昨日、一昨日放送のETV特集「イラク・占領下に生きる」をビデオで見た。引き続き夕方五時からNHK総合の「イラクの子・ふたりのアリの悲劇」も見た。後者のシャイン・リミテッド・プロダクション/イギリス・チャンネル4制作のドキュメンタリーはメディアの有り方・矛盾点を問う内容であった。二人のアリの一人アリ・アバスは2003年4月1日の米軍のロケット騨の攻撃により家屋損壊、家族でただ一人生き残ったアリは両腕を切断、もう一人のアリ・フセインは2003年4月3日、農場で米軍機の攻撃を受け、頭部の額から上唇まで裂傷、鼻を失い左目は失明。
同じように米軍の攻撃により負傷し同じクェートの病院に収容され障害が残った二人の少年の運命はメディアによって異なる人生を歩むように仕向けられる。両腕を失ったが顔には損傷を受けずに憂いを含んだ大きな瞳で寡黙なアリ・アバスはメディアや慈善団体にとって戦争被害者の表象として利用価値の高い存在に映ったのであろう。彼らはアリ・アバスを自分たちの支配下に置くべく争奪戦を繰り広げることになった。
一方のアリ・フセインは自分の顔を失ってしまった。彼に対して手を差し伸べようとする慈善家もメディアも表れなかった。彼を戦争被害者の表象とすることで障害者を晒し者にしたという非難を予め避けているようにも思える。
治療を終えたアリ・フセインは他の少年と少女と共にイラクに帰され、一方のアリ・アバスはロンドンに渡り慈善団体によって、義手を与えられリハビリテーションが行われることになり、独占的出版権と独占的映像権をそれぞれのメディアと契約合意されたところで番組は終わるのであるが。アリ・アバスの諦めにも似た悲しげな瞳の中には怒りの残り火がまだ消えていないようにも見えた。その怒りは世界中の大人たちに向けられている気がしてならない。
何かキリスト教の原理的な深層意識に宿るミッションによってイラクを攻撃、またそのミッションによって被害者に救済の手を差し伸べる。そうした矛盾や偽善をアリ・フセインもアリ・アバスも見抜いていたに違いない。
この「イラクの子・ふたりのアリの悲劇」の編修の巧さに、直前に見たETV特集「イラク・占領下に生きる」がまったく霞んでしまった。もっとも、それは仕方のないことである。時間の掛け方もお金の掛け方も違うだろう。それに取材はNHKではない。取材したのは安田純平氏と同じようにフリージャーナリストである。NHKだけでなく、多くのメディアは社員を戦闘地帯に派遣したりはしない。安田純平氏もイラクを取材するために信濃毎日新聞記者を退職してフリーになっている。覚悟の上の行動だろう。高見の見物をきめている政治屋ごときに自己責任うんねん言われる筋合いはないと思う。
東京新聞安田純平・緊急手記「拘束の3日間」
ETV特集「イラク・占領下に生きる」はフリージャーナリスト後藤健二氏の取材によるものである。後藤氏はWeb上のKenjiの日記を一旦終了し、Blogとして4月末からIndependent Press 後藤健二の取材日記をWebでの発表の場としている。
アフガン空爆の時はパキスタン在住・督永忠子のオバハンからの気まぐれ通信が現地からの貴重な情報源となった。何れも絶対安全地帯からは得られない情報である。そういえば、いま東京都写真美術館でロバート・キャパの写真展が開催されている。