物心付いた頃から、当たり前に『麗子像』を見て育った人も居るのね。
切通之写生は代々木の刀剣博物館の傍の坂道だけどね。
先年癌で亡くなった妻の親友が「麗子像は食堂に掛けてあったよ。」と言ってました。幕末明治にヘボン先生なぞが東海道往来の際に常宿にしていたと言う医家の娘であります。麗子像は何枚もある様で、岸田劉生君もオヤジの得意先へ配っていたのでしょう。
Posted by Fumanchu at December 26, 2012 12:06 PM流石、番傘に気付くとは...お目が高い...因みに岸田吟香センセイは岸田劉生の父君だそうです。目薬を販売していたと云うから、その方面は...でしょうね。
Fumanchu先生のお好きな川瀬巴水の完成度に較べると拙さが残る処が....なんです。
雪中の第一銀行を見て「?」している女の傘に「A(poteca)」「岸田」「銀座」とあるのは、清親のパトロンでもあった岸田吟香センセイのうちのものでしょう。センセイが上海に作った「宏濟善堂」は後に、関東軍が戦費を捻出する為の、阿片取引の拠点になっています(「阿片王」佐野眞一)。
Posted by Fumanchu at December 23, 2012 05:28 PM