February 24, 2005

彷徨える北坂

タモリのTOKYO坂道美学入門が出たときにエントリーしようとしたネタであるが、資料の地図が見当たらず、港区教育委員会の設置した北坂の謂われを示す標識も撤去されている始末であったが、私の持っていた地図と同じものが或るサイトにあり確証を得たのでエントリーすることにした。
港区は文京区と並んで坂の多い区である。80年代から90年代初めまで事務所を借りていた南青山四丁目の建物があった所に日向高鍋藩秋月家二万七千石の江戸・秋月家下屋敷があった。現在は道路を挟んで向かいに青山霊園立山墓地があり、その道幅は9尺(2.7m)もない狭い道である。秋月家はあまり名前を知られていない外様大名であるが、彼の上杉鷹山は秋月家二男として、江戸屋敷で生まれ、後に米沢上杉家の養子となった人物である。(尚、秋月家上屋敷は現在の元麻布にある麻布高校の場所にあった。鷹山がどちらで生まれ育ったか不明だが、当然、行き来はあったであろう。)絵図から考察すれば秋月家の正門はこの幅の狭い道に付けられていたことが分かる。その道は秋月家下屋敷の北に面していることから北坂と呼ばれていた。しかしながら、この北坂、いつの間にか南側に150m程移動しているのである。これは彷徨える湖、ロプノールに匹敵する現代のミステリーである。それで北坂はどこへ移動したかと云えば根津美術館の北門交差点から西麻布に抜ける下り坂が北坂とされているのである。しかし、江戸の昔は青山墓地から骨董通りに抜ける道も、根津美術館から青山通りに抜け、表参道につながる「みゆき通り」も未だ存在していないのである。その上、江戸時代は現在北坂と記されている辺りから根津美術館の湧水池からの流れが川となって現在の西麻布の外苑西通り付近にあった谷道沿いの河川に流れているのである。つまり、現在北坂と地図に記されている場所には道らしきものは存在していないのである。

北坂の麓にある庚申塔の場所


庚申塔には右に行けば青山から内藤新宿、左に行けば青山百人町(百人組同心長屋)を通り善光寺前(大山街道、現在の青山通り)にでるとしるされている。つまり左とは北坂 を示している。確かこの辺りに北坂を示す標識(道標)があったと記憶している。


北坂を坂下より見る。右手が青山霊園立山墓地、左手が日向高鍋藩秋月家二万七千石江戸屋敷跡、幼かりし上杉鷹山もこの坂を上り下りしてことであろう。
TOKYO1.TVの大人の遠足  青山墓地編に掲載されていた南青山四丁目付近の古地図を見ると日向高鍋藩秋月家二万七千石の江戸屋敷と長谷寺(ちょうこくじ)の間に大きな池があることが分かる。その池の水源を利用して原宿村の田畑が現在の外苑西通り周辺に設けられていた。


根津美術館は根津嘉一郎によって昭和15年(1940)に創立されている。その根津美術館の北にあるから北坂とするのは歴史を些か無視していると言わざるを得ない。江戸東京の歴史を伝えるならば、元の北坂の場所に標識を設置し直し、更に日向高鍋藩秋月家江戸屋敷跡の標識を設け上杉鷹山ここに生まれると記すのが道理と云うものであろう。


余談であるが、その北坂を日向高鍋藩秋月家二万七千石江戸屋敷の前を通り過ぎ大山街道に向かう途中に、斎藤茂吉の青山脳病院があった。現在は王子製紙が地主となり外国人向け高級マンション・王子グリーンヒル(写真右)となっている。つまり道幅は狭いが、かっては重要な道であったのである。奥に見える大木は楡木ではない、残念。

Posted by S.Igarashi at February 24, 2005 02:54 PM
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