件犯人の永山則夫が19歳と10ヶ月で逮捕された。永山は「二十歳までは生きていたい。」と逃亡生活を続けていた。彼は僕と同い年だった。1979年・東京地方裁判所で死刑判決。1990年・最高裁判所で死刑判決確定。1997年・東京拘置所にて死刑執行(享年48)。その日の夕刊で永山の死刑執行の記事を読み、彼は「五十歳までは生きていたい。」と思っていたのだろうか、と僕は考えていた。
森達也の名を意識的に捉えるようになったのは、玉井さんに誘われて見た韓国映画「送還日記」の試写会での映画監督・金東元とのトークショーが切っ掛けであった。グレート東郷をテーマにした「悪役レスラーは笑う」は著者名を意識せずに読んでいたが、彼の名を世間に知らしめたオウム事件を素材にした「A」や「放送禁止歌」は未だ読んでいない。本書腰巻きには「死刑をめぐる三年間のロードムービー」と書いてある。「悪役レスラーは笑う」もそうだったが、紙媒体に於いても彼の手法はルポルタージュやドキュメンタリー映画のようである。そして、読了して思ったことは、民族学や文化人類学のフィールドワークにも似ていることだ。予断を持たずに相手の話を聴くこと、そのスタンスは同じかも知れない。
TBSの深夜番組「CBSドキュメント」で放送される"CBS 60 Minutes"を見ていると、時々、刑務所内部までカメラが入り込み、死刑囚等の凶悪犯罪の犯罪者へのインタビューが行われることがある。また死刑執行の現場となる刑場施設へカメラが入り込むこともある。米国では情報開示されている死刑制度であるが、日本では国民からは不可視の状況となっている。刑罰としての「死刑」を正しく理解している人は多くはない。懲役刑が懲役(強制労働)を持って刑を務める為、作業所が併設された刑務所に収監されるのに対し、死を持って刑を務める死刑囚は刑が執行されるまでは、他の未決囚と同じ拘置所に収容されたままとなる。そして刑が執行される朝を迎えるまで、死と隣り合わせに毎日を過ごすことになる。
森達也は本書執筆の動機付けを次のように語る。
少なくとも死刑を合法の制度として残すこの日本に暮らす多くの人は、視界の端にこの死刑を認めながら、(存続か廃止かはともかくとして)目を逸らし続けている。ならば僕は直視を試みる。できることなら触れて見る。さらに揺り動かす。余計なお世話と思われるかもしれないけれど。...
プロローグ
第一章:迷宮への入口
クリスマスの死刑執行(2006年12月「フォーラム90」の忘年会)
死刑事件弁護人(弁護士・安田好弘)
シュレーディンガーの猫(元オウム幹部・死刑囚・岡崎一明)
暗くて深い迷宮(『モリのアサガオ』作者・漫画家・郷田マモラ)
第一章:隠される理由
拷問博物館(明治大学博物館)
不可視の領域(名古屋拘置所)
視察の考現学(衆院議員・保坂展人)
第一章:軋むシステム
死刑になりたいから人を殺す(大阪池田小事件・死刑囚・宅間守/担当弁護人・戸谷茂樹)
民意のメカニズム(死刑廃止議員連盟・亀井静香)
死刑の起源
三十分間吊るすことの意味(元大阪高検公安部長・三井環)
第一章:元死刑囚が訴えること
生還(免田栄)
冤罪執行(石井健治郎・西武雄)
第一章:最期に触れる
野蛮な刑罰(元刑務官・坂本敏夫)
処刑場のキリスト(教誨師・カトリック神父)
論理から情緒へ(刑事被告人・佐藤優)
殺しているという意識(元刑務官・現弁護士・野口善國)
第一章:償えない罪
死刑の本質(山口県光市母子殺人事件)
応報感情(「少年に奪われた人生」作家・藤井誠二)
殺された側の情緒(音羽事件・被害者祖父・松村恒夫)
終着駅(山口県光市母子殺人事件・被害者家族・木村洋)
エピローグ
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森達也が対話した人たちの多くは存続か廃止かは別として、現状制度に対し...疑問を抱いている。何故なのか...
以下、2年前の2006年5月の東京新聞の記事から引用
異端の肖像2006 「怒り」なき時代に 弁護士 安田好弘(58)
「弁護士としての資質、人間としてのモラルに失望した」。読者から一枚のファクスが届いた。この読者一人にとどまらない。テレビのワイドショーで、ネット上で非難があふれ返った。
安田好弘。いま、日本で最も物議を醸している弁護士だ。かつてオウム真理教元代表・麻原彰晃被告=本名・松本智津夫=の主任弁護人を務め、先月、山口県母子殺害事件の上告審でも弁護人を務めた。
「悪人は早く吊(つる)せ」という世間感情、タレント弁護士が登場するお茶の間のにぎわいに彼は背を向ける。
非難のきっかけはこの上告審だった。三月十四日、最高裁の口頭弁論を安田は相方の弁護士とともに欠席した。
最高裁、検察、遺族は憤った。最高裁は昨年導入された改正刑事訴訟法に基づき、四月十八日の弁論への出頭在廷命令を初適用。欠席すれば、解任は避けられない。彼は法廷で「被告に殺意はなく、下級審の事実認定は疑問」と弁論の続行を訴えたが打ち切られた。
異例ずくめだった。昨年十二月上旬、二審の弁護人が最高裁へ「弁論は自分ではなく、安田さんに頼もうかと思っている」と伝えたという。開廷日は裁判所と検察、弁護人の三者で協議されるのが慣例だが、裁判所は同月下旬、一方的に開廷日を通告してきた。
安田は二月下旬、初めて被告人と接見した。被告の話が事件記録と違い、驚いて弁護人を引き受けた。さらに自白調書と死体所見の食い違いを見つけ、被告の殺意に疑問を抱いた。
弁論準備には数千ページに及ぶ記録の精査が必要だ。当日は日弁連の催しも重なっていた。彼は裁判所に三カ月の延期を要望。「従来は認められたケース」(安田)だったが、今回は拒まれた。弁論は通常一回で、準備なしに出廷すれば事実上、死刑を後押ししかねない。欠席の方針を固めた。
「被害者の人権を無視した」と苛烈(かれつ)なバッシングが待っていた。オウム真理教の裁判のときよりも酷(ひど)かった。当人はどう受けとめたのか。
「こういう仕事をしている以上、避けられない。凶悪とみられる人々の弁護をするのだから。世論は常に多数派だ。逆に被告は孤立している。弁護が少数者のためである以上、多数派から叩(たた)かれるのは定めだ」
その使命感は、と聞こうとすると、安田は遮って「使命感じゃない。これが弁護士という職業の仕事なんです」と言い切った。
報酬に乏しい公安事件、重大な刑事事件を背負ってきた。死刑の求刑、あるいは下級審で死刑判決が出た後に、彼が請け負った事件は十七に上る。大半が依頼だった。ある法曹関係者は「こうした事件を受ける弁護士が少なくなり、彼に集中している」と漏らす。
「自分も(こうした事件から)できれば逃げたいと思う」と安田は話す。
「死刑が絡む事件は不安だ。何もできないだろうと落ち込む。裁判で負けても終わらない。被告が処刑される日まで守らねばならない。毎日、冷や冷やして自分も生きていかねばならない。だから、だれもやりたがらない。でも、被告から依頼の手紙が舞い込む。接見で顔を見てしまう。そうすると断れなくなる」?? 非難の主流は「遺族感情に配慮しろ」だった。今回の事件では、被告が一審判決後に獄中から友人に宛(あ)てた「終始笑うは悪なのが、今の世だ」という手紙の一節が非難に油を注いだ。
「復讐(ふくしゅう)したいという遺族の気持ちは分かる。だが、復讐が社会の安全を維持しないという視点から近代刑事裁判は出発した。もし、復讐という考えを認めれば殺し合いしか残らない」
裁判を死刑廃止運動に利用しているという批判もあった。「死刑廃止を法廷で考えているとしたら弁護士失格だ。法廷は事実を争う場であって、政策や思想の場ではない。だいたい判決は死刑だろう、と考えて弁護なんてできやしない」
安田の弁護は徹底して事実にこだわる。愚直なまでに現場に行き、再現を繰り返す。「よく被告のうそをうのみにして、とか言われるが、うそで起訴事実が覆せるほど、法廷は甘くない。肝心なのは遺体や現場の状況という客観的な証拠だ。被告がどう言ってるかは参考情報にすぎない」
そんな弁護スタイルが、これまでいくつかの死刑判決を覆した。ただ、その手法も壁に突き当たりつつある。昨今の迅速化を掲げた「司法改革」の流れだ。
例えば、被告側の防御権を損ないかねない公判前整理手続きが、昨年十一月に導入された。経験した弁護士は「時間がない。十分な検証は不可能だ」と悲鳴を上げた。安田は「迅速化の中身は結局、手抜きだ。検察、裁判所からみれば手軽に一件落着で済む。しかし、被告人には生死や自由が絡んでいる」と憤る。
「刑事裁判は死んだ」と安田は話す。「有効な反論を通じ、初めて真相は明らかにされる。検察、弁護人の客観的な主張を裁判所が冷静に判断する。そんなシステムが機能不全に陥っている。検察主導の大政翼賛化が進んでいる」
■事実に徹底的にこだわる闘い方
その理由を安田は「弁護士がしっかり反論せず、検察は地道な事実の積み重ねよりトリックにおぼれ、裁判所も監視の役割を怠っている」と指摘する。
麻原裁判の長期化に批判が集まり始めたころ、安田は顧問を務める不動産会社の事件で逮捕された。一審は無罪。裁判長は検察側の強引な公訴内容に苦言を呈した。とはいえ、十カ月もの拘置で麻原裁判の舞台からは“消された”。
この拘置中、殺人的な仕事からは解放された。でも保釈後、再び以前の日々を送る。「朝七時から会議をやって、夜九時すぎからも会議。その間に裁判資料を調べ、自宅に帰れるのは二週間に一回だけかなあ」
安田について、友人でジャーナリストの魚住昭は「徹底的に事実にこだわり、かつ人権を守ろうとする弁護士の基本に忠実な人物。逆に最高裁や検察当局からみれば、最も厄介な人物だろう。それがバッシングの根底にある」と語る。
孤立しがちな印象の一方で、彼自身の控訴審には前例のない二千百人の弁護士が弁護人に名を連ねた。
「彼は左翼系で私とは立場が大きく違う」と話しつつ、元検察官の小林英明弁護士は彼をこう評す。「私は死刑問題でも彼とは考え方が根本的に違う。だが、弁護士としての優秀さ、人間性については高く評価している。法の許す範囲内か否かを自覚し、信念を持ち一生懸命やっている」
団塊の世代のご多分に漏れず、学生活動家だった。そこで容易に人が変節するのを目の当たりにした。
「自信なんてない。しかし、できるだけ変わらない方を選ぼうと生きてきた。でも、世の中はどんどん単純化していく。一体、この先に何が待っているのか」
光代さん、コメントありがとうございます。
何かメディアによる情報操作によって「報復へ向かう空気感」が高められている気がしてなりません。
来年から始まる裁判員制度もそうですが、個人が国家に溶解されてゆく前兆のように思えます。
5月7日付けの東京新聞夕刊に辺見庸が「不都合な他者について」というタイトルでエッセーを寄せています。その一部ですが...『...愛と優しさをしきりにとなえながら、そのじつ<不都合なもの>を受容しない世間。あいつぐ死刑執行にも見て見ぬふりをして、どこ吹く風と笑いさんざめく日常。そのようなところに、ことばの深い意味で「個」はあるのか。個のないところに愛はあるのだろうか。私は自問をくさぐさ声にしたのだった。....』
そういえば今朝の新日曜美術館に辺見庸が出ていました。テーマはイタリアの写真家「マリオ・ジャコメッリ」
http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2008/0525/index.html
午後8時から再放送があります。
「死刑」と言う問題を これだけ丁寧に取り上げられた事がうれしいです。私はまだ出来ていません。
私の友人にも安田さんと同じく、凶悪な犯罪の被告の弁護をしばしば引き受けている人が居ます。彼も全く同じことを言いました。
「これが弁護士の仕事です」って。
大竹まこと ゴールデンラジオ!「大竹メインデッシュ」の5月13日ゲストに「死刑」著者の森達也氏が出演。
ポッドキャストは、今日から一週間公開されている。
http://www.joqr.co.jp/blog/main/