家尊が満州国経済部に奉職した頃、部内ではこれは公然たる事実であったが、蒙疆のアヘンを大連から華北に送るのに、満州国内の満鉄及び警察、関東州に配備された関東軍一般部隊は、そんな事は知らんもんだから、取締の目を盗んでブツを動かすのに、担当者は大変な苦労をしたそうな。
Posted by Fumanchu at August 18, 2008 02:25 PMう〜ん、北緯38°を越えた彼の国でも似たような...
Posted by iGa at August 18, 2008 10:26 AM昨日夜のNHKのドキュメンタリー「調査報告 日本軍と阿片」で、日中戦争を賄っていたのは軍の阿片売買の資金だったというのには驚きました。
戦争中の日本国官僚たちは普く関わっていたことなのに全てが封印されたまま今日まで......というのにも驚きですが、この東条も関東軍時代から大いに関わっていたのです。
まぁ、情報操作に加担する輩は、どっちにしろ現実と妄想の剣が峰を這いつくばっているようなものだと思えます。時代の強風に吹き飛ばされ、どちらに落ちても救いようがない。
甘粕でもう一発
武藤富男の「私と満州国」によると、
建国十周年だかの遣欧使節で甘粕の随員だった武藤に、
ベルリンからの汽車の中で甘粕が
「ナチに資金提供しているのはイギリスかもしれませんね。」
と耳打ちした、というのは現場に居た人の話なので面白い。
角田房子の「甘粕正彦」はそれなりに納得出来ましたけどね。
冤罪では無く、まあ「意を体して」説。
結構これがこの国を動かしてます。
1945年当時25歳だった渡嘉敷島の赤松大尉さんもやはり、
指揮系統とプロトコールに則った「軍命令」ではなく
「意を体して」住民を指導したのでしょう。
ここら辺、今の日本も全く変わっていない様に見えます。
法治国家でないのね。建築基準法もどうせザルだから、、、
軍人で面白いのをもう一人、
柴五郎将軍は1945年当時最年長の陸軍大将。
8月15日に切腹したのですが、さすがにお歳のため、絶命せず、12月に逝去。
歳に満たず、ということで鶴ヶ城から追い出された会津藩士の子弟。
義和団事件の折、先任のイタリア将校が戦死し、我が国発の多国籍軍司令官。伝記によると当時の米国陸軍部隊が西部劇のノリの素人集団であった、という米西戦争観戦記は面白い。
しかし伝記で印象の強いのは幼年期にあたる戊辰戦争後の思ひ出。
会津から陸奥小川原の辺境に立てられた「斗南藩」に追われたのはていの良い「民族浄化」作戦であって、10歳にもならぬ子供にとって、「毎日2里の凍り付いた路をわらじ裸足で役所まで通うのが辛かった。」とか。
そういえば、この間、佐野眞一の『甘粕正彦 乱心の曠野』を買ったけれど、未だ積読状態。例の大杉栄の事件は冤罪だったという処が切り口で面白そうだけど、暫くは積んどきます。
中学三年の時の担任代行(担任が長期病欠の為)がノモンハンの生き残りで彼の戦争自慢話はロスケにチャンコロと放送禁止用語だらけ、それを聴いた限りでは、ノモンハンで日本兵が数万の犠牲者を出したとは考えられない。僕のように眉に唾を付けて話を聴いていた生徒は、とーぜんその教師の陰湿な「いぢめの対象」にされた。
故に私は卒業式は欠席させて貰いました。まぁ、卒業式で堪忍袋の緒が切れて自分の将来を台無しにしたくなかった為ですが、我ながら賢明な判断だったと、今でも思います。
東条さんちの離れの書斎が浜松市内に有ります。
「ビルマの竪琴」の竹山道雄が浜松の出で、東條家と親しく、
東京裁判後打ち捨てられていた書斎を
「惜しんで」か「勿体ない」と思ってか、移築したんだそうです。
軍人で面白いのは遠藤三郎です。
東条さんは能吏と言うか、廊下とんびの親方、という印象がありますが、
遠藤三郎は出放題です。
陸士銀時計なのですが、参謀本部でも正論ばかり立てて、
中国戦線へ飛ばされる。それでも懲りずに前線から「意見書」など
書きまくって又嫌われる、といった人で、
戦後は片山哲に担がれたり、「日中友好元軍人の会」など作って、
五味川純平が「人間の条件」を書く時の軍事顧問をやったり、
浜松にも飛行学校の校長先生かなんかに左遷されて、
住んでいたことがあるとか。
昭和20年夏には
「前線では毎日何万人も戦死者が出ているのに、
市ヶ谷では相も変わらずの頭の取り合い。」
と嘆いておられます。
恐ろしいことですね。
テレビでこの東条の手記に関して、あの東条の孫娘がしゃべっていましたが..........恐ろしいことです。あの東条英機という軍事官僚は何をどうしようとしていたのか........今日も小泉、安倍と靖国詣で..........まぁ。何考えているのか..........。